第四十章『千佐都と小倉』
それからはしばらく雨の日が続いた。
月子と話した数日後、悟司は次の定期ライブでやる曲目を与那城達へと告げるために軽音部へと顔を出した。曲目自体は以前とそれほど変わりもしなかったので、いつもの調子ですぐに話を打ち切って、そのまま練習に入るとばかり思っていたのだが――
「え……三睦ちゃん、軽音入ったの?」
部室に入った瞬間、物々しい形のベースを担いだ三睦を見て悟司は驚きながらそんな言葉をこぼした。
「もう何度か顔合わせしてますよ。ていっても、一緒に練習に入るのは今日が初めてですけど」
「一応譜面だけ渡して練習だけしてきてとは言ったんスよ。あ、譜面は自分の自作ッス!」
与那城の後にそう告げた阿古屋の発言にもびっくりだったが、悟司は三睦に振り返りながらその姿を呆然と眺めて思った。
当たり前の話だが春日よりも身長は低いものの、女性としてはかなり高い身長の三睦はそれだけでも十分なくらいにステージ映えする威圧感があった。自分よりも高いのではないかと思いながら、そんな彼女の姿を見つめていると、
「あ、あんま見んなや」
と三睦はぷいっと照れくさそうに顔を背けてしまった。
「ご、ごめん」
つい反射的に謝る悟司を見ながら、与那城はふふんと鼻を伸ばし気味にギターを担いでみせる。
「ま。自分で言うのもなんですけど、ベースの技術はあまり気にしてないんで、とりあえず一回三睦ちゃんも合わせてみようか。なーに、一応春日先輩の作ったベースラインはそれほど難しいわけじゃないんですぐに弾けるって」
「ほとんど練習しない人が、何を言ってんスか……」
阿古屋が呆れ顔で与那城を見つめると、与那城は一瞬ぎくりとしながらも努めて明るく笑い飛ばしながら言った。
「まぁまぁ! まだライブまでたっぷり一ヶ月あるんだし、俺もそうだけど三睦ちゃんも練習の機会いっぱいあるし。んじゃ先輩。久しぶりにいっちょやってみますか」
そうして始まった一曲目の「翼道」を、全員で合わせて演奏してみる。
アウトロの一番最後、阿古屋が最後のドラムで鮮やかに決めた瞬間、誰もが一斉に三睦の方を凝視した。
「み、三睦ちゃん……え。ちょっと待って。え?」
与那城がぽかんとしながら、三睦に何度も首を振ってみせて、それでも納得のいかない表情のまま呟いてみせる。
「せ、先輩より……春日先輩よりも、うまくないすか?」
「そんなわけあるか」
仏頂面で三睦が与那城を睨みつける。
「いや、でも成司くんの言うとおりッスよ。ドラムのテンポ通りに合わせるのめっちゃ上手いっス。自分、結構ハシり気味になりがちなのに」
「悟司さん、どう思いました?」
振り返り尋ねる与那城に、悟司は頭を掻きながら、
「あー……うん。その、正直この前に頼んだ池田くんよりも上手い、かも」
と、あえて三睦自身が比較出来ない人間の名前を出してその場をどうにか誤魔化した。
正直な感想で言うと、本当に三睦は上手かった。おそらく技術的なところでいうと春日よりも遙かに上手い。春日は丁寧にテンポ通りに合わせて弾く、やや神経質で完璧すぎる機械的な弾き方だったのだが、三睦はどちらかというとそれとは真逆。テンポにおけるアクセントの部分を無意識か意図的なのかは、少しのズレを生じさせているのである。
「もう一曲やってみよう。今度は少し遅いテンポのヤツ」
そうして悟司が次の「Umbilical Cord Community」の曲名を全員に告げて、再び演奏を合わせてみることにした。
結果は――三睦の演奏における微かなズレは、無意識ではなく意図的なものだった。
先ほどの「翼道」ではそのテンポの速さから、実は阿古屋が言うテンポ通りよりも若干三睦自身の演奏もハシっていたのだった。それはほとんどコンマ数秒のものでしかなかったが、確実にそうだと言い切れる。
逆に今演奏した「Umbilical Cord Community」は本来のテンポよりもややモタる弾き方をしていた。実際のテンポよりもコンマ数秒遅れて弾いているのである。
音楽におけるテンポは実際の拍、つまり一小節における拍数が割りきれるように出来ており、その拍に合わせて弾くのが正しいリズムなのだが、彼女の場合はそのさらに細かい部分、割り切れない位置で弾いているのである。
ではなぜそのズレが阿古屋にとってはテンポ通りに聞こえるかというと、ここが音楽の面白いところでもあるのだが、実際の楽譜通りのリズムで弾くよりもそのズレが生まれる演奏の方が人間の耳にはノリが良く感じられるのである。
一般的に「グルーブ」と言われるこの演奏は、機械的に確実にそのリズムの拍で弾く春日のような演奏よりも、ずっと身体に訴えるものが強い。本能的に心が高揚して、聴いてる側は自然と音のノリに釣られてしまう効果があるのだ。
日々DTMで曲作りをしている悟司には、この「グルーブ」を生み出すのにいつも苦戦していた。ポチポチと音符をマウスでクリックしていては絶対に作り出せるものじゃなく、極論的には実際の演奏が必ず必要となってくるのだ。ベースやギターの音は楽器があるのでどうにかなるのだが、ドラムやそれ以外にいれる楽器はシンセでじゃなきゃ作れない。それらに無理矢理グルーブを生み出すのは至難の業だった。
