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シュガー・シュガー・シュガー(!)  作者: 助供珠樹
大学一年:4~7月まで(エピソード1)
5/90

第四章『月子のおっとり3さじ目』

プロフィールNo.3


名前:鷲里月子

年齢(誕生日):18歳(3/26)

身長(体重):163.7cm(55kg)

血液型:AB(RH-)

好きな飲み物:ソフトカツゲン(プレーン味)

苦手な物:男の人(ピークは中学校時代で、最近はそれほどでもない)


(2012年 8/31~9/10連載分)

 結局、その日は鷲里月子を勧誘することなく解散となった。


「悟司の女版かぁ」


 スーパーの袋を抱えながら千佐都が呟く。


「変な肩書きつけるなよ」


 同じくスーパーの袋を持ち、曇天の夕暮れどき特有の薄暗さの中、悟司は千佐都の小さな身体を追うようにして歩く。後ろ姿だけ見ていると、まるで小学生高学年くらいの女の子がお母さんのお使いに頼まれているみたいで可笑しかった。


「でも本当にどうする? 春日の話によるとまだ悟司よりは行動力もあるみたいだけど」


 その後の春日の説明によると、月子は漫研に二人で向かって入部届けを出したそうだ。そのもう一人の名前はわからないが、少なくとも千佐都に引っ張られるようにして軽音サークルの扉を叩いた自分とは大違いである。


「問題はその相手よね。おそらく女子だろうからもし勧誘を持ちかけるとするならまずはその子に話をつけるしかなさそうだけど」

「名前がわからないんじゃなぁ」


 そのもう一人の方は、漫研には入らなかったという。その子の行方まではさすがの春日も聞き出せなかったらしく、話もそこで打ち切り。春日は今日もミキシングの編集があるので早めに帰宅すると言いだし、悟司と千佐都はそのまま大学を出て、近くのスーパーで食料の買い出しに出かけることにしたのだった。


 そうして我が家へ到着する直前に、ぽつぽつと雨が降り始めた。

 悪天候の空を呪いつつも視線を前方へ戻そうとしたその時、ちょうどニングルハイツの二階へあがろうとする人物の陰が目に入った。


 千佐都はそれに気付かず、そのまま急いで自分の部屋の方へと向かっていく。

 悟司もその後を追うように、自分の部屋へと向かおうとしてしたところで、


「ん?」


 二階に上がろうとしている人物が、以前非常にどこかで見たことのあるシルエットだと気付いたのだった。丸い背中を折り曲げてなにやら手元を注視しながらカンカンと音を立ててゆっくりと階段を上っていくその姿。


 誰だったかなと首をかしげたのと、規則的な階段の音が変化したのは同時だった。

 がちん、と鈍い音がしたと思うとそれに続いて激しく何かがぶつかる音。そのまま連続して激しい音が鳴り、それに合わせるように地面が揺れるほどの振動。


 たった今二階に上がろうとしていた人が階段を踏み外したんだ。そう気付いた悟司は慌て

てスーパーの袋を地面に落とすと、一度は通り抜けた階段の方へ向かって駆け込んだ。


「だ、大丈夫、ですか!」


 階段の途中で腰をさすりながら呻くその人を見て、悟司は思わず言葉を失った。


「あ、あなた、は――」

「ちょっと悟司。何、今のすごい音」


 転がったままのその人物は、悲しそうな声を短くあげた。


「ボクの……トコロテンドーDSが……」


 自分の身体よりも、それまで自分が持っていたゲーム機の方が大事らしい。見ると、彼が言うトコロテンドーDSは階段の一番下――悟司が立っているすぐ足下に落ちていた。画面に大きな亀裂が走り、その液晶部分には降ってきた雨が入り込んでめちゃめちゃになっている。


「ああああ……」


 男にしては少し甲高いその声も、その体つきも悟司には見覚えがあった。

 いつぞやの宗教勧誘に引っかかった際に共にいた人物。


「お、小倉……くん?」

「え? え?」


 いつの間にか傍まで来ていた千佐都が、悟司と小倉を交互に眺めながら戸惑っていた。



  ※ ※ ※



「痛い」

「が、我慢して」


 千佐都が持っていた救急箱にあるガーゼを腰に貼ってやると、小倉は身をよじりながらそう言った。


「擦過傷になって、る。しょ、消毒液でとりあえず洗ったけど、打ち身も、あ、あるだろうから、ひ、ひどそうなら一度病院に」

「大丈夫だよ」


 小倉が身体を起こすと、ちょうど千佐都が自分の部屋から戻ってきた。


「ゲーム本体は完全にダメだけど、ソフトの方は大丈夫みたい」


 千佐都は自分のトコロテンドーDSを持ってやってくると二人の間に座り込む。


「ところで二人って一体どういう関係ですのん?」


 千佐都がそう尋ねる。

 話すのは少々恥ずかしかったが、それでも悟司はたどたどしく小倉と出会ったときの経緯を簡単に説明した。安藤と水谷という人物からの宗教勧誘、その際に居た喫茶店で同じく勧誘を受けていたのが小倉であったこと。


「へぇー……」


 そこまで話すと千佐都の白い目が、悟司をざっくりと突き刺していた。


 ……あ。呆れている。

 明らかに千佐都は悟司を見て、そんな顔をしていた。


「あ、あれからお、小倉くんはどうしたの?」


 千佐都の視線に耐えられなくなった悟司は、無理矢理小倉に向かって話題を振った。


「どうしたって? 帰ったさ。もともと宗教なんて興味ないし」


 そう言いながら小倉は妙にそわそわしながら千佐都の方を見た。

 小倉は見た目も話ぶりも、明らかにオタク然としていた。むしろオタクよりもオタク然としている。最近のオタクとは見た目にも気を使い、服装も髪型もそれなりにしゃんとした人が多いと悟司は聞いていた。が、小倉は「そんなお前らの伝聞などまるでお話にもならないね」とばかりに、自らの存在をもってそれを証明していた。どう見てもガチなのである。ガチオタなのだ。オグライズガチオタ、ガチオタイズオグラ。


 とにかくそんな小倉が千佐都を見てそわそわしている。何か妙なこと考えていないだろうなと思っている間に小倉は口を開いた。


「そんなことより。君」


 小倉が千佐都を指さした。


「へ? あたし?」


 きょとんとした千佐都が自分を指す。

 まさか本当に危険なことを、と思っていた悟司はすぐにそれが杞憂だと気付かされた。


「君の持ってるそのゲーム機なんだけどね。もし良かったら、ボクに貸していただけないかな? すぐにゲーム機の方を新しく手配する予定だから、ほんのわずかな期間で構わないんだけど。どうだろう?」


 ここまでの台詞を言い切るのに、わずか六秒。

 なんともオタクらしい、実に見事な早口だった。


「べ、別に良いけど。最近ゲームやんないし……」


 そう言って千佐都はトコロテンドーDSを渡すと、小倉は早速電源を点けた。


「落ち着かないんだよね。七月には『ぽよぽよ』の全国大会前の予選が札幌にあるんだ。わずかな時間でも練習しないと頭の中でシミュレートした連鎖式が瓦解してしまう」

「あ、あはは……」


 本当に、とことんゲームなんだな。

 悟司は曖昧に笑みを浮かべながらそんなことを思った。

 しゃきしゃき喋ることだけを除くと小倉は本当に、見た目そのままの人物であった。


「あ、あのー。ちなみにそのことなんだけど」


 千佐都は頭をかいてなにやら恥ずかしそうにもじもじする。そういえば千佐都は小倉からゲーム機とソフトを手渡された時からなんだか様子がおかしかった。

 一体どうしたのだろうと思っていると、


「じ、実はあたしもさ。好きなんだ。『ぽよぽよ』」


 言いにくそうに千佐都がそう呟いた。


「えっ」

「さ、悟司には言ってなかったけど。あ、あたし実は結構ゲーマーでさ。て言ってもやるのはほとんどパズルゲーと音ゲーばかりで、たまーにRPGも、ね。『ぽよぽよ』は昔相当やりこんでた時期があったからー……」


 意外も意外。思わず耳を疑ったが、そんな千佐都の告白に、小倉は今までにみせたことのない目の輝きを見せて千佐都に詰め寄った。


「ホントかい? 実はボクの家にまだ据え置きの『ぽよぽよ』があるんだけど」

「マジで!? もしかしてPS版?」

「うむ。どうだろう? もしよかったら大会までボクの対戦相手としてお付き合いしていただきたいんだが」

「行く! 行く行く! てか予選あるならあたしもエントリーしたいんだけど」

「ふーむ、でも、もう締め切りは終わってしまったと思うんだよね」

「マジかあ! くっそー……もっと早めに出会っておけば良かったね、あたしたち」


 気付けば二人は完全に意気投合。きゃっきゃと悟司にはわからない『ぽよぽよ』の登場キャラの名前を出し合いながらはしゃぎ合っている。

 あまりにも意外すぎる。千佐都はどちらかといえばこういうタイプとは全く縁のない人間だとばかり思っていたが。よもや同類だったとは。


「――って、そうじゃない! 千佐都、作詞作詞」


 悟司はポケットからUSBメモリを出して二人の間に割って入った。このUSBメモリは以前、春日がデモ音源用として持っていたもので、この前録ったばかりのギターは入ってなくてもしっかりと基本のメロディーだけはこの中に収められていた。


「それに鷲里さんのことで春日先輩から何か連絡が来るかもしれない。とにかく今日はこのまま作詞の作業に――」

「――鷲里?」


 ぴくりと小倉の肩が動いた。


「それって、もしかして鷲里月子のことかい?」


 眼鏡の奥からつぶらな瞳を覗かせて、小倉はゲーム機から顔をあげた。


「へ? お、小倉くん? し、知ってるの?」

「知ってるもなにも――」


 ゲーム機から「ぱおえーん」という可愛らしい少女の音がリフレインしまくった。『ぽよぽよ』で五連鎖以上すると聞ける台詞だ。


「――月子はボクの幼なじみだけど?」



  ※ ※ ※



 翌日、悟司は無理矢理小倉を引き連れて喫煙所のベンチで待ち合わせていた春日の前まで来た。


「お前は確か、樫枝が安藤達の勧誘に引き込まれていたときの」


 春日が驚いたようにそう言うと、悟司は隣でゲーム機から目を離さない小倉を見て言った。


「この人ですよ先輩。鷲里さんを漫研まで一緒に連れて行った人物は」


 小倉の話によると、月子と小倉は共に旭川出身で生まれたときから両親同士が知り合いだったそうだ。幼稚園から高校にあがるまで二人はずっと一緒。なんだよそれ、と言いたくなるくらいに羨ましいシチュエーションである。


