第三十九章『月子と千佐都』
「……ふぅ」
悟司は携帯を閉じて、外の喫煙所から見える空をぼうっと見上げた。
やはり北海道に梅雨がないというのは嘘だ。六月に入った途端に、突然曇り空が目立ち始めたのは決して偶然ではないだろう。
悟司はそれから携帯へと目を落として考える。
月子の様子が普段とは違っていた。それもそうだろうと思う。自分だって正直なところでは気が気じゃなかった。
小倉が告白してきたことを、月子は自身でどう受け止めているのだろう。そんなことを考えれば考えるほど、ネガティブな感情しか出てこなかった。
幼なじみなのだ。その時点でなんだか勝ち目のない戦いをしているようにしか思えない。
でも小倉は以前、そのような感情はないと言っていた。同じようなことはきっと月子にも言えるのではないだろうか。
先ほどの通話は、そのような浮き沈みとした気分を繰り返した後でのものであった。どっちに転ぶかはわからない。でも、絶対に手放したくないと思っている。
月子のことが、本当に好きだから。
「よおー悟司」
ふっと顔をあげると、いつの間にか鴨志田が喫煙所の方にやってきていた。ちょうど講義も終わった時間だし、当然といえば当然かと思っていると、
「しっかし、講義ってあれだな。なんか眠くなるよな? 悟司もそうおもわねえ?」
「まぁ……興味のないものだとそうですよね」
「興味のないもんばっかだオレはぁ!」
声を張り上げて頭を抱える鴨志田を見ながら、悟司はふっと笑みをこぼした。この人の明るさは周りを元気にさせてくれるなと、そう思っていると、
「そういや、鷲里月子のことはあれからどうなった?」
「え? ああ。えっと……」
しどろもどろになる悟司の脇をつつきながら、鴨志田は煙草をくわえて面白そうに笑った。
「なんだぁその態度? なんか進展あったのか?」
「あ。あの……これから二人で会うって」
「おー。告白か?」
「そ、そんなこといきなり!」
「アイツはいきなりだったぞ?」
ふぅーっと空に向かって煙を吐きながらそう告げた鴨志田に、悟司は思わず言葉を呑んでしまう。
「しかも酔っ払いすぎてオレの家で吐いた後だ。なまらカッコ悪かった時に、アイツはなまらカッコ良い顔で告白したべ。オレにはあんな風にカッコ良い顔はできねーなぁ」
たまらず俯いて、悟司は思った。
鴨志田はおそらく本当にそのように思っているのだろう。実際に自分もその場に出くわしていたとしたら、きっと同じように思っていたかも知れない。
ひどい言い方になってしまうが、小倉は客観的に見ても外見が良くない。悪い意味で普通ではないというか、そもそも外見にそれほど気を使っていないことだけははっきりとわかるのだ。太っているし、一週間のうち三日くらいはジャージ姿で、あまり清潔感があるようにも思えない。実際はとてもきれい好きなのだが、そんなことは外見だけでは全く判別が出来ない。見た目で大きく損をしている人間なのだ。
だけど、それを差し引いても彼の周りには人が集まってくる。
それは、単純に内面の素晴らしさからくるものに違いないと悟司は思っていた。
そして、そのような意味で自分はどうしても彼に劣るような気がしてならなかった。
純粋な人間としての魅力が、彼よりもずっと自分の方が欠けているような気がしてしまうのであった。そう思ってしまうほどに、悟司自身は小倉のことをとても尊敬しているし、これまでも唯一無二の助言者で、よき理解者であった。
本当に、素敵な友達だ。
だから、とんでもない強敵なのだとはっきりわかる。事実、彼は今以てして自分の恋愛を一瞬にして脅かしてしまったのだから。
考え込んでいたせいですっかり黙り込んでしまった。
悟司はゆっくりと顔を上げて、鴨志田を見た。
「鴨志田さん。なんか、ありがとうございます」
「なんか、感謝されるようなこと言ったか?」
「いえ。でも……なんだか、ケツに火をつけられたような気分にはなりました」
「ははっ。そっかそっか」
その時、鴨志田は煙を吐き出しながら一瞬だけ不穏な表情で笑ったような気がした。あまりに一瞬のことで見間違いだったかと思っていると、
「なぁ悟司――」
鴨志田はそう言いながら煙草を灰皿の上でもみ消して、こちらを見る。
「――実はさ、オレも最近そんな話ばっか聞いてて、なんだか溜まっちゃってんだよなぁ」
……溜まる?
意味がわからずに首を捻ると、間髪入れずに鴨志田が続ける。
「でさ、千佐都なんだけど。あいつ最近ずっとオレの家に入り浸ってるべ? 驚輔と失恋したってのに、他の男のとこにするすると出入りしてるわけ。これってどう思う?」
「――え?」
悟司は固まってしまった。どう思う、ってなんだ? 何を言えばいいのだろうか。
一瞬、「それでも千佐都のことをよろしくお願いします」という言葉が浮かんだが、なんだそれはと自分でも馬鹿馬鹿しくなる。まるで保護者か何かのようではないか。
悟司は頭の中を混乱させながら、それでも黙って鴨志田の話に耳を傾けていた。どうやら鴨志田は、特にこちらのリアクションを待っているわけでもないようで、次々にべらべらと、あらかじめ用意されていたかのように喋り出す。
「いやさ、なんかオレも最初はなんとなしな感じで家に上げてたわけよ。でも、このところずーっとだべ? ガードが甘々っていうかさ、一応男なんだけどって感じなんだわな。まぁ信頼してくれてるのはオレも嬉しいんだけどもさ……なんか、アイツもしかして――」
もしかして?
