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シュガー・シュガー・シュガー(!)  作者: 助供珠樹
大学一年:9~12月まで(エピソード2)
9/90

第六章『上質をしるひと、小倉の6さじ目』

2012年 10/16~28更新分

 ……初音ミク。



 その名前は弘緒も聞いたことがあった。

 合成音源と呼ばれる、実際の人の声をサンプリングしたソフトウェアのことだ。日常的にネットへ触れたことのある人間ならば、まずその名前を聞かないものはない。弘緒もよく利用している動画投稿サイトには、自作曲を初音ミクに歌わせた動画がごまんとあった。

 弘緒は、さっそく動画投稿サイトの検索バーに初音ミクと打ち込んでみることにした。すると、出てくる出てくる。表示された検索結果は、まさしく尋常じゃない量でその手の動画をヒットさせた。その事に素直に驚くと、さっそく弘緒は結果に表示されたサムネイルの中で適当に選んだ一つを聴いてみることにした。


「へぇ……」


 四つ打ちのクラブミュージックのようなバックに合わせて、初音ミクが歌っていた。曲のクオリティもすごいが、何よりも弘緒はその映像に惹かれた。まるで、実際にプロミュージシャンが発表しているPVのように、ビートに合わせてころころと目まぐるしく場面が切り替わっていくのだ。

 そして、その中心には必ず彼女――初音ミクというキャラクターが笑顔で歌っている。


「可愛い」


 さらに調べていくと、どうやら初音ミクのようなボーカロイドには他にも数種類のキャラクターがいるらしい。そのことを知った弘緒は、別のボーカロイドが歌っている動画も片っ端から視聴していった。


 そうして調べていくうちに、いくつかわかったことがあった。

 どうやらボーカロイド動画には、三つの要素で構成されていることが多いようである。

 そもそも、ボーカロイドは歌を歌わせるソフトだ。なので当然、それらを使用する作曲者が最初に曲を仕上げることになる。まずこれが一つ目の要素。

 そうして出来上がった曲は、もちろん個人サイトなどを立ち上げて発表することも可能なのだが、現状それら楽曲の多くは、前述の動画投稿サイトで発表されるのが主流である。なので、その為に動画の素となる絵を描かなければならない。これが要素の二つ目だ。

 必ずしも動画に絵が必要であるということはないのだが、動画内で初音ミクが描かれていれば、視聴者にはサムネイルを見ただけでそれが「ボーカロイドの動画である」とわかる。またボーカロイドというキャラには、固有のキャラクター像が存在しないため、イラストの絵によって実に様々なクセを付け足すことが可能なのだ。そういう意味でイラストはボーカロイドの動画にとってまさに切り離すことの出来ない、非常に重要な要素なのだ。

 そして最後に三番目の要素として、それら二つの作業を一つの動画として混ぜ合わせる編集作業が存在する。

 弘緒が視聴した動画のほとんどはこの三つの要素を併せ持ったものがほとんどであった。


 しかし一口に「動画」といっても、おおまかに分類しただけでそれだけの数の行程が存在しているのだ。もっと細分化すれば、キリがないほどその作業は増える。

 弘緒はそのことに素直な感動を覚えた。

 そもそもそれら前述の三要素は、元々が畑違いの分野であるはずなのに、一つの動画を作り上げるという個々の熱意だけで現在も賑わい続けているのである。それも、その動画を作っている人達のほとんどは趣味で行なっているだけの、いわゆる「アマチュア」と呼ばれる人間で構成されているのだ。


 ……なんて面白い世界なのだろう。

 動画を見続けながら、弘緒はいつしかボーカロイドを取り巻くその環境の魅力に、すっかり取り憑かれてしまっていた。

 そうして時計をふと見ると、日付が変わる時間をとうに過ぎてしまったことに気付く。


「いけない」


 慌ててパソコンを消すと、弘緒はのそのそと布団の中へ潜りこんだ。

 いまだ興奮し続けている気持ちをどうにか静めて、ぎゅっと目を閉じた。

 ……別のことを考えよう。

 最近の自分といえば、オセロ漬けの毎日だ。近頃は一人で過ごす時間はオセロばかりやっているような気さえする。テスト勉強期間中なのにこれでいいのだろうか。

 ――結局、ろくなことしか頭に出てこないなぁと、そんな自分自身に呆れてしまった。


「いけないいけない。眠らなきゃ……」


 そう思ってから数十分後、ようやく弘緒はうとうとと夢の中へ落ちていった。


 ……はっきりと、色のついた夢を見るのは久しぶりだった。

 夢の中では、過去の自分が昔の友達と楽しそうに笑いあっていた。

 友達?

 どうだっただろう?

 ただ、はっきり言えることがある。

 

 私は、この笑顔の結末を知っている。


 

 それはとても――とても悲しい夢だった。




 四月九日――弘緒




 二年生になり、すっかり人員が入れ替わってしまった弘緒のクラスに、新しく転校してきた人物がやってきた。


「――今日から新しくこの教室で一緒に勉強していく井上と言います。皆さんどうぞよろしくお願いします」


 ぱちぱちとまばらに拍手が上がる。

 弘緒もやや遅れて、拍手を送った。井上はまだいくらか緊張しているみたいだった。そわそわとクラスの顔の隅々まで見渡すと、今度はどこに目をやっていいかわからない様子で俯いてしまった。


「では、空いてる席に座ってください」


 教師に言われるまま、井上はぺこりと頭を下げ、空席を見つけるとそこへそっと腰を落ち着けて鞄を机の横へと提げた。


 ――私よりもずっと可愛らしい子だな。


 弘緒は心の中でそう呟きながら、しばらく井上の方をぼんやりと眺めていた。



  ※ ※ ※



 休み時間。

 去年からの友達である立花いずみが弘緒の席までやってきた。その表情になにやらいやらしい笑みを浮かべている。


「ねぇねぇ。なーんかウブな感じじゃない、あの子」


 そう言っていずみがちらりと井上の方を見た。


「なにがそんなに面白いんですか」


 井上の方を見ながらぐいぐいと身体を押しつけてくるいずみに対し、優等生っぽい口調でそう言うと、弘緒はいずみの身体を優しく突き放した。


「べっつにー」


 とぼけた様子で唇を尖らせながら、いずみは弘緒の前の席へと座り込む。

 すると急に寂しげな表情で、


「ミッチー、卒業しちゃったね」


 と、頬杖をつきながらどこか遠い目で懐かしむようにそう言った。


「……いなくなって清々します。いくら先輩とはいえ、あの人はちょっとどうかと思うことが多すぎです」


 弘緒はミッチーのことが苦手だった。嫌い、じゃなく苦手、なのである。あの手のちゃらんぽらんとしたノリは、性格上ついていけないのだ。

 そんな風にぶすりとした顔の弘緒を見て、いずみは頬杖を解くと弘緒の机に顔を埋めた。


「とかなんとか言って弘緒、ホントはちょっと寂しいんじゃない?」

「いずみさん!」


 声を押し殺しながらも語気は強めにして、弘緒がいずみに突っかかった。そんな弘緒の反応をいずみは可笑しそうに笑う。

 そうしてそのまま顔をあげると、いずみは再び井上の方へと視線を送った。


「まぁまぁ。それよりさ、ミッチーみたいな人がいないから、ほらあの子。なんだか寂しそうじゃない?」


 いずみに指摘されて弘緒も井上の方へと視線を合わせてみた。確かに井上はどこか所在なさげにぽつんと自分の席に座ったまま佇んでいる。


「話しかけてみなよ弘緒。きっとあの子も寂しいはずだって」

「そんな……私、人見知りなんですよ!?」

「いいからいいから」


 いずみは弘緒の手を掴むと、そのまま弘緒を井上の席の前まで引きずっていった。


「……いずみさーん」


 抗議の意を含めた口調で声を上げても、いずみはにやにやと笑ったまま。

 ダメだ、連れて行かれる。

 そうして、二人が井上の席の前までやってきた。

 二人が来たことに気付いた井上がゆっくりと顔を上げた。


 ……いずみがうまく会話を繋いでくれるんだろうか。

 そんな弘緒の思いとは裏腹に、いずみは弘緒の背中側へと回り込むと、急にどんっと弘緒の背中を強く押した。


「きゃっ」


 びっくりして声をあげる弘緒。


「んじゃ、後は任せた!」


 そう言ってそそくさと逃げていくいずみを、弘緒は背中をさすりながら睨みつけた。


「もう……人任せなんだから」

「あの、なにか?」


 その声でぎくりとしながら振りかえると、井上はきょとんとした目で弘緒のことを見上げていた。その表情は若干強ばっていて、緊張しているのが一目でわかる。

 しかし、こちらとしても無理矢理連れてこられたせいもあって、どんな話から切り出したらいいものかすぐに判断がつかない。


 そうしているうちに、背中に嫌な汗が流れ出してきた。

 数秒後、頭を必死に働かせながらようやく出てきた言葉は――


「え、えーっと井上さん……い、一緒にご飯食べない?」


 精一杯、愛想を良くしながらそう言った。そのつもりだった。

 失敗してないかなと思いながら、弘緒はちらりと井上の様子をうかがってみる。すると、


「……は、はいっ!」


 と大きな返事とともに精一杯の笑顔が返ってきた。


 弘緒に向かって大きくかぶりを振って、井上は実に嬉しそうに微笑んでくれたのであった。



 

 9月27日――悟司




 ニングルハイツの一○一号室を出ると、肌寒い風が顔に当たった。


「……寒い」


 九月に入ってから数日もしないうちに、空気が一気に冷えた気がした。やや厚めのジャケットを羽織りながら玄関のドアを後ろ手で閉めると、悟司は寝ぼけ顔のままのんびりと空を見上げた。

 秋の空らしい薄い雲がわずかにあるばかりで、快晴の青空だった。噂によると、あと二ヶ月程で雪が降るとか降らないとか。


 本州の真ん中辺りで生まれ育った悟司にとっては、全く信じられない気候である。


 しかもこの町は、北海道でも随一の豪雪地帯だそうで。「雪が降ること」それ自体がそもそも珍しい地方で育った悟司にとっては、ついつい嬉しいイベントのように感じてしまうが、北海道民にとってはあまり喜ばしくもない、当然の日常風景なのだろう。いつだったかこういった雪に関する心構えのようなものを、大家さんの息子の隆史さんに教授してもらったことがあったが、その時の様子はどうにも面倒くさそうな口ぶりだった。


 まぁなんにせよ、あっという間に冬である。四月頃に使用していたガスストーブの掃除をそろそろ始めようかなと思いつつ、悟司は玄関の鍵を閉めると、そのままあくびをしながらニングルハイツ一階の廊下をゆっくりと歩き始めた。

 郵便受けの近くまでやってくると、二階の方から人の降りてくる気配がした。


「やあ。おはよう」


 ちょうど、ジャージ姿の小倉が、ぶるんぶるんと腹を揺らして階段を下っている最中だった。悟司が小倉に向かって軽く手を挙げると、小倉も手元の携帯ゲーム機の方を注視しながら同じように片手を挙げる。

 そんなに集中しているのに、よく見えているものだ。


「……てか、危ないよ? また階段から落ちるかも」


 しかし、そんな悟司の忠告もどこ吹く風。

 程なくして、小倉は顔も上げずに階段を無事下りきった。

 驚く悟司に向かって小倉が口を開く。


「大丈夫。もうこの階段の幅は完全に身体に染みついたからね。目隠ししたままでも昇降出来る自信があるよ」


 ……そんな無駄なスキルを覚えてなんになるのだろう。

 そう思いながら苦笑いしていると、


「ところで、二曲目のあんばいはどうだい?」

「え?」


 ちょうど、先を歩く小倉の横へ並び歩こうとした矢先にそんなことを言われたため、悟司はぎくりと身体を硬直させながらその場に立ち止まった。


「いや、再生数とかどうなのかなと思ってね。ボーカロイドってなかなか数字伸びなくて大変だろう?」


 小倉は悟司の方へ振り返ると、ゲーム機からわずかに顔を上げてこちらを見る。


「一曲目でがつんと来る人も稀にはいるけど、普通じゃなかなかそうはいかない。特に最近では初音ミクそれ自体のメディアの露出も多くなって、自作曲を上げる人が後を絶たないわけだし」