しかしそれでも、彼女のベースは悟司が考えて作る「グルーブ」よりもずっと上手い。
「すごいよ、三睦ちゃん」
悟司は本心でそう告げた。すると三睦はまたしてもぷいっと顔を背けて、
「そ、そんなでもないしょや……」
とそのまま恥ずかしそうに俯いてしまうのだった。
***
「千佐都」
「ふぇ?」
間抜けな声を上げながら振りかえると、呼びかけた松前、弘緒、井上、小倉の四人がじっとこちらを見ていた。
「バカみたいな声出してんじゃないの。今日からさっそく撮影を始めるんだから」
「あ。うん……」
「それにしても遅いなぁ鴨志田さん」
鴨志田、という言葉に一瞬目を大きく見開いて固まるも、千佐都はその事を誰にも悟られぬようにそっと顔を背けた。
「寝坊してんですよきっと」
弘緒はそう言いながら、手に持つ家庭用カメラの調整を始めた。松前が自身の家にあったものを持ってきたらしいのだが、型落ちにせよまだ比較的新しいそれは円滑に動画を処理するには十分なものであった。
「三脚がないと、絵が安定しませんけど」
弘緒が顔を上げながらそう松前に告げると、松前はわかっていると言った風に、
「一応そのことも鴨志田さんには言ったのね。だから、きっと持ってきてくれる――って、きたきた。こっちですよー」
松前が手を振った瞬間「おー」といつもの鴨志田の声が遠くから聞こえた。一瞬どきりとしながらも努めて平静を装うように振りかえると、鴨志田はコンパクトに畳まれた三脚らしきものを担いで談話室の方へとやってくる。
「わり。寝てたわ」
「知ってましたけど?」
「お? 弘緒はなんでもお見通しなんだな」
そう言ってがしがしと頭を撫でつける鴨志田に弘緒は「やめてくださいよ!」と声を荒げる。そんな光景をぼうっと眺めていた千佐都に鴨志田は気付くと、
「よ。元気してたか?」
「……おかげさまで」
そう手を上げた鴨志田に対し、千佐都はぶっきらぼうにそう答えた。これ以上の会話をしたくないと思った千佐都はすぐさま松前に振りかえると、
「どうでもいいけど、ホントに今日から撮影するわけ?」
「するよ。なんで?」
「外見りゃわかんでしょーが」
そう言って親指を向けた窓の向こうでは、今も雨がしとしとと降り続いていた。
「こんな天気の中で何をどうしようってのさ。あたしの書いた脚本はこんなの想定してなかったから、どこのシーンでも無理が出てくるんだけど」
「でもさすがに今日から少しずつ撮っていかないと、学祭までには間に合わないんだよね」
「さっそく脚本をいじるってこと?」
「ダメかな?」
松前はぱちんと手を合わせて千佐都に頭を下げる。別に腹が立っているというわけではなかったのだけれど、不思議と今の自分の顔はそのように映っているのだろうな。そう思うとなんだか松前のこの下手な態度が申し訳なく思えてしまう。
「差し出がましいようですけど――」
そんな二人の間を割って入るように、弘緒が自らのスマホを取り出した。
「日を改めるとしても、予報では今週一週間はずっと雨です。どちらにせよ日もあまりないので、どこかで必ず脚本は変更せざるを得なくなってきそうな気がするんですよね」
「まぁ……別にあたしも、書き直すことに抵抗はないんだけどさ」
一応そう告げるも、へそを曲げているように取られてしまっているかもしれない。
本当に嫌なタイミングで鴨志田とあんな話をしたものだと思いながら、もはや気を使うのもバカらしくなって盛大な溜息を漏らしながら千佐都は言った。
「いいよ。書き直す。すぐには無理だから、昼過ぎくらいまでにある程度までは仕上げてみせる」
「ごめんね、千佐都」
謝罪の言葉を告げる松前に、千佐都は曖昧な頷き方をして脚本を受け取った。どうせ今日は出席が危ない講義もない。とっとと家に戻ってパソコンで変更してこようと思っていると、
「――あれー? みんな揃ってるんですか」
そんな声がいきなり聞こえて、その場にいた全員が談話室の入り口を振りかえった。そこには与那城と阿古屋と三睦に――悟司もいた。
「ありゃ。軽音も今日は練習だったんかい?」
松前が与那城に言うと、与那城は持っていた缶ジュースから口を離して、
「ちょうどさっき、全員で三睦ちゃんとの初顔合わせだったんすよ。悟司さん、しばらく東京行ってて一緒にやることなかったんで――って、あれ?」
与那城の言葉に合わせて、千佐都も悟司の方に視線を合わせると、悟司は鴨志田の顔をじっと見つめたまま立ち止まっていた。その目は明らかに敵意を剥き出しにした表情で、これほどまでにわかりやすい態度もないと思う。
当然のようにその場にいた他のみんなもそのことに気付いたようで、談話室内は一種の緊張状態のような空気に包まれてしまった。
その時であった。
三睦はふらふらと小倉の前に近付くと、
「なぁ、告白したってホントか?」
と、目の前の本人に向かって盛大にそうぶっちゃけだした。