悟司が心の中で聞き返した時だった。
「――ビッチなんじゃねーかなぁって思ってんだけど?」
鴨志田のその言葉で、悟司は無意識に心の中がざわめき始める。
もしかしたら――と思っていながら、それでもこれまで彼のことを自身も信じて疑わなかったものが、急激に失われていったような感覚に陥る。
「なぁ悟司。千佐都って思いっきり酔わしてみたら、そのままヤレんじゃねーかな? 多分だけど、きっとアイツも嫌がらねーと思うんだわな」
「……どうして?」
悟司の静かな問いに、鴨志田はへらへらと笑いながら答える。
「どうしてって、まぁきっとアイツも寂しいだろうしさ、フラれたばかりで。オレ自身も正直なとこ、アイツのこと結構気に入ってるし、もしそのまま一緒に寝てみたらなんか恋でも芽生えるんじゃねーかなって――」
「ダメに――決まってるじゃないですかっっっ!!」
気付けば、自分でも驚くほど馬鹿デカい声で叫んでいた。そのことに一瞬、自分自身でうろたえてしまう。手で口を塞いでみても、当然もう遅かった。
「……へぇ?」
鴨志田が薄ら笑いを浮かべる。
一度、自身の中で評価が急転してしまったせいか、その表情はこれまでの頼りがいのある先輩とは打って変わって憎々しい表情に映ってしまう。
鴨志田梅謹は、自分の敵だ。
今ではそう頭が認識してしまっていた。
「どうしてダメなんだ? 何も無理矢理とは言ってねーべ。互いに同意の上でヤルなら問題ないだろ」
「本当に……好きなんですかっ」
「あん?」
「千佐都のこと……傷つけたりするんじゃないんですか……っ!」
鴨志田は睨みつける悟司の顔を見ながら鼻をかく。心外だとばかりの表情だった。
「……なに言ってんだ? オレさっき言ったべ。あいつのこと結構気に入ってんだって。普通に大切に想ってんだけど?」
「だったら! いきなりそんなことじゃなくてちゃんと――」
「そんなこと? ははっ。お前一体いくつなんだよっ」
馬鹿にしたように鴨志田が笑う。
「……いやまぁ、別にイチからお手々繋いでって恋愛を馬鹿にしてるわけじゃねぇけどさ、この年にもなるとそういう手順がめんどくさいんだわな。だったらいっそ普通に気持ち良いから初めて、それからお付き合いでもわるかねーべ? オレってなにかおかしなこと言ってるか? 普通だろ。この年にもなればそんなこと、他の未開大生でもやってる」
それによ、と鴨志田は、悟司の言葉を挟ませない感じで付け加える。
「そもそもなんでお前が反対するんべ?」
「は?」
何を馬鹿なことをと思っていると、鴨志田は悟司の顔を覗き込むように言った。
「お前は鷲里月子のことが好きなんだろうに。それを、まるで自分の恋人か何かのように千佐都のことを守ろうとしてる。意味わかんねーべ。オレからしたら」
「そ、それは……」
「いちいち立場がブレすぎだろ、お前」
口ごもる悟司に向かってとどめを刺すように、鴨志田はそう言い切った。
「お前がオレのやることにケチをつける権利はねーんだよ。だって、千佐都とお前はなんでもねーんだからな。友達だって言うのならオレだって友達だろ。なぁ、わかるか悟司?」
鴨志田はそこで言葉を句切って歩き出す。
「オレもお前も、あいつにとっちゃ同じなんだよ」
はっきりと。
初めて自らの立場に気付かされたような思いだった。
しかもそれを――よりにもよって他人に気付かされるなんて。
悟司は鴨志田のいなくなった後で、ふらふらとベンチの上に座り込む。そうだ。どうして自分はそんなに千佐都のことばかり気にかけているんだ。そんな余裕などないって、さっきはあんなに必死になって小倉君のことで頭を悩ませていたのに。
ぐらついていた。頭も、心も。
何か、気付かされたような気がしないでもない。
でもそれは今の悟司には、まだわかるはずもない感情であった。
***
「――聞いてたんだな?」
鴨志田が歩みを止めて振り返ると、そこには井上が立っていた。明らかに全身が震えていて顔面も蒼白だったが、そんなことはお構いなしに鴨志田は井上に振り返って尋ねてくる。
「オレは最低な人間か?」
迷うことなく、井上は力強く頷いてみせる。
「あ、なたは……ひ、ひどい人……っ! ほ、ほ本当にっ! 本当に、悪人っ!」
「ひどい人、悪人、ねぇ……ま、そうかもしれんわな」
悪びれもなくそう告げる鴨志田に、井上はぐっと喉を鳴らしてから鴨志田を睨んで言った。
「ち、千佐都さんにっ! い、今のは、話を――」
「おう。言ってくれ。全然構わねーぞ、オレは」
「……え」
軽々しくそう告げた鴨志田の、その予想外の反応に思わず戸惑ってしまう。こっそりと盗み聞きしてから今に至るまでの間、ずっとこのことを何度もこの台詞を頭の中で想定していたというのに。そして、その想定内では必ずといっていいほど彼が動揺するものばかりだったというのに。持ち前のすごい妄想力で、土下座するとこまで想像したというのに。
鴨志田はそんな井上の妄想を蹴散らすように、ぽかんとしているその顔に向かって笑ってみせる。
「既にアイツには言ってあるんだわな。『いつでも襲うぞ』って」
「そ、そそそ! そんなななばば馬鹿なことっ!」
「そしたら、アイツなんて言ったと思う?」
井上は突然の鴨志田の問いかけに、頭の中がぐるぐると回ってしまった。明らかにキャパシティを越えてしまっている難問であった。
そんな井上を待つまでもなく、鴨志田はふっと笑って再び歩き出した。
「アイツは『いいんじゃないの? 別に』ってよ。だから、お前に今の話を聞かれてようが、千佐都にそれを告げ口しようが、何も状況はかわんねーってこと」
そうして鴨志田が自宅に向かう後ろ姿を見て、井上は一人取り残されながらその場にしゃがみ込んでしまった。
「うそだ……千佐都さんが、そんなこと……」
ショックで、本当にわけがわからなくなりそうだった。千佐都さんは、本当にそのように言ったのだろうか。でもあそこまで彼が自信満々でそう言ったのならば、きっとそのようなニュアンスの何かを言ったことはきっと疑いようもないのであろう。
互いに同意の上であるのであれば、もうそれを止める手立てなんてないのではないだろうか。むしろその場合の自分はこのうえなく邪魔者だろうし、そのままでも何も問題がないように思えてしまう。
「でも……」
このままでは、先ほどの悟司の様子を見る限り、決していい方向には向かわないだろうと思う。いつものグループとしての仲も、きっと歪な捻れ方をして崩壊してしまう。
鴨志田一人だけがいなくなるのはいい。あの人は敵だから。でも、このままだと悟司と千佐都を巡るグループの崩壊すら危ぶまれる。