「つ、つまり……?」


 悟司がその先の言葉を促すように尋ねる。

 すると小倉は、猫背気味のまま再び悟司に背を向けて、言った。


「既に埋もれてしまってるんじゃないかと思ってね。二曲目の動画が」


 厭世的なわけでもコミュ障でもないくせに、相も変わらずゲーム機からほとんど目を離さない男、小倉庄一。

 ……この男はいつも鋭い。

 小倉の言葉は、まさしく今の悟司達の状況をぴたりと言い当てていた。

 夏休み中に仕上がった二曲目は、最初こそ「翼道」より伸びが良かったものの、その後は急激に再生数が伸びぬまま、いつしかぴたりと再生数の上昇を止めてしまっていた。


「最初こそ処女作として、ある程度持ち上げられたりすることも多いけど、それでも君の場合はそれほどたくさんの人が聴いてくれたってわけでもないし」

「く、詳しいね。小倉君」

「まあね。あの動画サイトは僕もよく見る。当然、君たちの最初の曲も聴いたよ」

「か、感想……は?」


 おそるおそる悟司が尋ねる。


「悪くない、それどころかすごく良いと思う。ただあそこの流行に乗った音楽では全くないけどさ。再生数ってのは残酷だよね」


 それは誉め言葉なのか、それとも傷つけないように言葉を選んでいるのか。

 そんなことを考えてぼーっと立ち止まっているうちに、小倉はどんどんと悟司の先を歩いていた。それに気付いた悟司は、慌てて小倉の元へと駆け寄る。


 そういえば、とそこでふと思う。

 同じアパートで顔見知りなのに、小倉と二人だけで一緒に大学まで行くのは今日が初めてだ。

 どうにも歩調というか、歩行のペースが合わないのはそういうことなのだろう。小倉はやたらと早足だった。あれだけ前方不注意な状態なのに、怖くないのだろうか。

 そんなことを思いながらようやく追いついて、悟司は小倉に言った。 


「で、でもさ。俺は正直、再生数ってそこまで深く考えなくても良い気がするんだ」

「……ほう?」


 悟司の言葉を聞いて、小倉は興味深げにゲーム機から顔を離す。


「い、今までは誰一人として、自分の曲を聴いてくれる人がいなかった、んだ。だから、百、千と数字が伸びていくのを見ているだけで、お、俺は満足っていうか――」

「ふうん」


 小倉は再びゲーム機に顔を戻した。


「ま、君がいいなら僕もいいんだ。実際ホントに君はそう思ってそうだし」


 ちょっとだけ含みのある言い方をして、小倉はボタンをかちかちと鳴らす。


「ただ、他の連中はどうかなって思うとさ」

「ほ、他のって……」

「千佐都君とか」


 うわぁ出た。嫌な名前。


「春日先輩とか」


 あぁ、それも嫌な名前だ。


「月子は――まぁ、あいつはいつもふわふわしてるからそんなこと微塵も思ってなさそうだけど。どうだろう? そこら辺の事情は。君たちのメンバーはどう思ってるんだい?」

「あ、あの……へへ。えっと――」



  ※ ※ ※



「――これは由々しき事態だわ」


 嗚呼、小倉様。本当にあなたの言うことはいつも正しい。

 その日の昼、千佐都の声によって「シュガー・シュガー・シュガー(!)」の四人はいつも通りの集合場所である喫煙所へと集められた。


「どうして! ねぇどうして前の曲より再生数が伸びないと思う!?」


 千佐都は唾を飛びそうな勢いで、メンバー三人を見回す。


「……やかましい奴だな。簡単な話だ。前より良い曲じゃなかったからだろう」


 千佐都の言葉を聞いて、春日が顔をしかめながら灰皿の上に灰を落とした。

 そして、そんな二人の様子を交互に眺めていた月子が、悟司の隣でベンチに座ったままおずおずと手を挙げながら呟いた。


「あ、あの。お言葉ですけど。そうやって作品に優劣をつけて話すのはなんていうか、ウチはあまり好きじゃないかなー……なんて」


 そんな月子からの提案は、その前の春日の言葉の方に気を取られている千佐都、および春日の耳にはちっとも届いていなかった。


「前の曲より良くないなんて、そんなことない! 今回の曲はういろ……もとい『翼道』よりもずっと良いっ!」

「……それは千佐都個人としての感想であり、ましてや創作者の自画自賛だ。はっきりいってなんの説得力にもならん」


 そんな春日の反発意見を無視するように、千佐都は悟司の方へと振り返る。


「悟司、あたしはちゃんと今回の曲の魅力を知ってるんだからね!」


 ……いらない。

 そういう一言は今のこの場にはマジでいらない。

 いや、もちろん嬉しいのだけれどもさ。

 聞こえないふりをしながら、悟司は内心そんなことを思った。

 しかしそんな態度の悟司など、まるでお構いなしで千佐都は続ける。


「なんていうか、前回の『ういろう』とは全然違うアプローチじゃん? 結構しっとり目だし。そういう曲って、悟司の中では珍しいから、だから、あたしも一生懸命それに応えるように思いっきり違うテーマで詞を書いたつもりなの。あーこれ、なんて言うんだっけ? ああ! ここら辺まで出かかってるってーのに!」


 そう言いながら、千佐都は喉の下辺りをくいくいと指し示しながらのけぞり出した。

 春日はそんな千佐都の姿を見て、どうせろくでもないことだろうとひとりごちる。


 一方で悟司もまた、呆れて深いため息をついた。

 全く持って自分も春日の独り言に同意である。千佐都は一時が万事この調子。テンション高すぎて疲れやしないのだろうかと、時折ものすごく真剣に心配してしまう。


 そんなことを思っていると、突然千佐都は引っかかっていた小骨が取れたような顔をしてこちらへ振り返った。


「思い出したわっ!」


 そう言って千佐都は、それまで組んでいた腕を威勢良く解くと、自らの手の平を思いっきり三人の前へ突きつけた。

 その姿――まさに見ようによっては『黄門様の紋所エアー・オブ・クリサンセマム!!』



「『みんなちがって、みんないい』。これよっ!!」



 ばばばばーん(エアーBGM)。

 控えおろう控えおろうと、どこかで声が聞こえた――気は全くしない。

 ただ千佐都そのあまり声のでかさに、周りの学生達が数人ほどこちらへ振りかえった。


 ……ああもう、ギャラリーの視線が痛々しい。

 見知らぬ相手だとコミュ障スキル全開の悟司には、その視線が実に耐え難かった。そんな悟司の気も知らずか、すっかりご機嫌な千佐都。喉元まで出かかっていた言葉が出てくる喜びは、まぁ自分にも過去に何度か経験があるしわからないでもないのだが。春日との話はどうなったのだ。


 そんな悟司の気など知る由もなく、千佐都はそのまま軽快にスキップして自動販売機へと向かっていった。ふんふんと鼻歌まで歌ってやがる。

 いやまぁでも、確かにその言葉はすごく良い言葉だとは思う。確かにそうは思うけども。


 ……でも今のこの場には全然ふさわしくないだろ、それ。

 心の中でそんなことを思っていると、


「はい、みんなの分だよー」


 千佐都の両手にはドリンクの山が積み上がっていた。


「いくらなんでも、機嫌良くなりすぎだろお前!?」


 たまらず声を荒げて悟司がツッコむ。ちょっと名言の一つを思い出しただけでめちゃめちゃ気前が良くなった千佐都は、三人分のジュースをそれぞれに手渡し始めた。

 そうして最後に受け取る番になった悟司に、千佐都は突然へらへら笑みを浮かべながら悟司の眉間の前で人差し指を回し始める。


「……なんの真似だよ。それ」


 訝しむ悟司に向かって、千佐都が手の中のジュースをつんつんとつついて言った。


「なによぅ悟司くぅん。そんな怖い顔してたらコレ、あ・げ・な・い・ぞぉ?」

「おえ」


 思わず胃液が逆流しそうになる。


「気持ち悪いです。千佐都さん」


 それはあまりにも率直な感想だった。


「死刑です。悟司くん」


 ただ、いかんせん率直すぎた。


 久しぶりに首を締め上げられる。それも満面の笑みで。


「うごごごごご……」

「ちさ姉。さっきの言葉、それ良い言葉です! ウチも大好きですよ」

「おうおう、つっきーもわかってくれるか。そーかそーかぁ」


 月子のフォローのおかげで千佐都の手が緩み、悟司はぐぇっと情けない声をあげてその場に崩れ落ちた。


「みんな違って、みんないい!」

「そうそう、つっきー! みんな違って、みんないい!」


 ……ダメだ。もはやついて行けない。

 喉元を押さえながらベンチに腰掛ける悟司をよそに二人はさらに盛り上がる。


「「みんな違って、みんないい♪ みんな違って、みんないい♪」」


 即興で作ったメロディで歌いだした月子に、千佐都も一緒に合わせてその場でくるくると回り始めた。


「意識が低い話はよせ」


 春日のその一言で、女子二人のにこやかムードが一瞬でぶち壊れた。

 あっという間に冷ややかな空気が辺りに流れ始める。


「意識が低い話はよせ」


 同じ台詞を再び口にする春日。

 もはやここには冷気ではなく凍気が流れている。


「あんた……空気読みなさいよ……」


 テンションがた落ちの千佐都が、ジト目で春日を見つめた。

 あんなに楽しそうだった月子も、春日に怒られたと勘違いしているのか、涙目になってしゅんと俯いてしまった。そんな月子を見ていると、悟司もなんだか居たたまれない気分になってしまう。


 だが、当の張本人は、そんな空気など物ともせずに話を進め始めた。


「残念だが、そういうわけにもいかん。そもそもお前らは勘違いしている」

「と、言いますと?」


 千佐都が首を傾げながらそう尋ねると、春日はタバコをもみ消して三人の顔をぐるりと見回した。


「いいか。曲の善し悪しを判断するのは僕たちじゃない、リスナーだ」


 手に持った吸い殻が完全に消化されたのがわかると、紫煙をもわっと吐きながら春日は悟司たちが座っているベンチの方へと近付いた。


「とはいっても、僕たちは動画視聴者に金を払ってもらって自分達の曲を聴いてもらっているわけではない。つまりここでいうリスナーというのはお客様ではない。だから極論で言ってしまえば『別に我々の曲の魅力がわからなくたって構わない』存在ってわけだ」

「あ、あたしは何もそこまで――」


 千佐都の反発を、春日は手のエアー・オブ・クリサンセマムを見せつけて制する。


「言ったろ? これは極論だ。実際に千佐都がそんな風に思っているわけではないことはわかっている」

「そ、それなら……まぁ」


 言葉を呑んだ千佐都を一瞥しながら春日は短いため息をついた。


「……話を続けるぞ。さて、我々は自分達が良いと思っている音楽を作っている自負がある。だからこそ、自作曲を世界に向けて公表し続けているわけだ。そうだな?」

「ま、まぁ大げさに言えば、そうかもね」

「そこで、だ。今回の曲は結果的に前回よりもリスナーの人達には受け入れられなかった。それはなぜだ? 僕たちはそこを考える必要がある。なぜなら創作者として、コンテンツの提供者として、受け手の反応ほど大事な指標は他にないからだ。千佐都、ここでいう受け手とは一体誰だ?」

「リスナー、つまり動画視聴者のことでしょ? いちいち聞かなくたっていいわよ、もう!」


 千佐都が不機嫌そうにつんとそっぽを向く。


「そうだ。いくらお金を払ってない、お客様じゃない、と言ってもリスナーはリスナー。彼らは立派な受け手なんだ。そのことにはなんの疑問の余地もないだろう。つまり、そんなリスナー達が下した結果を見て反省するという行為は、僕らにとって非常に大事なことである。ここまではわかるか?」

「わ、わかるわよ! けど――」


「ではここで言う下した結果とは一体なんだ? ずばり再生数だろう? まとめると、僕らはリスナーから下された結果、つまり再生数の減少という今回の結果を踏まえしっかりと反省すべき点を模索し、次の曲へと生かさねばならない状態にあるんだ」


 そこまで言うと、春日は千佐都に向かって自らの人差し指をびしりと突きつけた。


「そんな僕らが、だ。こうして前よりも悪い結果が出たのは誰の目からしても明らかなはずなのに、あろうことか『でもこの曲は前の曲より良いよね』などと話を強引にまとめあげて慰めてしまっている。……創作者として、どうなんだそれは? その態度は、まさにさきほど僕が言った極論――リスナーを『別に我々の曲の魅力がわからなくたって構わない存在』として無意識下で肯定していることになるんだぞ? こんな状態ははっきり言って『ガストロンジャーズ』時代よりひどいと僕は――」


「だ、だからちょっと待ってって!」


 暴走して熱弁をふるう春日を、千佐都が押しとどめる。


「でもさ、さっきあんたも言ったようにあたしたちは別にプロじゃないのよ? お金をもらって活動してるわけじゃない。だから多少は曲の善し悪しくらいあたしたちが勝手に決めたっていいじゃない」

「それは再生数を無視して、ということか?」

「そ、そうよ。それに、そもそもあんたのその何かにつけて再生数再生数って言う、その再生数至上主義的な考え方もなんか嫌」


「なるほど。まぁ再生数の件はとりあえず置いておこう。さきほどの発言、『我々はプロじゃない。だから曲の善し悪しくらい自分達で結論づけてもいいじゃないか』千佐都はそう言ったな? 間違いないな?」

「う、うん」

「そこが意識が低いと言ってるんだ」

「うっ」


「曲を作る。ここまでの話ならそれも構わない。だが、公表しているのだぞ? 主観的な結論のみに終始するのであれば公表など無意味だ。なのに、なぜ公表する? それは客観的な評価を得たいからだろう? その意味では再生数というのは実にわかりやすい数字だ。単純に聞いた人の人数なのだからな。マイリスト登録なんかはそれ以上に明確な評価として受け入れられるな。僕の言いたいことはつまりだ――」


 春日は少しだけ言葉を溜めて、静かに言った。


「もう少し謙虚に客観的評価を受け入れろ。この先他者を楽しませる目的なく、ただの自慰でしかない音楽を発信するだけならば――僕はもうこのユニットを降りる」


 その言葉を聞いて千佐都が小さく唸る。

 ぐうの音も出ないと言った様子だった。さすがに春日の真剣な物言いが堪えたのだろう。

 そんな二人のにらみ合いを打ち破るように、月子が青ざめた顔をしながら口を開いた。


「せ、先輩。本当に辞めちゃうんですか?」


 春日はそんな月子に対して少しだけ迷う表情をしたが、すぐに顔を引き締めると、


「……もしお前らが本当にそういう態度でこれからも臨み続けるならな」


 そう、はっきりと言い切った。


 それを聞いた月子の、ひゅうっと息を呑む音が悟司の耳にもはっきり届く。

 どうやら、春日は今回の件で想像以上に思い詰めていたらしい。


「……さ、悟司はどう思ってるわけ? あたしは悟司のファンだから、かすがの言葉よりも悟司の言葉に従う」


 助け船を求めるように、千佐都が飛びついてくる。


「それはリーダーとしてどうなんだ……?」


 そんな悟司の言葉もよそに、春日は鼻を鳴らす。


「ふん。よっぽどの反論じゃなきゃ、僕はこの意見を変えるつもりはないぞ」


 その表情は相変わらず固い。春日は千佐都の買ってきたコーヒーを口にすると、すぐにまた悟司へ厳しい目を送った。


 しかし――

 久しく真面目な話し合いになったなと悟司は思った。

 こうして何度も意見がぶつかり合うことは、果たして良いことなのか悪いことなのか。もともと互いが互い、やってきた活動が全く違うまま集まったメンバーなので、価値観もそれぞれ、いつもとんちんかんな部分でまとまりがない。