その言葉を聞いた千佐都はおろか、悟司や鴨志田も、松前以外のその場にいた全員が思わずあんぐりと口を大きく開け放ったのは言うまでも無い。
* * *
大体この手の沈黙というものは、一瞬でも相当長く感じられる。
こういう状況に陥ると、漫画や何かで当たり前のようにそう表現されるが、実際に体感することはなかなかないよなと、千佐都はそんな風に思う。
だから今このようにその場になってわかることがある。厳密には、そういう状況に陥ってからあらためて思い出される感覚があるということだ。
それはつまり――この上なく空気が重いということだ。
「それ――」
小倉が眼鏡を押し上げてぼそりと呟き、そんな彼のゆっくりとした口の開き方に誰もが時間を取り戻したかのようにはっとする。
「――誰から聞いたんだい?」
「井上だ」
即答で答える三睦に対し、当事者として予期せず名前が挙がってしまった井上に全員の視線が集まる。
「あ。あわ。あわわわ……」
井上は顔を真っ赤にしながら、完全にテンパった様子で両手をわたわたさせると、
「ご、ごめんなさい! ごめんなさいごめんなさいごめん……なさ……あひぃ……」
とそのまま念仏のように、ぶつぶつと言いながらその場にへたり込んでしまった。慌てて弘緒がそんな彼女の身体を支えて、
「その……気絶……しちゃった、みたい。あまりのショックで」
と、こちらを振り返りながら静かに呟く。
「なぁ。ホントなのか――ってむぐぐっ!」
「まぁこいつの言うことはこの際、全部聞かなかったことに――」
相も変わらず詰問しようとする三睦の口を鴨志田が強引に塞いで、小倉にそう告げるも、
「――は出来んわなぁ。やっぱ」
とすぐに自分の言った言葉を否定してみせた。誰の目から見ても小倉が明らかにそういう態度ではなかった。
千佐都の目から見るに、小倉の様子はどうにも形容しがたいものがあった。皆にバレたからといって怒っているようでもなければ狼狽えている様子もない。およそ常人が取るべきリアクションのようなものが、彼の場合においてはまったくと言って良いほどなかった。
あの鴨志田ですら、小倉のそのような態度にいささか困惑しているように思えた。もちろんこのように三睦が本人に向かって暴露するなど思っても見なかったからなのだが、それ以上に小倉自身がそれを受けて何のリアクションも取らなかったことが、一番困惑の原因になっていると思える。
「……そうか」
そんな風に思っていると、小倉が軽く息をついて顔を上げた。
「まぁ、しょうがないよね。いずれは知られることだったわけだし」
「あの、一体何の話なの? 告白?」
そこで、ようやく何の事情も聞かされていない松前がゆっくりと辺りを見回しながらそう尋ねた。小倉はそんな松前の顔を見つめると、
「そうか。松前さん“だけ”は知らなかったんだね」
と、かろうじて、聞けばわかる程度に「だけ」の部分を強調するようそう告げた。それだけで、松前以外の全員が一斉に身体を強張らせる。
今のニュアンスは意図的に三睦や井上だけを責めるような状況を作り上げにくくしたのだと千佐都は気付いた。誰が悪いとか、そういう諍いをあえて作らせないように。
言い換えれば「全員が悪い」と、今の一言だけでそんな風に受け取ることも出来た。考えすぎかもしれないけれど、小倉という人物に対してはそのくらいがちょうど良いと千佐都は思った。
「ねぇ、全然話が見えないんだけど。誰でも良いから教えてくれると――」
「いいよ。ボクが話す」
そう言って、小倉はその場にいる全員の目を見つめる。
「ボクは、月子が好きだ」
はっきりと。
正直に。
それでいて、実に誠実な態度のまま小倉はそう言い切った。恥ずかしがるような顔も見せずに、当たり前であるかのように清々しく、堂々とした口調で。
「先日、告白したんだ。きっと井上さんにはそれを聞かれていたんだと思う」
「……井上じゃねぇんだよ」
急に鴨志田が手を上げる。
「オレだ。オレが、最初にコイツら全員にバラしたんだ。井上は何も悪くねぇから。オレだけがあのときあの告白を聞いて、それでテンションが上がっちまって井上達に喋っちまったんだ」
「そうだったのか」
小倉は特に気にもしてない様子でそう告げる。それもそうであろう。その言葉に意味を持ったのは小倉ではなくむしろその場にいた人間達なのだから。
千佐都だけじゃなく、その場にいた皆も当然気がついたはずだった。
今の発言は、『鴨志田が井上を庇って』そう言ったのだと。
――もし小倉が怒っているようだったら、そのことで責められるのはオレであるべきだ。
言葉にしなくても、そう言っているように誰もが聞こえてしまった。当の井上自身は気絶しているけれども、小倉の告白の事実を知った人間ならば誰もがそう思う。
そして、そのような鴨志田の発言に一番混乱していたのは悟司であった。先ほどまであれだけ鴨志田に対して敵意を剥き出しにしていたのに、まるで毒気が抜けたかのような顔つきでその場に立ち尽くしていた。
――悟司は、これまで一体どのように鴨志田のことを考えていたのか?