「そうだ……」
井上は顔を上げて、とある人物のことを思い出した。
彼女の名は春日三睦。
あの子ならば、きっとこの鴨志田の作ったおかしな状況をどうにかするきっかけになるかもしれない。そう思って井上は慌ててスマホを取り出すと、三睦に「今どこにいる?」と連絡を送った。
しばらくして返ってきた返事には、
『この牛は、ベコベコって名前をつけたんだ♪』
「牛はもうどうでもいいんだってば!」
メールに添付された画像を見ながら思わずその場で叫んでしまった井上は、急いで彼女に次のメールを作成した。
* * *
「ど、どうですかね? 松前センセ」
千佐都はドキドキしながら、目の前にいる松前にそう尋ねる。
現在、談話室には二人しかいなかった。実は先ほどまで先客に安藤と堀内がいて、松前と共にここにやって来るまでイチャイチャベタベタとしていたのだが、自分がそんな二人に鋭い眼光を浴びせると、二人はニヤケ面のままとっとと別の場所に消えてしまった。
そんなわけで二人だ。幸いにも他に人もやって来ない。
「どうって言われてもねぇ」
全てを読み上げたところで、松前はそうぽつりと漏らした。
「……いいんじゃないの、これで?」
「なんか投げやりだな」
千佐都が言うと、松前は溜息を漏らしながら、
「だって。こうして脚本だけ見せられても、要はここから映像に仕立てていくわけでしょ? やっぱ映像がないと、なんというか絵として浮かび上がってこないというかさ」
「んなこと言ったって、まだ絵もクソもありゃせんでしょーが。つーか映画って、普通これを基に作るんでしょうが!」
「そうなんだけどねー」
やれやれとばかりに千佐都はソファーに埋もれた。やる気があるのかないのか。
千佐都が先客のカップルを追い払ったのは、このように脚本を松前に見せようと思ったからである。やはり出来上がったお話を他の人に見せるという行為はこの上なく恥ずかしくて、誰も居ない場所じゃないとこうしてうまく見せられない。
書き上がった以上は誰かに見せなければどうにもならないので、結果として監督でもある松前に相談を持ちかけてこうして見せてみたものの――
正直、松前のこのコメントは頼りないなんてモノじゃなかった。まともな意見すら返ってこないなんて。
せめて良いのか悪いのかだけでも教えてほしい。そう思っていると、
「んでも千佐都。結構文章うまいよね」
「へ」
「いやさ、割とスラスラ読めたよ。まぁ脚本だから地の文がほとんどないってのもあるんだけど、極端に難しい言葉とか使わないし普通に読みやすいと思う」
「それは褒めてるのか褒めてないのか……」
なんだか、あまり言葉を知らないヤツと言われているような気分だった。
「褒めてるよ一応。世の中には格好つけて、やたら小難しい言葉で説明する小説とかあるじゃない? ああいうの好きじゃないから、千佐都がそういうタイプじゃなくてほっとしたというか」
その時、松前がふと千佐都から目線を外して奥を見た。
「――ま。これは私が預かっときますわ。それより千佐都、お客さんだよ」
「お客さん?」
千佐都が振り返ると、ちょうど談話室の入り口の前に悟司が立っている。
「おす悟司。どしたの、なんか怖い顔して」
「千佐都、ちょっといいかな?」
有無も言わさず悟司がそう告げる。なんだか妙なテンションだなと思いつつも千佐都は立ち上がると、松前に向かってぴしっと人差し指を向けた。
「とにかくこれで一応映像撮れる段階まで来たんだから、これからはちゃんと他の人に指示しなさいよ。アンタが動いていかないと、いつまで経っても出来やしないんだから」
「わかってるって。とっとといってらっしゃい」
手を振る松前に悟司は一礼すると、千佐都の前をずんずんと歩いていく。ホントに何かあったのかと思い、千佐都はそんな悟司の背中に向かって声をかける。
「ねぇ悟司。何か用事?」
そう呼びかけるも返答はなし。ちっと舌打ちしつつも黙って悟司の後ろを歩いて行くと、悟司は二階に上がって適当に誰もいなさそうな教室を見つけてその中に入っていった。
千佐都はそんな悟司のすぐ後で教室に入ると、
「なんなのさこんな場所で。他じゃ話せないようなことなの?」
「そうだ」
即答で悟司はそう告げると、そのまま千佐都に振りかえる。
「……鴨志田さんの家に行くのは、もうやめた方が良い」
なんで、と口にする前に千佐都は悟司の目を見てぐっと喉を詰まらせた。
その目が、かなりマジな雰囲気を漂わせている。そんな悟司の目を見ながら少しだけ考えて千佐都は口を開いた。
「アイツになにか言われたの?」
そう言った瞬間、悟司は口ごもったように一瞬だけうろたえた顔をしてみせた。図星かと思いながら、千佐都は適当にその場の椅子に座って、
「どちらにせよ、それってあたしの自由じゃないの」
「鴨志田さん――鴨志田は、千佐都のことを狙ってる」
「狙ってる? なにそれ。あたしを好きだってこと?」
「そう……だと、思う」
そんな悟司の言葉に、思わず馬鹿馬鹿しくなって噴き出してしまった。鴨志田が自分のことを好きだなんて、そんな馬鹿なことあるわけがない。そもそも二人きりでいて、そういう雰囲気すら微塵もなかったというのに。
「アイツがあたしのことを好きって、本当にそう言ってたの?」
「ぐ、具体的には違うけど……」
こちらの反応に戸惑いを見せながらも、悟司はちらちら伺うように視線を合わせてくる。何か隠しているのが丸わかりすぎて、逆に見ていてイライラしてしまう。
「あのね悟司。前にも言ったけどさ、今はあたしのことなんてどーっでもいいでしょうが。それよりもアンタはつっきーのことをもっとしっかり――」
「心配しちゃ……いけないのかよ」
ぼそりと呟くようにそう告げる悟司。
「……なんでだよ。俺が千佐都のことを心配しちゃ、いけないっていうのかよ」
「いや……あたしは別にそういうことを言いたいわけじゃ無くて――」
「まるでっ!」
急にそのように叫んだ悟司に、千佐都はびくっと肩を震わせた。
「まるで俺は……本当に、浦島太郎みたいな気分だ……っ!」
「ちょっと……、アンタ一体なにを――」
「千佐都は――春日先輩のことが好きだったんじゃないのかよ!」
その一言に、千佐都もかちんときてばんと強めに机を叩くと、そのまま勢い良く席を立ち上がった。
「それは今何にも関係ないでしょうが! あたしはアンタに余計な気を回して欲しくないから言ってんでしょ! そこまで他人に向ける脳みそのキャパシティもないくせに!」
「な……っ。なんだよ!」