 小倉は重度のゲーマーな上に萌え系二次元美少女が大好きな、文字通りオタク以外の何者でもなかったが、コミュ障と噂の月子とはまるで正反対に、はきはきとモノを喋る人間だった。自虐的でも自尊的でもなく、良い意味で素直。日がなゲームに没頭さえしていなければ相当に自己の意見をはっきりと人に伝えられる人間であることがわかった。


 ――月子はさ、ボクがいないと自分のしたいことも出来ないんだよね。


 文脈だけみれば自信家のように聞こえなくもないが、実際の小倉は月子のことを特に異性として意識していなかった。いわく、彼にとっての異性とは「二次元の女の子」のことであり、三次元の女の子に関しては興味どころかやや嫌悪しているきらいがあった(だが、自分とゲームの趣味で意気投合し合う千佐都のことは嫌っていないようである)。


 とにかく彼は幼い頃からいつも一緒だった月子にこれっぽっちも興味がないとのこと。全く羨ましい。あまりにも羨ましすぎて、いっそ腹肉を掴んで振り回してやりたい。

 だが小倉のその一切の嫌みがない口ぶりでそう言い切られてしまっては、もはやその嫉妬心すら馬鹿馬鹿しくなってしまう。それくらい彼の物言いは穏やかで実直さを持った響きを伴っていた。


 繰り返し言うが、小倉はオタクという要素だけを取り除いてしまえばかなりまともな人間である(やや早口で聞き取りにくいが)。しようと思えば聞き役にも徹することの出来る立派な会話術を心得ているし、反対に自分が主張したいこともはっきりと口にすることが出来る(声は甲高いが)。


 たったそれだけのことと思われがちだが、それだけのことが出来る人間というのが果たしてどれだけいるのやら。現に悟司自身はそういったことが出来ない人間なのでそんな小倉のことが、悔しくもあり同時に尊敬もしていた。


 なにはともあれ、そんな小倉のことを月子は全面において信頼しきっているのだそうだ。

そして、我ら『ガストロンジャーズ』の一切の事情を悟司と千佐都から聞いた小倉は喜ぶべき事にこの件に対して協力を申し出てくれたのだった。


「で、ボクは君たちのなにを手伝えばいいんだい?」


 ゲーム機からピコピコと音を漏らして小倉が尋ねる。


「簡単だ。彼女に僕達のユニットに参加してもらえるよう説得してほしいんだ」

「説得ねぇ」


 小倉はゲーム機から目を離さない。そんな小倉を見て春日は悟司に耳打ちする。


「……本当にこいつが鷲里を漫研に連れて行った人物なのか?」

「疑いたくなるでしょうけど、事実みたいですよ」


 ちなみに現在、千佐都はこの喫煙所に顔を出していない。なんでもスキー部の女性連中で集まって今夏温泉旅行に出かけるそうで、その話合いをするために食堂で会議だそうだ。

 北海道は温泉が多いのでその分選択肢も多そうだ。

 なんと贅沢な会議だろう。羨ましい。


「わかった。いいよ。話だけはしてみる」

「おおっ!」


 春日が喜んだのもつかの間、小倉は続けざま冷静に口を開く。


「でもダメだろうね、多分」

「どうしてだ?」


 一区切りついたのか、小倉はゲーム機の電源を消すと悟司と春日の顔を見た。


「月子は男が苦手なんだ」

「……わからないな。君は男だろう? 君とは仲良く話すが、他の男性は無理なのか?」

「その通りさ。一時期はボクですら避けられていた」

「ど、どどうして?」


 悟司が尋ねると、小倉は口ごもった。


「詳しくはプライバシーに関わるから言えない。けどトラウマなんだ」


 その発言に悟司も春日も押し黙ってしまった。そんな二人にフォローを入れるように小倉が口を挟む。


「いや。実際のところ、君らが想像しているほど重い内容じゃないんだ。ただ元々月子は奥手な上に同性異性問わず人見知りが激しかった。だからたまたまそれに拍車をかけてしまったという感じかな」

「では、僕達がいくら話を持ちかけようとも――」

「難しいだろうね」


 沈黙。

 せっかくイラストが描ける人物が見つかったと思ったのに、想像以上に相手は難物であった。小倉という光明が見えても、いまだ月子勧誘への道は険しかった。


「まぁ、でも一つだけ方法がないこともないかな。可能性は限りなく低いけど」


 小倉がぽつりとそう漏らす。その言葉を聞いて春日は藁にもすがる思いで尋ねた。


「それはどんな方法だ?」

「んー。今の漫研サークルに入った原因でもあるんだけどさ。君たち以上に月子が興味を惹く女の子がメンバーにいれば、損得を差し引いて加入してくれないことも――」

「女の子」


 千佐都しかいない。だが悟司には千佐都が月子の興味を惹く人物かどうかがわからない。


「きょ、興味を惹くって、た、たとえばどんな人のこと?」

「月子のイラストって見たことある?」


 小倉の質問に二人は頷く。


「つまりそういうこと。月子は女の子が好きなんだ。それも、頼りになる姉御肌的女性がね。昔、これは本人が言ってたことなんだけど『ウチはお姉さんが欲しかった』ってさ。もしかしたら日常的にああいうイラストを描き続けているのはそういうところも原因の一つなのかも――」

「――いやだからね!」


 振り返ると、いつの間にか千佐都が立っていた。

 スキー部女子同士の温泉旅行の話は予想以上に早く終わったようだった。千佐都は肩を怒らせるように三人に向かってのっしのっしと近づいてくる。


「途中から聞いてたけど、あんたらの考えていることが手に取るようにわかるわ。つまりあたしを使ってあの子を勧誘させる気でしょ!」

「そうだが?」


 全く隠す気も悪びれた素振りもない春日に、千佐都はますます不機嫌な顔になる。


「あのね、あたしはそっち系の趣味はこれっぽっちもないわけ。変に誤解させるような真似させて、月子ちゃんがかわいそうだと思わないわけ? 早い話、騙して勧誘させるってことでしょーが」

「あー言い忘れてたけど、別に月子も同性愛者ではないよ。そういうシチュエーションを絵に描くことは大好きだけども」


 そんな小倉の言葉も、今の興奮状態の千佐都には意味を為さなかった。


「いーやっ! あたしは正直、この件にあんまり深入りしたくないの! あくまで、作詞だけしょうがないけどやるってスタンスなのっ。大体ネットにはあんなに絵の上手い人がたくさんいるんだからその人たちにお願いすればいいじゃない!?」

「でも、千佐都は以前俺のために手伝ってくれるって」

「うっ」


 悟司の思わぬ発言に千佐都の勢いが止まる。


「千佐都がそう言ったんじゃないか。乗ってあげるって」

「で、でもその時は……月子ちゃんがそんなコだなんて……思ってなかったし」


 たどたどしくなる千佐都を見て悟司は少し申し訳ない気がした。だが、今のところ鷲里月子を勧誘するには千佐都の協力が絶対に必要になる。

 もちろん悟司だって鷲里月子がそんな趣味を持っている人物だとは思っていなかった。それに、先ほど小倉が言ったトラウマの件は下手するといくら自分が好意を持っていても叶わない想いになってしまうかもしれない。


 でもお近づきになれる可能性がそこにわずかでもあるのならば試してみたいのが本音なのだ。後悔したくない。

 ……とまぁ、自分は春日とは違い動機が完全に下心からくるものなので正直あまり胸を張れる立場じゃないが。

 悟司はむくむくと膨らんでくる自己嫌悪感を押し戻して千佐都に手を合わせた。


「頼む。協力してほしいんだ」

「ううぅ~」


 ぱんと音を出して頭を下げる悟司に春日も同調する。


「そうだな、『ガストロンジャーズ』には彼女の協力が必須だ。はっきり言って君に頼むのは癪だが……僕からもお願いする。鷲里月子の勧誘に協力してくれ」

「わ、わかったわよ! もう! バカバカ! あんたら二人とも大バカだっ!」


 千佐都は両腕を組んでふんっと顔を逸らしながらそう言った。

 申し訳ない、千佐都。悟司は心の中でそう思った。


「でも、どうやって勧誘する気なのさ?」

「その点はぬかりない」


 そう言って春日は悟司、千佐都、小倉の三人を集めてある計画について話し始めた。


「……ねぇ。本当にうまく行くの? それ」

「それはわからん。だがうまく行けば当初の目的はおろか、この前の樫枝の失態も同時にカバーできるはずだ」

「ボクはどうすればいいわけ?」


 小倉が尋ねる。


「そうだな――彼女、鷲里月子をどこかに呼び出してもらえないか? この際理由は適当でいい。君にも手伝ってもらいたいことはあるしな」


 そこまで言うと、春日は颯爽と立ち上がって言った。


「では、早速やってみよう。なあに、失敗したらまた別の手を考えるさ」



  ※ ※ ※




 小倉が月子を呼び出したのは以前、悟司が彼女と出会った公園のベンチであった。

 草の茂みの陰に隠れながら、三人はひそひそと声を鎮めて月子の様子をうかがう。


「よし、ちゃんと来ているな」


 春日がガッツポーズを取る。


「まずは小倉。君が月子の元へ行くんだ。たいした会話はしなくていい。それなりに時間をつぶしてくれればそれで」

「了解」


 そう言って小倉が草の茂みからがさがさと音を立てて、月子の元へと向かった。


「お待たせ月子」


 イノシシのような図体を揺らしながら、小倉が月子に向かって手をあげる。そんな小倉を見て、月子が手を振った。


「あ、しょうちゃん」

「しょうちゃん……だと……」


 愕然としながらそう呟く春日。ちなみに小倉のフルネームは小倉庄一である。


「……ふふ、正直僕は今の今まで、彼が鷲里の幼なじみだという線を疑っていた。ところがどうだ? あの口ぶりからするにどうやら本当に幼なじみのようではないか! なんなんだあの構図は。まるで美女と野獣……いや、美女とハー○様ではないか!?」

「七つの傷の男に殺られたあのかませとはちょっとイメージ違うって。彼の性格を考慮するなら、そうね。むしろ○西先生とかの方が近いかも。ね、ほら。あの顔見てたらなんだかバスケしたくなってこない?」