 悟司は頭を掻きながら、千佐都の方をちらりと伺う。

 千佐都は捨てられた子犬のように弱々しい瞳で悟司を見つめていた。


 ……そんな顔をしないで欲しいなぁ。

 悟司は千佐都から目を逸らしてうなだれた。大体、自分だって春日の言うことは一理あると思っているのだ。

 だがこのままで良いわけがないのも事実。悟司だって、春日の言うこと全てを肯定しているわけではない。

 ……仕方ないな。

 そう思って、少しだけ頭の中で主張をまとめあげてみる。

 そうして長考した後、


「――先輩。俺は、再生数なんてそこまで深く考えることでもないと思っています」


 悟司がゆっくり静かにそう言うと、一瞬にして四人の中に緊張が走った。

 その言葉を聞いた春日は、さして驚いた風でもなくこちらへと視線を向ける。


「ほう。なら樫枝は自慰で構わないというスタンスなわけか」

「そうは言ってません」


 即座に否定した。


「……きちんと説明してくれ。お前の話はいつも飛び飛びすぎるんだ」


 千佐都がさきほど自販機で買った無糖紅茶の蓋を開ける。そして中身を一口だけ飲むと、悟司は再び春日の方へと向き直った。


「先輩の意見にはおおむね同意します。どんな意見や評価も無視して主観的な結論のみで片付けてしまえるのであれば、作品を公表する意味なんて形骸化してしまう。創作者としての成長も望めやしない。俺はそういう存在でいたくはないし、そうならないようにしているつもりです」

「そうだろう。その為に数字は客観性な評価に繋がる。わかりやすい指標じゃないか」


 そう言って春日は自信たっぷりに手を広げた。その様子を見るに、もしかすると自身の主張は誰にも崩せないと信じ切っているのかもしれない。

 少しだけ間を置いてから、悟司はさきほど頭の中で考えていたことをそのまま春日に向けて口にした。


「……なら先輩は、今年出た音楽で一番売り上げが出ている『アッカンベー四十八手』の曲が今年一番良い音楽だったと思いますか?」



「――なっっっ!」


 悟司の発言に、言葉を失ってしまう春日。

『アッカンベー四十八手』は今ちまたで大人気のアイドルグループである。振り付けに江戸四十八手を彷彿とさせるアクロバティックな体位――もとい踊りが魅力の破廉、キュートなグループだとかなんとか。


 正直、悟司はこのグループのことをあまり知らない。なので当然メンバーの名前も一人として挙げることは出来ないのだが、とりあえずテレビに出ている彼女たちの姿を見て、センターの子がなぜセンターなのかは、顔を見ただけでなんとなく理解していた。


「音楽じゃなければ本や映画でも構いません。もっと近い存在で言えば、一番再生数が多いボーカロイドの曲。あれは先輩が聴いた他のどんなボカロ曲よりも一番良い名曲だと思いますか? 他にももっと、あの曲以上に好きな曲はないんですか?」

「ぼ、僕はそういうことを言ってるわけじゃあない。僕が言ってるのはつまり客観的な評価を無視するなと――」

「それについては同意します。ただ、俺の言いたいのは再生数やマイリストだけで曲の善し悪しを決めるのはおかしいと言いたいんです」

「じゃ、じゃあなにか。樫枝は今回の曲の結果に満足なのか。相対的な評価じゃないか。再生数を見て、『これは前の曲よりも人気が無い』そう思うのは自然なことじゃないか」


 春日は動揺しながら再び反撃を始める。

 だがそんな春日の反撃にも、悟司は冷静に返した。


「確かにそうです。この曲は前より人気がない」

「そうだろう! なら再生数を参考にして次に繋げるのは何もおかしなことじゃあない」

「そうですね。最初に俺がおおむね同意という回答をしたのはそのことも含まれてます」


「……意味がわからんぞ。再生数をどうでもいいと言っておいて、今更――」

「先輩、どうでもいいとは言ってません。俺が同意したのはあくまで再生数を参考にする、というところまでです。重要視はしない。絶対だなんて思わない。だから深く考えることでもない、そう言ってるんです」

「ぬうう……」


「数字だけで片のつく話なら簡単なんです。今回の曲は『翼道』よりも再生数が低かった。だから次の曲は『翼道』と似たような曲調でいこう――こうなっていけば、自然と伸びる再生数の曲調ばかりを量産していく形になる……かもしれません」

「それじゃあダメなのか」

「ダメじゃないですけど、俺は嫌ですそういうの。そういう意味では客観的な評価を無視してるところもあるかも。主観と客観がない交ぜになった感じなのかもしれません」

「ぐう……」


 悟司の言うことに通ずる思いがあったのか、春日はその先の句を告げることが出来なくなっているようだった。


「てことで俺は今回の結果に納得してます。満足しているわけじゃないけど、アプローチを大胆に変えすぎたことが悪かったのかどうなのか……そんな簡単に結論など出ないもんですね。こういうのって」


 そこまで言うと、不意に悟司の手にふんわりと柔らかい感触がやってきた。


「悟司くん!」

「っっふぁ!?」


 月子が悟司の両手をがっちり取って見つめる。


「ウチ、悟司くんの考え方にちゃかぽこ同意します!」

「ふぁっ。ふぁっ、ひゃい!」


 わけのわからぬ言語が飛び出してしまう。隣に座っていた時から意識していたが、実際に触れられると心臓が爆発するどころの騒ぎではない。


「悟司くんって、いっつもじっとしているけど、普段はそんな風にいろんなことを頭で考えてるんですか? ウチもよくぽーっと考えたりするけど……そんな風にきちんとまとまって答えられないですっ。だから、すごいですっ!」


 早口でまくし立てる月子。どうやらよほど興奮しているご様子で。


「あ、あぁぁ……ぁぁ」


 じっと見つめられすぎて頭がぼーっとしてきた。いかん。

 そう思った悟司は、月子のくりくりとした丸い瞳からどうにか逃れようと目を逸らした。

 すると、彼女の胸元がわずかに開いているのが見えてしまった。

 ……あれ?


 ……その淡いピンク色のブツって、もしかして――下着?


「――どこ見てんのよ」


 同じく隣にいた千佐都が悟司の後頭部をチョップした。

 その言葉で一瞬呆けた顔をしていた月子が、みるみるうちに顔を赤くすると、急いで悟司から飛び退いて慌て始めた。


「は、はわっ。はわっ」


 胸元を隠すように両手を交差させながら月子が口をぱくぱくさせる。


「み、みてな、い! 見てないんだから!」


 嘘も方便。しかしながら多少の罪悪感はあるわけで。

 慌てふためく悟司の様子を伺うように、月子はちらりと振り返った。


「ほ……ホントです?」


 月子の問いかけに悟司は、かくかくと壊れたカラクリ人形のように何度も首を上下する。

 そんな二人のやりとりを面白くなさそうに見ていた千佐都がミルクティーをすすってから、


「なんとなく話もまとまったようだし。じゃあ、リーダーのあたしから総括の一言を」


 突然そんな事を言い出し始めた。

 別にそんな一言は全く必要ないぞと思う悟司をよそに、千佐都は嬉々とした表情で立ち上がる。

 そうしてもったいつけたように仰々しく三人をぐるりと見回し始めると、その視線はやがて春日へと止まった。


「な、なんだよ」


 怪訝な顔をしてそう口を開いた春日に向かって、千佐都はすぅっと息を吸い込むと思いっきり人差し指を春日の鼻先に突きつけた。


「お前が悪い! よって死刑!」

「なんでだっっ!?」


 声を荒げる春日。

 そうして再び最初のように、ぎゃあぎゃあと喚き始める二人を眺めながらふと視線を横にずらしてみると、悟司は自動販売機の下方部に貼られたポスターが目に止まった。


『開拓祭2012 サークルオブシティ~繋がる、街の交流フェス』


 ……そうか、学祭が近づいているのか。

 外の空気もすっかり冷えはじめてきた昼下がりに、悟司はポスターをぼんやり眺めながら無糖紅茶をゆっくり口の中へと注ぎ込んだ。





 四月二十三日――弘緒




「井上さんっ」


 弘緒が声をかけると、井上が自分の席に座ったままこちらへと振り返った。

 井上は、弘緒のすぐ後ろで立っている二人の男性へと目が止まる。


「弘緒さん。……あの、その方達は?」


 井上の視線に気付いた弘緒は、二人の男の方へ振り返りながら言った。


「あ、ごめん。紹介するの忘れてたね。こちらが竜吾さん」


 弘緒が右手を差し出しながら紹介すると、竜吾は無言のまま軽く一礼した。


「そしてこちらが俊介くん」


 身体の向きを反対に変えて左手を差し出すと、俊介はすっと弘緒の背中へ隠れる。


「あはは……私以上に人見知りなんだけど、仲良くしてあげてね」

「は、はぁ」


 戸惑う井上に、弘緒が笑いかける。


「もう少ししたらいずみさんが職員室から戻ってくるから、一緒に帰りませんか? 途中でファミレスに寄っちゃうかもしれませんけれど」


 そう弘緒が告げると、井上は少しだけ迷いのある表情を見せながらぽつりと口を開く。


「え、でも……その。迷惑とか、じゃないでしょうか?」

「みんな、迷惑?」


 弘緒が後ろの二人に向かって尋ねると二人は黙って首を振った。

 少しだけ間を置いてから、竜吾が井上の顔を見て口を開いた。


「……迷惑って言葉はむしろ弘緒ちゃんの専売特許だ。僕たちはいつも迷惑だなんて思ったことないのに、この子はいつだってすぐに自分を迷惑だって言う」

「もー竜吾さんはいらないこと言わない!」


 弘緒は持っていた鞄で軽く竜吾を小突くと、竜吾は可笑しそうに喉を鳴らして笑った。


「ごっめーん、待たせた?」


 そうしている間に、教室の後ろ扉からいずみが戻ってきた。


「待ってないよ、いずみさん。今井上さんを誘ったところ」

「待ったー? シューンー?」


 そう言いながらいずみは俊介の頭をくしゃくしゃと撫でつけた。俊介はそんないずみの手の感触をとても心地よさそうにしながらニコニコ笑っている。


 そんな二人を見ながら弘緒は、井上にこの二人の関係を説明する必要はないだろうと思った。なぜなら誰の目から見ても、今の二人が互いを特別な存在と認めて接していることは明らかなのだから。


 この二人を見ていると、弘緒はいつも優しい気持ちに包まれる。

 そうして胸一杯の幸せをもらった弘緒は、いまだ戸惑いの表情をしたままの井上の手をそっと引いてみた。いきなり手を引かれて驚いた井上が弘緒に向かってぱっと顔をあげる。


 まだ強ばったままの表情だ。

 そんな井上に対し弘緒は優しく微笑みかけた。


「いこ、井上さん。一緒に帰ろ」


 その一言で、彼女はまたしてもとびきりの笑顔を弘緒にくれたのだった。


 ……だいじょうぶ。

 ここには、笑顔が溢れてる。

 

 それはいちいち言葉にしなくても、きっと同じように井上にも伝わっているはず。

 弘緒はそう思っていた。




 9月28日――悟司




 夏休み前のことである。


 既にご承知かと思われるが、悟司が住むニングルハイツの一○一号室は他の部屋と違い、同じ造りの部屋が対になって備わっている。またそれを隔てているのは一枚の薄いドアのみ、である。

 夏前まではこのうちの一部屋に千佐都が住んでいたのだが、今ではその千佐都も引っ越ししてしまい、すっかり体の良い空き部屋と化していた。


 元々悟司一人が住むには広すぎるというのもあり、それならいっそということで、この空き部屋は実質四人の完全な作業場として機能することに相成ったのであった。

 平たく言えばボーカロイド楽曲制作部屋、といった風情である。

 

 この部屋には、メンバー四人が各自様々なものを持ち込んでいた。

 春日は自身の持っていた楽器の一部やDTMに関する必要なソフトや機材、それにイラストを取り込むためのスキャナを。

 月子は漫研サークルの子から借りたペンタブ、それにスケッチブックと画材道具を。

 一方でかなり真面目なものを持ち込んだ二人とは対照的に、千佐都と悟司の持ち込んだ物はどれも作業とは全く関係ないものばかりであった。

 千佐都はホワイトボードとデジカメと漫画一式。

 悟司は鍋とカセットコンロとこたつと扇風機である。


「なんでこんなわけのわからない謎チョイスなんだ?」


 皆で私物を持ち込んだ日、二人のそのあまりにも不可解な私物を見て春日が苛立ちを押さえ切れぬ様子でそう尋ねると、


「作詞の基本はネタを探すことでしょ? デジカメで面白い絵を撮ったり、漫画を読みながらアイデアを手に入れたりするのよ! あ、ちなみにホワイトボードは企画会議のためね」