一度ひるんでから再び虚勢を張るようにして食い下がる悟司に、千佐都は間髪入れずに悟司へ告げる。
「大体っ! 鴨志田がなんだって言うわけよ! あたしは別にアイツのことなんかこれっぽっちもなんとも思ってないし、今後もそうなる予定なんかさらっさらないっつーの!」
「あっちはそうは思ってないんだって!」
「だからなんだっつー話よ! 襲いかかってくるとでも!?」
「……あ」
「あん?」
悟司のその反応で、千佐都の脳みそがぎゅんっとフル回転した。
先ほどの悟司の何か隠しているような素振りと相まって、すぐにその結論に辿り着く。
「……まさかアイツ、あたしを襲うって。そう言ったわけ?」
そうして辿り着いて出てきた言葉に悟司はすっと目を背けた。だがそうはさせまいと千佐都がつかつかと悟司の前まで赴き、その顎をぐいっとこちらに無理矢理振り向かせる。
「そう言ったわけ? 答えろ悟司」
「そ、そう……だよっ!」
千佐都の手を振りほどきながら、悟司は顎をさすって吐き出すように答える。
「酔った勢いで……そうするって」
ぽかんとしてしまう。なにそれ。
本当にアイツは――鴨志田は、自分のことが好きだっていうのだろうか。
正直なところ、千佐都自身は鴨志田のことを全く恋愛対象外の人間だとわりきっていた。てっきりノリの良い男だとばかり思っていたが、いやはや男女の気持ちの揺れ動きというのはなんとも不可解なものであることよ。まさかああして家に通い詰めている間に、そんな風な気持ちになっていたとは。
と、そこで千佐都はふと思い出す。
そういえば一度、二人っきりで特撮ビデオを観ながら酒を飲んでいた時に鴨志田が妙なことを言いだしたことがあった。
確か、○○を○○しちまうぞ――的な。なんとなく言い方が冗談めいていたし、おまけに○○がはっきり思い出せないのだが、自分自身も大変酩酊していたので、適当に返事をした覚えが微かにだがある。
――まさかそこに当てはまる○○が「酔った勢い」とかで、さらにまさかそのことをうっかりOKしてしまったんじゃないだろうな……自分。
それまで強気で発言しまくっていた千佐都は、一気に顔から血の気が失せていく。どうしようか。もし本当にそんな馬鹿なことを言ったんだとしたら、取り返しがつかないじゃないか。いや取り返しもくそも、事が事だけに普通に拒絶すれば良い話だけれども。
しかし今やすっかり忘却の彼方へと流れてしまっているその時の記憶だったが、果たして本当に鴨志田がそう言ったのかということに関しては激しく疑わしかった。千佐都には本当に鴨志田がそのように尋ねてきたと、どうしても思えないのである。
なんか、もっと全く違うニュアンスのことを言っていたような気が――
「千佐都」
その声ではっと顔をあげると、悟司は睨むような視線をすっと逸らして呟いた。
「俺の言ってることわかっただろ。だからもう鴨志田の家に行くのやめろよ」
悟司の口からすっかりさん付けがなくなってしまっていることに今更気付くと、千佐都はそんな悟司の言葉にむっとしながら答えた。
「いやです」
「そうだよそれで――って、なんでだよ!?」
ノリツッコミのようなリアクションを取る悟司に、千佐都は腕を組んでどっかりと机の上へ座り込んだ。
「さっきも言ったでしょーが。そんなのあたしの自由でしょ。なんで悟司にそこまで指示されなきゃならんわけ? 第一本当にアイツがそう言ったとして、本当にそんな行動に出てきたら顔面にグーパンチしてやるってーの」
「そんな悠長な……」
「それにさ、」
千佐都はよっと声を上げながら、飛び降りるように机の上から降りると、じっとまっすぐ悟司の顔を見上げながら告げる。
「仮に本当にそうなったとして、なんかそれもアリかなーとか、ちょっとだけ思っちゃったり」
「はぁぁ!?」
「ちょっとだけだってば。うるっさいなぁ……」
耳を押さえながら千佐都は続ける。
「実のとこ、なんか本当にそれでもいいかもなぁって。自棄になってるってわけでもなくて、なんだかどうしてそう思っちゃうのか、自分でもよくわかってないんだけどさ」
「お前……」
「とにかく! あたしのことはいーんだよ、マジで」
「い、良いわけないだろ! 俺は――ぷぎっ!」
すかさず千佐都は、悟司の鼻を人差し指と親指できゅっとつまむ。変な声を出した悟司に噴き出しながらも、千佐都はすっと目を逸らして、
「……あたしは――悟司が幸せになってくれればそれでいーからさ」
薄ら笑いでそう静かに告げて、そっとその手を離すと出来る限り明るい顔を悟司へ向ける。
「ぶっちゃけ鴨志田もさ、そんなに悪いヤツじゃないって思ってるのさ。あんな感じだけど案外後輩とかの面倒見とかいいし、悟司にはそんな風に言ったかもだけど、あたしとしてはアイツがそんなことしそうには思えない。だからってわけじゃないし……今は全然そんなつもりとかないんだけど、もしそうなってしまうんなら、それはそれで悪くないような気もするんだ」
「千佐都……」
「そんな顔すんなって! 次は鼻をねじるぞっ!」
鍵を開けるような仕草で手首をねじってみせると、千佐都は教室の出口へ向かって行く。
「あたしはあたしの道があるの。それは悟司の考えることじゃないわさ」
「千佐都!」
背中で聞こえるそんな叫び声も無視して、千佐都は無理矢理教室の扉を閉めた。
そうしてその扉にもたれかかりながら、
「マジでさ……あたしなんて別にどうなったっていいんだわさ」
懐かしくも切ない春の日の失恋の傷が、再び開いてしまったような気分で顔を腕で押さえ込んだのだった。
* * *
自転車を漕いでニングルハイツにやってくると、月子は悟司の家の番号の前に立って大きく深呼吸をした。
「……よし」
湿気を帯びた外の空気を胸いっぱいに吸い込んで、そう漏らしてみる。それからゆっくりとインターホンを押してみた。
しばらく待っても、悟司からの反応はない。
まだ大学にいるのだろうか。そう思って、月子は一度悟司の家の前から離れると、ちょうど大学がある側の道路の方から遠く悟司の姿が見えた。
「さと――」
そう思わず声をかけそうになって、やめた。
悟司は俯き加減でこちらに向かって歩いている。それはいつもとそう変わらないような気がするのだが、どことなくその背中に影を背負っているように映った。何かあったのだろうかと思いつつ、月子が持ち上げかけた手をゆっくり下ろしていると、
「……あ。月子ちゃん」
ぼんやりとしていた悟司が顔を上げてこちらを見た。その表情は、久しぶりに会えたものにしてはどこか寂しい。
――何かあったの?