その詳細は千佐都にはわからなかった。だから今の発言を受けて、彼自身の中でどのように評価が変わっていくのかも、今の千佐都自身には想像が出来なかった。
ただ言えることがあるとすれば、人は一度そうと結論付けてしまった他人への評価を、そんな簡単に覆すことなど出来ない。
だから悟司は、それまで自身が思っていた評価と全く違う姿を見せられて葛藤している。それだけは千佐都にも十分想像が出来る範疇であった。きっと、彼は今の鴨志田の姿を見て、それまで自分が思っていた姿の彼とのギャップに戸惑っているのだ。
同時に、悟司は小倉に対してもかなりの衝撃を受けているようだった。
悟司はおそらく小倉のように“こんなにまでも堂々と人前で、好きな相手を公表することなど出来な”かった。以前に飲み会で好きな人はいるのか、という鴨志田からの問いかけに思わずぶっちゃけてしまった、あのままの反応が悟司に出来る限界だったのだから。
そのように二つの見解がいっぺんにやってきて、悟司は身動きが出来ずにいた。はっきりいって相当なストレスが精神に来ていると思う。そんな彼の内情を推し量って、千佐都はすっと悟司の前に近寄ろうとした。
「悟司クン」
だが、それを制するように小倉が口を開く。千佐都はそんな小倉の一言で、ぴたりと足を止めてしまった。
「……え?」
悟司は夢から醒めたような顔つきで小倉に向かって顔を上げる。
「そういうことなんだ。黙って行動したことについて謝罪はしない。まして、キミがいない間のことであったということもね」
そう言って小倉はすっと悟司の横を横切っていく。
「千佐都クン、脚本が完成したら連絡頼むよ。ボクは今から向かう所があるから」
「向かう所?」
「学生会室にちょっとね」
千佐都の言葉にそう告げて、小倉は行ってしまった。取り残されてしまった皆はしばらく小倉の作り出した空気に支配されきっていたが、やがて徐々に身体の力が抜けるように各々適当な所に座り込んで喋り始める。
「お、小倉先輩ってなんか言い様のないオーラ作るね。スズちゃん」
「じ、自分も初めてっスよ。あんな先輩見るの」
「ぷっは! おいバイキン! いつまで口を押さえているんさっ! ばかっ」
「おいドチビ。お前、この状況全く理解してねーべ?」
「弘緒ちゃんも知ってたの? 今の話」
「ええ。というより、松前さんだけですね。この場で知らなかったのは」
そのようにがやがやとやかましくなってきた談話室内で、千佐都はようやく止めていた足を動かして悟司の元へと向かった。
「――悟司」
そう名前を呼ぶも、なんて声をかければいいのかわからなかった。どういう風に励ませばいいのかも見当すらつかなかった。
やがて、悟司は静かにぽつりと、
「……俺には出来なかった」
誰に聞こえるわけでもなくそう告げる。
「あんな風に……なれない。なれそうもない……」
そしてそんな悟司に向かってかける言葉も、今の千佐都には見当たらない。
ただ今は、悟司のそんな言葉を聞くことしか出来ることが何もなかったのだった。
***
「あ。小倉くん」
学生会室に向かう途中でそう呼び止められて振りかえると、広井優里――別名リンゴちゃん――がこちらに向かって軽く手を振っていた。
彼女は確か月子と同じ学年の福祉学科だったなと思いながら、小倉もまた足を止めて彼女の方に向き直る。
「ねぇ小倉くん。月子ちゃん今日は休みかな?」
「いや。知らないけど。学校に来てないのかい」
「うん。昨日、借りていた漫画を返すよって言って持ってきてたんだけど」
そんなリンゴちゃんの手には紙袋が握られており、中には十冊ほどの少女漫画が収められていた。小倉はそれを一度見つめてから、再びリンゴちゃんに向かって顔を上げる。
「連絡つかないの? メールとか」
「うん全然。今日一緒の介護実習があって、来てなきゃおかしいんだけど」
「わかった」
そう言って小倉はリンゴちゃんに手を差し出して漫画本を受け取った。
「すぐに様子見に行ってみるよ」
「ありがと。よろしくお願いしますね」
ぱたぱたと足音を鳴らして去っていくリンゴちゃんを見届けながら、小倉は学生会室へ行く足取りを変更して大学を出ることにした。
途中で試しに電話をかけてみるも、月子は全く出る様子がなかった。数度かけ直して、留守電に切り替わる度に電話を切る。
そうして一度談話室から出てきた際に通り過ぎた大学の玄関口の方に向かう途中で、小倉は学生センターの中にいる薬袋の姿が目に入った。
薬袋もまたすぐに小倉に気がついたようで、事務員であり軽音部の暫定顧問でもある平野との会話を打ち切ると、やや足早な調子でこちらにやってきた。
「もうご帰宅かしら? まだ午前中だけど」
「そういうわけじゃないんだけど」
