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シュガー・シュガー・シュガー(!)  作者: 助供珠樹
大学二年:8~9月まで(エピソード4.5)
51/90

第二十七章『北斗星鉄道の夜』(番外編その2)

 九月になった。


 タイマー入力しておいた冷房の涼しい風の中、昼寝から目覚めると、悟司はふと北海道に戻る準備をしようかと思い始めた。


 とはいっても実際に大学が始まるのは九月の終わりくらいなので、正直そこまで急ぐ必要もない。ギリギリまで名古屋で過ごして、それからゆっくりと飛行機に乗って帰ることも当然、考えていないわけではなかった。


 ただ如何せん、正直実家での暮らしは暇が多すぎると、悟司はこの数日間のうちにひしひしと感じ始めていた。千佐都と最後に会ったのはいつぞやの食べ歩きの日が最後で、その日からしばらく、悟司はずっと家にひきこもったまま中途半端な時間に寝て、そして起きてを繰り返していた。怠惰も怠惰。おそらくこのままギリギリまで名古屋にいれば、惰眠をむさぼり続ける毎日になってしまうのは必至であった。


 おまけに体重もかなりやばい。これまでに運動らしい運動もしていなかった上、前述のごろ寝のツケが大きく回ってきたらしく、昨夜風呂上がりに体重を量ってみたところ、四月の健康診断よりも三キロも増加していたのだ。


 まさに豚。惰眠をむさぼり与えられるエサだけを淡々と口に運んでいく○ンコ製造機さながらであった。


 かといって、北海道に帰ってもなにかするわけでもない。どうせ帰ったところで、相変わらず不規則な生活をしたまま後期の授業に突入していくだけであろう。


 だが、北海道の家にはギターがある。


 DTMがある。作曲が出来るのだ。


 今年は実家にギターを持ってこなかった。そのせいもあるのだろう。結局何をしていいかわからず、手持ち無沙汰なままの日々が続いてしまってこうなってしまったのだ。悟司はそう結論づけた。


 やはり実家から逃げ出さなければならない。悟司はそう思って携帯を取り出すと、千佐都にメールを送った。


『いつ帰る?』


 たったそれだけを入力して送信。悟司はベッドから飛び出すと、そのまま階下にいる母親のところへ、北海道に戻る旨を伝えに向かった。



 ※ ※ ※


 リビングに向かうと、母親はちょうど洗濯物を干している最中であった。ふんふんと鼻歌を交え、何やらすごく楽しげに身体を揺らしている。


「母さん、あの」

「あら悟司。おはよう」


 くるりと笑顔で振りかえる母。満面の笑みである。


「あのさ、俺そろそろほっか――」

「今日の夕食はなにがいいかしら? お母さん今ね、悟司が喜びそうなもの、何かあるかなーって考えてたの」

「いや、あのそれはいいんだけど……俺さ、」

「そうそう。明日はどこか遊びに行ったりしない? しないならお母さんと一緒に港区のイオンまで付き合ってほしいな」

「いやまぁ、それは置いておいて、まず話を、」

「でもその年でお母さんとデートなんて恥ずかしいかしらね? あ、悟司の好きなもの一つ買って良いのよ。新しい服とか。そういえばさっき見たんだけど、あなたのスニーカーもそろそろ新しくしないとダメね。すっかりボロボロだもの」


 ……この母親、言わせないつもりだ。

 直感で悟司はそう気付いた。


 いつもそうであった。実家に戻って北海道に帰ろうとする悟司を、この母親はきまって話を逸らして有耶無耶にしようとする。元より実家から離れて大学に通うことを反対していた母親である。なので気持ちはすごくよくわかるのだが、


「あのさ、だから俺北海道に、」

「決めた! 今日はハンバーグにしましょう。悟司大好きだもんねっ」


 ちなみに昨日もハンバーグであった。事実ハンバーグはカレーと同じくらい好きなのだから文句は言わないけれども。


「俺、北海道に帰るからっ! そろそろね!」


 母親の発言を遮るように大声でそう言った瞬間、母親は洗濯カゴをどさりと落としてその場でふらつくと、


「悟司……それ、本当なの……」


 と呟いて寄っかかるように窓にしがみついた。


「どんだけショックなんだよ……」


 ため息がこぼれてしまう悟司をよそに、母親は青い顔をしながら、


「ダメよまだ……まだ帰る時期じゃないわ……だって……だってオリンピックの開催地の発表が今週の土曜にあるじゃないの……」


 まさしく、たった今思いついたような言い訳を放つ。

 ちなみにオリンピックの開催都市の発表は今週の土曜の深夜である。今日が日曜日なので、母親の言うとおりにしていたらあと六日は名古屋に滞在することになるわけで、もちろんそんな日まで滞在するつもりは、悟司にはさらさらない。


「残念だけど、実況は出来ないかも」


 思ったままを口にすると、母親はずるずると窓にしがみつきながらその場で崩れ落ちた。その様子がなんとも居たたまれなくなって、やっぱりもう少しここにいて親孝行しようかなと思い直し始めたその瞬間、ちょうど千佐都からメールが届いた。