 と、千佐都。


「ここに集まることも多くなれば、みんなでご飯食べたりもするでしょ? 俺、暑がりだし寒がりだから」


 と、悟司。

 こういう部分は実によく似ている二人である。

 そんなわけで旧千佐都部屋は、右半分が本格的な作業スペース、左半分は娯楽スペースと、今ではすっかり様変わりしてしまった。

 便宜的につけた部屋の名前は『シュガ部屋』。

 ……そのまんまである。命名者は言うまでもないであろう。



  ※ ※ ※



 さて、この日この『シュガ部屋』には、悟司含む『シュガー・シュガー・シュガー(!)』の四人が集まっていた。

 ホワイトボードにはでっかく『第236回 定例会議!!』と書かれている。

 その文字に、千佐都以外の三人はそろって同じ角度へ首を傾けた。


「と言うことで会議始めるわよ」

「はい」


 ツッコむ気満々で手を挙げる春日に対し、千佐都はいっさいそれを視界に入れようとしない。

 もはやお約束な展開のはずなのだが、悟司は毎度そんな春日がとても可哀想に思える。


「はい」


 続いて月子が手を挙げた。手を下ろさない春日をちらちらと眺めながら、なんだかひどく申し訳なさそうな表情をしている。

 そんな状況にも関わらず、千佐都は春日の挙手をシカトしたまま、月子の方を先に指した。


「はい、つっきー。なぁに?」


 笑顔の千佐都に向かって、月子が不安げな表情を見せながら言った。


「う、ウチね。多分233回ほど、会議に欠席してると思うんですけど……」


 その発言に月子以外の全員が、顎が外れそうなくらい口をあんぐりと開けた。

 この子……マジでそれだけの数の会議があったと思ってる……。


「あ、あれ? ウチ……なにか……いけないことでも――?」


 天然にもほどがあった。


「じょ、冗談。冗談なのよ」


 千佐都が慌ててフォローすると、春日もそれに続く。


「そ、そうだぞ。鷲里。千佐都はいつもこの手の冗談が大好きだろ? そもそも僕らは互いに知り合ってまだせいぜい五ヶ月程度だ。毎日会議してもこんな数字になるわけがない」

「そ、そうなんですか?」


 月子が心底ほっとしたように胸をなでおろす。


「な、なんだー。ウチびっくりしちゃいましたぁ」


 いやむしろびっくりしたのはこっちの方だと、ツッコミたい欲求を三人はぐっとこらえる。

 もしかしたらこの子、ある意味メンバーの中で最も恐ろしい人物かもしれない。

 悟司はそんなことを思いながら、千佐都の方を振り返って言った。


「……で? なんなのさこれ。今までも話し合いはしてきたけど、今更こんな風にあらたまってホワイトボードに書いたりしてるのはなんで?」


 悟司が尋ねると、千佐都は待ってましたとばかりに用意していたビラを取り出した。

 それをホワイトボードに押し当ててから、マグネットを両角にべったんと貼りつける。

 そのビラに書かれていた内容とは――


『開拓祭2012 サークルオブシティ~繋がる、街の交流フェス』


「これよ!」


 千佐都の貼ったビラは先日、悟司も喫煙所のところで見かけたものだった。

 しかし来月の中旬に学祭があることは、この中の全員がわざわざ言われるまでもなく周知していることだ。

 こんな北海道の、それもこんなド田舎町にある大学の楽しみなんて、はっきりいってこんなもんくらいしかないわけで。それは、たとえ自分には何も興味がなくてもここで普通に大学生をしていれば、この話題は必ず周囲のどこかから飛び出してくるレベルには盛り上がっていた。


 なんといっても一年に一度のお祭り騒ぎなのだ。といっても大学側の予算も限られているので、そこまで大規模なものにはならないのだが。


「で、これがどうしたの?」

「悟司は牛丼食べたことある?」


 …………は?


 本来、会話とはキャッチボールのように為されるべきはずなのに、いきなり剛速球の魔球を投げつけられた気分になる。


「かすがはねぎだく派? つゆだく派?」


 千佐都は、困惑したまま眉をひそめている悟司をよそに春日へと話を振り始めた。


「な、なんなんだ。なぜいきなり牛丼の話を」

「つっきーは卵入れる派? 紅ショウガとかどう?」

「う、ウチは食べたことないな」


 愛想笑いで済ませる月子。

 どの反応も皆、実に一様であった。


「そっかぁ。みんな牛丼大好きかぁ」


 だが、そんな皆の反応などなかったように、千佐都は満足そうに腕を組みながらうんうんと頷き始めた。


「「「……はぁ?」」」


 呆れかえる三人。

 一体どうしたというのだ。とうとうわけのわからぬ電波でも受信したのか、コイツは。

 そう思う悟司をよそに、千佐都はガンガン語り始める。


「そっかそっかぁ。あたしも大好きなんだ牛丼。つっても食べたのは先月が初めてなんだけど」

「マジでどうしたんだよ、千佐都。お前がおかしいのは前から知ってるけど、今日はより一層深刻だぞ。どこかで宇宙人にでもさらわれて、脳みそでもいじくられたのか?」


 心配になった悟司が不安気に尋ねると、千佐都はその言葉を無視してくるくるとその場で回り始めた。


「でも、ホント残念よねぇ。だってこの町には牛丼屋さんがないんだもん。おまけにハンバーガー屋もない。この二つを食べにいこうとするなら――な、なんと車で一時間以上かけて岩見沢まで行かなきゃならないんですよっ! これは不便ですよねぇー、牛丼好きにはたまりませんよ。あたくしめもつい先月からイチ牛丼ファンとなったものですから、もう夜ごとあの味を思い出す度に涙、涙なわけですよ。昨日なんか禁断症状で夢の中に牛丼が出てきましたわ」

「ジンギスカンをご飯に載せればそれで十分だろ。この町にはジンギスカン屋の本店もあるわけだし」


 深夜の通販番組みたいな口調の千佐都に向かって春日がそんな横やりを入れると、


「あたし、羊は臭くて嫌いですの」


 はねのけるような仕草でそう言うと、隣にいた牡羊座の月子がもの凄いショックを受けているのが見えて、悟司は思わず苦笑いする。


「そこでっ!」


 千佐都がホワイトボードをばんと叩くと、どこからか手に取った黒マジックの蓋をきゅぽんと抜き取った。


 あ、嫌な予感。


 そう思う悟司の予感は的中した。

 千佐都はホワイトボードにでっかい文字でこんなことを書いたのだった。



『シュガー・シュガー・シュガー(!) meets 牛丼』



「ということであたし達も学祭の屋台で牛丼を出店しましょ!」

「「はあああああああああ!?」」


 互いに素っ頓狂な声を上げた悟司と春日が同時に立ち上がった。月子はまだ状況がよく飲み込めていないようで、ぽかんと口を半開きにしながら、千佐都と二人の姿をきょろきょろ見回す。


「なんで俺たちが出店なんかしなきゃいけないんだよ!」

「そうだぞ、大体僕は軽音サークルの方でライブがあるんだ。そんな出店など――」

「牛丼食べたくないの!?」


 心底ビックリしたような顔をする千佐都。

 逆に、なんでそんなに意外そうなんだよと問い詰めたくなる。


「あのな千佐都、そういう問題じゃ――」


「――お邪魔するよ」


 抗議しようと悟司が口を開いたところで、シュガ部屋に突然来訪者がやってきた。


「千佐都くん、こんなものでいいかな?」


 小倉である。

 なぜか、その手に持つのはそこそこ大ぶりな圧力鍋。


「お、さんきゅー小倉くん」


 千佐都は圧力鍋を受け取ると、それをラグビーのボールのように抱えながら悟司と春日を指して言った。


「残念ながら学祭実行委員の方には既に出店希望が通っちゃってるわよ」

「事後なのかよ!?」


 陸に打ち上げられたエビのように春日が悶える。


「ってことで、これから悟司のキッチンを借りて実際に作ってみるわよ。小倉くん、材料の方も準備オーケー?」

「うん。言われたとおり、買ってきた食材は全部悟司くんの冷蔵庫に入れといた」

「か、勝手に人ん家の冷蔵庫を開けないでよ!」


 悟司が真っ青になりながら、小倉の両肩を掴んで勢いよく揺さぶった。


「ど、どうしてそんなに驚くんだい。な、何も千佐都君からき、聞いてなかったのかい?」


 がくがくと首を前後に揺さぶられながら、おまけに腹まで揺れる小倉。


「聞いてるわけないじゃん! あいつちょっと頭おかしいんだよ!? 一緒にゲームしてる仲なのにどうしてそれがわからないのさ!」

「散々な言いぐさね……」


 千佐都のジト目にも構わず、悟司は丸い肉体のジャージ男の前で打ち崩れた。


「だいたいさ……だいたいこれ……」


 悟司は床を見つめながら、唇を噛みしめる。


「ボーカロイドと……なんにも関係ないじゃん……」



 とうとう、禁断の発言が飛び出してしまった。



「あーもう、いいじゃないの別に! 確かにあたしらの活動とはなんの関係もないわよっ! でもしょうがないじゃない、スキー部の方は今年なんにもやらないって言うんだからさ!」


 悟司の発言を聞いて、千佐都まで本音をぶっちゃけ始める。


「あたしだってせっかくの学祭に一枚噛んでみたかったのよ! それに、ずっと家で引き籠もりながら音楽作ってるより、少しはこうやって動きある活動した方が逆に“作品”の実になっていいじゃないのさっ! ずっとDTM機材の使い方の説明なんか聞いてたって、はっきりいって知らない人には少しも面白くなんかないんだからねーっ!」

「……誰に向かって言っている。誰に」


 春日が顔を上げてそんなことを言う。本当に誰に向かって言っているのか。


「とにかく! あたしは牛丼作ります。いいもんっ。別に誰も手伝ってくれなくたってさ。当日になって、大人気になったあたしの特製牛丼を見て悔しがれ! ばかーっ!」


 そうしていきり立つ千佐都の横で、今度は月子が申し訳なさそうな顔でおずおずと手を上げた。


「……あ、あのちさ姉。じ、実はウチも当日までなんか色々と漫研の方が忙しくてですね。その、あんまり手伝えない、かもです……」

「つっきーまで!?」


「ほーらみろ。いくらなんでもいきなり過ぎるんだ。さっきも言ったように、僕も当日まで軽音の練習、当日はライブがあるから手伝うことは不可能だ」

「かすが様、今まであたし調子こいてましたごめんなさい」

「今更下手に出やがった!?」


 一気に味方が減る千佐都。いや、味方などそもそも最初からいなかったも同然なのだが。


「――牛丼は大好物だ」


 いつの間にかシュガ部屋のこたつに入り込んでいた小倉が、ゲームをしながら舌なめずりをして言った。


「試食なら任せてよ。最強の舌、ここに現る」


 その言葉は今ここにいる他の誰よりも信頼に足る発言であった。だが、


「ゆ、唯一の味方がメンバーですらないとか……」


 千佐都は全身の力が抜けたように、ぺたりとフローリングにぺたりと尻をついた。


「みんな……牛丼……好きじゃないの……?」


 その質問には素直にイエスなのだが、いかんせんこればかりはどうしようもない。それぞれのサークルの予定でいっぱいいっぱいのようだし、いくらなんでも話が突然過ぎたのだ。


 ……まぁ、自分は現在曲作りが滞ってるので参加してやれなくもないのだが。


 そう思ったが、悟司はあえて口を出さずにいようと思った。

 なぜなら出店をやるということになれば必然的に、やってくるお客さんの相手をしないわけにはいかない。それはコミュ障にとって、あまりにも難しい試練じゃあないか。

 ということで涙目な千佐都にかける言葉もないまま、この日の会議は終了と相成ったのだった。



  ※ ※ ※



 春日と月子がニングルハイツから帰ったあとも、千佐都と小倉は一緒になって悟司のキッチンで牛丼作りに奮闘していた。


「みりんみりん……っと」


 勝手に人の台所の戸棚を開ける千佐都。


「千佐都君。どうやらレシピを見る限りでは薄口醤油と濃い口醤油をブレンドさせながら作るみたいだぞ」


 ネットから印刷したレシピを読みながら忠告を入れる小倉。


「うそ!? どうしよう、薄口買ってきてないよね?」


 さっさと帰ってくれないかなぁ……。

 心の中でそう思いながら、悟司はギターを置いて床の上へと寝そべった。


「悟司、味見味見!」


 少しして、出来上がったつゆを小皿に入れて千佐都がキッチンから走ってきた。

 悟司はそんな千佐都を見ると、ゆっくりと身体を起こして言った。


「どうでもいいけど、なんで俺の家でやるのさ」

「え?」


 エプロン姿の千佐都が悟司の隣にぺたんと座り込む。

 背丈だけ見ると、完全に小学生の調理実習のそれである。


「だってさ、悟司んちのコンロってガスじゃん。あたしの家って電気なんだよ。泣く子もびっくりのびりびりオール電化」

「なんじゃその『びりびりオール電化』って」

「電気コンロじゃやる気が出ないのさ。ここに住んでた時は二人で料理作ったりしてたじゃん? でも、今の家に越してからはさっぱり。所詮アパートの電気コンロの火力なんてたかがしれてんのよ。おかげで今じゃすっかりビニ弁続き。こうしてあたしの女子力は、今現在もみるみる下降の一途を辿ってるってわけ」


 そんなことよりほれ、と言いながら千佐都が小皿を寄こす。

 千佐都はこう見えて、なかなかに料理は上手い。そのことは以前共に同居していた時に知っていたので悟司は安心しながら小皿を受け取って牛丼のつゆを口に入れた。


「うーん……」

「どう? どう? お店の味します?」


 千佐都がわくわくしながら悟司の反応を待つ。

 味は悪くないが、屋台で出すには少々味付けが濃い気がした。

 悟司はその事を千佐都に告げると、さらに補足として言葉を付け足す。


「店の味ではないなぁ。それに、どっちかっていうと牛丼ってよりは肉じゃがの味に近い気もする」

「だめかぁ……」


 がっくりとうなだれる千佐都。


 結局、材料が揃いきっていないということで作ってしまった分を三人で食べてしまうことにした。


「僕はこれでも全然構わないけどね」


 そう言いながら小倉は、千佐都の作った牛丼の具のほとんどを一人で平らげてしまった。

 悟司が食事後、トイレへ向かった際にコンロの上で置きっぱなしだった鍋は、まだ大量にその中身を残していたはずだった。目視でおそらく五、六人分ほどは確実にあった。

 それが全部なくなってしまうとは、見事な食いっぷりである。てっきり次の日に持ち越しになると思っていたのに。


「うーん。確かに悟司の言うとおりね。店の味じゃないわこれ」


 苦しそうにお腹を押さえて横たわっていた千佐都が、突然そんなことを言い出す。

 そんな千佐都を見て、悟司はふと思った。

 それにしても一体、どうして牛丼なのだろう?