いつもならばそのような言葉がすぐにでも出てくるにも関わらず、今の月子にはそのような言葉が頭の隅に追いやられてしまって思いつきもしなかった。
悟司が今どのような悩みを抱えていて、それがどのように作用し今のような顔をしているのか。そんなことを考えていられるほど、今は自分にもそう余裕のある状況じゃなかった。悟司が何を抱えているかより、今自分が抱えているものばかりに気を取られすぎていた。
だから、なのだろうか。
ふと気付けば、悟司はもう自分の目の前に立っている。
「悟司くん、ひさしぶ――」
「千佐都がさ、」
「……え」
言いかけた瞬間、千佐都の名前が出て月子は一瞬戸惑いの表情になる。
悟司はそんな月子の顔にも気付かずに、淡々と口を開いて言った。
「千佐都がさ……なんかおかしいんだよ。自暴自棄っていうかさ、元々そういう雰囲気みたいなのって、俺がまだ東京に行く前にした飲み会でもちょっとだけあったけど……春日先輩との一件の後、アイツどんどん変になってくっていうか」
――千佐都。
その名前が出てきてから、自分でも嫌になるほど無意識に顔の角度が垂れ下がっていく。
「別にどうだっていいって……あいつはそう言うけど、そんなわけにもいかないじゃないか。あいつはシュガーのリーダーだし、月子ちゃんだってそう思わ――」
「ねぇ……悟司くん」
月子ははっとしたように顔を上げると、努めて明るい調子でそう声をかける。すると、悟司もあっと声をあげて、
「ご、ごめん。立ち話も変だよね。とりあえず家の中に入ろう」
「……うん」
胸のざわつきが止まらなかった。
月子は悟司と並んで歩きながら、黙っているとどんどん俯きそうになる顔をどうにかこらえて歩着続ける。
***
「お茶淹れるよ」
悟司がそう言うと、月子は思い出したように立ち上がった。
「……あ、ウチが淹れますよ。いつも淹れてるし」
「いいって。今日くらいはさ」
笑いながら、悟司は月子にそう言って急須とお茶のパックを取り出して見せた。
いきなり千佐都なんかの話で気分を悪くさせてしまったかも知れない。
いや、確実にそう思ったはずだ。
そんな風に思いながら、悟司はやかんに火をかけてキッチンの壁にもたれかかった。
――あたしは、悟司が幸せになってくれればそれでいーや。
「……いいわけ、あるかよ」
先ほどの千佐都の顔が頭に浮かび、悟司は口の中にしか届きそうにない声でぼそりとそう呟いた。
大体勝手すぎるんだ。いつもいつも自分のことは放っとけだのなんだの言いながら、そっちはそっちで勝手にこっちのことを考えて。そんなのあまりにも理不尽すぎる。
鴨志田は春日とは違う。春日のことは悟司自身もよくわかっているし、どれだけ良い人なのかもしっかりと把握している。
でもあいつは違うじゃないか。
それに、千佐都は春日のことをまだ忘れられていない。それなのに千佐都は、鴨志田がそう思っているならそれで良いとまるで開き直っているかのような態度でいるのだ。
そのうち自分の考えが変わって、なるようになればそれでいいなんて、どうしてそんな風に思えるんだと、悟司は不思議でならなかった。
別に今は好きでもないという相手と、適当に身を任せることにどうして抵抗がないと言えるのだ。
実際には抵抗心はあるようにも思ったが、それでも少なくとも自分が思っているより千佐都自身はそう思っていないようだった。
悟司には、そういう女心がまるで理解が出来ない。潔癖すぎるのかもしれないと思うし、純粋すぎるのかもしれないが、だけれどもこのような開き直り方は自分にはきっと一生無理だ。
いつもそうだった。千佐都のことを――女という生き物を、一瞬でも理解出来たような気がして、実は何もわかってなかったりする。近付いたと思っていた心の距離が、実は何も埋まっていないことに気付かされる。
どれだけそういうことを繰り返せば、本当の距離を測れるのか。
もう疲れたと思いながらも、それでも追いかけようとしているのはなぜなのだろう。
四月の時点では、もうあまり心が動かされることはないと思っていたのに、それでも千佐都のことが頭から離れなくなっているのはなぜなのだろう。
――オレもお前も、あいつにとっちゃ同じなんだよ。
鴨志田の言葉がリフレインされる。
本当に、そうなのだろうか。
そんなことを思っていると、やかんの口からぴーっと音が鳴って悟司は慌てて火を止めた。千佐都のことばかり考えすぎている頭を振り払うと、悟司は急須にお湯を注いで湯飲みと一緒にお盆に乗せた。
「お待たせ」
悟司が戻ってくると、月子が力なく顔を上げてじっとこちらを見た。
その表情に、一瞬どきっとする。
まるで全てを見透かされているかのように――今この一瞬の間に千佐都のことばかりを考えていたことが見透かされていたかのように、その透き通るようにまっすぐな瞳が自分のことを見つめていた。
「ひ、久しぶりだね。こうして二人で会うのも」
悟司はその目線から逃れるようにして、お盆をちゃぶ台の上へと乗せた。そのまま一つの湯飲みにお茶を注いで月子に寄こすと、自らの方にも注いで顔を上げる。
「それで……えと、」
「――悟司くん」
月子がゆっくりと自分の名前を呼び、悟司は動きを止めてその場に固まった。
「ウチ、だんだんとわからなくなってきちゃって……」
「わからなく?」
「はい」
月子の言葉を待ちながら、悟司は冷ますように湯飲みに息を吹きかけて、ゆっくりとお茶を口に運んだ。
まだ大分熱い。そう思って一度お盆の上に戻す。
千佐都のことばかり考えてどうする。そう冷静に思いながら、今は目の前にいる月子のことに全霊を注ぐつもりで顔を上げた。
月子はそんな悟司に気付いてか、ぽつりぽつりと語り出す。
「漫画を描いて、描き続けて……気付けば今は伊達先生っていうすごい方のところでアシスタントをしてて……ウチはプロになる夢を叶えようとしている。でも……時々それでいいのかなって。誰にも、こういうことってうまく相談が出来なくて」
漫画の話だったのか、と悟司は今更ながら思う。てっきり小倉君に告白された話でも出てくるのかと思ってドキドキしていたのだが、考えてみればそんなことをいきなり話し出したりはしないかと、そんな風に思った。
「ウチは……なんだかどこまでも孤独だなって」
……もしかして、その道に向かうことを迷っているのだろうか?
悟司は月子の顔を見ながら考える。プロになって活躍していく未来に対し、何か暗い想像でもしているのだろうか。
ならば、何か励ますような言葉をかけるべきだろう。
「悟司くんは、どうなんです?」
「え?」
突然こちらに話を振られて、悟司はどきっとして傾きかけていた湯飲みを再び戻した。まだ考えが頭の中にまとまっていないというのに。
「悟司くんは、そう思ったりしないですか?」
「そう思うって……孤独だってこと?」
その問いに返事はなかったが、月子はじっとこちらを見据えていた。どういう言葉を返せばいいのか、一瞬戸惑いながらも悟司は、
「思う……よ。時々はね」
そう言って湯飲みに一度口をつける。
「そんな時……どうしたらいいと思いますか」