『んじゃ明後日くらいに帰るかい』


「明後日帰るよ」

「明後日!?」


 素っ頓狂な声で母親はそう叫ぶと、


「それはちょっと早すぎるよぅ、悟司ぃ……」


 と涙をぽろぽろこぼし始めた。


「ちょ! ちょっと!」


 慌てて母親の元に駆け寄る悟司に、母親はうつむいて、


「やっぱり……やっぱり悟司はお母さんより、北海道のお友達の方が大事なのね……わかってた……わたし、わかってたもん……」

「あのね母さん。なんていうかね……このままここにいると俺、ダメ人間になっちゃうからさ。ここんとこ、ずっと寝て食ってばかりだし」

「あぁ……小さい時の悟司は、可愛かったなぁ……」


 まるで聞いちゃいねぇ。


 母親は這いずるようにリビングの棚の上にあったアルバムに向かっていき、悟司の小さい時のアルバムを手にしてうふふと笑いながら、


「ほらみて悟司。この写真は初めて悟司が一人で立った時の写真よ」

「いや、それもう何回も見たから……てか見させられたからさ」

「お母さんね、悟司が一人で立ち上がった時、嬉しさと同時に寂しくなっちゃってね。今もちょうどそんな気持ち……うふふ」


 ぺらぺらとアルバムをめくりながら、現実逃避を始めた母親に、悟司は再度大きなため息をついて観念した。


「わかった……わかったよ。じゃあ、七日までいるから。それでいい?」

「明日のイオンも……」


 ぼそりとそう言って、涙を浮かべながら背中越しに振りかえる母親に、悟司は両手をあげて降参のポーズを取った。


「はいはいわかりました。明日一緒に行くよ」


 千佐都には後でメールをしておこう。

 そう思いながら、悟司は母親の落とした洗濯カゴを拾って、母親の代わりに洗濯物を干すことにした。



 ※ ※ ※



 翌日。母親の車で港区のイオンに向かう最中、悟司は昨日の千佐都のメールをぼんやりと読み返していた。結局、明後日に帰ることは無理になったよという返信を送って、それに対して戻ってきた内容が、


『愛されてるなぁー悟司は。んじゃまぁもう少しのんびりしてから帰りましょうかね』


 とこんな感じであった。


「面倒くさい愛だけどね……」


 助手席でそうぽつりと呟くと、ご機嫌な様子で信号待ちをしている母親がこちらを振り返った。


「なにが面倒くさいの?」

「なんでもないよ」


 ぱたんと携帯を折り畳んでポケットに押し込むと、ちょうど目の前の信号が青に変わった。母親はハンドルを切りながらふんふんと鼻歌交じりに車を右折させる。周りの景色から、そろそろ到着する頃だなと悟司は思った。


「実は今日ね、抽選会があるのよ」

「抽選会?」


 顔をあげると、母親が片手でダッシュボードを指していた。そのままダッシュボードを開けると、中にはイオンのチラシが挟まっており、


「へぇ。七百円以上の買い物をすると、福引き券が一枚もらえるのね」


 チラシを手にとって、そこに書いてある文面を見ながら悟司は口にしてそう言った。


 一等は豪華寝台列車「北斗星」ロイヤルルーム二名様分とある。北斗星といえば、一応悟司でも聞いたことのある寝台列車の名称であった。東京から札幌までの運行だったと思うのだが、これまでそういったものには一切興味がなかったので、それ以上の知識は何も知らない。


「母さん、北斗星乗りたいの?」


 まさかと思って尋ねると、母親はぷぅっと頬を口を膨らませた。


「それじゃないよぅ。お母さんが欲しいのは二等」

「二等?」


 北斗星と書かれている下の賞品に目を滑らせると、オシャレなコーヒーメイカーの写真があった。カプセル式のマシンのようで、味もエスプレッソやマキアート、他にも宇治抹茶ラテやチャイティーなども作れると書いてある。


「これはいいかもね」


 思わず、そんな素朴な感想がこぼれ出た。悟司自身はそれほどコーヒーを飲むことはないのであまり興味はなかったが、コーヒー好きの人にはかなり興味のそそられる賞品なのではないだろうか。


「でしょでしょ! お母さん、朝コーヒー飲むのが習慣になっちゃってるから、どうせならこういう本格的なヤツが欲しいのよ」

「当たるかなぁ」

「当てるのよ!」


 ぐっと握り拳をつくりながら鼻を鳴らす母親に軽く微笑むと、そのまま悟司は助手席のシートに身体を埋めさせ、目の前の景色をぼうっと眺め始めた。



 ※ ※ ※



 そうして到着した平日昼間のイオンは、あまり人が多くなかった。この時期は小中高の学生も新学期が始まって学校に行っているせいで、悟司のような暇な大学生か、主婦層くらいしかこの時間帯に来ることは出来ないのだろう。


 そう考えると、大学生とはつくづく時間に余裕があるのだなぁと思う。ましてFランの文系学生など、ほとんど年がら年中遊んでいるようなものだ。


「悟司、悟司!」


 イオンの中に入ると、さっそく母親がそんな風にはしゃぎ始めた。


「一緒に映画観ようか? ね? ね?」

「いや……別にいいよ」

「えー」


 ぷくーっと頬を膨らませる。


「じゃあ、アイス食べよ。サーティ○ンのアイス!」

「それなら……まぁ」


 外はまだまだ暑い日が続いており、駐車場に出た瞬間のあのむっとする熱気を浴びた悟司はちょうど冷たいものが食べたい気分になっていた。


「じゃあいこうよっ!」


 母親が無造作に悟司の手を掴んで、そのままぐいぐいと悟司を引っ張り始める。これではまるでどちらが子供かさっぱりわからない。


「ねぇ……そんなに、俺と一緒に来るのが楽しいの?」


 悟司がそんな風に尋ねると、母親はにこにこ顔で頷いた。


「当たり前じゃない。悟司が北海道に行ってから、お母さんずっと一人で家にいるんだもん。お父さんはいつも帰りが遅いし、毎日寂しいんだよぅ」

「あー……」

「こうして一緒に買い物に来たのも、確か悟司がまだ高校生だった時でしょ? だから、今日はすっごい楽しいんだよっ!」

「……そっか」


 そうして、引っ張られ続ける母親の小さな手に伝わる温もりを感じながら、悟司は静かにそう言った。


 そういえば一緒に暮らしていたときも常時こんな調子であったな、と悟司は昔を振り返りながら、ふとそんな風に思った。どこかに行くとき、母はいつも必ず悟司の手を取って歩こうとした。小さい時は素直にその手を掴んでいたが、今はやはりちょっと恥ずかしさの方が多くて、正直振りほどきたい気持ちであった。