 一緒に暮らさなくなった上に、夏休みはほとんど別行動を取っていた。そのせいもあってか悟司は、千佐都のその突発的な行動に以前よりも驚かされることが多くなっていた。

 前に牛丼を食べに行ったとか言っていたが、いつのことなのか。

 そんな事を思っていると、またしても突然何かを思いついた様に千佐都は身体を起こした。


「そういえばさ、悟司はライブに参加しないの?」

「はぁ?」


 そのあまりにも予想外の言葉に、悟司は声を上げる。


「かすがが言ってたじゃん。軽音でライブやるって。だからてっきり」

「あのさ、そもそも俺軽音サークルのメンバーじゃないじゃん。千佐都も知ってるでしょうが。一緒に部室まで行っただろ?」

「そだっけ?」


 千佐都が首を傾げる。どうやら本気で忘れているらしい。


「ちょっと待ってよ。なんで忘れてるんだよ!」


 そう言いながら悟司の脳内に、あの時の記憶が鮮明に思い起こされた――



 あれは今よりもずっと人と話すのが苦手だった春先のことだった。

 悟司は千佐都に無理矢理引きずられ、途中サークル所属の春日まで巻き込みながら軽音サークルの部室まで押しかけたのだ。結局あの時の悟司はサークル活動に強い憧れを抱きすぎていて、現実とのギャップが耐えられなくなったまま、いかんなくそのコミュ障っぷりを発揮し、そそくさと部室から逃げ出してしまったわけだけれども。



  ※ ※ ※



 思えばたった数ヶ月前のことなのに、あの頃から比べるとずいぶん環境が変わったものだと悟司は思う。未だにこのメンバー達以外とはたどたどしい言葉でしか話せないけれども、それでも今は入学したての頃よりずっとマシになった――ような気がする。


「あー思い出した思い出した!」


 しみじみと感慨にふけっている悟司の横で、千佐都はぽんと手を打つと、


「なんかひどい奴らだったなぁ。あたしの嫌いなタイプだ。生理的嫌悪ってやつだ」


 そう言って面白くなさそうに腕を組んでみせた。

 千佐都はそう言うが、実際に付き合ってみればそこまでひどい人達でもないんだろうなと今となっては思う。


 そんな彼らも学祭を意識してるのか、最近はほどほどに練習をしているようだった。喫煙所の辺りまでバンド演奏の音が届いてくるのを、時々ではあるが悟司はよく耳にしていた。


「春日もなんで辞めないのかなー。さっさとあたしらの方の活動に専念してほしいものだわ。全く」

「雑用を押しつけたお前がそれを言うのか……」


 当の春日は春日で、悟司達と会うとたびたび軽音サークルのメンバーの愚痴を吐いたりする。でも、口ではそう言いつつもずっとサークルを辞めないのはやはり、彼らがそこまで悪いメンバーでないからなのだろう。


 なんにせよ、それぞれのサークルが学祭の準備を着々と行っているようで。昨日も演劇サークルの人達が、屋外で背景に使う木材にペンキ塗りをしていたのをたまたま目撃してしまった。


 サークル無所属の悟司にとってイベント前日の楽しみなど、全くといって良いほど皆無なのだが、それでもお祭り前のワクワク感というものはそんな部外者にも直に伝わってくるものがあった。


「とにかく俺はライブには出ないよ。そもそもどこでやるのかも聞いてないし」

「どこって、体育館くらいしかなさそうだけど」


 千佐都のいう体育館とは喫煙所を中心にして、ちょうどサークル棟の反対側に位置していた。格闘技系のサークルから、室内スポーツ系のサークルまで、毎度毎度多くの学生達が時間を問わずそこで賑わっている。


「ま、そっか。それ以外にないか」


 千佐都の言葉に悟司も素直に頷く。もし、演劇サークルの催しもそこで開かれるのであれば、当日はずっと人の流動が激しそうだ。一応、悟司もヒマを見つけて春日の様子を見に行ってみようと思っていたが、行くなら早めに場所取りをしておいた方が良さそうだ。


 牛丼は――今でも全く気乗りはしてないが、客を相手にすること以外の受け持ちでならば、手伝ってやらないでもない気分になっていた。キッチンで奮闘する千佐都の姿を見て、ちょっとだけ心動かされるものがないわけでもない。


 そのような思いをたどたどしく悟司が説明すると、千佐都は嬉しそうに飛び上がった。


「やっぱ悟司ならそう言ってくれると思ってた!」


 それはもう本当に屈託のない笑顔で。

 言う直前まで安請け合いしたと思っていたが、そんな気持ちは一気に霧散してしまった。


「頑張ろうね、牛丼!」


 食べ終わった空のどんぶりを見ながら思う。

 結局今回もこいつの突っ走る姿に嫌々付き合わされているようで、その実自分はその事にまんざらでもない気分なのだと。

 悟司は再びギターを担ぎ直すと、千佐都はそれを聞き入るために再びごろんと床に横になる。そんな二人の姿を小倉はちらりと一瞥すると、いつの間にか手に持っていたゲーム機のパッドをいじくりながら画面に目を落とすのだった。




 9月29日――悟司




 部屋のパソコンをつけて、久しぶりに『シュガー・シュガー・シュガー(!)』名義の動画の様子をチェックしてみる。


 ……やはり、二曲目は一曲目の『翼道』よりも半分以下の再生数だった。

 どんだけ眺めようが、やはり結果は変わらないようである。ため息を落としながら視聴画面を消そうとしたとき、偶然にも動画の説明文が目に止まった。


 それを見て、悟司は思わずはっとしてしまった。

 二曲目の動画をあげる際に、メールアドレスを載っけてみようという提案があったことをたった今思い出したのだった。フリーメールのものだが「もしかしたら視聴者の誰かがコンタクトを取ってくれるかもしれないよ?」という千佐都の提案によって作られたのだ。


 動画説明文にはそのメールアドレスがはっきりと明示されていた。作るだけ作って今の今まで完全にその存在を失念していた悟司は、慌てて動画説明文を読み直してみる。

 もしかしたら誰かからメールが届いてるかもしれない。再生数を見るに、それは万に一つもないことであったが、悟司はそのまま受信ボックスをチェックするためにフリーメールのサイトへと飛んだ。


 受信ボックスはほとんどが業者の宣伝メールばかりで、それもなぜか封がほとんど開けられていた。このメールアカウントは『シュガー・シュガー・シュガー(!)』のメンバーが、全員パスワードを共有している。

 開封されている様子から、きっと他の誰かが時々チェックをしているのだろう。

 未開封は数件しかなかった。


「……てかもしかして、俺だけか? ここをチェックしてなかったのって……」


 よく見ると、受信ボックスにはどこぞのミニゲームサイトからの登録完了メールまで届いていた。中を開いてみると、そこには『登録完了! 我々の提供するゲームコンテンツをどうか心ゆくまでお楽しみください!』と言った文面がでかでかとした文字で左右に動いていた。HTMLタグを使ったものなのだろうが、そんなことよりも悟司は勝手にみんなの共有アドレスでなんてことをしているんだと憤ってしまう。一体誰だ、こんなことするのは。


 そう思ってメールの文面をチェックしながら下の方までスクロールすると、最後の方でゲーム内で使われるアカウント名がきちんと表示されていた。

 その名も『caramel pudding』。

 カラメルに、プリンである。


「……千佐都だ……」


 予想はついていたが、やはりか……。

 呆れてパソコンの前で頭を垂れる。何考えてるんだ、あいつは。


 少し考えてから、勝手に退会処分にしてやろうと思いたった悟司は、メールに書いてあるトップページへジャンプするURLをクリックした。別窓で開いたその画面の右上にはご丁寧にログイン名とパスワードをタイプする項目があった。

 それを見た悟司は頭を抱えて呟いた。


「げ。このURL踏んだら自動的にログインされてるんじゃないのか」


 試しにフリーメールと同じパスワードを打ち込んでみたが、サイトから返ってきたのは赤字で『パスワードが違います』という業務的な文面のみだった。


「くっそ。まだるっこしい」


 諦めてサイトを閉じる。どうにかして本人から聞き出してやれないかと思っていると、受信ボックスにまだ封の開けられていない未開封のメールへと目がいった。

 そして、その内の一件に目がとまる。


「これは……業者っぽくないな」


 件名が「どもー」から始まっているそのメールを見て、悟司は一瞬ウイルスが添付されてないか疑った。しかし、そのメールにはそもそも何かを添付されている様子はない。



『アドレス:himajin-majin1986@xxxxxx.co.jp

 件名:どもー』



 もしかして……リスナーの人だろうか?

 悟司はドキドキしながらマウスポインタを件名に合わせて、左クリックしてみた。



『どーもどーも。わたくし、ひまじんPと申しますです。

 実はわたくしめもボカロのプロデュースなんかをやっとりましてですね、

 もともとボカロ廃から成り上がったもんで、

 Pをやってる今も結構聴き専のクセが抜けんのですわ。

 そんなこんなで聴かせていただきました、あなた達の曲。

 すっげーいいです。これからも応援してるんでよろしくー』



「……おおお。これは」


 これはよもや、ファンレターという奴ではないのだろうか。

 しかしまたすごそうな人物から来たもんだと、悟司は驚きを隠せない。しかも、その文面だけで既に相手の個性はびりびりと伝わってきていた。


「ていうかこれ……何語?」


 そうは思いながらも悟司はこの人物に激しく興味をそそられた。

 特に興味を惹かれたのはここの一文だ。


 ――実はわたくしめもボカロなんかをやっとりましてですね、


「これは……この人も音楽を上げている、ってことなのか?」


 悟司は動画サイトに戻ると、即座に検索バーに『ひまじん』と打ち込んだ。すると、彼の作ったものであるらしい動画が検索上位にずらりと表示される。

 その検索結果に表示された一番上位の動画のサムネイルを見て、悟司は驚愕した。


「再生数…………五十三万だって!?」


 どこぞの宇宙人の戦闘力と同じ数字だった。

 他の動画も、悟司なんかとは比較にならないほどの再生数を誇っている。悟司は試しにその一つをクリックしてみた。

 ピンクの長い髪の少女が画面の真ん中に立っていた。


「巡音ルカか……」


 悟司は動画を見ながらそう呟く。悟司は初音ミクを気に入ってからというものの、それしか使ってはいないがこの『ひまじん』という男の曲はルカの他にも「MEIKO」や「KAITO」といった別のボーカロイド達も幅広く使用しているようだった。

 しかし、やはり彼のメインはルカなのだろう。ほとんどの動画は彼女を使用した曲ばかりであった。


 彼の音楽は、打ち込みが主体のクラブサウンドだった。ルカの曲を一通り聴き終えた悟司は、すぐさま彼の他の動画もチェックしてみる。

 そうしてわかったのが、彼の曲には必ず特徴的ともいえる音のクセがあった。そのクセとは、間奏の一番盛り上がる、いわゆる美味しい部分でピアノサウンドを挟むところだ。ピアノの旋律が他の電子音を押さえるようにしてぐいっと割り込んでくる。そこで鳴る生の音が、一際キレイに響いて聴いてるものの胸を激しく打つのだ。


 ……認めざるを得ない。彼の人気はきちんとその実力を兼ね備えている。

 伊達や酔狂で伸びたものでは決してない、きちんと裏付けされたそのセンスが、リスナー達の評価へと繋がっているのだ。

 そう思いながら悟司は動画を注視する。ちょうど間奏に入り、彼のピアノが鳴り始めたところでものすごい量の動画コメントが一斉に流れ出した。


「ははは……」


 すごい人物が絡んできたものだと思った。彼は自分の自作曲をマイリストしており、その一番古いのを見てみると悟司よりも一年ほど前、2011年の夏頃からだった。

 音楽センスのすごさもさることながら、さらに彼の動画のすごいところは他にもある。

 それは彼の音楽を劇的に引き立てている、映像そのものだった。


 まるで音楽PVのように、目まぐるしく動くその動画はどれもコメントを見る限り大絶賛に近く、またその動画のクオリティが彼の人気を後押ししているのは疑いようがなかった。

 調べてみると投稿し始めた初期は、今の悟司と同じように静止画イラストに歌詞だけを載っけた簡素な動画だった。彼が自作の曲に現在のような動画を取り入れだしたのは今年の二月頃で、ちょうどこの時にあげた動画からリスナーも爆発的に増えているのが、それ以前の動画の再生数を比較してよくわかった。最初期の頃の再生数は数千程なのに、二月に入ってからの動画は数万に伸びている。