「ならない」


 悟司は千佐都達の会話を無理矢理打ち切らせ、二人の様子をしっかりとうかがう。


「どうしたの? こんなところに呼び出して……ウチ、これからサークルの方に顔を出さなくちゃいけないんだけど」

「ああ。まぁちょっと月子に勧誘のお誘いがあってね」


 たいした話はしなくていいと言ったにも関わらず、小倉はこちらが本来切り出そうとしていたそもそもの目的をそのままぶっちゃけてしまっていた。


「だ、大丈夫かな?」


 そう言って悟司が思わず春日を見る。


「大丈夫だろう。小倉はどちらかというと月子よりも僕達の味方のはずだ」


 春日がこの計画を話していた際、小倉は勧誘の件も含めて「面白いね」と同調する立場で話をしていた。あの時の表情を見るに、よもや自分たちを裏切ったりはしないはず。

 そう信じながら、悟司は再び二人の様子を観察する。


「勧誘? なんの?」

「なんでも音楽を作る集団らしいよ。月子の絵を見て感動したらしいんだ」

「よくわからないんだけど……。音楽にどうしてウチの絵が必要なの?」

「詳しくはボクも知らないんだ。ただ、ネットで音楽を発表するのにイラストがいるらしくてさ――」


 そこまで話を聞いていたところで、春日がぽんと悟司の肩に手を置いた。


「そろそろ僕の方も準備する。樫枝はタイミングを見計らって出てこい。わかったな?」


 悟司は無言で頷く。それから春日は千佐都の方へと振り返った。


「君の出番は最後だ。なるべくかっこよく登場してくれよ」

「……わかってるわよ」


 千佐都はもじもじとしながら恥ずかしそうにそう言った。

 ……まぁ格好が格好だからなぁ。


「ネットで?」

「そう。ネットで音楽を作るんだって」

「……でもしょうちゃん。ウチ、あんまり知らない人とお話するの好きじゃない……」


 俯く月子。そんな月子の肩を小倉は優しく触れる。


 顔と体格さえどうにかなれば、この行為はどうみてもイケメンの所行に間違いない。

 だが、遠目から見るその光景はどう見たってレッドゾーンぎりぎりのややアウトライン側である。もし今ここに警察が通りがかりでもしたら、小倉など0.5秒で職務質問モノだろう。


 なぜに現実とはかくも辛いものなのだろうか。

 思わず世間の目ってやつを嘆いてしまう。全くもって許すまじ、人相差別。

 そんな悟司の心の嘆きなどよそに、二人の会話は淡々と進行していた。


「しょうちゃんはいっつもウチのためにウチのためにって言うけど……しょうちゃんだって一人じゃない……」

「ボクのことはいい」

「良くないよ。いっつもゲームに夢中で、他の人と会話してるの見たことない。……しょうちゃんがウチのためにって言うように、ウチだっていつも……しょうちゃんの心配、してるんだもん……してるもん……」



「――ねぇ悟司。あんたこの先あの二人の関係の中に割って入っていける自信、ある?」


 千佐都の問いに悟司は無言。


「どう見たってあれさ、完全に良い感じの二人じゃん」

「うぐぅ……っ」


 さらに追い詰める千佐都の発言に、思わず喉の奥から呻き声が漏れてしまった。

 落ち着け落ち着け。小倉は月子のことなどなんとも思ってない。そう言っていたのだ。

 思ってない思ってない思ってない思ってない思ってない……。

 何度も自分にそう言い聞かせながら、ぎりぎりと歯を食いしばっていると、


「シュコー」


 突如、小倉と月子の二人の間にダース○イダーが現れた。


「きゃああっ! な、ななななっ。何? 何?」

「シュコー」


 あまりにも衝撃な展開に、完全パニック状態の月子。

 それもそうだ。本来ならば「遠い昔、遙か銀河系の彼方」で出会うはずのキャラがなぜか今自分たちの目の前にいるのである。広大な宇宙から見れば、こんなちっぽけな北海道のド田舎にそのように豪華なゲストが登場するなど動揺しないわけにはいかない。

 その一方で、ネタをあらかじめ聞かされていた悟司と千佐都は、そのあまりにも空々しいダース○イダーの登場に完全にしらけムード。


「まさか本当にやるとはね……」


 ブリザードのように寒々しい視線で、千佐都はその様子を見守りながら言った。

 ちなみにこのダース○イダー、頭から下は完全に地球人の格好である。


「てことは、必然的にあたしらもあいつに向かっていかなきゃいけないわけだけど」


 わざわざ言わなくても良さそうだが一応。

 ダース○イダーの中身は春日である。



 春日の計画はこうだった。

 まず、小倉と月子の二人が何気ない会話をしているところに、○ースベイダーの覆面を被った春日が現れる。そんな覆面の春日を見て小倉が月子を守るために立ち上がるのだが、小倉は覆面の春日によって簡単にのされてしまう。逃げ惑う月子。そこでたまたま公園を通りがかった悟司が覆面の春日を見て助けに入るのだが、そんな悟司も春日の持つラ○トセーバーによって倒されてしまうのだ。


 絶体絶命の月子。そんな中、同じくたまたま公園を通りがかった千佐都が覆面の春日を見て助けに入る。千佐都は覆面の持つ○イトセーバーに対抗するようになぜかたまたま持っていた竹刀で見事これを撃退。かくして悪漢を追っ払った千佐都は月子を助けることに成功し、二人の仲はこれまでにないほど強いものとなるのであった――完。



「――話に聞くのと実際の光景を見るのとでは、その茶番くささもまた歴然としてるね」


 悟司もため息が出た。


「シュコーシュコー」

「待て! 月子はボクが守るっ!」


 ここまでは予定通り。小倉が覆面ダースベ○ダー春日へ向かっていくと、春日はそんな小倉のタックルをするりとかわし、持っていたライト○ーバーを小倉の背中に振り下ろした。……ただし、あくまで傷まない程度のソフトタッチで。


「ぐわあー」


 そんな棒読み台詞で小倉はそのままベンチ横の芝生上へと転がった。

 そんな小倉を見て、口を押さえながら慌てて月子が駆け寄った。


「だ、大丈夫! しょうちゃん!」


 必死になって小倉を揺する月子。

 てか、これだけの芋演技でよく気付かないなこの子。


「…………」


 死んだふりをする小倉。だがその胸元はしっかりと呼吸のそれで上下している。おそらく小倉は、ちょっと運動しただけで息切れを起こしているのだ。そんなことが遠距離にいる悟司にすらも見て取れるレベルなのだからより痛々しい。

 この時点でどう見ても茶番以外の何物でも無いだろうになぜか全く月子は気付かない。


「シュコー」


 小倉を揺する月子の身体にダースベイ○ー春日がゆっくりと手を伸ばす。


「……い、いやああああああああああああ!」


 真っ黒なグローブで肩に触れようとした春日の手を月子はばしっと振り払った。

 相も変わらず月子のその顔つきは真剣そのもの。


「こ、こないで……」

「シュコー」

「こないでってばあ!」



「――悟司、そろそろ」


 千佐都がそう言った。


「う、うん」


 すぅーっと息を吸ってから悟司は茂みの中から飛び出した。


「な、ななな。何をしているんだきき君は! か、彼女からはな、はな、はられろ!」


 誰がどう聞いても弱々しい悟司の声。『離れろ』という言葉もろれつが回っていなくてきちんと言えず、全く迫力がない。そんな悟司を見て思わず肩を落とすダー○ベイダー春日。茂みの中にいた千佐都のでかいため息も、はっきりと悟司の耳へ届いていた。


 ……情けない。しかし、今はそんなことを嘆いている場合じゃない。


「あー、あすこで寝ていりゅのは、小倉くんじゃあないか! きききききっさきさ、貴様ぁあああ! よ、よよくもおぎゅらクンをおおお!」


 悟司が○ースベイダー春日に向かって突進する。下手にこれ以上喋ると、ヘタレさがより顕著に月子に伝わってしまう。そう思った悟司は本来ならばもう少し長い台詞を突如打ち切り、両目をつぶりながら無我夢中で春日に向かって走り込んでいった。


「お、おい。樫枝……ちょっと待て。まだ台詞がのこっ――」

「おりゃあああああああああああああ!」

「ま、待て! かしえ――ぐおふっ!」


 全身に感じる衝撃。自らの頭がぐにゃりと柔らかい何かに当たった感触を受け、それと同時に身体同士が絡まり合うように芝生の上へと倒れ込んだ。


 ダースベ○ダー春日の股間に自分の頭が当たったとわかったのは芝生の上で自らの身体を起こしてからだった。


「え、えーっっと…………」


 静まりかえる公園。どこかでちゅんちゅんと雀が鳴く声がした。

 ふと顔を上げて周りを伺うと、倒れた小倉の横で這いつくばっている月子と目が合った。

月子はぽかんと口を開けて悟司を見ている。


「あ、あのー……」


 再び芝生の上を見下ろす。股間を押さえてうずくまったまま全身を痙攣させている○ースベイダー春日が、演技とは思えない息づかいでシュコシュコ言っていた。

 完全に予定の演技と食い違ってしまい、悟司の頭の中が真っ白になる。


 時間で言えばほんの数秒だが、悟司にはものすごく長い時間に思えた。そうして口を開けたまま微動だにしない月子へ向かって知らず知らずのうちに悟司はすっと手を差し出していた。


「ひっ!」


 そんな悟司の手から逃げるように後ずさる月子。


「あ、あなたはこ、この前の――」


 まずい。

 大方予想はしていたが、月子はやはりこの前の食堂の一件をしっかりと覚えていた。みるみるうちにその表情が強ばっていく。


「こ、こないで……」

「い、いや。あの……お、俺は……。おお俺はき君をた、助けようとして……」

「いやぁ!」


 ばしんと手をはたかれたかと思うと、月子はそのまま公園の出口の方へ向かっていく。こんな誰が見たって茶番劇としか思えないこの状況下でも彼女にとってはそこそこ恐怖だったのだろう。しかし、こうなってしまってはもう悟司も彼女を追うことは出来ない。

 春日の考えたシナリオは既に完全崩壊している。


 ……終わった。ゲームオーバーだ。

 そう思った時だった。


「なにしてるの!」


 急にばかでかい声が公園内に響き渡る。思わず声のした方を見ると、ちょうど茂みの中から出てきた千佐都が、腰に手を当てて悟司の方を睨みつけていた。

 その声に反応した月子も思わず立ち止まる。それもそうだろう。千佐都が着ている服は春日があらかじめ用意した男性モノの白ワイシャツにネクタイ、それにタイトなダメージジーンズと顔が半分以上隠れてしまうほどの大きいサングラスまでかけているという、どう見てもキワモノすぎるいでたちなのだ。春日的には姉御的なボーイッシュファッションを意識したそうだが、はっきり言ってだだ滑りである。