 もしまだ一緒に暮らしていたならば、手を離して欲しいと強く言っていただろう。


 だが、今日はそういう気分にはなれなかった。


 なんとなく、今の母の気持ちがほんの少しだけ理解できる気がしたからである。


「ねぇ母さん」

「ん?」


 悟司の手を握りながら、くるりと振りかえる。

 悟司は掴まれている手と反対の手で頬をかきながら、


「またすぐ帰っちゃうけど、でも今日はちゃんといるからさ」


 そう言って、母からすっと目線を逸らす。


「だから、そのなんていうか……まぁ、またすぐ帰ってくるよ。だから、さ」

「悟司」


 母の呼びかけに、言いかけていた言葉を飲み込んで目線を元に戻すと、


「ありがとね」


 それだけ言って、母はくすりと笑った。


「お母さん、わがまま言って悟司を困らせちゃってるね」

「いや、別に困ってはいないんだけど」

「うーそっ。だって顔に書いてあるもん」


 母は自分の頬をぷにぷに人差し指で押すと、


「でも。優しくなったね、悟司」

「え?」

「北海道に行く前よりも、ずっと優しくなったと思うな。お母さんは」


 そうだろうか、と悟司は呆然と母親を見つめる。


「きっと、向こうで色んな事があったんだろうね。悟司はいつもそういう話をお母さんにしないけど、でも近ごろは前よりずっと態度が柔らかくなったと思う」

「や、柔らかいって……」

「うーん。なんていうのかな? 前はね、自分のことばっかりって感じだった。お母さんやお父さんのことなんて、正直あんまり興味がないって感じでさ」

「いやいや! そんなことないって。……ちゃんと考えてたよ」

「うん。多分そうなんだろうけど、でもそれが表面に出てこなくて、お母さんやお父さんには、とてもわかりづらかったんだよ」


 悟司は押し黙って、母の言葉に耳を傾けていた。


「でも今年の春辺りに帰ってきてから、それがちょっと変わった気がするなってお母さんは思ったの。前の悟司だったら、『またすぐ帰ってくる』なんて絶対言わなかった」


 確かに。

 そうかもしれない。


 以前は、一人暮らしの快適さと両親からの解放感でいっぱいだった。親から無理矢理帰ってこいと言われるまで、帰るつもりなどほとんどと言って良いほどなかったのだ。それが一人暮らしを続けて一年もすると、なんとなく顔出しに戻ってもいいかもなと言う気になってしまう。