そうして薬袋がちらりと小倉の手に持っている紙袋に目が止まった。
「それは……鷲里さんの?」
「そう。学校に来てないみたいでね。頼まれモノを届けに行くんだ」
そう言って一度小倉はちらりと平野の方へ目をやってから、再び薬袋へと視線を戻す。
「なんの話をしてたんだい?」
「別にたいした話じゃないわよ。軽音部の定期ライブの件で少しね」
「定期ライブ?」
ふと小倉は以前に薬袋の使っていたパソコンの動画サイトのことを思い出した。どうしていきなりそのことが頭に浮かんだかわからなかったが、薬袋はそんな小倉の顔を見ながら、
「ねぇ小倉クン。もしもだけど。もしこのまま少子化が続いていくことで、いずれこの大学の生徒数が減っていけばどうなると思う?」
「どうなるって、潰れるしかないじゃないか」
「そうね」
薬袋はくすりと笑う。
「きっと首都圏以外のランクが低い大学は、どこも人員確保に躍起になってるわ。ウチの未開大も今や入学試験なんてザルみたいな状態よ」
「潰れるのかい? この大学が」
「そうは言ってないでしょ。ただいずれそうなってもおかしくはないという話」
薬袋はすっと小倉の元から離れると、そのままエレベーターの方に向かって歩き出した。
「知ってるかしら――と言っても、当たり前の話なのだけれど。実は今の未開大は既に学生人数を大きく割っているわ。学生比率は道内からの生徒数が九割。十年前に比べて地方からの生徒が激減しているのよ」
だから、と薬袋はエレベーターのボタンを押しながら告げる。
「いずれ、必ずそうなるのよ。その為に今できる事と言えば、道外の人間にも広く大学の存在をアピールすることが重要なの。所詮、未開大ラジオは道内に向けてのアピールにしかならない。おまけに、この大学には明確なアピールポイントがない。学業での功績を残せるようなものが何一つないのよ。キツい言い方だけれど、この大学は個性がない」
扉が開いて薬袋はエレベーターの中に入ると、それまで浮かべていた薄ら笑いの表情が一変して真面目な顔つきになって小倉を見つめていた。
「だからやれるだけのことはやる。たとえどれだけ誰かに憎まれようがね」
「それが――」
小倉が口を開く。
「それが――今までずっとキミの抱えていたものなのかい?」
答える前に薬袋の姿が扉に隠される。その間際で静かに微笑んだ彼女の姿を見て、小倉は即座にその場を後には出来なかった。
なんて、苦しそうな笑顔だったのだろう。
そう思ってしまったから。
* * *
月子の家にやってくると、小倉はインターフォンに向かって伸ばした指をぴたりと止めた。
雨はまだ降り続いている。それどころか、どんどんとその勢いを強めている気がした。雨音だけしか聞こえないその場で、小倉はぐっと唾を飲み込んでからふたたびゆっくりと静止させていた指を動かし始めた。
――ピンポーン。
ざぁざぁとしか聞こえなかったその場に、そのようなひどく無機質でつまらない音が響き渡る。
空気が読めていないのかもしれない。一瞬だけそう思って、でもそのような馬鹿げた思いを脳内でかき消しながら静かに月子からの反応を待った。
一分ほど待っても、そのインターフォンのマイクから月子の声はやってこなかった。
小倉はドアノブを掴んでゆっくりと回してみる。鍵はかかっていない。
「――月子?」
ドアをわずかに開けてそっと声をかけてみた。返事はない。
扉の奥に広がっているのはいつもの月子の部屋の廊下があった。薄暗くて、どこかじめじめとした空気が部屋の中を充満しているようにも思える。
このままこのドアを閉めて帰るのも一つの手段で、小倉自身もドアノブを掴みながら、もしかしたら本当にそうした方がいいかもしれないなんて思い始めていた。
いくら幼なじみだからといっても、干渉していい部分とそうでない部分の境界線があるような気がする――いつもならそんなこともいちいち気にかけたりしないはずなのに、なぜか今になって小倉には月子に対してそのような気持ちが襲ってきた。
――遠慮している。
一体何に向けてそうしているのかがわからず、もどかしさだけが募り出す。
そのもどかしさの原因もわからないことがするりと次の行動に出ることになった。小倉はぐいとドアノブを引くと、ほとんど思考停止状態のまま月子の部屋の中へと押し入った。
「入るよ」
返事がやって来ないことを、半ば見越していたようにそう言い捨てて靴を脱ぐ。月子は寝ているのだろうかと思いながらゆっくりと部屋に続く廊下を進んでいく。
寝ているのであれば、リンゴちゃんから渡されていた漫画だけを置いてすぐに退散しよう。
そう思いながら、小倉はゆっくりとワンルームに続く部屋のドアを開いた。
月子はベッドの上で、こちらに背を向けるように横になっていた。
