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そんな息子の「悲劇」と「心の叫び」に対して、「おめでたい」父親と母親は、何と言ったかである。
「あなたは、ちょっとおかしい。精神科に行った方がいい。」
「今、立ち止まってしまうと、先がなくなる。今、一生懸命、頑張ることが大事なんだよ。」
「今、頑張ることで、将来、道が開けるのよ。」
「本当につらいときは、休んでもいいのよ。」
今となってみれば、またまた、呆れてしまうのだが、ここまできても「自分たちの罪」は、棚上げである。
「息子がおかしくなっちゃった。」「どうしちゃったんだろう。」と嘆き、心配した「ふり」をするのである。
「ふり」というのは、表面上は心配しているということであるが、他者からみれば、本当に心配しているように見える、というのが厄介なところである。
しかし、子供や他者の感情に無関心な彼らは、「その人自身への心配」ができないのである。
彼らが心配しているのは、「子供自身」ではなく、「子供」の周りの環境、つまり、「職場」や「家庭環境」、そして「自分たち」であり、子供が壊れることで壊れてしまうだろう「環境」が心配なのである。
まとめてしまうと、「世間体」なのである。
彼らが恐れているのは、「自分の罪を認める」ことなのである。
だから、子供にばれないように、指導教官に「自分たちの育て方が間違っていたのかもしれない」という「虚偽の反省」の弁を述べるのである。
他者の前で「もうちょっと、一緒にいてあげればよかった」と涙するのである。
妻にこっそり、「息子の様子」を聞くのである。
その裏にあるのは、
「ああ。子供のことを考えている立派なお父さんなのね。」
「子供のことをあんなに想っている、立派なご両親だわー。」
という、指導教官や、妻や、他者からの、そして残酷なことに、子供からの称賛が欲しい、ということなのである。
決して自分の子供には直接、謝ることはしない。
そうしても「世間の評価」は変わらないからである。
一人の「無垢な少年」を不安定な戦場に立たせても、
恐怖と不安で縛っても、
どんよりとした「罪悪感」を植え付けても、
彼らは、やっぱり「自分!自分!」なのである。
子供がどんなにどん底で苦しんでいても「私を褒めて!私を褒めて!」なのである。
しかし、不思議なことに、そのことに彼らは気づいていないのである。
それは、彼らが「自分」と向き合ってこなかったからだろう。
本当の「愛情」を知らないからだろう。
彼らも私と同じ、「自分がわからない」人々だからだろう。