 そんな千佐都がわざとらしく倒れている小倉とダースベイ○ー春日を交互に見やって、それからぴたりと悟司の顔に視線を止めた。


「あんたね。あたしの仲間をやってくれた人間は」

「な、仲間?」


 一体何を言っているんだこいつは、と言った顔で見る悟司に構うことなく千佐都はさっと月子の前に立ちはだかると、


「いーい? あそこにいる一見変態そうな覆面の男は実はあたしの仲間なの」

「…………え」


 一気に警戒心を強める月子に向かってさらに千佐都はまくし立てる。


「ごめんね。驚かせるつもりはなかったんだけどあたし達、実はこの公園に時々現れる不審人物を調査してたの。最初は彼を見て不審人物だと思っちゃったんだけど」


 そう言って千佐都は倒れている小倉を指さした。


「でも、その後のあたしの調査報告で彼はあなたの知り合いだってわかったの。そのことを知らせる前に覆面の彼は先走っちゃったみたいだけど……。彼もホントはあなたを変態から守るつもりだったのよ」

「へ、変態って……でも、しょうちゃんはウチの……」


 そこまで言った月子の口を千佐都はそっと自らの人差し指で押さえた。


「皆まで言わなくて良い。全部知ってるわ。……ごめんね、驚かせちゃって」


 そう言ってぱちんとウィンクする千佐都。背丈で判断すればどう見ても月子の方が年上にしか見えないし、顔の作りも基本的に幼い千佐都がそんな無理矢理作った大人の女的仕草を取ってもちっとも様になりゃしない。その上、基本出るとこがほとんど出ていない体型なのだ。悟司には笑いしかこみあげてこない。

 千佐都の方はといえば、事実相当無理をしていると自覚しているのか耳が真っ赤である。しかしそれでもかろうじて演技を通しているので月子には気付かれていない。


 てか、月子は鈍すぎる! こんなのどう見たって普通気付くだろ!


「は、はい……」


 とろんとした目つきで千佐都を見る月子。おいおい、あり得ないって!


「さて――」


 そう言って千佐都が悟司を見る。

 その顔は完全にドSの形相だった。


「ま、待て。待ってくれよちさ――」

「しゃらあっぷっっっ!」

「ひっ!」


 ばしんっと地面を打つ竹刀の音で、反射的に身体がびくついてしまった。


「よくも、あたしの大切なダース○イダー春日をやってくれたわね……」


 ……あ。その名前、公式設定なんだ。

 そんなことを思っている間に千佐都はその背丈、体格から、おおよそ似つかわしくないくらい素早い足取りで悟司に向かってくる。


「覚悟しろ! ド変態、樫枝悟司!」

「お前もう普通に俺の名前、言ってんじゃん!」


 しかも、フルネームで。


「だまらっしゃああい!」


 竹刀を振り回すかと思い、悟司はついつい両手で顔を覆ってしまった。その隙に千佐都は竹刀を遠くに放り投げると、


「隙ありぃ!」


 といって両手を悟司の喉元に巻き付かせた。

 こ、これはまさか引っ越し初日の時に食らったあの懐かしの――


「食らえっ! ド変態っ。ケダモノっ。汚物っ」

「ぐ、ぐえええええ」


 首を絞めたまま悟司の頭を右へ左へと振る千佐都。

 そんな二人を見ながら小倉がむくりと起き上がった。


「……ねぇもうめんどくさいから普通に勧誘しない?」


 月子はそんな三人を交互に見ながらずっと目を白黒させていた。




 ダースベイ○ー春日はまだ悶絶していた。



  ※ ※ ※




 それから一時間ほどして、場所は悟司の部屋。

 悟司、千佐都、春日、小倉、月子の五人がテーブルを囲んで座っていた。


「――と、いうわけだ鷲里さん。僕達は今、『ガストロンジャーズ』と呼ばれる新しい音楽ユニットの最後のメンバーとして君を是非加入させたいと思っている」

「は、はぁ……」


 小倉の隣でぼんやりと月子が返事をする。


「どうだろう? 僕達と一緒にやってみないか」

「ええっと……。あの。…………あの」


 上手く言葉に出来ないのかしばらくもじもじしたまま月子は俯いてしまった。

 どうやら月子が人見知りというのは本当のようだった。

 だが、その性質は悟司と非常によく似てはいるが少しだけ差異がある。

 親しくない相手に思いっきりきょどる悟司とは違い、月子のそれは「そもそも親しかろうがそうでなかろうが、言葉そのものが上手く頭の中でまとまらない」ようなのだ。

 先ほどから小倉が何回か話を促すも、月子は一向に口を開かずにずっともじもじしたままであった。


「嫌なのか?」


 春日の問いに月子は無言で首を振る。


「嫌じゃないのか?」


 それにも黙って首を振る。


「埒があかないな」


 完全にお手上げ状態といわんばかりに春日が鼻を鳴らす。


「ねぇ悟司、あんたの方も一応ちゃんと誤解といておいたら?」


 千佐都が悟司を肘でつつきながらそう言った。


「食堂での発言は間違いでしたって」

「そ、そうだな」


 悟司は軽く咳払いしてからゆっくりどもらないように口を開いた。


「あのこ、この前は…………ごめんなさい。お、驚かせて」


 月子は悟司の方を見ないで俯いたままだった。それでも構わず悟司は続ける。


「お、俺あがり症で、コミュ障だ、から。へ、変なことよく……口走っちゃうんだ。本当は、最初に見たときから……き、君には一度、ちゃんと声をかけたくて」


 月子が顔を上げた。そのくるくると丸い、大きな瞳が悟司を見つめる。

 ドキッとしながらも、悟司はぐっと歯を噛んでから深呼吸して言った。


「前に、絵を描いてたのをみ、見てさ。それで、先輩に、そ、相談したんだ。ち、千佐都にも。だ、だから……その……驚かせて、ごめん」


 それきり俯いた悟司を見て、小倉もフォローする。


「彼は悪い人じゃないよ。昨日、ボクが階段で転んだ時に手当してくれたのも彼なんだ」


 そう言って小倉は白いジャージの下から腰の傷跡を月子に見せる。


「しょ、しょうちゃん。大丈夫なのそれ……」


 痛々しいその傷跡を見た月子が口を手で押さえながら心配そうにそう言うと、小倉は軽く笑いながら、


「平気さ。ねぇ月子。せめて一回だけでも彼らの誘いに付き合ってみない? もし嫌だったらそれきりで構わないんだしさ」

「…………」


 月子はしばらく悩んでいた。頭の中で考えた言葉をゆっくりつなぎ合わせているのだろう。その様子を四人はじっと見守っていた。


「あたしも似たようなもんよ」


 千佐都がそうぽつりと漏らす。


「この男二人のバカに一度は付き合ってみて、それで嫌だったらさっさとやめればいいのよ。あたしは今回の曲に作詞したら、これ以上は付き合わないしさ。だからね、いっぺんこのバカに乗っかってみて、それから考えたらどうかな? ね、つっきー」

「つ、つっきぃ?」


 いきなり飛び出したあだ名に春日が口をあんぐり開けて千佐都を見る。


「何よ。月子ちゃんでしょ? だから『つっきー』。可愛くていいじゃない。ねぇ?」


 千佐都が同意を求めるように月子へ首を回すと、


「へ? あ、ああ。はい」


 流されるまま月子が頷いた。

 かと思ったら、


「あ、あの。ち、千佐都さん――でした、か?」


 突然口を開く月子に、悟司どころか小倉もびっくりしていた。


「じゃ、じゃあウチも千佐都さんのこと、ち、『ちさ姉』ってよ、呼んでもいいですか?」


 そう言って顔をぽっと赤らめる月子。その様子もまた可愛いのだが、悟司にはついつい彼女が描いていたイラストの方を思い浮かべていらぬ事を考えてしまう。


「え、ええ。い、いいよ」


 一方の千佐都も悟司と同じ気持ちだったのか、多少たじろぎながらも了承する。

 もしかしたら今居るメンツの中で、普段の千佐都の勢いを完全に止められるのは彼女だけかもしれない。悟司はそんなことを思った。


「し、質問なんですが、ち、ちさ姉はなぜお二方の力に?」

「え? ああ。その話してなかったか」


 千佐都がその慣れない呼ばれ方に苦笑しつつ、切り出した。


「あたしは悟司の作る曲が好きなの。まぁ一言で言えばファンってやつなのさ」

「ファン……?」

「そう。んでまぁ、あたしが知らない間に悟司は春日と仲良くなってて、春日が作った曲のほとんどを作ったっていうからさー」


 千佐都が春日に親指を向けると、春日は曖昧に頷く。


「まぁ……事実上そうなる、のか?」


 そして春日はちらりと悟司の方を見た。

 なぜこちらを見る? 自身持って自分の曲と言えばいいのに。

 思わずむっとしたが、そんな悟司のことなど知る由もなく千佐都は話を続ける。


「だからそれがほぼ完成したっていうから聞きに行こうとしたら、これまたこの二人の作詞がひどくてさあ。ダメ出ししまくってたら、そこの先輩さんが『じゃあ君が作れ』って言って。確かに言うだけ言って自分が見せないのはおかしいもんね、それで――」

「それで、作詞をやることに?」

「そそ。だからつっきーもあたしみたいに軽ーい気持ちでさ――」

「う、ウチは、やるからには軽い気持ちじゃ出来ません!」

「……え?」


 突然の月子の力のこもったその言葉に千佐都は固まる。


「す、すみません……。ウチは、その、あんまり器用じゃないので。そのぅ、軽い気持ちでやったら、きっと見る人によってはすぐにバレちゃうと思うんです。『ああ、この絵は適当に描いたものなんだな』とか。だ、だからやるからにはウチは、真剣に取り組みたいんです」