「さーとーしー」

「お邪魔しますー」


 千佐都と月子の声が玄関から聞こえた。朝、コンビニにジュースを買いに行ってから鍵を開けっ放しにしていたのをすっかり忘れていた。


「小倉君ちでゲームしてたらつっきーがやって来てさ。つっきー、ケーキ屋でチーズケーキ買ってきたみたいで、どうせならあんたにもおすそわけ……って、何見てんの?」

「すごいぞ千佐都」

「……へ?」


 間抜けな声を出す千佐都の両肩を悟司は掴んだ。


「なんか……すっげー面白い人が絡んできた!!」

「は、はあぁ?」


 いきなり肩を掴まれて困惑気味の千佐都はチーズケーキの箱を床に落としながら慌て出す。


「あ。ちさ姉ちさ姉、チーズケーキが――」

「ちょ。ちょちょっ! 離してよ、悟司」


 しどろもどろになりながら、徐々に顔を赤らめていく千佐都。


「顔! 顔近いって。ねぇ悟司!」

「なぁ千佐都、俺の代わりに返事のメール作ってくれよ! 俺、この人のことすっげー気になるんだ。なぁ頼むよ」

「わかった! わかったからお願い、離してってばぁ! 悟司ぃ!」


 たまらず千佐都は観念したように声を荒げた。

 そんな二人をよそに、月子はチーズケーキを拾い上げる。

 そして、中身をそっと確認してからにこりと笑った。


「潰れて……ないっ!」




 十月三日――弘緒




「……全日制から編入してきました、佐藤弘緒です」


 教壇の前で抑揚なくそう言うと、やや間があってからぱちぱちとまばらな拍手が教室中に響き渡った。


「はい、ありがとう。それでは佐藤さん、適当に空いてる席へ座ってください」


 そう言った教師に軽く一礼して、弘緒はぐるりと教室内の生徒を見渡した。

 そこにはわずか九人ほど。年齢も容姿も身なりもまるで統一感のない生徒たちが神経質に並べられた席を、各自ばらばらに座って弘緒を見つめていた。


 ――久しぶりの教室だ。

 まるで数ヶ月前まで通っていた、当時はまだ外の明るい時間で授業を受けていたあの教室にそっくりだった。外の風景と、生徒たちと、時間帯と、校舎そのものはまるで違う。


 ……しかし、似ている。あの高校と。

 そう意識してしまった瞬間、弘緒は突然の息苦しさに襲われた。

 呼吸もままならない状況の中、ぎゅうと胸の辺りを鷲づかみにされたような圧迫感。

 弘緒はたまらずひざを崩してその場へとうずくまった。静寂だった教室が一瞬にしてざわつき始めた。

 息苦しさが増すにつれ、弘緒の心の中にはどす黒い感情がどんどんと溢れ出してくる。

 数ヶ月前とは別人のようにすっかり荒みきってしまった表情を、一際歪ませながら弘緒は思う。


 ……あの憎い教室。憎い友人達。憎い教師達。

 ああ、憎い憎い憎い憎い憎いっっ!

 その中でも特に、自分を裏切った『あいつ』の笑い顔が色濃く、はっきり鮮明に思い出される。一人ぼっちで辛そうにしてて、その姿があまりにもいたたまれなくなって、思わず声をかけてしまった、そんな『あいつ』のことを。

 許せない。私をこんな目に遭わせた『あいつ』が許せない。


「お、おい。大丈夫かよ」


 教卓の目の前、最前列に座っていた作業着姿の金髪男が立ち上がって弘緒をのぞき込む。


「佐藤さん?」


 教師も慌てて弘緒に近寄る。それを手で制するようにして、弘緒は言った。


「……だ、大丈夫です……ちょっと、緊張しただけで……」


 ひゅうひゅうと喉の奥から漏れる息。ごくりと唾を飲み込んで、弘緒は平静を装う。

 自分を誤魔化す為に。自分を欺く為に。

 生気の失った瞳で、弘緒は再度確認するように教室一帯をぐるりと眺め回す。


 ……大丈夫だ。ここはもう、あの学校じゃない。

 私をあんな風に追い込んだ『あの連中』はもういないのだ。

 私は、平気だ。平気なのだ。


「……すみません。ご迷惑を……おかけしました」


 ゆっくりと動悸が収まったのがわかると、弘緒はたどたどしく後ろの方の席まで向かって腰を下ろした。弘緒が着席したのを確認すると、教師は軽く咳払いをする。


「そ、そんなわけでこれから新しい仲間を迎えて後期の授業に入っていきたいと思います。弘緒さん? もしまた体調が優れないようだったらすぐに教えてくださいね」


 教師の言葉に弘緒は無言で頷いた。


 初日からいきなり発作が起こるなんて。全くなんてひどいざまだろう。

 早く帰りたい。そう思いながら頭を抱えて机に突っ伏したところでふと思う。

 ついたった今、自分は周りに迷惑をかけたばかりじゃないか。そんな私がこうして変に俯いたりしていると、また周りに余計に心配をされてしまう。

 そう思った弘緒は重い頭をゆっくりと上げ直して教壇の方へと目をやった。そうやってずっと無理矢理顔をあげたまま、弘緒は何度も何度もこの苦痛な時間が早く過ぎないかと天に向かって祈り続けた。


 ……強くならなきゃ。

 頭の中はずっとその一言でいっぱいだった。




 10月1日――悟司





「これでいいか?」


 春日が持ってきたマイクを受け取ると、悟司はそれをパソコンの入力ジャックへ差し込んだ。


「ちゃんと動くの? このマイクずいぶん使ってないみたいだけど」


 千佐都が尋ねると、春日は肩をすくめながら言った。


「どうだろうな。一年の頃は帯広の友達連中へ連絡を取る際に使っていたが、スマホで話せるようになってからはさっぱりだ。動作確認もしていない」


 そんな二人をよそに、悟司はパソコンのディスプレイへと振り返った。

 ディスプレイには『ひまじん』からのチャットメッセージが映っている。


『himajin-majin:準備できた?』


 設定をいじりながら、春日はマイクに向かって何度か声を出してみた。


「あーあーテステス――よし、多分これで大丈夫だろう。樫枝、準備が出来たと書いていいぞ」

「わかりました」


『sugao-sugar:多分オッケーです』


 悟司がそうタイプすると、ほどなくして通話着信のBGMと、チャットメッセージの上に『ひまじん』のアカウント名とプロフィールの写真とが全て同時に映し出された。


「わ、わ。かかってきましたっ」


 驚く月子。その横からずいっと身を乗り出した千佐都が、悟司からマイクをひったくる。


「任せなさいっ。悟司、そこの通話開始ってとこをクリックして」

「お、おう」


 言われたまま悟司が『通話開始』と表記されたボタンをクリックした。

 すると、


『――あー。あー。あー。マイク入ってる? どんな感じ?』


 そんな男の声が、パソコンのスピーカーから聞こえ始めた。


「おっけーです。こっちの声も聞こえてますか?」


 千佐都がマイクに口を当てて喋ると、


『お、女の子だー』


 相手が一瞬でデレっとした声へと変わった。


『君は誰? シュガ子ちゃん? シュガ美ちゃん?』

「あたしはシュガ美の方です。『ひまじん』さん、って呼べば良いですか?」


『いいよいいよー。カスとかゴミとかでもいいよー。その方が興奮するし』


 うわぁ……。

 その場が一瞬でしらーっとした雰囲気になる。

 やはりメールの文面からでも確認できたように、相当性格にクセのある人物だったようだ。



 ――先日、悟司は千佐都の手を借りて返信メールを作成し、この「ひまじん」へと送信した。

 メールの内容は至ってシンプルで、自身の曲の感想に対する感謝のコメントと、こちらもひまじんが作ったボカロ曲を何曲か視聴したこと、そしてそれを聴いてすごく良いと思ったこと、以上の三つである。


 するとひまじんから、またしても素早い返信が返ってきたのである。

 その内容は、悟司達にインターネット電話サービスのアカウントを教えてもらえないだろうか、と言ったものだった。

 ネット電話とはP2Pをいう技術を使って、ネット上で高音質の通話が可能になるソフトウェアのことだ。最近では、スマートフォンなどにもアプリとして幅広く利用されていたりする。


 当然、悟司達はそんなソフトもアカウントも持っていないので、素直にその旨を伝えると、さらにやってきた彼からの返信で、


 『この先ネットで音楽投稿をし続けていくなら、連絡手段として必須だよ』


 と言われてしまったのである。

 相手のことをまだよく知らない二人は、さっそくその言葉の真意を探るべく、メンバーの中で最もネットに強い春日にこのことを報告した。

 すると春日は、


「それは確かに一理あるかもしれんな。連絡手段として考えてみてもメールでやりとりするよりずっとスピーディだ」


 と、思いのほか感心したように頷いて見せたのだった。

 そんなわけで、それまでは多少なりとも警戒心を露わにしていた悟司と千佐都は、春日のこの反応にすっかり警戒が緩んで、この『ひまじん』の言うとおりにアカウントの作成へと乗り出したのだった。

 

 そして本日、シュガメンバー勢揃いの中、とうとうひまじんとの初コンタクトが始まったのである――




『あ、あれ? もしかして引いちゃった? お、おーい』


 しらけた雰囲気のまま、声を発することをすっかり忘れていた四人に対し、不安そうに声をかけるひまじん。


「あ、ごめん。なんか変な奴だなーと思ってさ」


 千佐都が思い出したように頭を掻いてそう呟く。

 それから軽く咳払いをして、千佐都はマイクに口を近づけた。


「ということでよろしくね、ゴミ」

「お前、順応性高いな!?」


 悟司が千佐都の顔を見る。


「だって、そう呼んでほしいって言ったじゃん」

『い、いいよ……はぁはぁ……すごくセクシーなその声……はぁ……』


 そんな二人の会話を割って入るように、スピーカーの向こうでは既に興奮状態のひまじんの声が流れ出していた。


「キショい」


 そんなひまじんに対し、千佐都が冷徹な声でそう告げる。


『ああっ! もっと!』

「馴れ馴れしく注文するんじゃない、豚」

「うぐぅっ! そ……そそ……る」

「ねぇねぇ悟司、こいつ面白い!」


 ひまじんの反応にきゃっきゃと喜ぶ千佐都。

 なんだか、千佐都の方もノリ気に見えるのは気のせいだろうか。


『ふ……ふふふ。さすがわいの認めたシュガ美さんや。わいの生来のドM気質のツボを一瞬で掴みなさったわ……ふふ……こりゃたまげた』

「上から目線で喋るな、ゴミ」

『はううっ!』


 それにしても、初絡みなのにここまで気が合っているのは実に不思議である。


「千佐都、貸せ。話が進まん」


 春日が千佐都から無理矢理マイクをひったくった。


「あ、まだ罵り足りないのにー」


 そう言ってむくれる千佐都を無視して春日は言った。


「あの、ひまじんさん」

『お、今度はシュガ男さんですかな?』

「違います。僕は雑用係のスクリーマーさんです」


 それは、自分で言って悲しくならないのだろうか。

 しかも自らさん付けとは。


『あー……おおっ! そういやそんな人もいたなぁ』


 本当に思いだしたかどうかわからないが、とりあえず納得した風なひまじん。


「いたなぁ、じゃない。僕も正式なメンバーです」

『……そうなのでござるか?』

「そうなのでござるよ!」


 すっかりひまじんの会話ペースに呑まれ、春日の語尾もござる口調に変化してしまう。


「とにかく! 僕らはあなたに、色々聞きたいことがあるんです」

『なんぞや?』


 ひまじんが呑気に聞き返すと、春日は少しだけ背筋を正してからゆっくりと話し始めた。


「あなたの動画を拝見させていただきました。すごい再生数だ。僕も、ここにいる他の皆もすごく驚いてます。一体あなたはどうして僕らなんかと連絡を取りたがったんでしょうか?」


 ――今回、アカウントを取ったばかりの悟司達に通話を申し出たのは他ならぬひまじんからだった。アカウント作成直後に届いた彼からのメールには、


『アカウント取得したら『himajin-majin』という名前で検索かけてフレンド希望のメッセージを送ってください。よろしければ一度お話しませんか?』


 とあり、悟司達は言われるままに彼へフレンド希望を送って今回の通話に至っているのである――



『なんで、って言われても。深い理由とかあんの? 話すだけなのに』


 ひまじんは、春日の質問に少し驚いているようだった。


「いや、だって不思議じゃないですか。僕らはまだ曲をネットに投稿して数ヶ月もない存在だ。言ってみれば弱小ボーカロイド制作集団ですよ。あなたとの差は再生数からでも歴然とした開きがあります」


『どうでもいいじゃん、再生数なんて』

「……はぁ?」


 ひまじんの発言を聞いて、春日がぽかんと口を開けた。


『良い曲作ってる連中がいるって思ったから連絡したくなったんだ。それだけだよ』

「し、しかしですね」


 戸惑う春日に、ひまじんはなおも続ける。


『オレの曲なんてたまたま人の目を引いて、偶然ウケただけさ。まぁでも、作った曲を聴いて喜んでくれる人が多いってことはすごく嬉しいことだけどね』

「な、なんか。悟司くんと発言の雰囲気似てますね。この人」


 ひまじんの言い分を聞いた月子が、悟司へこそこそと呟いていると、


『お、今! 今、女の子の声が聞こえた! その声はもしかしてシュガ子ちゃん?』

「ひゃあっ!」


 月子の声をわずかにマイクが拾ったのだろう。途端、鼻息を荒くしたひまじんがぺらぺらとまくし立てる。


『シュガ子ちゃんって、めっちゃ絵がうまいよね。今度オレっちの動画にぜひ一枚描いて欲しいんだよー。出来たらちゃんとしたPVを作りたいんだけど、そうすると結構枚数がかさむけど大丈夫? とにかく一回オレと組んでみません? ぶっちゃけオレ、前にイラスト投稿サイトに『シュガ子』で検索かけてみたんだけど、似たような絵の人は全くみかけなかったんだわ。もしかして、イラストだけの時は別名義でやってる? それとさー――』