 不思議であった。


「どこが変わったんだろー?」


 そう言って、母親がじろじろと眺め回してきたので、悟司はすっと母親の前に立って先を歩き始めた。


「あ、ちょっと待ってよ悟司ぃー」

「いいから。早くアイス食べよう」


 やっぱり恥ずかしいな。

 親と一緒にいる時の子供は、きっとどこもこんな感じなのだろうかと重いながら、悟司は黙々と母親を置いてきぼりにしてアイス屋へと向かっていった。


 アイス屋に着くと、さっそく母が身体を揺らしながら、


「お母さん、二段アイスのチョコチップとバニラね」


 と悟司の肩を掴みながら嬉しそうにそう告げた。


「え、俺が出すの?」

「いいじゃない。そのお金もどうせお小遣いなんだし」

「まぁそうだけどさ……」


 仕方なしに、悟司はメニュー表を見てレジに向かうと、


「すみません。二段のチョコチップと――」


「あれ、悟司?」

「……へ?」


 その声に振りかえると、店の端っこの席に見慣れた顔があった。


「千佐都!? どうしてこんなところに」


 と、そこで千佐都のテーブルにある福引き券に目が行った悟司は、


「もしかして、千佐都も福引きを?」

「ああ、これ? これはさっき服を買ったらもらってさ」

「――悟司、その子知り合いなの?」


 背中越しに母のそんな声が聞こえて、悟司は振り返りながら母に説明を始めた。


「ああ。えっと、北海道の大学が一緒で」

「あらそうなの!? そりゃすごい偶然ねっ」


 母は大袈裟に驚くと、そのまま千佐都の席まで向かってぺこりと頭を下げた。


「どうも。悟司の母親です」

「あ、ど、どうも」


 千佐都も立ち上がって同じように頭を下げる。


「いつも悟司と仲良くしてもらって、ありがとう」

「ちょっと、母さん!」


 悟司が母を押さえるも、母はにこにこしながら、


「これからも悟司のことよろしくね。この子、内気で人見知りが激しい子だし、大学でどうしてるか心配で」

「いいからっ! そんなどうでもいいこと言わなくていいから!」

「あ、あはは……あの、こちらこそです、はい」


 千佐都が曖昧に笑う。


 それを見て悟司は顔を赤くしながら、レジを指さした。


「と、とりあえず母さんがレジしてきてよ。俺はちょっと千佐都と話があるからっ!」

「そんなに恥ずかしがらなくてもいいじゃん。ねっ、千佐都さん?」

「い、いやー……えと……はは」


 そうして悟司は無理矢理母親を押しのけると、千佐都のテーブルの隣に腰をかけてそのまま頭を抱えながら大きなため息をついた。


「はあー……もうどうしてこうなるんだ……」

「あれがアンタの噂のお母さんか」


 レジに向かっている母の姿を見ながら、千佐都が目を細める。


「想像してたよりもずっと若いね。ウチより若いかも。いくつ?」

「四十……ジャスト」

「めっちゃ若いじゃんっ!」

「その若さが、まんま表面に出過ぎてるんだよ……」


 悟司も一緒になって母親の方を見る。そして、少しだけ責めるような口調で千佐都に言った。


「なんでこんなところにいるの?」

「いちゃ悪いかしらん」


 千佐都はアイスを舐めながら、さほど不機嫌な様子もなく悟司を見つめた。


「すぐには帰らないっていうから、どうせだし北海道に着ていく服でも買おうかなって。ちょうど秋物が出始めてる時期でしょ?」

「千佐都の家は港区じゃないだろ。わざわざこんなところまで来なくても……」

「うちの隣は港区だし、服を買いに来るのなら大きい店に行くのが普通じゃん。てか、なんであたしがアンタに自分の居場所を指定されなきゃならんねん」

「まぁ、それもそうだけど」

「別に普通に良いお母さんじゃないのさ。恥ずかしがることなんてなんもないさね」

「なんもないさねって……」


 相変わらず、妙な語尾を使いやがる。

 そんな風に思っていると、悟司の母がアイスを二つ持って戻ってきた。


「お待たせー、悟司」

「ああ、うん」


 ぶっきらぼうな返事に、母は目を丸くしながら、


「あら。どしたの。なんか不機嫌」

「そんなことないよ」


 ぷいっと顔を背ける悟司を不思議そうに見ながら、母はそのまま悟司の前の席に腰をかける。


「ごめんねぇ千佐都さん。なんだかわからないけど急に無愛想になっちゃって」

「いーえ。いつものことですわん」


 くっそ。誰のせいだと思ってるんだよ。

 悟司は心の中でそう吐き捨てながら、二人の会話に耳を傾けていた。


「千佐都さんも、未開大の学生なんですか?」

「あ、はい。さと――樫枝くんと同じ学部で」

「へぇー。うちの子、人見知り激しいでしょう?」

「ですね」


 そんな千佐都の即答に、思わずぐっと喉の奥の方で音が鳴った。


「でも、最近はそんなこともないですよ」

「あら。そうなの?」

「はい。とても賑やかな連中に囲まれていますので」


 お前を筆頭にな、と悟司が心の中でツッコミを入れると、ちょうど母がふと千佐都のテーブルの上にある福引き券を見て、


「あら? 千佐都さんも福引きに?」


 と、先ほどの悟司と全く同じ質問を千佐都へかわした。こういうところにだけ妙にめざとくなる性格は血筋なのだろうなぁ、と悟司が思っていると、


「え? ああ。これはさっき服を買った時にもらったんです」


 千佐都が福引き券を手にして、そのまま悟司の母にそれを差し出した。


「もしよろしければ」

「え? あら。そんな悪い」

「どうせ捨てるつもりだったんで」

「でも……」


 あれだけ物欲しそうな目をしておいて、なぜか今更遠慮がちになる母親に悟司はとうとう耐えきれなくなって口を挟んだ。


「もらっておいたら?」

「そう? でもなんか欲しがってるみたいで」


 欲しがってたじゃないか確実に。


「いいですよ。本当に」


 笑顔で答える千佐都は、おそらく本心でそう言っているんだろうなと悟司は思った。 やがて、母は申し訳なさそうな顔をしながら、そのまま福引き券を受け取ると、


「ごめんなさいね。じゃあいただいちゃおうかしら」


 と軽く頭を下げて、福引き券を鞄の奥へとしまった。



 ※ ※ ※


 それから約一時間ほど、悟司の母親と千佐都のウインドウショッピングに、悟司は延々と付き合わされるハメになった。


「あら、この服とっても千佐都ちゃんに似合いそう」

「えーそうですか?」

「うんうん。千佐都ちゃんは淡い色合いよりも、濃いカラーで決めた方が絶対似合うと思うのね」

「お母さん、お話がわかるーっ! あっお母さん、こちらの服似合いそうじゃないですか?」

「えぇ、でもこれはちょっと年齢的にねぇ」

「いやいや十分お若いですって」

「まー千佐都ちゃん、うまいこと言って」

「ホントですよ」


 帰りたい……。


 悟司は通路脇にあったベンチに腰をかけると、リング上でいくつものパンチを浴びせられた後にセコンドへ戻ってきたボクサーさながらの体勢でうな垂れた。


 意外に気が合うのだな、と悟司は二人がきゃっきゃとはしゃいでいる姿に目がいった。まぁどちらも普段から姦しい同士なのだから、全くありえない光景ではないと思っていたが、それでも大人を相手に社交的になれる千佐都の姿は、悟司的には大変意外なことであった。なんとなく、これまで悟司の中で判断した千佐都の性格だと、彼女は同年代にはガンガン突っ込んでいけるタイプだが、歳の離れた相手とはうまく会話が成立しないんじゃないかと漠然と思っていたからだ。


 ところがどっこい、いつもの語尾はどこへやら。対応もしっかりしていて、想像していたよりもずっとしっかりしている。そこで悟司は、最初に千佐都と出会った際に一緒に話していた、ニングルハイツの大家さんのことを思い出した。そういえば、あの時も千佐都はちゃんと受け答えしていた。


 そう考えてみると、千佐都は思っている以上にしっかりした女性なのかもしれない。


「まさかね……」


 悟司は二人の姿をみながら、そんな風に独り言を漏らした。


 そうして始まる福引きタイム。


「券は全部で十二枚か」


 母が取り出した券を見て、悟司が腕を組んでそう呟く。


「千佐都ちゃんも一回引く? やっぱり一回はやっておいた方がいいよ」

「どうしようかな」


 千佐都は少し悩んだ後、


「じゃあ、一つも当たりが出なかったらピンチヒッターということでやります」

「なにがピンチヒッターだよ」


 悟司が呆れたようにそう言うと、千佐都はへんっとバカにしたように鼻で笑いながら悟司を見た。


「あなたよりはあたしの方が断然引きが強いと思うけどねー」

「なんだと」


 悟司は母の福引きを引っつかむと、そのまま福引き所に券を三枚差し出した。


「お、悟司がんばれー。狙うはコーヒーマシンだよー」


 背中越しに母の応援が届く。


「それじゃあ、回してください」


 福引き所の人が笑顔で悟司に告げる。


「見てろよ、千佐都」


 そうしてがらがらと回す一回目。


「残念でしたー」


 出てきた玉の色はもちろん白だった。


「なにくそ!」


 二回目。


「残念でしたー」

「ちくしょおおおっ!」


 三回目。

 出てきた玉は――もちろん白。


 悟司ががっくりと首を垂らして二人の元へ戻ってくると、千佐都はけらけらと笑いながら悟司の肩をぽんぽんと叩いた。


「言ったとおりじゃーん。ね? ね?」

「うるさいな……」

「じゃ、次はお母さんがやるねっ」


 ちょこちょこと駆け足で福引き所へ向かう母親。


「六回やりまーす」

「はい、それではゆっくり回してください」


 福引き所の人の声と同時に、悟司の母は大きく右の腕を回した。気合いは十分らしい。悟司も千佐都と共に悟司の母親の元へ駆け寄ると、


「コーヒーマシン……コーヒーマシン……」


 そんな母の呪文のような呟きが聞こえて、思わず苦笑いが出てしまった。


「そんなに気合い入れると、逆に出ないんじゃないかな」


 悟司の言葉も耳に届かぬ母の一回目。


「おめでとーございます!」


 出てきた玉の色は赤だった。そこで悟司ははっとする。

 確かチラシに書かれていたコーヒーマシンの色も――赤だっ!