「ご、ごめん。……なんかあたし余計なこと言ったね」


 あまりにも突然すぎたのか千佐都が面食らいつつも頭を下げると、月子は慌てて、


「あ、あっ。その。こちらこそすみません! だから、その」

「少し考えたいんだね。月子は」


 小倉がそう言うと、月子はカクカクと首を何度も上下に振った。


「だ、だから……その、お返事の方は、ふ、二日ほど……待っていただけますか?」



  ※ ※ ※



 そうして月子と小倉は帰って行った。春日も、引き続きミキシングで気に入らなかった部分を最終調整すると言って戻っていった。

 なんだか妙なしこりが残ったままの解散だった。

 その気持ちがなんなのかは悟司にはよくわかる。でも、結局どうするわけでもなく残された悟司はそのままギターを掴んでいつも通りの練習に入ろうとしたところで、


「あのさ」


 ヘッドホンをつけようとしたところをそう千佐都に呼びかけられた。

 そういえばさっき月子に言われた言葉に対し、やたらとしょんぼりしていたなと悟司が思っていると、


「あたし……ホントにあんたらと一緒にやってていいのかな?」


 その表情は珍しく深刻そうで、悟司は少し面食らってしまった。


「さっきの月子ちゃんの言葉、気にしてんの?」


 悟司がそう問いかけると、千佐都はさらに曇った表情になる。


「やっぱあたしはあんたの……あんたのファンのままで、それでいいんじゃないかな?」

「千佐都」


 悟司がフォローを入れようとする前に千佐都が口を開く。


「ごめん。今の忘れて、たけ――」


 そこまで言って、千佐都ははっとしたように口を押さえた。


「……千佐都?」

「ごめんなんでもない」


 急によそよそしい態度で自分の髪を払うと、千佐都はそのまま自分の部屋へ戻ろうとする。


「なんだよ千佐都、一体どうし――」

「どうもしてないってばっっ!」


 後ろ姿が、激しく震えた。

 それは悟司が今までに聞いたことのないほどに、激しい怒りの感情が込められた千佐都の言葉だった。息を飲んだまま二の句が告げられないでいる悟司に千佐都は、


「……ごめん。あたし今日ちょっと変だわ。もう……寝るね」


 それだけ告げると、さっさと扉を開けて自らの部屋へと戻って行ってしまった。

 そうして訪れる静寂な部屋。

 悟司はそれ以上ギターの練習が手に付かなくなり、少しだけネットを閲覧してからおとなしく寝ることにした。



  ※ ※ ※



 それから二日して、図書館司書資格の講義を終えた悟司は小倉に呼び出された。

 喫煙所に向かうと既に春日と千佐都と月子はベンチに座って待機していた。


「み、皆さんのお話のことなんですが……受けてみようと思います」


 その言葉を聞いてガッツポーズする春日、優しく月子の肩を叩く小倉、そしてそんな小倉の手に少しだけ照れくさそうに笑う月子。

 そんな三人を見て、悟司も知らず知らずの内に手を叩いて祝福していた。『ガストロンジャーズ』はここに、めでたく結成されたのだ。


 そんな中、千佐都だけが唯一浮かない顔をしていた。

 先日のこともあり、悟司は千佐都に声をかけられなかった。

 あの時のあの態度はまさしく悟司に向かって見せた、初めての拒絶のそれだ。

 考えてみれば千佐都は引っ越し当日の際の珍事を除き、今まで悟司に対して明確な拒絶の反応を見せたことがなかった。そもそもあの引っ越しの際の時だって、全くの他人として知り合った際の、いわゆる唐突な第三者の来訪による警戒心から来ていたもので、こうやって既に何度も言葉を交わして慣れ親しんだ後のそれとは大きく異なった性質のものだ。


 ……先日、千佐都は別の誰かの名前を呼ぼうとしていた。でも、それは一体誰だ? それになんで今更千佐都は自分の名前を間違えるんだ?

 悟司がじっと千佐都を見ながらそんなことを思っていると、ふっと正面の視線から目を逸らした千佐都と目が合った。やばい、と焦りつつも目を逸らすことが出来ないでいると、


「なにじろじろ見てんのよ、バカ」


 ぷっと吹き出しながら千佐都が笑う。

 まるで先日のことなんかなかったかのように。いつも通りの笑みを見せて笑っていた。

 そんな千佐都の様子に悟司はほっとする。


「べ、別に。なんかせっかく予定通りのメンツが集まったってのに嬉しくなさそうだなってさ」

「嬉しく……ねえ。だってあたしまだ作詞してないし、ね」

「全くだ」


 いつの間にか二人の会話を聞いていた春日が横から口を挟む。


「こうしてせっかくイラストを手掛ける鷲里が入ったというのに、そこだけは一向に進んでいない。君は本当に作詞する気があるのか?」

「うるっさいわねー。ちゃんと書くっての。いいからおとなしく待っててよ」


 面倒くさそうな顔をしながら千佐都が膨れる。そんな二人のやり取りを見ながら月子が思い出したように口を開く。

「はっ。そ、そういえば、絵の締め切りはいつですか? ちょうど漫研の方でもイラスト描かなきゃいけないので、出来たらある程度お時間をいただけないかなと思ってるんですけど」

「ふむ。まぁ締め切りは君の納得のいく絵が描けるまでで構わないのだが。大体どれくらいかかりそうだ?」

「そうですねぇ。一枚だけで構わないのでしたら、急げば五日後にでも――」

「すばらしいっっ!」

「ひゃあっ!」


 ついつい熱が入りすぎた春日が月子の手を取ると、月子は顔を真っ赤にしながら口をぱくぱくさせた。


「ぜひ頼むよ。来週いっぱいが過ぎれば日曜にはもう七月になる。それまでには曲をアップロードしたいんだ。スキャナは僕の家にあるから、出来上がったらすぐに僕に知らせてくれ。っと、そういえば携帯番号の交換がまだだったな」


 そうして二人が番号の交換を始めるのを見ながら、再び悟司は千佐都を見た。

 自分に注目が逸れた後の千佐都はやはり浮かない顔のままだった。



  ※ ※ ※



 そうしてさらに数日が過ぎ、六月も残り二日となった。

 ようやく完成した歌詞を持って悟司と千佐都は春日の家へと向かう。


「遅い。結局、最後に提出するのは鷲里ではなく君だったようだな」

「はいはい、遅くなって申し訳ありませんー」

「誠意がこもってないぞ」

「申し訳なかったですかすが様っ! ふんっ」


 千佐都と春日のそんなやり取りに苦笑いしながら悟司は歌詞に目を通した。

 千佐都の歌詞は悪くなかった。詞のテーマは以前、本人が言っていたようになるべく視聴者の最大公約数を拾えそうな王道的恋愛ソング。いくらか字余りな部分も目立ったが、そこは歌のメロディの調整でどうにかなるだろう。


「ふむ」


 悟司が手渡した歌詞に春日はじっくりと目を通す。そうして目を通しながらも春日はその千佐都の歌詞をどんどんパソコンのテキストエディターに打ち込んでいた。


「……どうなのよ」


 身体を揺すらせながら千佐都は春日の言葉を待った。それなりに緊張しているのだろう。 すぐに春日は歌詞の内容を全てテキストファイルに打ち込み終えた。そうして再び歌詞が書いてある紙をしばらく眺めた後、春日は言った。


「これは、モチーフとなる相手がいるのか?」

「はぁ?」

「いや、見たところラブソングのようだからな」

「そ、そんなの言えるわけないじゃない。シークレットよシークレット」


 そう言って照れる貴重な千佐都の顔を見て悟司は、やはりこの前不意に千佐都が口に出した人物の名前を思い出していた。

 たけ、なんとかという人物は、もしかしてこの詞の中に出てくる想い人のことなんだろうか。しかしそれならば、なぜあのときあんなタイミングでそんな名前が出てくるのだろう。

 あれから色々考えたが、結局悟司の中でその名前の人物の検討など付くはずもなかった。


「まぁ、いいだろう。それじゃあいよいよここでボーカロイドの登場だな」


 そう言って、春日はデスクトップにある「vocaloid2 editor」というアイコンをダブルクリックする。


「ボーカロイドは一つ一つマウスで音階に沿って打ち込む事もできるのだが、一曲まるまるそれをやろうとするヤツはおそらく稀だ」


 そう言いながらモニターに映し出された画面は縦に描かれたピアノロールとそれに従って伸びる譜面だけであった。


「なにこれ? このパッケージに描いてある女の子はどこ?」


 千佐都が初音ミクのパッケージを持って春日を問い詰める。


「それはあくまでキャラとして描かれているだけだ。実際のソフトには一切出てこない」

「なんだ。あたしてっきりこの女の子に歌詞を教えるだけで歌ってくれるのかと思ってた」

「バカをいうな。まぁ確かにイメージとはかけ離れてはいるな。そういう意味ではボーカロイドってのは割と硬派なソフトだ」


 そこまで言ってから春日は左上にあるメニューを開いた。


「さっきも言ったように一つ一つメロディをこの譜面に打ち込んでいくのは非常に時間も手間もかかる。そこで、DAWには既に悟司が考えた歌メロディをMIDIで先に打ち込んでいるんだ。この歌メロだけ入力して変換したMIDIファイルをこのボーカロイドというソフトに読み込ませる、すると――」


 かちかちとマウスを動かした後、ボーカロイドエディターの譜面にずらりと音階が表示された。


「すごいすごい!」


 思わずぱちぱちと手を打つ千佐都。


「このままの状態で再生しても、歌詞が打ち込まれていないのでミクは『あーあー』としか歌ってくれない。なので、ここから歌詞を流し込んでいく作業に入る」


 先ほどテキストエディターで打ち込んでいた歌詞を右クリックから『流し込む』を選択する。すると、それまで『a』とだけ書かれていた譜面にひらがなの文字が表示された。


「ちなみにボーカロイドは『は』という言葉をそのまま『ha』として発音してしまう。『僕達は~』という歌詞ならばそのまま『bokutatiha~』と歌ってしまうんだ。だからこの辺りもあらかじめ『bokutatiwa~』に修正しておいた」

「へー」


 悟司も春日の言葉を聞きながら感心する。


「ついでに歌詞の流し込みは、作ったMIDI譜面と若干のずれが出来てしまうことがままある。そんなわけで今からどういう風に歌詞をメロディに乗せているか君に尋ねながら修正をしていくぞ」

「へ? あたし?」

「他に誰がいるんだ」

「えー歌うの? あたしが?」

「別に本気じゃなく適当で構わん。メロディに合わせるところを確認したいだけだ」


 そういって渋々ながらも千佐都は春日に尋ねられた部分を実際に歌ってみせた。

 このとき悟司は初めて千佐都の歌声を聴いた。

 千佐都の声は地声からも充分想像できたことなのだが、なかなかに声が通り、音程もかなりきっちりとしていた。正直なところ、かなりうまい。


「あんまり人前で歌わないんだからね。あたし」


 細かい部分のワンフレーズを歌うだけの作業でも千佐都は恥ずかしそうにそう言った。


「カラオケもしないの?」

「しないなぁ。あんまり好きじゃないのさ。あの雰囲気が」


 そうして春日は何度かミクのアカペラを再生しながら、千佐都の声を聴き、メロディと歌詞がずれた場所を修正していった。


「完成?」


 千佐都が尋ねる。


「まだだ。歌い方に関して細かなニュアンスを入れていない。これはいわゆるベタ打ちと呼ばれる状態だな」


 春日は画面下の黒い部分をマウスで示した。


「これからミクの調教に入る。この黒い部分にはそれぞれミクが歌う際の表情を入れられるようになっているんだ」

「調教って……」


 ジト目で見る千佐都に、春日は慌ててフォローする。


「ネット上ではそうやって呼ばれてるんだっ! ……とにかくここではダイナミクス、ジェンダー、ブレシネスやポルタメントにピッチベンドなど――まぁ細かいことはいい、そこら辺のパラメーターを調整して自分好みの歌い方に変えていくんだ」