いくらこのような田舎だからといって、不用心にも程があった。そんな彼女に少しだけ腹を立てながらも小倉はそっと漫画本の入った紙袋を床に置こうとした。
「……庄ちゃん?」
こちらを振り向くことなく、月子はそんな風にかすれた声を発した。喉がやられているのか、まるで別人のようにがらがらの声だ。
「起きてたんだ」
小倉は屈んだ身体を起こして月子の方を見る。
「鍵がかかってなかったから、勝手に入ってきちゃった。ボクはこのまま帰るから、その後できちんと鍵を閉めておくんだよ」
そう言ってそのまま月子の部屋を後にしようとした。実際にはこの場にやってくるまでの間、もっと色々と世話を焼こうと思っていたのに、不思議なほどそうした言葉がまるで出てこなかった。欲しいものがあれば買ってこようと思っていたし、お腹が空いているようならお粥でも作り置いて上げようかとも思っていた。
でもなぜか彼女の声を聞いただけで、そうした一切の気遣いが全て邪魔になってしまうんじゃないかと思い直した。これ以上はここにいてはいけない。そうした焦りが生まれて小倉はとっとと玄関の方に向かおうとした。
「――あのね、庄ちゃん……」
歩みを止める。
「ウチね……勘違いしてたのかもしれないなぁーって……」
ゆっくりと振り返って月子を見るも、彼女は小倉に向かってずっと背を向けたまま。
「ずっと……ずっとね、勘違いをしてたんじゃないかって思って……。ウチはあんまり頭が良くないから、ずっとそのことに気づかなくて――ううん。たぶんウチは心のどこかでは気づいてたのかもしれないなぁって……」
「一体、なんの話を――」
「なんでわからなかったんだろう……どうして一緒に道を歩んでいるんだろうだなんて思ってたんだろう……? ウチは…………ウチは――」
月子のがらがらの声に、静かな嗚咽が伴った。
「ウチは――なにがしたかったんだろう……って……っ」
そうして鼻をすすりながら、ぎゅっとベッドの上で丸まる。
「ぜんぶぜんぶ……勘違いだったんだって……ッ。そう気付いてからすごくおかしいの。それまで当たり前にやっていたことが急に虚しく思えてきちゃって……それまで当たり前に想っていたことが……ぜんぶぜんぶ虚しく想えてきちゃって……ッ!」
「月子」
「ウチは……本当にバカなんだなって……思ってさ……っ」
ほとんど無意識のまま、小倉は彼女の寝転がっているベッドに近付くと、彼女の身体をぐいっとこちらに向けさせた。
月子は赤く火照った表情をびっちょりと涙で濡らしていた。そうしてその表情をくしゃりと歪めさせながら、
「……ホントに、バカなんだよ……“わたし”は」
そう言って後は涙で言葉を紡げないまま、両手を顔の半分を覆い隠して静かに泣き続けた。その悲痛な表情が、小倉の胸をたまらなくしめつける。
「悟司くんに……何か言われたのかい?」
返事はない。月子は声を押し殺すよう泣きながら肩を掴んだ小倉の手をどけると、そのまま先ほどと同じ体勢で横向きに転がった。
そうしてほどなくしてから首を振ると、
「……き……“気付いちゃって”……本当に、それだけで――」
「……そう」
小倉はもうそれだけしか言えなかった。
* * *
「――悟司」
談話室には、現在悟司と千佐都しか残っていなかった。小倉が居なくなった後、他の皆は講義やら別の用事で全員出払ってしまい、残された千佐都は談話室の小さなテーブルに脚本用のノートを広げながら、
「やっぱ、あんたって入学時からなーんにも変わってないわさ」
悟司の方も見ずにぽつりとそう告げた。鴨志田が置いて行った三脚を見つめ、それから千佐都は外でぱらついている雨の方を向く。
「最初に会ったときから同じ。ずーっと自分に自信がないの」
脚本の修正をしたくて残ったもののどうにも手がつかないまま、そのような言葉を溜息と共に吐き出すよう口にする。
もちろんその理由ははっきりとしている。
悟司が落ち込んでいるからだった。
わざわざ表情を伺わなくてもその空気だけは千佐都にも伝わっていた。
「……自信、ないか」
小さく呟く悟司の声。
「そうかもな……」
そりゃまぁ目の前で落ち込んでいる人間がいて、それを無視したまま作業を進めるなんて出来やしないけれども、しかしいくらなんでもこの落ち込みっぷりはひどいと千佐都は思う。落ち込むのは勝手だけれども、周りを巻き込まないで欲しい。
「今更ながら気付いちゃったけどあんたって一見コミュ障が治ったように見えて、その実、全然治ってないんだ。昔よりもどもり癖がなくなったってだけで、根本はコミュ障のまま」
「……」
「小倉クンにビビってんの?」
「…………」
「無言、ね。そういうトコが本当に変わってないっつーか――」