「母さん、これもしかして……いったんじゃないかな!?」

「やったかな!? お母さんコーヒーマシンやったかな!?」


 そうしてドキドキしながら手を合わせる悟司と母に、福引き員の人の口から出てきた言葉は――


「五等賞品の○タック洗剤を差し上げまーっす」


 ――残酷にも二人を悲しいピエロにさせた。


「……もう一度、やる」


 二回目の福引きを力なくがらがら回す母。またしても白。

 そしてそのまま立て続けに白が連続三回。

 とうとう後がなくなった最後の回転時に、母はとうとうおかしくなったのか、


「はんにゃーはーらーみたー……」


 と、いきなり般若心経を唱えだした。


「悟司のお母さん、そんなにコーヒーマシン欲しいの?」


 千佐都が不安気に悟司にそう問いかけたが、悟司もまさかそこまで欲しがっていたなんて夢にも思っていなかった為、ただ静かに首を横に振るのみ。


 そうして出てきた色は、


「黒です。おめでとうございますーっ」


「「黒?」」


 悟司と千佐都がたまらずそう聞き返すと、


「はい。黒は参加賞で、こちらの『自宅で簡単、ドリップセット』を差し上げます」


 ぽんと母の手の上に、袋入りの小さなドリップセットが置かれた。そこら辺のコンビニでも売っていそうな普通のコーヒーセットに、母の膝ががっくりと崩れ落ちる。


「ああ……ジーザス……」

「……さっきの般若心経から改宗するの早いな……」


「お母さん、あたしに任せてくださいっ」


 母の手をとって、千佐都が強く頷く。


「あたしが、仇をとりますよ!」

「千佐都って、そんなに運良くないだろ」

「失礼しちゃうな」


 悟司の言葉に、千佐都が振り返りながら両腰に手を当てて言った。


「あたし、昔ド○えもんカレンダー当てたことあるんだからね。テレビ抽選の」

「それはすごいのかすごくないのかよくわかんないんだけど」

「一度でも当たった経歴があれば、もうそれだけですごいことでしょうよ!」


 千佐都が福引き券を母から受け取って、ガラガラのハンドルに手をかけた。


「残りは三枚。あと三回で、あたしが見事コーヒーマシンを当ててみせるから」


 そうして回した一回目。


「おめでとーございまーすっ。参加賞の『自宅で簡単、ドリップセット』でーっす」


 またしても母の手にもう一つのドリップセットが乗せられた。これで残るは二回。


 再びハンドルに千佐都の手がかけられる。


「悟司、豆腐は何から出来てる?」

「……は?」


 いきなりの千佐都の質問に、悟司は少しだけ迷ってから答えた。


「だ、大豆だけど」

「しゃっくりはこの、今のあたしの質問に答えられたら止まるってしってた?」

「そんなこと、今はどうでもいいだろ!」


 それに、そんな言葉一つで止まるしゃっくりなどあるわけがない。


「今はどうでもいいこと言って、気を紛らわせたいのっ!」


 千佐都は大きく息を吸ってゆっくり吐くと、


「いきます。二回目」


 がらがらと音が鳴って、玉が転がり出る。


「残念でしたー。白ですー」

「くそうっ!」


 もう後がない。

 手汗でもかいたのか、千佐都はハンドルを持つ手をごしごしとズボンで拭うと、


「もーろーびとーこぞーりーてー」


 と、急に賛美歌を歌い始めた。いよいよ千佐都まで壊れてきたらしい。

 不意に、悟司は急にこの福引き所が怖くなってきた。先ほどから母も千佐都も、福引きを回すごとに気がおかしくなっていってる。人の欲望とは、かくもこのように容易く平常心を奪ってしまう物なのだろうか。


 おかしい。

 どう考えてもおかしい。妙な特殊フィールドでも出来ているんじゃなかろうかここは。


 そんな風に悟司が思っていたところで、


「よし」


 千佐都がぐっとハンドルに手をかける。


「あたしはやってやる……絶対当ててやるんだから……」


 精神崩壊寸前をどうにか踏みとどまっている千佐都の手がゆっくりと回り出す――



 ※ ※ ※



 時と場所は変わり、現在は九月七日の東京上野。


 結果的に、最後の福引きで千佐都が当てたのは『北斗星ロイヤル席』のペアチケットであった。まさか悟司も母親も、千佐都が二等のコーヒーマシンを飛び越して一等を引き当てるとは夢にも思っていなかった為、しばらく全員唖然として言葉も出なかった。