 ここからしばらくは時間との闘いとなった。

 春日は何度も何度も同じ箇所のメロディを聴いては、その都度『調教』を行っていった。最初は楽しんでみていた千佐都も、そのあまりにも単調な作業としか言えない作業を見て、完全に飽きが入り、気がつけば春日のベッドでくぅくぅと寝入ってしまった。


 悟司も最初こそギターの練習をして、かつ作曲のコード探しなどに精を出していたが、春日の『調教』が四時間を超えた時点で、春日に了承を取ってテレビを見始めた。

 気付けば外はすっかり暗くなり、春日の家にあった映画のDVDを二本ほど見たところで春日がヘッドホンをようやくデスクの上に置いた。


「終わったんですか?」


 悟司が尋ねると、春日は静かに首を横に振った。


「正直、どこをどうすればいいのかわからなくなってきた……休憩だ」



  ※ ※ ※



 春日は車を持っていた。その車に乗せられるまま着いた先は、小さなラーメン屋。


「ラーメン食べるの……?」


 いまだ寝ぼけたままの千佐都の肩を揺すりながら、悟司は先頭の春日の後を追い、店の中へと入っていった。

 既に閉店間際ということもあって、客は悟司達だけだった。


「ここに来たことは?」


 悟司と千佐都は揃って首を振る。


「あたし達って基本、外食しないから」

「そうか。羨ましい限りだ」


 やってきた店員に春日はメニューも見ずに答えた。


「濁り一つ」

「濁り?」


 千佐都が首をかしげる。


「ここのおすすめラーメンだ」


 ぶっきらぼうにそう言い放つ。どうやら難航している『調教』に内心ストレスでも溜まっているのだろう。悟司も千佐都も同じものを頼んだ。

 そうして出てきたモノは薄い色をした醤油ラーメンだった。千佐都が我先にと箸を伸ばす。


「……美味しいっ!」

「北海道といえばラーメンだからな。まぁここの味は他と比べて特殊だが、他にも美味い店はたくさん知っている」


 言いながら春日も黙々と麺をすすり始めた。

 そうしてしばらく、三人で黙々とラーメンを食べていた。もう七月に入ろうとしているのに、夜になれば外はいくらか肌寒い。そんな微妙な気温の中で食べるラーメンはまた格別なものがあった。


「先輩は……この今回の曲が完成して、それでネットにあげたらどうするんですか?」


 何気なしに悟司はそんなことを口にした。悟司の問いに途中までレンゲでスープを飲んでいた春日の手が止まる。


「どうしようかな。また曲を作るかもしれないし、作らないかもしれない」


 悟司はそっと箸を器に置く。


「今度は俺、一切手を加えないんで。……実はちょっと反省してるんです。勝手に色々やりすぎたなって。先輩の曲なのに」

「いいんだ。あれはもう僕の曲じゃない」


 ……またその言葉だ。

 悟司は俯いた。


 ……言えない。こんなに喉から出かかっているのに。

 先日千佐都が口にしたときもそうだった。あの時、悟司は春日の言葉を実はずっと腹立たしく思っていた。だが、口には出せなかった。そんなことでいちいち争って、それでせっかく完成しようとしているこの企画がつぶれてしまったらどうなる? ようやくメンバーも全て揃ったっていうのに。


 悟司は春日の立場を立て、かつ自分の為にもずっとその言葉だけは言えなかった。

 そして出来ることなら、ずっとそのままそうしていたい。

 煮えくりかえりそうな気持ちをずっと押さえたまま沈黙で押し通した後、


「樫枝、君自身は作らないのか?」


 突然、春日が悟司にそう切り出し始めた。


「……え」

「今回、君と一緒に曲を作ってわかったんだ。やはり僕には才能がないと」

「……」

「さっきも言ったように、やはりこの曲は僕の曲とは呼べない。とてもそんな代物ではない。そんなことをミキシングしながら僕はずっと思っていた」


 やめてくれ。まだ、そんなことをいうのか……この人は。

 違う、あれは俺の曲じゃない。どれだけいじったってあれは――

 いつもなら軽口を叩く千佐都もこのときばかりは黙ってラーメンを食べている。沸々と沸き上がる感情の爆発をどうにか押さえ込んで、


「……俺は、ずっと先輩の曲だと思ってます。だからもうそれ以上、そんなこと言わないでください」


 それだけ言うのが精一杯だった。それ以上言ったらきっと――きっとこの数日の間で集められたユニットの崩壊になりかねない。

 それだけはどうしても避けたかった。

 なぜならこれは、悟司の人生の中で初めて同じ目標に向かって進む仲間達だったから。


「……まぁいい」


 さらに何か言いたそうな顔をしたまま、春日は再び麺を口に運び始めた。

 悟司は耐えた。もしここで言ってしまったら取り返しのつかないことになりそうな、そんな言葉がもうすぐそこまで出かかっていた。だから悟司はそのまま黙って自らのラーメンのスープに口につけた。

 そしてそんな悟司を横目で見ながら、千佐都もまた黙々とラーメンをすすっていたのであった。


 そうして再び春日の家に戻ってきた三人は、それぞれ互いの時間を持てあました。

 千佐都はマンガを読みふけり、悟司は引き続きDVDを見始め、春日は『調教』に明け暮れる。

 そうしてようやくその作業が終わり、マスタリングが終了した頃にはすっかり日付が変わってしまう時刻になっていた。


「ようやく……終わった……」

「お疲れ様です、先輩」

「お、とうとう完成した? やるじゃーん、かすがぁー」


 悟司と千佐都が春日の元へとやってくる。


「さっそく聴いてみてもいい?」


 千佐都のその言葉に春日は黙ってヘッドホンを寄越した。

 しばらくその曲を聴いてから、千佐都が言った。


「すごい! 本格的じゃん! ……でもなんか物足りないね」

「バンドサウンドを意識して作ったからな、多少の音の数の少なさには目を瞑ってくれ」 


 千佐都が聴き終わったのを待ってから、悟司も聴いてみることにした。

 やはり千佐都も言っているように音数が一般的な音源とは違い少なく感じた。加えて、春日のミキシング技術もやや甘い気がした。全体的に音が軽く、立体感が足りないのだ。

 それに、全部完成した時点で気付いたことがあった。


 この曲は――


 そう、口を開こうとすると、


「早速、曲をアップロードしよう」


 春日のその言葉に遮られて悟司はそのまま口をつぐんでしまった。

 まさに逸る気持ちを抑えきれぬといった様子で、春日は完成したばかりの異常なハイテンションに乗っかりながら嬉々として動画を作り始める。

 結局悟司はこの時、言おうとしていた言葉を飲んでしまった。


 これが後々、取り返しのつかないことになることにも知らずに――


 パソコンに元々プリインストールされている映像編集ソフトを使い、そこに月子から渡された一枚絵をスキャンした画像を取り込み、音声を加える。

 ものの三〇分程度でムービーファイルが出来上がると、春日はそのまま動画共有サイトへとアクセスした。

 その様子を見ていた千佐都がふいに口を開いた。


「ねぇ、あんたのアカウント名さ」


 そう言って千佐都がモニターを指さす。


「『screamer』……スクリーマーって読むの? なんでこんな名前?」

「僕は驚輔だろう? 『きょうすけ』の『きょう』は驚くという漢字だ。だから――」

「ああ、だから叫ぶ人なのね。なーる」


 途中で口を挟んだ千佐都に軽く舌打ちをしながら、春日は動画をアップロードし始める。

少しの間があってから『動画のエンコードが完了しました』という文字が表示された。


「作詞、作曲、イラスト、『ガストロンジャーズ』と。よし、これで終了だ!」


 春日が嬉しそうに笑った。普段あれだけ無愛想な人間がここまでバカ正直に自らの感情をあらわにするのを見ると、ついついこっちまで嬉しくなってしまう。

 悟司も春日の笑顔につられて、顔がほころんだ。


「一仕事終わったな!」


 春日が手を上げた。それに釣られるように悟司も手を上げる。

 ハイタッチの音が部屋中に響き渡った。

「お疲れだ! 今日は解散! 明日、みんなで集まって視聴者の反応を見よう」

 そうしてこの日は解散になった。



  ※ ※ ※



 翌日、喫煙所に集まったのは悟司、千佐都、春日、月子の四人だった。

 事実上のフルメンバーではあるが小倉がいない。そのことが悟司にはなんとなく落ち着かなかった。


「あ、あの。お、小倉くんはどうした、の?」


 たまらず悟司が尋ねると月子は、


「あ、しょ、しょうちゃんはね。もう自分はいなくてもいいだろって……」

「え?」

「なんていうか……ね。自分は元々メンバーじゃないし、そろそろ『ぽよぽよ』の大会があるから、い、今はそっちに集中したいんだって」

「そ、そっか」


 その言葉に悟司は肩を落とす。

 月子をメンバーに誘うために一役買ってくれた小倉。それだけの功労者である彼にも、せっかくなら一緒に動画を見て欲しかった。悟司はそう思っていた。


 しかしまぁ動画自体はいつでも見ることは出来るのだし、別にどうしても今すぐ見なければならないわけでもない。

 そんなわけで、結局集まったこの四人で春日の家へと向かうことになった。



  ※ ※ ※



 春日の家に着くと、既にパソコンの方は起動したままになっていた。


「すぐにでも見られるようにしてある。早速我々『ガストロンジャーズ』の記念すべきデビューソングを聴いた視聴者たちの反応を見てみようではないか!」


 相変わらずの身振り手振りの激しい春日のアクションに三人は苦笑いする。


 そうして動画を見た四人の顔は――





『駄曲』

『可愛い絵だなぁ……でもなんか、色合いおかしくない?』

『これ、まさか絵をスキャナで取り込んでんのか?』

『とにかくちゃんとしたもので取り込むかペンタブ使え。絵が見づらい』

『歌詞がクソすぐる。カスだわ』

『調教変じゃね?』

『音が悪すぎる。絵はいい』

『メロディは悪くない。ただバランスが……』

『PAN振りすぎ。ギター二本あるのに、なんで全部同じとこにやってんの?』

『歌詞ひでぇ……三流JPOPの出来じゃねぇか』

『なんというか……ホントにうp主は恋愛したことあるの?』

『なにもかもありきたりなセンス。特に歌詞』

『そこまで悪くない。けど、もうちょっと音質と歌詞を』





 ――それらのコメントを見て、皆一様に凍り付いてしまった。


 四人はただただ言葉を失っていた。

 散々な言われようだが、ここで主に非難を浴びているのは二つ。


 それはミキシングによって起こった音のばらつき、そして千佐都の書いた歌詞であった。

 実は前者の方に関しては悟司は半ば予想していたものであった。完成した曲をヘッドホンで視聴したときに、音のばらつき、特にPANの振り方が異常に偏っていることに気がついていたのだった。