頭を掻いてようやく悟司の方に向き直ったところで、思わず千佐都はぎょっとする。
「千佐都こそ……。千佐都の方こそ、昔のままじゃないか」
悟司は下から睨みつけるように千佐都を見つめていた。
「そうやってなんでも言いたいことばっかズケズケ言って……相手の気持ちとかなんにも考えないで喋るとこ……。一体どっちがコミュ障だよって話だ」
「……あ、あんたねぇ~」
イラッとしながらノートを閉じる。
「ここでコミュ障の定義とかどーでもいいのっ! うじうじジメジメといつまでもみっともないからあたしはこーやって言ってんのさ! あんたこそそうやってあたしの目の前で落ち込んで。ちょっとは相手の気持ちとか考えた事あるわけ!?」
「もういい」
そこまで言うと悟司は立ち上がって、そのまま談話室を出て行こうとする。
「ちょ、ちょっと待ちんさいよ! まだ話は――」
「千佐都とはわかりあえないんだから――だから、これ以上はもういい」
なんてことだろうか。千佐都は思わずあんぐりと口を開けてその場に固まってしまった。
よりにもよって、ここで捨て台詞である。
さんざ人の前でたっぷり落ち込んでおいて、それをやんわりと忠告してやったら捨て台詞を吐きながら去っていこうとするとは。まったくなんてヤツだろうか。
「あーそうですかっ! さいならっ!」
そんな態度で出られちゃ、こちらとしても引き留める気もない。千佐都はふくれっ面のまま机の方に向き直ると、ノート一ページに丸々『ばーか!!』と書き殴ってその場に突っ伏した。
「あの、ばかたれが……」
そうして両腕に埋めた顔を少しだけ動かして、窓の外を見つめる。
降りしきる雨は徐々に強さを増しているようだった。いくらなんでもこれではさすがに撮影も延期せざるを得ないだろう。撮影開始日のデッドラインはとっくに越えてしまっているが、致し方のない事態である。
千佐都はノートを開き、自らの脚本をぼんやりと眺めながら、
『ぬぉっ!? き、貴様はジンギリバーっ!?』
『怪人ハスカップ! これ以上の悪行はこのジンギリバーが許さんっ!!』
『(ジンギリバー、怪人ハスカップに近付き、両手を組み合う)』
『ぐぎぎ……っ、な、なんてパワーだっ』
『うおおおおっっ!』
『(二人、組み合った手を離し、ジンギリバーがボディにキックを放つ。ジンギリバー、よろめくハスカップの前でポーズを決め)』
『行くぞっ! 必殺○○○!(※名前不明。商業観光課に問い合わせ)』
「――才能……ないなぁ」
そこまで読み終えたあとでそう呟き、そのままぱらぱらと最後のページまでめくってから再び千佐都は机に突っ伏したのであった。
***
一週間が過ぎた。
弘緒の言うとおり雨だらけだったこの一週間。松前を筆頭とする映画班はいきなり難易度の高そうな雨の中の撮影を断行することとなった。
千佐都はあくまでカメラのレンズを濡らさないようにすればいいだけだとたかをくくっていたのが、それは当然のごとく大きな間違いで――
「ねぇ……なんか映像暗くない?」
隣に座っていた松前が、突然そんなことを口にしながらにわかに眉をひそめた。
現在、鴨志田の家には四人の人間がテレビの前に鎮座していた。脚本の千佐都、監督の松前、それに撮影班の弘緒と家主の鴨志田。撮影班である弘緒が撮ったモノを、実際に検証しようと言い出した松前の声によって集まった四人だった。
しかし、確かに松前の言うとおり想定していたよりも絵が暗い。これじゃ何をやっているかまるでわからないではないか。
「どうすんの、これ?」
千佐都が尋ねると、松前があーっと叫びながらがしがし頭をかきむしる。
「撮り直すっきゃないよねこれ」
「……は?」
予想外でもなかったが、それでも千佐都は松前の方を振り返る。
「ちょ、ちょい待ち。てーことは、また雨の中を撮影すんの? 今週は雨の日ないけど?」
「次の雨天はしばらく未定ですね。夏が近付いてます」
弘緒が抑揚のない声で口を挟む。
「そもそも雨の中の撮影自体が薄暗いんですから、ライトか何かでそこを改善しないとどうしようもないんですよね。実写なんて撮ったことないから私も初めて気付きました」
つまり松前の言葉をそのまま実行するとなると、またしても撮影日が延びるということになる。
「ねぇ千佐都……ほんっとーに悪いんだけど」
嫌な予感がする。
千佐都がそのまま逃げようとすると、その手を松前にがしっと掴まれ、
「脚本、書き直してくんない?」
予感は完全に的中していた。
「い・や・だ!!」
歯を見せながらきっぱりとそう告げるも、松前は千佐都に引きずられながら甘えた声を出す。
「ねぇー悪かったってばぁ。千佐都が頑張っていたことくらいわかってるんだって」