湯飲みを置きそれからしばらく考えた後で、悟司は静かに言った。
「俺の場合は――最初の時のことを思うな」
「最初?」
「うん。最初に曲を誰かに聴かせた時の事」
自然とそのような言葉が出てきて、自分でも少しだけ驚いてしまった。でもその言葉に嘘はない。さすがにその相手が誰かだとまでは言わなかったけれども、悟司は東京に行って新しくイチから曲を作り始めた時にそのような瞬間が訪れたことがあったのだった。
初期衝動で作り始めた時のような楽しさのまま――だけど、それまでに皆と共にこの町で暮らしてきた数年間の蓄積がそのまま曲に乗せられたような気がする。
「月子ちゃんは最初に誰かへ漫画を見せた時、恥ずかしいけれどもそれを見て喜んでくれた時の人の顔を思い出せる?」
その問いに、月子は曖昧な表情をして頷く。
「そういう誰かに向かって何かを届けてるって思うと、孤独じゃないような気がするんだ。あくまで俺の場合はなんだけどね」
そう。月子だけじゃない。
これまでに出会った全ての人に向けて、送りたい気持ちを歌にする。
それが悟司の思う、日常の歌であった。
誰かに届けたい気持ちがある。
それは、決して内に篭もった感情を吐き出すだけのものでは生み出せない何かだ。
それを月子にもわかって欲しいと思って口にした言葉であった。
だから、てっきりそのような回答は月子の元気に繋がるだろう。
そう思っていたのに、
「そう……ですか」
予想に反して月子は暗い顔のままぽつりと呟き、それから月子はか細く笑いながら顔をあげて、
「悟司くんって、強いですね」
と、そう言ったのだった。
***
「本当に送ってかなくていいの?」
「はい。もう大丈夫ですから」
月子はそう言って悟司にぐっと見せつけるように片腕を持ち上げる。
「ありがとう悟司くん」
そうして月子はゆっくりと家の扉を閉めながら手を振ってみせた。すると、
「あのさ!」
急に悟司がそれまで溜め込んでいたような感じで、そう切り出す。なんだろうと思って閉める扉の手を止めると、
「こ、今度月子ちゃんが仕事のない日」
「はい?」
「デートしよう!」
一瞬何を言ったかわからずに固まるも、すぐにその意味を理解して月子は笑みを浮かべながら頷いた。
「出来たらちょっと、遠いとこがいいです」
「わかった。何か考えとくよ」
「またね、悟司くん」
「うん、また――」
そうして閉められた扉の前で、少しだけ息を吐いてから月子はゆっくりと帰路に向かった。悟司の家に行くまでは晴れ間が覗いていたというのに、今では雨雲が空を覆い隠している。
やがて、ぽつぽつと雨が降り出した。
「雨……嫌だな、こんな日に」
そう呟きながら、停めて置いた自転車のところまで向かう。傘など持っていなかった。
月子はゆっくりと自転車を漕ぎ出しながら、濡れた身体のままで自らの家へと向かっていく。急ぐこともなしに、普段のままのペースで。
顔に当たる雨の雫を振り払うことなく、まっすぐと。
何も考えることが出来ずに、そうして家に着くまでの間月子は全身を濡らしたまま一生懸命前だけを見て自転車を漕ぎ続けた。
「ふぅ……っ」
息が上がっていく。胸に押し寄せる感情の波が、それと共にゆっくりと浮上していくような気がしたが、次第にそれすらも認識できないほど、顔に当たる雨の量は勢いを増していく。
気付けば、ほとんど土砂降りと言っても良い雨の中だった。そのような雨の中で、月子は自分の走っている場所が本当に真っ直ぐ向かっているのかどうかさえ疑わしく思えてきてしまう。
悟司と話し合えば、“そのこと”にもう少しだけ確信を持てるような気がしていたのだ。
「…………ふぅっ……ふぅ……っ」
息が上がりながらも、月子は頬に流れ落ちる雨粒を拭うことなく自転車を漕ぎ続けた。涙などは出ていないと思う。
もはやせり上がってきたものが溢れているかどうかもわからなかった。
もしかしたら“それ”を悟司に求めていたのは間違いだったのかもしれない。本当の答えはもっと自分の奥深くにあって、それを誰かに求めるものではないのかも。
――ならば、自分はどうしてこんなに悲しいのだろう?
それはわかるようでわからない、むしろ今は「わかりたくもない」気分だった。
もしかしたら、泣いていたのかも知れない。
* * *
「雨……」
外の景色を見ながら、井上はそう呟いてみせる。それと同時にチャイムが鳴り、最後の講義が終わりを迎えた。
廊下に立っている井上の前に、ぞろぞろと学生が通り過ぎていく。その中の一人の姿を見つけると、井上は慌ててその姿を追いかけて、
「三睦さんっ!」
そう叫びながらその手をぐっと掴んだ。
「……んお?」
とりわけ群衆の中でも目立ちやすい彼女を見つけるのは簡単であった。背も高いしファッションも奇抜だ。おまけに今日はベースを抱えており、もしかしたら今日はこれから軽音の方に顔を出す予定だったのかも知れない。
でも、井上はそれでも三睦の手を離すことなく顔をぐいっと持ち上げた。
「三睦さん」
「ど、どしたべ? なまら怖い顔して」
「……お、教えてほしいの」
掴んでいる手が震える。鴨志田の顔が頭に浮かんで、何を言って良いのかを一瞬忘れてしまいそうになる。
「か、かも、かもしだ、さんは……」
言葉が詰まる。呼吸がおかしくなる。
でも聞き出したかった。なぜそんなにムキになるのかもわからなかったし、原因を考えてみても色々と思い浮かんできてどれが本質なのか全く見えなくなる。
千佐都さんのことを守ろうとしているから?
それとも弘緒が今いる居場所を大切にしたいから?
鴨志田という男の本性を暴いてやりたいから?
何が正しくて、どれが本当に知りたいことなのかがわからない。しかしそれでも、三睦という女の子を前にした今の自分には、先ほどまでの間に決めて行動をしてきたことをしっかりと為さなければならないと思う。
いつもそうだった。ずっと消極的で口下手が災いして、自身の意見を蔑ろにされてもなぁなぁにしたままにしていられた。でもいつどんなときにでも、自分にはちゃんと意見ってものがあったのだ。
なのに、それを台無しにしてきたのもまた自分自身のせいであった。
――小学校の時に、学級で育てていた飼育小屋のうさぎが死んだ。
原因は前日の掃除当番だった生徒の鍵のかけ忘れだ。朝方、先生が飼育小屋を覗きに行くと扉が半分ほど開いていたらしい。生徒達が登校するまでに遺体は片付けて、目にする前には何もない空間がそこに作り上げられていたのであった。
当然、放課後の学級会ではその前日当番だった井上ともう一人の男子生徒が糾弾されることになった。
井上自身はわかっていたのだった。鍵をかけるのを忘れたのはもう一人のその男子生徒だということを。
でも井上は何も意見を言うこと出来ないまま、気付けば自分がその犯人として名乗り挙げられることとなった。
別にそれで何かが変わったわけではない。これまでにも鍵をかけ忘れた生徒は何人もいたし、その中でたまたま井上が当番したその日だけそういうことが起きただけなのだから。
そのことをクラスの生徒自身も理解はしていたので、井上一人を責めるようなことは誰もしなかった。