 しかし実際のところ、悟司もそこまで悪いとは思っていなかった。おそらく何度も制作途中で、ばらばらの音同士を何度も連続で聴きすぎていたせいでもあるし、音をモニタリングする方法がヘッドホンのみであったことも原因にあっただろう。


 一度ちゃんとスピーカーの方でも確認しておくべきだったし、気になったのならばすぐにでも春日に言うべきであった。悟司は唇を噛みながら、そのことを強く後悔した。


「――ごめん」


 静寂の部屋に突如、ぽつりとそんな言葉が漏れた。

 他でもない、千佐都だ。


「ごめん。あたしのせいだ……。あたしの歌詞のせいで春日の曲が……こんなに」

「君のせいじゃない」

「でも。でもっ」

「君に歌詞を頼んだのは僕だっっっっ! 千佐都は何も悪くないっっ!」


 突然大声でそう叫んだ春日の声に、おろおろしていた月子の肩がびくりと震えた。春日も自分で自分の声にびっくりしたように目を見開く。


「……すまない」


 そしてつぶやく謝罪の声。

 動画を見る直前まで、あれだけ明るかったこの空間が一瞬で通夜のようなムードへと切り替わってしまっていた。


 誰の責任でもない。みんながみんなで出来る限りのことをしたのだ。誰を咎めることが出来るだろうか? それは春日だけじゃなく悟司だってそう思っていた。

 だが、千佐都のショックはよほどのものだったようだ。


「……ごめん。あたし、ちょっとひとりになるね」


 そう言って、千佐都が玄関に向かって駆けだしていく。


「待て千佐都」

「千佐都っっ!」


 春日と悟司の呼びかけに応えることなく千佐都は外へと飛び出していった。


「ち、ちさ姉どうしよう? ウチ……ちょっと行ってみるね!」

「待て。今は誰が行っても一緒――」


 そんな春日の言葉を聞く前に月子は部屋を飛び出していった。


「くそっ!」


 春日が、がつんっとパソコンデスクを殴りつける音だけがむなしく響いた。

 ……最悪な結果だ。

 本当に、最悪だった。



  ※ ※ ※



 それから少しだけ間を置いて、悟司はあらためて動画を見直していた。

 春日はもう見たくもないのだろう。パソコンから顔を背けて押し黙ったままだった。

 だが、悟司は違った。何度も何度もコメント欄を眺めながら曲を聴き直す。そうしている内にふと気付くことがあった。


 彼らの発言は、それそのもの一つ一つは確かに辛辣な発言であるが、全てのコメントを見ると全く理由もなくただ罵倒してるコメントは一つも見当たらない。

 そういうコメントを何度も何度も見直していると、確かに自分たち『ガストロンジャーズ』の曲はそこまで良い出来ではなかったのかもしれないと思わせられる。


 ……いや、これは事実悪い。

 唯一、最初にコメント群の言葉を見た時点で何がいけないかを正確に掴んでいた悟司にはそれがはっきりとわかった。


 間違いなくこの曲は良くない。

 歌詞のことは悟司にはわからなかったが、唯一わかる音作りに関しては理由がはっきりとわかる。一番の問題は音質だ。これではまともに聴いてもらえるかどうかも怪しい。

 彼らの言葉一つ一つの言い方は、きついものがあるかもしれない。

 目を背けたくなる気持ちもわかる。


 しかし、だからこそ――だからこそわかることってあるんじゃないか。

 悟司は何度も更新を押しては新しく書き込まれるコメントを読んでいった。新しく書き込まれていくコメントも大方前述通りの発言。

 何度も更新ボタンを押しながら次第に悟司は自身の気分が高揚していくのを感じた。


「更新するたびに……聴いてくれる人が増えてますよ、春日先輩」


 その再生回数はたった九十弱。その数字を見て、春日は言った。


「たいした数じゃない。もういいだろう」


 その言葉を無視して悟司はさらに更新ボタンを押す。

 再生回数が百を超え、悟司はさらに嬉しくなった。

 今まで、自分達しか聴いていなかった曲が日本中、いや世界中の誰かが聴いてくれているのだ。たったそれだけのことが悟司には面白くてたまらなかった。

 たとえ聴いた人がどれだけ辛辣な発言をしたとしても今までそういった機会を一度も持ったことがなかった悟司にはそれだけでもすごい感動であった。


「樫枝、もう見るな」

「でもみんなちゃんと聴いてくれて……それで発言してくれてるんですよ、先輩の曲を」

「こんなものは僕の曲じゃないっっ!」


 そう叫んだ春日の言葉に、ぴたりと悟司の手が止まった。


「……こんな、もの……?」


 その、あまりにもひどすぎる言いぐさに無意識で復唱していた。

 悟司は静かに怒りを瞳に宿してパソコンから顔を離す、そしてじっと春日を睨みつけた。

 そんな悟司の目を見て、春日は苦々しい顔で目を背ける。


「ああ、こんなものは僕の曲じゃない。お前の曲だ、樫枝」

「何言ってるんです? 何度も言ったじゃないですか。これは先輩の曲です。俺の曲じゃありません」

「……僕の考えた最初のワンフレーズ以外、ほとんど全て君の手が加えられているじゃないか。これを君の曲と言わずになんと言うんだ」

「そりゃあ、確かに俺は先輩の指示に従って色々手は加えました。でも、その手に直接ゴーサインを下したのは先輩です。先輩が止めるなら、俺はまた別のメロディとコードを持ってきました。なんなら手なんて一切加えなくても――」

「お前の手がなかったら完成すらしなかったと僕は言ってるんだ!」


 春日がきっと悟司を睨み返した。いつもの悟司ならばここで目を背けるのだが、さすがにこの時ばかりは違った。


「……完成じゃありませんよ」

「なに?」

「この曲はまだ完成じゃありません。少々勇み足だっただけです。PAN振りや、他にも細かい修正をし直して上げ直しましょう。そうすればきっと今からでも」

「今からでも?」


 春日は小馬鹿にしたように鼻を鳴らす。


「ふざけたことをいう。マスタリングに関しては僕が現状で出来うる限りの手を尽くした。これ以上どう修正を加えろって言うんだ?」

「だからそれを今から俺たちで一緒に――」

「『俺たちで』じゃない! 『お前だけ』なんだよ、樫枝!」


 吠える様に春日は悟司に向かって叫んだ。


「まだわからないのか樫枝? 僕にはもうこれ以上の改善は無理なんだ。これ以上どう良くしろと言うんだ? 僕はお前よりもDTM歴が長い。これだけの機材と知識を得るだけで二年だ。わかるか、樫枝。わずか一ヶ月足らずで知識を詰め込んだお前と僕はまるっきり違う。それを世間では才能の差だと言うんだよ!」


 才能?

 悟司にはぴんとこない。

 才能ってもっとつかみ所のないものを言うんじゃないのか?


 自分は確かにその知識の吸収が早かったかもしれない。でもそれはそこに意欲というものが大きく貢献しただけだ。なんとなく運命的な気分になって、高揚して、楽しくやっていたからこそ習得できたものなのだ。しかしそれでもまだまだDTMに関しては春日の方が圧倒的に頼りになることが多い。

 夢中になって、当たり前が出来るように追いつこうと、補佐できるようにと必死だった。


「俺には才能とかそんなものはないです。ただ楽しくて、夢中だっただけで」

「人はそれを才能って言うんだよ」

「違います。それなら先輩は楽しくなかったって言うんですか?」


 春日は答えない。その態度がさらに悟司の苛立ちを増長させた。


「楽しんでたじゃないですか! 笑ってたでしょ! ねぇ先輩。今からでも遅くないですから作り直しましょう。俺たちで、もう一度」

「……無駄だ。僕にはこれ以上出来ない」

「まさか、諦めるつもりですか?」


 悟司の言葉に、春日はため息混じりで答えた。


「そうだな。そうなるかもしれん」


 たったそれだけの一言で、目の前が真っ暗になった気分だった。


「……ちょっと待ってくださいよ。そんなものだったんですか? あれだけ大げさに振る舞って、高々と野望を言いのけていた人が。こんなしょうもないことで――」

「しょうもない、だと?」


 春日の眉間が一気に皺を寄せる。


「だってそうでしょ? なんでこの結果を認めないんですか。どうして? そりゃ確かに良くなかった結果だけど……でもそんなことで。それっていくらなんでも、あんま――」

「うるさいっ! 僕が作った曲はこんなもんじゃ――」


 またも繰り返されたその一言に、一気に顔が熱くなった。


「……こんなもん、こんなもんって――だったら、俺の作った曲だって『こんなもの』じゃねぇっすよっっ!!」

「……っっ! お前っっ!」


 いきなり激昂した春日が悟司の襟を掴んで引っ張り上げる。喉がぎゅうと締まる感触がした。春日との背丈の差に、悟司の足がつま先立ちになる。


 だが、悟司だって今の発言は黙ってなどいられない。

 久しく頭に血がのぼっていた。


「こんなものってどういうことだ……。僕のアイデアに乗っかっただけのこの曲よりも、自分がイチから作った曲の方がすばらしい、そう言いたいのかお前は?」

「なに……キレてんすか……っ? 自分だってそう言ったくせに。自分の曲じゃないって言ったくせに。言ってることが……いちいち矛盾してますよ……せんぱい」


 精一杯強がってみせながら、悟司は春日へわざとらしく笑みを向ける。喉を締め上げられ息も切れ切れのまま悟司は春日に向かって余裕のポーズを貫こうとした。


「黙れっ! ……答えろ樫枝。自分の曲の方がすごいって……そう言ってるのか。答えろッッ!樫枝ぁっっ!」

「……そう言ってるじゃ……ねえかっ……この……わからずやが……っ!」

「樫枝あっっっっっ!」


 鋭い怒号と共に頬に強烈な痛みを感じた。殴られたと気付いたのは自らが吹っ飛んでベッドの下に転がってからだった。勢いで辺りのものが散乱して、楽器が激しく床に叩きつけられる音。だがそんなことには一切構わずに、悟司は頬を押さえながら言った。