 そんな風に一度にいっぱいの言葉を浴びせられた月子は、あっという間に脳内のキャパシティをパンクさせ、その場で卒倒してしまった。


「……きゅ、きゅーん……」

「ああ、つっきー! ……ちょっとあんた、つっきーと会話するときはまとめてじゃなくちゃんと一回一回ゆっくりと話しなさいよっ!」

「お、おい。千佐都。知らない相手と通話してるんだぞ、普通に名前で呼ぶなよ!」


「あ、あの先輩こそ今ばっちり本名を――」


 マイクが音を拾わない程度に悟司が慌てて声をかけると、千佐都と春日はまるで石のようにその場で一斉に固まった。


『うっひょー。シュガ美ちゃんって『ちさと』って言うんだ! へぇーへぇー。んで、『つっきー』ってニックネームの子がシュガ子ちゃんなのかな?』


 ……もう無茶苦茶だ。

 使ってまだ一時間も経っていない内に、知らない相手へ個人情報がダダ漏れになってしまった。それだけ四人がネットに慣れていないというのもあるのだろうが。


 よりにもよってメンバー中、最もネットを駆使していそうな春日ですらこんな調子だ。個人情報という観点からしても、ここに居合わせた全員は危機意識が足りなさすぎる。

 そう痛感しながら、悟司はため息をついた。


 そして、そんな悟司の思いとは裏腹に、パソコンの向こうにいる『ひまじん』はひたすらげらげらと笑っていた。


『ひゃはは。なんかあんたら、すっげー面白い連中だな! ネットに投稿してる連中とは思えないほど脇が甘いしさ。しかもてんでキャラがばらばら。なのになんでそんなうまく付き合えてるわけ? ケンカしたりしてぶつかり合ったりとかしないの?』


 千佐都と春日はもう話したくもないようだった。気付けば二人並んで部屋の隅で膝を抱えてうずくまっている。月子は目を渦にしながら床の上で寝そべったまま。


 いつの間にか、マイクは悟司のすぐ手元近くの床で転がっていた。


 知らない人と話すと、自身のコミュ障っぷりが顕著になるので、はなから会話に参加する気はなかった。だが、このまま誰も手を取らないで無理矢理通話を打ち切ってしまうのもさすがに失礼な気がする。


 話したくないなぁ……。

 そうは思っても、こうなってしまった以上は自分が話さないわけにもいくまい。


『あ、あれ? おーい。誰も喋ってくれないけど……もしかして回線切れてる?』


 悟司はマイクを掴んでひまじんに言った。


「だ、だだだだいじょう、大丈夫で、でです。き、き切れてませんかららら」

『お、次は誰だ――って、残るメンバーはシュガ男さんだけか』

「は、はははじめまして」

『はいどーもぉ……って、なんかお前、すっげー緊張してね?』


 当然、知らない相手なので緊張はしていた。

 面と向かって対話しているわけじゃないので、いくらかマシになると踏んでいたのだが、やはり平常運転のようだ。悟司はかちこちに身体を強ばらせながらマイクの前で正座を組んだ。


「き、きんちょお……し、してます」

『で、お宅が作曲者さんってわけですか』

「そ、そそ、そうで、そうれす」

『……君、ある意味さっきの連中より数段クセがあるなぁ』


 それまで完全に自分のペースで会話を進めていたひまじんは、ここに来てそのペースを著しく掴み損ねていた。


『それにしても、緊張しすぎじゃね?』

「お、おおお俺。こみゅ、コミュ症、なんです……ふひひ」


 愛想笑いのつもりが、つい気持ち悪い笑い声をあげてしまった。


『そ、そうか……なんかわりい』


 あ、引いてる。

 そんなことに直感で気付いてしまった悟司は一気に気分が沈んでしまった。


 ……だから会話なんてしたくなかったんだ。

 せっかく今まで向こうが楽しげにしていたのに、その空気をぶち壊すような自分が出てきてどうするんだ。

 そう思うとマイクを持っていた手がだらりと下がってしまった。

 完全なる沈黙が出来てしまった。相手からの反応すらない、完全な無言状態。

 もはや、最初の楽しい会話の雰囲気は完全に霧散してしまった。


 そう思った悟司は、


「あ、あああの――」


 それでもなんとかして、頑張って話してみようと思ったのだった。


「ひ、ひまじんさん……俺……おお俺、ひ、ひまじんさんの曲、す、すっげーいい、いいとおも、思いました……。ふ、普段、あ、ああいう音楽、聴かないから、よ、余計にし、新鮮に、感じ、ちゃって……その……」


 ……ダメだ。これ以上先が続かない。

 そう思って悟司は口を噤んでしまった。

 曲の感想って、きちんと言葉にしようとするとこんなにも難しいものなのだろうか?


 悟司がどうしようか悩んでいると、


『……ありがとな』

「え……。え?」


 ひまじんからあまりにも率直な返答が返ってきた。

 さっきまでのおちゃらけた雰囲気はどこへやら。そのギャップに思わず、悟司も面食らって聞き返してしまった。


『だからありがとって。なんか、素直に言われると恥ずかしいな……オレも、あんたの、シュガ男さんの曲、結構好きだぜ。オレも正直、ああいったバンド系音楽って範囲外なんだけどさ』


 それまでの態度とは一変して、ひまじんは物静かな青年のように低い声で照れくさそうに言った。


『なんかこういったら偉そうに聞こえるかもしれんけどさ、正直オレの曲は君たちの曲より再生数“だけ”は高い。けど、心に残るかって言われたらぶっちゃけ「どうだろう?」って感じなのな。よくある消費型のウケ狙いで作ってる曲だって、自分でもそんな意識を持ちながらやってるとこあるしさ』


 スピーカーからざらざらっとしたノイズが走る。

 画面の向こうでひまじんが姿勢を変えたのだろうか。そう思っていると、続く声のボリュームが少しだけ大きくなった。


『でもあんたの曲からは凄み、というか勢いを感じた。はっきりいってああいうのは大衆にはウケないタイプの曲だ。でもよくわかんないけど、オレはすっごい惹きつけられた。あんまりオレが上から色々言うのも角が立つだろうし、言うつもりもないんだけど……オレはあんたの曲がすごい好きだ。だから、そんな風に思ってる人物と今こうして喋ってること自体、実はすっげー嬉しかったりするわけ』


 ひまじんがさっきよりマイクに口を近づけて話しているのが悟司にははっきりわかった。


「あ、あり……がとう……こ、こちらこそ……です」


 悟司は顔を真っ赤にしながら俯いた。

 なんだこれ。

 これはどういう状況なのだ。

 誉めてたつもりが、逆に誉められてる?


 ……あれ?


『多分さ、もっと動画とか工夫した方がいいぜ。二曲とも、静画に歌詞載っけてるだけだろ? そうじゃなくてきちんとしたPVを作って公表すれば、もっと聴いてくれる人間は集まってくれるはず。オレもそうだったしさ』


「――そこだ」


 いつの間にか復活していた春日が、悟司の横でそう言った。

 悟司がマイクを手渡すと、春日はひまじんに向かって問いかける。


「そこなんですよ。ひまじんさん」

『お、っと。次はスクリーマーさんか? なんか忙しいな』

「ひまじんさん、我々は動画再生数を伸ばす秘訣のようなものを知りたかった。あなたの言う言葉をそのまま受け取ると、『PVのような動きのある動画』を作れば、見に来てくれる人も大幅増するということですが――」


『お、おお。でもあれだぞ? それで必ずしも再生数アップが見込めると言い切ってるわけじゃないからな。あくまで方法論の一つであって、やっぱリスナーが求めてるのはその曲自体の質だ。そこには楽器の鳴りだとかPANで調整する定位の位置決めだとか音圧稼ぎだとかの細かい苦労があったりするわけで』


 自分のペースを悟司によって崩されてしまったせいか、あれだけクセの強かったひまじんのキャラが幾分か和らいでしまっていた。そこに突然春日がやってきたせいで、あっという間に話が本格的な音楽の話題へと変わってしまった。

 春日は好機とばかりにひまじんに向かって口を開く。


「そこは我々でどうにかするとして、問題はそのPVです。僕らはパソコンで動画を作れる人間がユニットにいない。イラスト担当のシュガ子はパソコン関係にほとほと疎いので今から動画ソフトを使って学んでいくにしても、ひまじんさんの動画のようなレベルにまでなるには相当な時間がかかりそうなんです」

『ま、まぁでもあの動画作ったのだって、実はそんなにまだ日も経っていないヤツなんだけどね。専属、ってわけじゃないんだけど、オレの曲の動画はいつもそいつが作ってくれるんだ』

「そう。そこで大変申し訳ないのですが、その方を僕らにも紹介していただけませんか? 確か名前は『navel』という方ですよね?」


 ひまじんの動画にクレジットされているメンバーは毎回決まって二人か三人だった。

 一人は言うまでもなくひまじん本人である。彼は作詞作曲、アレンジに至るその全てを一人で行なっている。

 二人目はイラスト担当者。これは動画につけるイラストを描く人で、同じ人がやる場合もあれば、曲によっては別の人だったりとかなり流動的である。

 三人目の動画担当者。これが彼の動画のほぼ正式メンバーと言っても良い人物だった。

 その人物の名は『navel』という。


 『navel』はイラスト担当から受け取ったイラストを用いて、アニメーション風の動画に作りあげる担当だった。この人物がひまじんの動画に関わって以来、彼の動画は爆発的に人気があがったといっても過言ではない。

 『navel』は演出の幅が非常に広く、少ないイラストカットからでも必ず動きのある映像に仕上げてくる。


 彼の名前が広く知れ渡るようになったのは、ひまじんの動画をきっかけに多くの有名ボカロPの動画にも着手するようになったからだろう。今ではそんな動画制作者である『navel』の人気は現在動画投稿サイト内でも広く知れ渡っており、上位ランキングの常連として不動の地位を築き上げていた。


 とてもじゃないが、今の悟司達には雲の上のような存在だ。

 だが、春日はそんなことなどお構いなしにひまじんに言った。


「僕らの動画にも『navel』さんが欲しい」

「え、ええ……」


 悟司もこの発言にはさすがに無理があるんじゃないかと思った。

 たまらず春日に向かって口を開く。


「せ、先輩。でもその『navel』って人、忙しいんじゃないですか? 絶対俺らなんかと一緒に制作なんてしてくれませんって」

「そこをひまじんさんのコネでお願いしたいんだよ」


 春日はマジだった。


「何もしないで埋もれるよりかは、いっそ思いっきり背伸びして盛大に叩かれた方がよっぽどすがすがしい。僕はそう思うね。『navel』のネームバリューはサイト内でも相当なものだ。彼の名前をタグ検索で拾って僕らの動画までやってきてくれる人は必ずいるはず。たとえ厚顔無恥と罵られようが、僕はその路線で突き進みたいのだ」

「い、言いたいことはわかりますが――」

「樫枝」


 春日はマイクを押さえながら、ひまじんに聞こえないようにそっと声を落として言った。


「正直、僕は『navel』の名前は前から知っていた。しかし、この『ひまじん』ってヤツのことは今まで知らなかったんだ。そこそこ名の知れたPらしいが実際のところ、彼と『navel』で比較したら、『navel』の方がその認知度の差は上なんだ。そんな彼が、だ。なぜかこの『ひまじん』の動画には必ず参加している。他の奴らの曲には流動的にしか参加していないのにだ。僕はそこに気付いてしまったんだよ」

「そ、そうなんですか?」

「ああ。だから僕はこの『ひまじん』を通してぜひ彼にアクセスを取りたい。彼の人気にあやかって僕らの動画をより多くの人に認めてもらうんだよ」

「で、でもなんかそれって、ひまじんさんを利用してるみたいで俺は――」

「ひまじんさん」


 悟司の反対意見を押し切って春日が再びマイクに声をかける。


「お願いします。彼、『navel』さんに僕らのことを紹介してくれないでしょうか?」

『ええー。でもなぁ……』

「そこをなんとか!」


 渋るひまじんに春日は食い下がる。


 ひまじんはしばらく考えてから、やがてゆっくりと口を開いた。


『一つだけ言いたいんだが、そうやって注目度だけ集めて得たリスナーもまた一過性に過ぎない気がするんだよな、オレは。今のままだって、オレみたいにちゃんと聴いてるリスナーだっているんだぜ? まずはそこを大事にしようって発想は――』

「お言葉ですが」


 春日は一度そう断ってから、大きく息を吸ってこう言った。


「今ではひまじんさんこそ『navel』さんのネームバリューにあやかってる部分が少なからずあるんじゃないですか?」

「せ、先輩」


 悟司がなだめようとするが、春日は止まらない。


「現状、ないとは言い切れませんよね? 僕は『navel』さんのデビュー動画を調べました。すると、彼が一番最初に動画を作ったのは今年の二月頃のあなたの動画からだったことがわかったんです」

「かすが、もうやめなってば」


 いつの間にか千佐都も、春日に向かってそう声をかけていた。


「その時には彼の知名度など微々たるものでしかなかったかもしれない。だがその後、彼がとある有名P達の動画を作り、幸か不幸かその動画がミリオンを連発してしまった……。以降彼自身の人気は急上昇、今ではひまじんさん自身の動画にもそのファンが押し寄せて再生数を伸ばしている――というのが第三者としての僕の印象です。そんなあなたが僕らにだけ、注目度を集めるなというのはどうなんですか? それはいくらなんでもずるいじゃないかなと僕は思いますね」