 結局、二人の帰省料金が大幅に浮くということで母は二人でこの券を使うことをすんなりと承諾してくれた。目当てのものじゃなかったというのもあるのだろう。


 そんなわけで東京にやって来た悟司と千佐都は、北斗星の車両を見ながら二人して大口を開けてホームに立っていた。


「あたし、寝台列車乗るの初めてだ」

「俺も」


 発車の時間まであと五分少々。北斗星の中には食堂車もあるということなので、旅のお供でもある駅弁も購入しなかった。


「ねぇ悟司、そういえばさ」

「ん?」


 千佐都がホームに置いた手荷物を掴んで、こちらを振りかえる。


「今日って、オリンピックの開催地が決まるじゃなかったけ?」

「ああ、そういやそんなこと母さんも言ってたな。時間は確か今日の深夜だったはず」

「東京に決まるかもしれないって時に、あたしらは東京を離れるのか……。どうせなら一泊くらいして盛り上がりたかったなぁ」


 千佐都は、うっすらと日が沈みかけているホームを名残惜しそうに見回すと、ふと思い出した様に、


「あれ。ところで、それっていつのオリンピックだったっけ?」


 と悟司に尋ねた。悟司はうーんと唸ってから、


「確か二○二○年、だったかな」

「あと七年後?」

「そうなるね」

「ふあぁ。そりゃだいぶ先だなぁ。あたし、二十七歳になっちゃってるよ」


 大袈裟に声を上げる千佐都。


「その頃のあたしって、どうなってるんだろね?」

「たいして変わってないだろ」

「いやいや。きっと女として脂の乗ってきてる時期ですぜ、ニイチャン」

「ニキビが吹き出物が呼ばれる頃だもん。今からでも遅くないから、肉を控えたら?」

「そういう意味のアブラじゃないっつーの!」

「うごご……」


 そうして千佐都に首を絞められていると、発車の合図を知らせる音がホームに鳴り響いた。


「やばっ! 悟司、切符持ってる?」

「も、持ってるよ……ちゃんと二つ」


 悟司がポケットから二枚の券を取り出してみせると、千佐都は荷物を両手で持って北斗星に乗り込んだ。

「じゃー行きましょっ!」


 ※ ※ ※


 北斗星のロイヤル席は全室個室となっていた。

 悟司たちが切符に書かれた車両まで辿り着くと、通路脇に乗務員のお姉さんが立っていた。お姉さんは二人に気付くと、


「本日は北斗星にご乗車いただき、誠にありがとうございます」


 そう言って丁寧に頭を下げるのに釣られて、千佐都も慌てて頭を下げる。


「あ、これはどうもご丁寧に」

「ども」


 千佐都に倣うように悟司も軽く頭を下げると、お姉さんは千佐都に向かって一枚のカードを手渡した。


「こちらがルームキーとなっております」

「わ。カードキーなんだ」


 千佐都は脇に設置してある挿れ口にカードを差し込んで扉を開けると、そこには大きなソファーと、机が設置されていた。


「はへ? ベッドはどこ? このソファーがそうなのかな?」

「そうですよ。少し失礼しますね」


 そう言ってお姉さんは先に部屋の中に入ると、そのままソファーの下部分に手をかけた。すると、ソファーの下部分から補助ベッドが出てきて、そのままソファー部分と合体してしまった。


「このようにダブルベッドとなっております」


 笑顔でこちらを振りかえるお姉さん。それと真逆に、二人の顔は思いっきり引きつってしまった。


「だ、ダブルベッド……」


 これは想定外だった。まさか千佐都と同じベッドに寝るわけにもいかない。


「あ、あの。これってダブルしかないんですか?」

「え? あ、はいそうですけど」


 万に一つの可能性に賭けてそう尋ねても、結果は同じであった。


「ど、どうするんだよ千佐都……」

「あ、あたしにわかるわけないじゃないのさ……」


 千佐都は靴を脱ぐと、そのまま補助部分のベッドを再び戻して、そのままソファーに腰をかけながらぎこちなく笑った。


「ま。まぁ寝るときになったら考えましょーよ。そうしましょ! あは。あはは」

「そ、そうだな……あは。あははは」


 そうして引きつり笑いを浮かべる二人に、お姉さんは先ほどと同じ笑顔を向けて、


「それでは、快適な旅をお楽しみください」


 と、言い残して去って行ってしまった。

 同時に、ごとんと揺れる感じがして、北斗星がゆっくりと動き出した。


「お。発車したみたい」


 千佐都がべたりと窓に貼りつく。


「札幌の到着って、何時だっけ?」


 千佐都の質問に、悟司は切符を見ながら答えた。


「朝の九時半頃だね」

「てことは約十六時間の旅か。長いなぁ」


 落ち着かないのか、千佐都はそこまで言うとソファーを立ち上がって入り口とは違うところのドアを開いた。


「お。見て見て悟司。シャワールームつきじゃん!」


 その声に一緒になって覗いてみると、確かにそこはシャワールームであった。中に入って、おもむろに取っ手部分を引くと、洗面台とトイレが収納されており、悟司もつい「おう」と短い声が漏れてしまった。


「お湯はそこのスイッチ押すと、約十分間くらい出るみたい」


 千佐都が備え付けの内部構造図を見ながら、悟司に説明する。


「わ。わ。ウェルカムドリンクサービスだって! ワインとかも頼めちゃうんだ! すごー」

「千佐都。俺ちょっと列車の中、探検してくる」


 千佐都と同じくらい、内心すごく興奮していた悟司はそのまま靴を履いてロイヤルルームから飛び出した。


 三号車までやってくると、ロビーカーと呼ばれる広々とした空間が悟司の目の前に現われた。奥の方には備え付けのテレビが取り付けられ、ハリー○ッターの映画が流されている。悟司以外にも、既にロビーカーには幾人かの客がそれぞれソファーに座りながら外の景色をのんびりと眺めていた。