しかし井上にはその日以降、皆が自分を見る目が違っていることに気付いてしまった。
心の中では皆がどう思っているのかなんてわからないし、完全に妄想の範疇でしかなかったのかもしれない。でも、一度そう思ってしまうともう後には引き返せないほど、井上の中の被害者意識が増大していき、自らを激しく責めるようになった。
男子生徒に、きちんと鍵のことを告げていれば良かった。
そうじゃなかったとしても、自分が最後にしっかりと管理しておけば良かった。
そんな思いがそのまま悪夢として夢の中に現れるようになり、いつしか井上は不登校児となった――
――そんな経緯を、大人になった今でも引きずったままでいるのは本当に良くないと思う。
いつだって、自分の妄想が自身の最大の敵なのだ。
だから、思う。
「……鴨志田さんは、ど……どういう人なんですか……っ!」
そう口にした瞬間、井上はどれが本質的に聞き出したいことなのかを、自らの脳内で繰り広げ混ざり合っていたぐちゃぐちゃなスープの中からずるりと引きだしたような感覚を味わった。
私が本当に聞きたいのは――彼の人間性だ。
***
鴨志田は大学の外に出て、雨の滴る屋根を見ながら呟く。
「あーあ。土砂降りじゃねぇか」
悟司と会った時はそうでもなかったのに、やはり六月の天気は移ろいやすいなと思った。傘を持ってきてはいなかったが、どうせ家なんてすぐそこなので走って向かえば問題はない。
「よっと」
そう思って鴨志田は駆け出した。プラスチックのカバンを濡らさないように懐に抱えたまま大学を出て、そのままアパートの前まで辿り着く。
「ひー。びしょびしょじゃねぇか」
ちょっと走っただけなのに、既に薄手のシャツがべっとりと身体に貼りついていた。とっとと風呂にでも入って、着替え直そうと階段を上ろうとしたところで、
「――鴨志田」
上からそんな声をかけられて顔を上げる。
「アンタに、ちょーっとだけ話があんだけど?」
千佐都が腕を組んだまま、階段の一番上でどっしりと立ちはだかっていた。その様子じゃ、どちらから聞いたのかまではわからないけれども、先ほどの自分の会話のことを知ったように思える。
千佐都は決して不機嫌な様子ではないけれども、かといって上機嫌というわけでもなさそうだった。表情だけじゃどうにも彼女の気持ちを推し量れなく、ただそうして腕を組んだ彼女の姿だけが見事なまで不貞不貞しい。
「……なんか用か?」
「これまた、とぼけるのが随分と下手だわね」
「わりぃが、悟司との一件ならノーコメントだぞ。んじゃオレは今から風呂入るから」
とんとんと階段を上がり、千佐都の身体を退けるように身体を差し込むと、そのまま鴨志田は彼女を横切って自らの部屋の前にまで向かおうとした。
その瞬間、
「逃がさないっての――このバイ菌マン」
その発音のイントネーションは、明らかにわざとだった。
一瞬で頭に血が上って、気付けば鴨志田は千佐都の肩を掴んでいた。
「……今なんつった?」
「へぇ。言ってた通り、ホントに怒るんだ?」
千佐都は一度からかうように笑うと、すぐにその目を鋭くさせて、
「……悪いけど、あたしも今チョー激おこなんだわ――」
その瞬間鋭い痛みが鴨志田の左頬にやってきた。
それが平手打ちだとわかり、鴨志田は一度千佐都に振り向かせられた顔を再び戻すと、
「あたしを襲うの?」
千佐都がそんな風にストレートに尋ねてきた。
「残念ながら、アンタにはこれっぽっちも恋愛感情はないです。ついでに言うと、余計なことして悟司を困らせて、いまや不快感レベルマックスに成り代わってきてるわ」
「お前もアイツと大概だな」
「なに?」
思いっきり叩かれたせいか、むしろ先ほどよりも頭の血の気が随分と失せてしまっていた。そのせいで、いくらか冷静な口調で鴨志田は千佐都に告げた。
「お前らの様子は、どっか他の奴らと違って歪なんだよ。一体なんなんだ? 最初は驚輔から聞いた話に不備があって、姉弟だと思い直した。でもそうじゃねぇし、互いに口だけで罵り合ってる時もあれば、こうして互いにどちらかのことを気遣っている」
千佐都は何も言わない。ただ、話を聞きながらじっとまっすぐこちらを見つめていた。
「オレはさ。言うなれば驚輔とは違って、後からお前らのグループにお邪魔した人間ってわけだ。その意味じゃ井上や弘緒とも同じだわな。だからこそすぐにぴんと気付いたこともある」
「それは何?」
「お前、悟司のこと好きだろ?」
ざぁざぁと降りしきる雨の中、自らの声だけが静かに流れるようにその場に響く。
「驚輔のことが好きって言ってたよな? それはホントその通りかもしんねぇ。確かにお前はアイツのことが好きだったんだと思うよ。でもよ、人ってゲームみたいに好感度とかってグラフ表示されないんだわな。もしかするとだけど、お前って驚輔が好きだった以上に悟司のことが好きなんじゃねぇのか」
「なに……それ? 意味わかんないですけど?」
擦れ声の千佐都に、鴨志田はそれまで力をこめていた肩の手をゆっくり解く。努めてとぼけているような体で千佐都は目を伏せるが、鴨志田は構わずに言った。
「わかるように説明してやるよ。お前は驚輔と悟司って男二人と過ごしながら、驚輔に対しては露骨なほど恋愛感情としての面が際立ったわけ。でも、その一方でお前は気軽になんでもぶつけ合える、愚痴も文句もなんでも言い合える悟司のような存在のことを対等だけれどもどこか違う感情で見てきていた。それは本当に姉弟のような関係だ」
「…………」
「でも、どこかでそのことにお前自身もうっすら気付いてたんじゃねーか? 本当は悟司にも、驚輔のヤツと似たような感情を以前に何回か抱いていた事がある。多分、驚輔にそれを抱いたときよりもずっと前からな。よく言われる『好きだったけど、ずっと過ごしているうちにもうそういうことが切り出せなくなるほどの存在になった』ってヤツか? お前は驚輔を想う以上に悟司のことを想いすぎて、気がつけばそんなことを想うよりもずっと深いところまで悟司のことを大切に想ってきたんだよ」
「ばー……っかみたい」
ぱしっと鴨志田の手を払って、千佐都は俯いたまま呟く。
「仮に……仮に、そうだったとして……だったらなんだって言うワケ? アンタの言うとおりだなんて、そんな風には言わないけど、だからってそれがあたしを襲うのと、なんか関係があるわけ?」
その口ぶりから察するに、どうやら話を聞いたのは井上からではなく、悟司からだったかと鴨志田は気付く。とりあえず千佐都が『いいんじゃないの?』と言ったようにしておけば、慌てて千佐都は激昂しながらこちらに駆けつけて来るだろうし、現にさっきまでの様子だとてっきり井上から聞いたのだとばかり思っていた。
実際には、千佐都がそのように「襲うぞ」と言って「いいんじゃないの?」と言ったわけではなかった。ただ、飲んでいる時に了承を得たことだけはある。
ようやくこの時が来たかとばかりに、鴨志田はゆっくりと口を開いた。
***
「――バイキン? バイキンがどうしたさ?」
三睦の問いに、井上はそれまでの経緯全てを三睦に話した。小倉と月子の告白のことも、悟司に向かって千佐都のことを告げた時のこととかも、全てを。