「先輩! いくらなんでもそこまで……」

「樫枝、お前は黙ってろ」


 きっと悟司を睨みつけながら、春日は静かにそう言った。そんな春日に千佐都もむっとして口を挟もうとするが、その前に春日が手で千佐都を制する。


「僕はお前の作った曲がどんどん多くの人に知られて欲しいと思っている。なのに、現状はこうして停滞し続けたままだ。以前、お前は『再生数は関係ない』と僕に言ったよな? あれから色々考えた。確かにそうかもしれない……でも僕はやっぱり今のままのように悠長に時間を使っていくことは我慢ならないんだ。通用しないなら通用しない、そうでないならないで、きちんと納得ができる『結果』が欲しいんだ。今すぐにでも!」


「……何を、そんなに焦ってるんですか?」

「なんだと?」


 鬼気迫る形相で語る春日に向かって、悟司は半ば困惑気味に言葉を漏らした。


「先輩は……どうしてそんなに『結果』ってやつを急ぐんですか?」


 少しだけ戸惑いの表情をした春日は結局それに答えることなく、再びマイクを握りしめたままディスプレイ越しの相手に向かって問いかけた。


「教えてください。僕は必死なんです。再生数をあげるのに。その為ならできる事を全てやって、後悔ならその後でいくらでも出来る。お願いします。……お願いしますっ!」


 画面の向こうのひまじんには見えないはずなのに、春日は深々と頭を下げながらそう言った。

 そんな腰の低い春日の姿を、悟司は初めて見た。それはおそらく千佐都や月子もそうであろう。


 今までの春日を知っている三人にはそんな春日の姿がただひたすら異様に映って見えたのだった。

 やがて、少しだけ間があってひまじんが言った。


『……そこまで言うなら話をしてみてもいいよ。でもあいつも色々と忙しいみたいだし、最終的な判断はあいつ次第だから、後で色々オレに文句言ったりしないでね』

「本当ですか!?」

『ただ――』


 春日が頭を上げると、ひまじんはそれに合わせるように付け加える。


『ただ、一つだけ条件があるな』

「な、なんですか? 僕らに出来ることならなんでも――」

『ん? なんでも? 今『なんでも』って言ったよね?』


 ひまじんが確認するように春日にそう強調する。


「は、はい。えっと……どんな条件なんでしょう?」


 呆けた顔でディスプレイを見つめる春日に、ひまじんは意地悪そうに喉を鳴らしながら笑い続ける。


『実はさ……オレ、君たちのこのアカウントプロフィールをさっき見て思ったの。君たちって北海道在住なんだってね?』

「は、はい。それが?」


 実はアカウントを作る際に、国名と都道府県だけ入力が必須事項だったので千佐都が何の気なしにそのまま北海道に設定したのだ。あとでそのプロフィールはいくらでも変更出来るし、設定によっては非公開にすることも可能だったが、作成したばかりのこの四人はまだそんなことなど知る由もなかった。


 ちなみにひまじんの住所はコロンビアのよくわからない地域に設定されている。なぜだろうと思ったが、会話してみればこんな人物である。深い意味などおそらくあるわけがない。

 そう思っていると、ひまじんの方から信じられない発言が飛び出した。


『シュガ美ちゃんか、シュガ子ちゃん。どっちでもいいから今週か来週の日曜日に、オレとデートしよう』

「ええ!?」

「は……はぁ? でもあんた、ここにコロンビアって――」


 驚きを隠せない千佐都と月子をよそに、さらにひまじんの口から仰天発言が飛び出す。


『オレさ、プロフにはコロンビアって載ってるけど……札幌在住だったんですなぁ実は! ふわっはっはっはっはっは! デート出来る! 出来る!』


 四人は口を揃えて叫んだ。

「「「「え、えええええええええええええええええええーっっっっ!」」」」






 十月三日――弘緒




 二限目が終了し、食事を取る短い休憩が挟まれた。

 ようやく一息つける。そう思っていたのもつかの間、


「な、なぁ」


 突然真上から声をかけられて弘緒は顔をあげた。

 声の主は先ほどの金髪男だった。


「さっきは大丈夫だったかよ」


 そう言うなりいきなり右手にさげていたコンビニ袋を隣の空席の上に置くと、それをずりずりと引きずってこちらの席へくっつけようとする。


「……何?」


 不快感を露わにして弘緒が尋ねるが、金髪は全く意に介さない様子で屈託ない笑みをみせつける。その際に不意に覗いた歯がヤニで黄色く汚れていて、それがことさら彼への第一印象を悪くした。


「いやー最初見たとき、なんだか弱っちい男がやって来たなぁと思ってたんだけどさ。声聴いて飛び上がるほど驚いちまった。女なんだな、お前」


 なんて……。

 なんてデリカシーのないやつなんだろう。

 弘緒は幼い時からよく男の子と勘違いをされた。男っぽい顔だとか、男かと思ったとか。

 はっきりいって弘緒にはそう思う連中のことがよくわからなかった。この顔のどこが男っぽいというのだ。そりゃあ確かに普段からスカートよりもパンツルックを好むし、髪も昔からずっとショートで通している。でもそんな女など、世の中に吐いて捨てるほどいるではないか。


 どうして私だけ。

 どうして私だけこんな勘違いをされるのだ。

 どうして私だけが、こんな目にばかり遭わなければならないのだ。


「なぁ、聞いてるか?」


 はっとして、弘緒は自分の両手を見下ろした。

 無意識のうちにパンを細かくちぎり続けていたらしい。その事に気付いて弘緒は無性に自分が惨めに思えた。


 そしてすぐに、そのように挙動不審な自分のことを何も追求してはこない金髪のことを不思議に思う。金髪は相変わらずニコニコと黄色い歯を見せながら笑っていた。


「……なんで、私に構ってくるの?」


 相変わらずの冷たい口調で弘緒は言った。悪いヤツではないのかもしれない。しかし、仮にそうだとしてもこの金髪のことは気に入らなかった。人は一度でも悪印象が根付いてしまうと、しばらくはどうやっても嫌悪感しか沸いてこない。それはこの金髪とて例外ではなかった。


 そして返答など何も期待もしていないように、生気の通わない瞳をした弘緒はちぎられたパンを黙々と口に運ぶ作業を始めた。


「なんでって、うーん。そう言われるとなぁ」


 派手な髪を不潔そうにばりばりとかきむしりながら、金髪は自分のコンビニ袋からおにぎりを取り出そうとした。気付けば隣の席は完全に弘緒の席とくっついていた。

 やってられない。ぼやぼやしてたらあっという間にこいつのペースだ。そう思った弘緒は、細かくちぎれたパンを無造作に握ってその場から立ち上がった。


「お、おい」


 それを見て、慌てて立ち上がろうとした金髪を弘緒は光のない目で睨みつけた。


「ついてこないで」

「お、俺なんかひどいことしたか?」

「わかんないならそれでいいから。とにかくもう構わないで」


 そのまま廊下へ出ようとしたとき、「さっそくふられてやんのー」という声が聞こえた。今のは窓側の席にいた水商売風の女性だ。歳はおそらく三十代半ばと言ったところだろう。そんな冷やかしの声に向かって、金髪男は「うっせ」と短く声を張り上げて弘緒の後を追うように席を立った。

 全く。全てがうっとうしいったらない。


「おいおい、待ってくれって」


 脇目もふらずに廊下をまっすぐ突き進む弘緒に、金髪がおにぎりをかじりながら後を追ってくる。


「誤解してるかもしれないけど別にさ、ナンパとかそういうつもりじゃないぜ? 俺、新しく入ってきた奴にはみんな声かけてんだ。だからお前だけが特別ってわけじゃ」

「さっき、ついてこないでって言った」

「そりゃ言ったけどさー。もし気に障ること言ったなら謝るって」

「謝らなくていいから。今すぐどっかへ消えて」

「別にいいじゃねぇか、一緒に飯くらい」


 ため息を漏らす弘緒の隣に、金髪が並び歩く。


「心配してんだよ、なんかさっきはすっげー息苦しそうだったし。もしまたなんかあったりしたら、俺とか便利に動くぜ? だからさあ」


 心を許すな。

 気を休めるな。


 じゃないと、絡め取られる。

 利用されるのだ、他人の悪意に。

 蛍光灯だけの明かりの中、弘緒は俯きながらそこでぴたりと足を止めた。


「……学校なんて……大嫌いなのよ」


 その言葉で挙をつかれたのか、金髪が目を丸くする。


「どいつもこいつも悪意の塊。表面上は優しく振る舞っていても、心の中では誰かを蔑みたい気持ちでいっぱいのくせに。そのくせ、他人には同質の存在であることを押しつけようとするし、異質であることを許さない、変わり者であることを許さない、出る杭であることを許さない。そんな空気に吐き気がするの」

「お前……何があったんだよ。なんで、そんなこと」


 弘緒はそれに答えず、金髪を一瞥して真横を向いた。

 その眼前には女子トイレの入り口。そこで弘緒は金髪の顔を見ることなく言った。


「先に言っておくわ。私は異質で、変わり者で、出る杭。でも放って置いてくれれば私はあなたたちの邪魔はしないし、空気を乱すこともない。すぐにここを卒業して、さっさと消えてやるわ。空気のように扱ってくれて構わないの。興味を持ってくれなくて結構なの。関わりを持ってくれなくて結構なの。だからもう……構わないで」


 そこまで言うと、弘緒はさっさと女子トイレの中に入って一番奥の個室の鍵を閉めた。


「だからって……だからってそうやって便所で飯食ったって、絶対うまくねーぞ!」


 入り口の方から金髪の声が聞こえたが、弘緒はもうその声に反応することなく手の中に納められたパンを見た。

細切れのパンは手のひらの上で使い古されたスポンジのように力なく潰れきっていた。それに何の感慨も持つことなく、弘緒は相変わらず光の宿らぬ瞳のまま、黙々とパンを口に運んでいった。



  ※ ※ ※



 四限目が終了すると、弘緒は一目散に教室の外へと飛び出し校舎を離れた。

 周りの音を一切遮断するためにイヤホンを耳につける。本当は視覚すらも塞ぎきってしまいたかった。誰の視線もどんな光景も今の自分には必要ない。

 だが、時々そんな乾ききった心が無性に耐え難くなる。人の温もりを無性に感じたくなるときがある。


 でも、そんなものは肉親以外にいらない。

 弘緒はそう思いながら早足で帰路を歩く。

 ちょうど今日も、そんな空しさで弘緒の心はいっぱいだった。

 急いで、温もりが欲しかった。



  ※ ※ ※



 はやる気持ちの中、あっという間に実家へとたどり着いた。

ようやく温もりを感じられる場所まで帰ってきたのだ。そう思って玄関のドアを開けようとすると、ちょうど入れ替わりで母親が飛び出してきた。


「あら、弘緒」


 香水の臭いにしかめ面をして弘緒は言った。


「……今日ってお仕事だったっけ?」


 なるべく何気ないふりを装いながらそう声に出す。

 本当はいちいち尋ねるまでもなくわかっていることだった。だから早く帰ってきたのに。

 それなのに……一体どこへ?


「ううん、本当は休みだったんだけどシフトの子が急に出られなくなっちゃってさ。ご飯どうする――って、学校で食べてきたのよね。そういえば。何食べたの?」

「……いろいろ」


 とは言ってみるが、実際のところは菓子パン以外ろくに食べていない。


「そう……。あんまり無理しないようにね」

「……うん」


 心配をかけないようにと、弘緒は努めて明るく微笑んだ。

 微笑んだ、はずだ。

 無理を言ってはいけない。これ以上の迷惑は、かけられないのだ。


 母親を見送った後で、弘緒は玄関を上がるとそのまままっすぐ自室へと向かった。

 途中祖母と祖父の部屋を横切ったが、既に電気は消えている。今日はもう温もりが得られないと悟った弘緒はその表情に暗い影を落としながらそっと自室のドアを閉めた。

 部屋に入ってすぐに、弘緒は自分の頬にそっと触れた。

 ぎちぎちに固まって突っ張っている。母親にはしっかりと良い笑顔を見せられただろうか。今更そう思い返してみてもいまいち自信がわかなかった。これでも前よりは大分ほぐれた気がするのだが。

 不安が押し寄せる前に弘緒はベッドの上に倒れ込んだ。何も考えたくない、そう思っていても余計なことはどんどん頭の中で膨らんでくる。


 最初に浮かんだのは、これから通う高校のことだった

 自分のことをずっと心配してくれていた母親のためにも再び高校に行く決心を決めたのは二ヶ月ほど前。夜間高校ならば変に構ってくる人間はいないだろうと思ったし、これからの将来のことを思うと、やはり高校くらいは出ていないといけないだろうなという漠然とした動機もそれを後押しした。


 ……でも結局、どこだろうと一緒なのかもしれない。

 あの金髪だってこちらが気を許したらすぐに自分を欺き、傷つけるに違いない。

 そうした負の感情が、ますます自分を縛っていくことに弘緒はとっくに気付いていた。

 でも止められない。


 それくらい彼女の傷は深く、化膿していたのだった。


「もう……もうたくさんなのよ……」


 気を張りすぎていたのか、急にどっと疲れが全身を襲い始める。

 そうだ、お風呂に入らないと。明日は朝一でバイトがあるのだ。そう思ったが、一度倒れ込んだ身体はなかなか簡単には動いてくれなかった。

「一人で……平気なん、だから」

 それはまるで自分に言い聞かせているみたいだった。



 少しでもその言葉を口にすることで催眠効果を期待しながら、弘緒は深い深い眠りの中へと落ちていった。






※ここまでの日付まとめ


・弘緒

 十二月一日、四月九日、四月二十三日、十月三日


・悟司

 9月27日、9月28日、9月29日、10月1日

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