 悟司も適当に空いている席に腰をかけてみた。意外にもこれが大変座り心地が良い。


 最悪、千佐都をベッドに寝かせて自分はここで眠ってもいいかもしれない。そんなことを思っていると、千佐都がロビーカーに現われた。


「おー。なんだここは!?」

「千佐都。ダブルベッドの件はなんとかなりそうだ」

「? なんとかって」

「俺、ここで寝てもいいかもしれない」

「……こんなとこで?」


 千佐都はぐるりとロビーカー内を見渡した。


「他にお客さんいたら邪魔じゃないの」


 それもそうか。すっかりその事を失念してしまっていた。


「それよりあたしも、ダブルベッド対策考えたよ!」

「どうするつもり?」


 千佐都は悟司の横にあるソファーに腰をかけると、腕を組みながら得意げに笑って、


「補助ベッドとソファーの間に、あたしらの荷物を置けばいいんじゃないかな?」

「荷物?」

「そう。仕切りのようにすれば」

「うーん……」

「ダメかな?」

「ちょっとね」


 悟司は一瞬、春日のことが頭に浮かんで、そんな風に答えた。


「……ダメかぁ」

「ダメでしょ」

「まぁ……そうだよねぇー」


 ごとんごとんとレールの上を走る列車の音が、むなしく鳴り響く。


「じゃあこんなのはどうだろう? 食堂車でご飯を食べたあと、交互に寝る。一人が寝ている間、もう一人はここで時間潰すの」


 それはなかなかに悪くない提案であった。食堂車でのディナーは夜の七時からなので、そこでゆっくりご飯を食べても、おそらく八時半頃には食べ終わっていることだろう。


 そこから互いに寝る準備を始めて、一人が九時から就寝。深夜三時頃に起きてもう一人にバトンタッチする。その後、もう一人がそこから睡眠を取り始めれば、到着までに大体一人六時間くらいは眠れる計算になる。


「いいね。そうしよっか」


 そんなわけで、悟司は千佐都のその提案に乗っかることにした。


 ※ ※ ※


 結論から言うと、千佐都の交代制就寝は大失敗であった。


 夜更かしは得意だから、という千佐都の言葉に甘えて、悟司が最初に寝ることになったのはいいのだが、いかんせん夜の九時に寝ろと言われても、ちっとも睡魔なんて襲ってこないのだ。仕方なく広々と使えるダブルベッドにして、自由に寝返りを打てる広さにしてみても、あまり効果はなかった。


 そんなこんなで枕元に置いてあった携帯の時計を見ると、夜の十二時。ちょうど列車が青森に止まり、これから青函トンネルへと向かうための切り替えを行なっている最中であった。


 それでもどうにかして寝ようと思って、目をぎゅっと瞑ったまま、かれこれ一時間くらい経った頃だろうか。微睡んできたな、と思った途端、意識を失って、気がつけばそのまま朝の四時半になってしまっていた。大寝坊である。


 列車はとっくに北海道入りしてしまっていた。


「……や、ばい」


 まだ寝ぼけたままの状態でよろよろとソファーから立ち上がると、悟司は重い瞼をこすってロビーカーへと向かった。


 千佐都は怒っているだろうか。しかし、それにしては直接文句を言いに来ないなと思ってロビーカーに辿り着くと、発車直後にやっていたハリー○ッターの映画が、まだ流れ続けていた。一体何ループしてるんだ。


 悟司は、他に誰もいないロビーカーの奥に千佐都の姿を発見した。


「文句を言いにこないわけだ……」


 千佐都はソファーの手すり部分ににもたれかかりながら、すやすやと寝息を立てて眠っていた。周りにお客さんがいたらどうするなどと言っておいて、自分で寝てしまうとはなんとも千佐都らしい。


 しばらく寝かせておいてやろう。

 そう思って、悟司は千佐都の隣に腰をかけようとした。


「ん?」


 そこでふと、悟司は千佐都の着ている半袖パーカーの背中部分に、小さな穴が開いているのに気付いた。ブラジャーよりも少しだけ下の部分である。


 この半袖パーカーは千佐都のお気に入りの服なのか、まだ千佐都と同居している頃にも着ていたものだった。その時には気付かなかったのか、それともまだその時は開いてなかったのか。


 そんなことを思っていると、


「んん……あ、悟司」


 手すりから顔をあげて、千佐都が目覚めた。


「それ、どうしたの」

「それって……なんだぁ?」


 千佐都が大きく伸びをしながらあくびをした。悟司は自身の背中を指で指し示しながら、


「いや。そのパーカーの背中」

「背中?」

「うん。少し破れて穴が開いてるよ。どっかで引っかけたの?」


 悟司がそう尋ねた瞬間、それまで寝ぼけ眼だった千佐都の顔が少しだけ険しくなった。


「……ああ、これ」


 一瞬、聞いてはいけないことだったのかと思ってどきりとしたが、千佐都はすぐにいつもの表情に戻ると、


「あたし、高校生のときまでコルセットつけてたんだ。だから多分、それで破れちゃったんだと思う。この服、高校の時に買ったやつだから」

「コルセット?」

「うん」


 いきなりそんな単語が出てきて、その先を聞いてもいいものなのかどうか悟司は迷ってしまった。


 そんな悟司の心中を読み取ったのか、千佐都は三白眼になりながら、


「なにー? その顔は『なにがあったの?』って聞きたそうな顔だね?」

「い、いや……え、と」


 悟司はしどろもどろになって、頭をかいた。


「別に、千佐都が言いたくなければ聞かないけど……」

「いいよ別に聞いたって」


 なんとまぁあっさりと。

 千佐都は窓の外の景色を見ながら、顎に手を置いて悟司に言った。


「側湾症だったんよ。あたし」

「側湾症?」


 耳慣れない言葉に思わず聞き返す。


「言ってもわかんないか。要するに、背骨が曲がっちゃう病気よ。特発性っていうらしくて、いつなったのか原因はわかんないんだけど」

「……それで、コルセットつけてたってこと?」

「うん。でも手術したんだ。だから今は多分平気」


 千佐都はそこまで言うと、悟司が寝ている間に買ったのか、ソファーの隅からペットボトルのお茶を取り出して、それを口にした。


「あたし一年遅れで大学入ったでそ? それ手術が原因なんよ。高三の冬に手術して、それから卒業って感じでさ。タイミングがもう少しずれてれば、今頃悟司よりも一年上の先輩だったかもねー」


 そう言って、けらけらと笑う千佐都。


「あのさ、」

「うん?」

「それ、もう本当に大丈夫なの?」


 真面目な顔つきで尋ねると、千佐都はぷっと吹き出した。


「ちょっとちょっと! そんな、今にも死ぬかもしれないみたいな顔しないでよ? あのね、全然知らないみたいだけど、別に命に関わる病気とかじゃないんだからね?」

「そ、そうなの?」

「そうだよ。ったく。バカね悟司は」


 呆れたようにため息をつくと、千佐都はペットボトルで悟司の腕を軽くはたいた。今飲んだ分が最後だったらしく、腕に当たったペットボトルは、空容器らしくぽこんと間抜けな音を鳴らして悟司の耳に届いた。