「いや、絶対わかってない。つーか、わかってるならこの手を離さんかいっ。あたしは嫌だよ。もー書きたくないんだからっ!」
あの日、昼までに書き直すと言っていた部分だけの修正では前後に矛盾が生じるということに気付いた千佐都は、これまでに書いた部分全てに大幅な修正を加えたのだった。
あの膨大な量を書くだけでも大変だったのに、その上で全編書き直し。なのにさらなる書き直しの要求とか、人の苦労をまるでわかってないとしか思えないではないか。
「そもそもあの脚本を読み直すたびに、あたしは自らの才能のなさに絶望しました!! 文章下手すぎ、台詞クサすぎ、構成グダグダ。なのに苦労だけは死ぬほどかかったってのに。んで、そうして出来上がった脚本を最初に読んだ時、樹里はあたしになんて言った!?」
「え……いやー……あれはまぁ」
「なんて言った!?」
「え、えーっと……」
樹里は頬をかきながら目を泳がせて、
「確か、『あんまり、面白くないかも』って……」
「違うね。『全然面白くないけど、もうそんなこと言ってる時間ないか』って言ったんだよ! そりゃそうだよ! あたし素人でございますわよ!? 脚本のプロでもなんでもないわけ!! そんなヤツを掴まえて『全然面白くないけど~』なんて言われたら、やる気もどーんと下がりますわっ」
「さすがにひでーな、そりゃ」
それまでぼーっと話を聞いていた鴨志田が笑いながらそんな風にこぼす。千佐都はそんな鴨志田をちらと伺いながら再び松前に視線を戻すと、
「そりゃーね、やってない人間からすりゃただ書くだけって思うかもしれんけど、たかが数十分程度の特撮用の脚本でも一から書けばひっじょーに大変なわけでございますよっ! とにかく、あたしはもー嫌だ。書きたくないっ!」
「そこをなんとか……」
両手をこすり合わせて懇願する松前。
「千佐都に甘えてた部分があったのは認めます。苦労を知らないで言いたいこと言ってたのも……だからお願いです。ここまで来て途中で投げ出したくないじゃない?」
「まだ何も始まっとらんがな」
「準備だけは万全でしょ?」
松前にわかりやすく見せるよう、はーっとわざとらしい溜息を吐いてから千佐都は少しだけ考えて口を開いた。
「正直あたしに文章の才能はない」
言いながらその場にどかっと腰を下ろし、千佐都は持ってきていたカバンから脚本用のノートを取り出してぱらぱらとめくり始める。
「加えて物語の才能もない。自覚してるの。アドレナリンって言うのかな? ぶわーっとあれこれ湧いてきて、それこそ最初はがんがん筆が進むんだよね。でも一晩経って、読み直すともうひどいひどい。とても読めたもんじゃなくて、あの日の自分の勢いってなんだったのかってなるの。それこそ軽い熱にでも浮かされてたんじゃないかなって」
誰も何も言わない。千佐都の言葉に耳を傾けながら、静止した状態のテレビから流れる微かなノイズ音だけが部屋の中に響き渡っていた。千佐都も今になってそのノイズ音が流れていることに気付く。
「――でも、楽しかった」
ノイズの音に自分の声が混じるのを、半ばためらうようにして千佐都は告げる。
「書くのって楽しい。でもすごい疲れる。なんか体力じゃなくて……人生における気力みたいなのを少しずつ削いでいるような気がする。それだけはわかってほしい……かも」
「……ごめん。ホントに」
千佐都はノートをしまって立ち上がると、そのまま玄関に向かって振り返った。
「……もうわかった。明日までに書き直すよ。頑張る」
そう言って鴨志田の部屋を後にした千佐都は、未開大のキャンパスを眺めながらアパートの階段を下りていく途中で、
「……つっきー?」
キャンパスの校門をくぐり抜ける月子の姿が目に止まり階段の途中で立ち止まった。先週一週間は一度も見かけなかったから、てっきり漫画家のアシスタントにつきっきりなのかなと思っていたのだが。
「おーい、つっ――」
そうして千佐都が月子に向かって手を振ろうとして、その手をすぐに引っ込める。
たいしたことではなかった。月子の後を追うように彼女の背後から小倉がやってきただけだった。なのに千佐都はその手を下げて、不思議と二人の動向をぼうっと眺めてしまっている。なぜだかわからないけれども、そこには違和感があった。
小倉が月子の隣に並んだ。いつもと変わらぬ日常風景だと思う。でも声をかけるのは相も変わらずためらわれた。
小倉の隣で月子はいつものような笑みとは異質の表情を彼に向けた――気がした。
そうして二人はどちらからというでもなく手を繋いで、千佐都の視界から消えていった。
二人が付き合いだしたことを千佐都が知ったのは、それから数日後のことであった。
2014/12/24、2015/1/04、2015/6/01、2015/8/09更新分