そうして話し終えたあと、ぽかーんとしたまま口を開けていた三睦は、やがてゆっくりと井上に向かってこう言った。
「なんだそれ。まるで別人だな」
「べ、別人?」
「バイキンは女の子にそんなこと絶対しないべ。兄ちゃんと一緒でちょー奥手だからな」
ついでに言うと、と三睦は井上の方に向き直った。
「バイキンは他人に嫌われるのをなまら怖がるし、仲間との繋がりを求めまくる、ぶっちゃけ死ぬほど『寂しんぼうさん』だ」
「さ、さびしんぼう……さんっ!?」
全くそんなイメージなどない井上には、三睦の言っていることが本当に彼女の言うように別人のことのように思える。
「嘘じゃねーべ。兄ちゃんと一週間連絡が取れんくなっただけでいじけるぞ、アイツ」
急に鴨志田のイメージが怖い人から可愛らしいマスコットのような存在へと変わる。そんな井上の妄想力がむくむくと膨らみ出してきたところで、三睦はすっと人差し指を立てながらゆっくりと顔を近づけてくる。
「……それにな。これは言っちゃダメだぞ? 誰にもだ」
「う、うん……」
思わずごくりと生唾を飲んで、井上は三睦の言葉にじっと耳を傾ける。
三睦は周りに誰かいないかを確認してから、ゆっくりと口を開いて言った。
「アイツ。ああ見えて、なまらレンアイ脳だ。実家に少女漫画の専用棚がある」
***
「オレはお前のことを襲うなんて言ってねぇ」
鴨志田ははっきりとそう告げる。
「だけど、こうは言ったぞ。『“悟司のこと”を“お前に向けさ”しちまうぞ』ってな」
「……は?」
あんぐりと口を開ける千佐都に、鴨志田はやれやれとばかりに首を振る。
「まぁあれはオレも正直迂闊だったと思ってるわ。酔いすぎてたって意味でだが、お前もお前で泥酔してたから、適当に『いいんじゃないのー』って言ってたわな」
「な、なにそれ……そんなこと」
「『だって悟司、このままじゃ――』って、その先は何言ってるか聞き取れなかったがな」
そのまま絶句する千佐都に構わず鴨志田は言った。
「お前の本心だと思ったんだが、違ったか?」
千佐都は考える。
そして、薄らぼんやりとした記憶の中で思っていた様々なことが一気に思い出されて、急に顔が熱くなった。
「ほら、その反応だ」
――先を濁したその時の言葉。
それも、今でははっきりと千佐都は思い出していた。鴨志田に最後まで聞かれなかったのが幸いだったが、それでも信じられないくらいの醜態を曝したことは疑いようもない。
「あんた……一体あたし達に、なにをさせようとしてるの?」
赤面の中、千佐都が重々しく尋ねると鴨志田はゆっくりとこちらに向き直った。
「オレは驚輔から『あいつらをよろしく頼む』って言われた。でもその中でアイツはお前のことを特に気にしててなぁ。なんかあると思ったんだわ。したっけ、お前はどうやら驚輔よりもずっと悟司のことを気にかけていることにオレは気付いた」
鴨志田は濡れたままの状態でポケットをまさぐって煙草を取り出す。幸いにも湿気っていなかったそれにゆっくりと火を点けると、紫煙をくゆらせながら、
「その前からおかしいなと思ったんだ。驚輔のヤツもフラれた割りにはさっぱりしてやがって、千佐都のこともそうだがそれ以上に悟司のことを気にかけててな。きっと心の片隅ではうっすらとアイツも気付いてたんじゃねーかなって思う。ま、思うのと実際はまた違うし、アイツはアイツでお前のことが好きだったから、奪われたくもなかっただろうけど」
「かすが、が……悟司のことを?」
「まず間違いねーわなぁ。アイツはお前が悟司のことを無意識で好きなんだって言うのをわかっていたと思う。もしかするとアイツはそのことに自覚がなかったかもしれんが、今は多分そのことにはっきり気付いてるんじゃねぇかな」
ちりちりと短くなっていく灰をどうするのかと思っていると、鴨志田は自らのカバンの縁についた携帯灰皿を取り出してそこに灰を落とした。
「オレも、なんだかお前ら二人の関係が面白くてよ。名字も一緒で、なんだかそういうの手伝ってやりたくなったんだ。余計なお世話かもしれんがな」
「ホントに……余計なお世話よ」
吐き捨てるように千佐都が言う。
「勝手なことしないで……。アイツはつっきーの事が好きなの。ずっとそうだった……そんなアイツの想いを、あれこれ外野が踏みにじらないで……っ!」
「お前の気持ちはどうなるんだよ?」
「あたしのことなんかどうだっていいじゃないっ!!」
思わず金切り声のようになってしまう。だが、
「悪ぃがそれは出来ねぇ」
その鴨志田の圧倒されるような眼光に、思わず叫んだはずの千佐都の方が身をすくんでしまった。
「前に与那城が言ったとき、オレはこう答えたよな? 『オレは、純粋に好きな相手同士で結ばれて欲しいと思うだけだわな』って」
「だったら、尚更悟司とつっきーの邪魔を、」
「今日、悟司のヤツと話してわかった。アイツは間違いなく――」
こちらの言葉を遮るようにして告げられたその先の言葉は、出来ることなら雨の音と一緒に流されれば良かったと千佐都は思う。
ざぁーっと降り続ける雨の中、千佐都は一瞬立ちくらみのようにふらついてみせると、
「……うそ」
「嘘じゃねぇ」
尚も真っ直ぐな視線のまま言う鴨志田に、これ以上の言葉は無意味だと千佐都は悟った。
そうして千佐都は手すりに手をかけながら、ゆっくりと階段を下りようとしたところで、
「待てよ」
そう鴨志田は一度部屋に戻ってから適当な傘を持って戻ってくる。
「さっきお前、自分のことなんてどうだっていいって言ったな?」
そうして去っていこうとする千佐都に無理矢理押しつけるように傘を手渡すと、鴨志田は呆然としている千佐都に向かってはっきりと告げた。
「どうでもいいわけねーだろがよ。たとえどれだけお前に嫌われようが、オレは驚輔に言われたことは全力で守り抜く。あいつは親友だし――それに、オレ自身もお前や悟司、それに他の奴らのことが気に入ってんだ」
「単純ばか」
明らかにバカにした口調にも関わらず、
「おう。オレはなまら単純な男だ」
そう言って鴨志田は笑ってみせた。
本当にバカだ。そう思いながら千佐都はゆっくりと階段を下りていく。
「なぁ千佐都」
これ以上なんだ、と思いながら振り返りもせず千佐都は鴨志田の言葉に耳を傾ける。
「これも前に言ったが、『自分がそう強く望むことで、未来は引き寄せられていく』。お前がそう望まなければ、お前の未来は何もないんだからな」
「ほっとけ、バカ」
とうとうバカと言う言葉がそのまま捨て台詞のように出てきて、千佐都は鴨志田のアパートを離れていった。
「あたしなんて……どうだっていいってのに」
よかったはずなのに。
悟司と月子が結ばれればそれで良かった。
そう本当にさっきのさっきまでそう思っていたはずなのに。
それなのに、どうしてなのだろう――
「胸……痛ったぁ……」
ぎゅうっと傘の持ってない方の手で自らの胸を押さえると、本当に余計なことを聞いてしまったなと、自らのことを強く強く後悔した。
後悔して、本当にそんな自分が嫌だった。
大嫌いだ。本当にこんな自分――
2014/12/11~19更新分