「少なくともあたしは軽度だし、その中でも手術しなきゃいけないくらい曲がってはいたんだけど、今は大丈夫。あまりきつい運動は出来ないけどね」

「運動?」

「うん。一応まだ様子見で、お医者さんからは止められてる」

「それでよくスキー部なんか選んだなお前……」

「あそこは飲み部でしょ。スキーなんて、はなからするつもりなかったし」


 そこまで言うと、千佐都はすっくと立ち上がった。


「んじゃまぁ、あたしも寝ますかね――って、おい悟司! もー五時近くなっちゃってんじゃんか!?」

「あ」


 携帯の時計を見て叫ぶ千佐都の声で、ようやく悟司もそのことを思いだした。


「どーすんのさっ。もうぜんっぜん寝れないじゃんかーっ」

「いやいや。まだ四時間もあるし……」

「朝食、食べるもん!」


 どんだけ頭の中が食欲やねん、コイツは。


「……まーいいや。もう五時だし、このまま起きてよっと。どうせ札幌でかすがの車に乗るから、その時に寝ればいいし」


 ちなみに悟司は北斗星に行く数日前に、月子に連絡取っていた。八日の朝に帰るから、出来れば春日にもそう伝えて置いて欲しい、と言い残して。


 春日本人に頼むのはどうにも気が引けて仕方がなかったからなのだが、はたして月子はうまいこと言ってくれているだろうか。悟司は最悪バスで帰るのも覚悟していたが、千佐都の様子を見る限り、コイツはそんなこと微塵も考えてはいまい。


「あのね……。一応千佐都の言うとおり、月子ちゃんの方から先輩に連絡を頼んでおいたけど、普通に考えたら来ないと思うよ先輩は」

「どして?」


「だって先輩、最近俺らを乗せるの嫌がってるじゃん。今回のことだって、端的に言えば、『帰ってくるから迎えに来い』ってことでしょ? そんな態度じゃ絶対迎えになんか来ないって。現に今回実家に帰る時に千歳まで送ってもらった時も、すごいふて腐れてたでしょ?」


「それはアンタがあの時のガス代踏み倒したから怒ってるんでしょ。『お金がないから、今度でいいですか?』とか言って」

「千佐都が言うことじゃないだろ!? 千佐都は一体何回踏み倒してるんだよ! 俺はまだ一回だけだ!」


「一回も百回も変わんないわさっ!」

「いや、変わるよそれは!?」

「……まぁ。確かに最近、ちょっと強引に乗せてもらいすぎてた気もするわさ。今日もし迎えに来てくれてたら、なにか奢ってあげましょう」


 奢られるよりも、春日はこれまでのガス代を返してもらった方がきっと喜ぶだろう、と悟司は思ったが口には出さない。総額がどれくらいで、そしてそれを今の千佐都が全額払えるはずがないことは、とうにわかりきっていたことだったからだ。


 ※ ※ ※


 それから数時間して、いよいよ札幌駅到着まであと十分ほどになった。


「いやーしかし快適な旅だったナー」


 そう言って千佐都がロイヤル席のソファーで足をばたばたと動かしている姿を見ているところで、いきなり母から電話がやって来た。


「母さんからだ。ちょっと行ってくる」


 悟司は電話を持って、デッキへと向かう。


「もしもし?」

『おはよう悟司。もう着いた?』

「いや、あと少しで札幌」

『そっか。千佐都ちゃんは元気?』

「元気じゃない日の方が珍しい人間だからね」


 悟司がそう言うと、電話の奥で笑っている声が聞こえた。


『あのね。悟司が変わったなって話、前にしたじゃない?』

「え」


 少し考えて、イオンの時のことかと思い出す。


『あれね。きっと千佐都ちゃんのおかげのような気がするの』

「……は?」

『ううん。千佐都ちゃん、っていうかね。正確には千佐都ちゃんと、その周りにいる人たちってことかな? お母さんは千佐都ちゃんしか見てないから、他の人達がどんなのか、まだわからないけど――』


 札幌駅に到着するという車両アナウンスが流れる。


『――千佐都ちゃんといるときの悟司、今までお母さんが見たこと無かった顔してた。面倒くさがっているようで、でもとても楽しそうにみえたの』

「…………っ」

『それだけ言いたかったから電話したの。今お母さんにもアナウンス聞こえたよ。またしばらく会えなくなるけど、身体に気をつけてね』

「……うん」

『じゃあね、悟司』


 通話を終了して、悟司はデッキから見える札幌の町並みをぼうっと眺めた。


「面倒くさがって……楽しそうか」


 そのまま携帯を握りしめていると、今度は連続で二件のメールが届いた。


 一件目の相手は、春日からだった。




『件名:今どこだ?

 本文:鷲里と一緒に駅に歩いて向かっている最中だ。改札にいればいいか?』



 続いて二件目のメールは月子から。




『件名:おかえりなさい

 本文:寝台の旅は楽しかったですか? あとでぜひちさ姉と聞かせてくださいね♪』



 その二つのメールを見ながら、悟司は自然と顔がほころんでいることに気付いた。


「確かに面倒なことも多いけど……でも、楽しいことはそれ以上あるよ」


 二人に返事のメールを作りながら、千佐都の元へと戻る。


 景色を呆然と見ているだけではちっとも実感出来なかったが、今ならはっきりと感じられる。



 ようやく、帰ってきたのだと。



『件名:Re今どこだ?

 本文:もうすぐ着きます。土下座した方がいいですか?』



『件名:ただいま

 本文:月子ちゃんも、旭川でゆっくり出来た? あとでゆっくり聞かせてね』





 その二つのメールを送信すると同時に、北斗星が緩やかに札幌駅のホームへと滑り込んだ。

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