「……どうしてっっ!」


 ダムは完全に崩壊した。今までずっと押し殺してきた激しい感情の洪水を、容赦なく春日へとぶつけまくる。


「どうして先輩はっ! そうやって、自分の曲をなかったことにするんですかっ!」


 許せない。


「どうしてっっ! どうして自分の満足行く結果じゃなかっただけで、その存在そのものをなかったことにしようとするんですかっ!」


 絶対に許せなかった。


「そんな最低な行為……どうしても許せないっすよっっ! 俺はっっ!」


 もう我慢の、限界だったのだ。


「ぐ……っっ」


 さらに掴みかかろうとしていた春日の動きが止まる。悟司は吠えるようにして続けた。


「どうしてっ! どうして……自分の大事な曲を……子供のように大事な曲を、そうやって……そうやって人に押しつけようとするんすかっっ! そんなハンパな……そんなハンパな気持ちで作られたもんに、俺は……俺の曲は、そんなもんに負けるかっっ! 負けるわけねーだろっっっ! そう言ってんすよっっ! 俺はっっっ! 先輩っっ!」


 春日が振り上げたその拳に、徐々に力が抜けていくのがわかった。悟司は倒れ込んだベッドに腰をかけると、自らの頬をさすりながら続けた。


「これは……やっぱり俺の曲じゃないんですよ。言われるままに、色々やりすぎちゃったのは謝ります。けど本当は、ずっとそう思ってました。ずっと、悩んでたんです。言えなかった。ずっと……」


 悟司はさらに「でも――」と付け加える。


「正直、先輩からお誘いがなかったらとしたら俺、きっとずっと腐ってたままで。きっとあんなに楽しい時間は送れなかったと思うんです。……すごい感謝してるんです」


 そう言って立ち上がると、悟司はそのまま玄関に向かおうとした。

 千佐都の様子が気になる。それに月子のことも。


「――『ガストロンジャーズ』は……」


 悟司の背中越しに、春日の声が聞こえた。




「『ガストロンジャーズ』は今日で解散だ、樫枝」



 それは思っていたよりも静かな崩壊の瞬間だった。

 ここまで言ってしまった時点で覚悟していたが、やはり直接言われると辛い。

 唇を強く噛むと、切れた口内からほんのりと鉄の味がした。


「……わかりました」


 悟司は振り返らずにそう言うと、そのまま玄関をくぐり抜けて春日の部屋を出て行った。



  ※ ※ ※



 春日の部屋を飛び出して駐車場の前まで出ると、悟司は再び春日の部屋の窓を眺めた。

 もう……終わってしまったのだ。

 それはあまりにも呆気なさ過ぎてちっとも現実感が沸いてこなかった。わずか数ヶ月程度の短い期間だったが、『ガストロンジャーズ』での毎日は今までの自身の音楽歴から考えてみても十分すぎるくらいに濃いものだった。

 そんな日常がしばらく当たり前のものとして機能し続けていたからこそ、『ガストロンジャーズ』結成前の日々をよく思い出せなくなってしまっていた。だいぶ鬱屈した毎日だった気がするけど、どんなだったっけ?


 既にかなり忘れかけてはいるが、それでもその時の気分だけはなんとなく記憶しており、考えれば考えるほど徐々に頭が地面の方へとうなだれていく。

 なにをしているんだ、いかんいかん。

 悟司は慌てて頭をぐっと上げる。

 とりあえず今はそんなこと後回しだ。千佐都の行方の方が気になる。


 さて、その千佐都は春日の家を飛び出してどこへ向かっただろう?

 普通に考えればそのまま家に戻っているはずだ。ならば自分も家に帰ればいいだろうと思い、春日のアパートを離れて数十メートルほど足を動かした所でぴたりと立ち止まる。

 ……一体なんて言えばいいのか、全然思いつかない。

 悟司は頭を抱えてその場にうずくまった。

 作詞に関して言えば悟司なんかよりも千佐都の方がずっとしっかりした意見を持っていることは既に何度かのやりとりではっきりしている。


 そんな悟司が作詞に関して千佐都にダメ出しをする? バカな。ありえない。

 さらに追い打ちをかけるように『ガストロンジャーズ』解散。そのことを知ったら千佐都はどう思うだろう? きっとますます自分に責任を感じて塞ぎ込んでしまうに違いない。


「やっぱ、しばらくはそっとしておいた方がいいか……? いや、でも。しかし」


 そんなことを路上に生えた雑草を触りながらぶつぶつと口にしていると、


「――悟司くん?」


 突然背後からおっとりとした声が聞こえ、悟司は雑草を引っこ抜いて振り返った。


「つ、月子、ちゃん?」

「なにしてるの――ってさ、悟司くんほっぺたどうしたの!?」


 雑草を持ったまま悟司が慌てて立ち上がると、月子は悟司の殴られた傷を見て一気に青ざめていく。


「く、唇も切れてるし……ひどい」


 口元を押さえてよろめく月子。その様子を見ていると、むしろこっちの方が心配になってしまう。

 悟司はめいっぱいに虚勢を張りながらどうにか月子を落ち着かせようと、


「だ、だだ。大丈夫! そ、そうだ。」


 そう言って根っこから引っこ抜いた土まみれの雑草を自分の頬に当てた。


「こ、このく、草を塗れば傷に良い――って、ぎゃあああああああ!」


 激痛。


「きゃあああああああ!」


 月子の悲鳴。

 そうして悶絶しながら道路に卒倒した悟司に向かって、月子が真っ青になって駆け寄ったのだった。



  ※ ※ ※


 

 場所は変わり、ニングルハイツの二階。小倉の家である。


「どうしたの? それ」


 ドアを開けるなり小倉は目を丸くして悟司の頬を見た。

 悟司の頬は土に汚れた上にぱんぱんに腫れていた。さすがにどういった状況でそのような顔になったのかさっぱり理解できないのであろう。小倉の驚き顔に対し、悟司自身は一つ一つその経緯をする気にもなれずただ曖昧な表情を浮かべるのみ。


「しょ、しょうちゃん。救急箱とかある?」


 月子が尋ねると、小倉は動揺したまま言った。


「あ、ああ。あるよ。この前階段で転んでから用意したんだ」


 そうして中に上がらせてもらうことになった。

 小倉の部屋は悟司の部屋の造りと非常によく似ていた。


「適当に座って良いよ」


 小倉の部屋にはとても大きなテレビが壁一面に取り付けられており、そこには彼の大好きな『ぽよぽよ』のゲーム画面が映っていた。それだけではない。いたるところ全て、ポスターやらフィギュアの山。それもただ無秩序に並べられているわけではなく、それぞれの好きな作品ごとにきちんと分けられていた。


 さらに部屋全体の色合いにも配慮しているのか、この位置は全体の配色を赤、こっちは青、と非常にきめ細かい。

 もしかして結構神経質なタイプなのだろうか、と思っていると、


「オタ部屋って見たことある?」


 そう言って小倉は悟司の目の前に救急箱を置いた。


「最近、自分の部屋を撮って動画サイトとかであげたりする人いるでしょ。特に十代の子はよくやるよね」

「み、見たことはある、気がする……」

「最近のパターンなのが、ただ好きな作品の好きなヒロインのポスターを隙間なく埋め尽くすだけみたいなのね。ああいうのは非常によろしくない。景観という意味でもそうだし、何より落ち着かないよね」

「は、はぁ……」

「ただ集めてそれを部屋の中に詰め込むだけなら誰でも出来る。そうじゃなくて、きちんと並べた際の色合いとかキャラ同士の折り合いとか、バランスを構築しながら丁寧に並べ、スパイスとしてレア物をさらりと強調させる。これが僕の思うオタ部屋ってヤツだよ。人を呼ぶことも考慮し、かつ自分自身も落ち着ける空間を作り上げる。これを実践している人間の少ないこと少ないこと……」

「悟司くん。消毒するから、ほっぺこっちに向けて」


 小倉の講釈を完全シカトして月子が消毒液を含ませた脱脂綿を、ピンセットでつまみながら悟司に向ける。


「それで、一体春日さんと何があったの?」

「あ、ああ。うん」


 いまだ、喋り続ける小倉の横で悟司は月子に春日の家であったことをゆっくりと話し始めた。


 数分後。全てを話し終えたと同時に手当の方も終わったようで、月子は最後に悟司の頬にガーゼを貼った。

 そっと自分の肌へと触れる月子の細い指にドキドキしながらいると、


「――悟司くん、あ、あのね。ウチもちょっとだけ悟司くんの気持ちが、わかるの」

「え?」


 月子は救急箱をしまうと、悟司から距離を置いてちょこんと正座した。


「『自分の作ったモノをなかったことにしないでー』って……、そう言った時の悟司くんの気持ち。だって、ね。ウチも一緒に色塗り手伝ってあげた絵を、『これはあなたの絵だからねっ!』って言われたら……悲しいもん」

「え、絵でたとえるならた、多分、か、顔以外のパーツを、全て俺が描いてしまったような、そ、そんな感じ。なんだけど」


 苦笑いする悟司。いまだ月子との会話は慣れない。コミュ障気質からくるどもり全開でたどたどしくそう告げると、


「うん。でもそれって、本人が頼んだからなんでしょ?」


 悟司は静かに頷いた。


「で、ででも俺ははっきり断れなかった。い、いくつかの要望やチョイスは先輩に任せた、けど。でぃ、DTMの知識を得た分、さ。俺もちょ、ちょっと勝手にアレンジとか加えちゃったり、して」

「……難しいとこだよね。でも、春日さんは悟司君の言葉に腹を立てた。自分でこんなものって言い切ったのに、それを悟司君が言ったら、すっごい怒った」


 沈黙が流れた。


「先輩はきっと……あ、諦めきれなかったんだ」

「諦めきれなかった?」


 悟司は頬をなでながら、静かに言った。


「あの曲はは、八割方俺の手が入ってたけど。そ、それでも……何もメロディがなかった空間から、音を生んだのはや、やっぱり自分なんだって。そ、そういうことなんだと、思う。きっと」


 月子は悟司の言葉を聞いてしばらく考えた後、ゆっくり口を開いた。


「ねぇ悟司くん。ウチもまだ、諦めてないからね?」

「え?」


 月子はぎこちなく表情を固くすると、その豊満なバストの前でぐっと拳を握った。


「ウチはリベンジ、したいのです」

「はぁ。そ、そうで……って、ええ?」

「正直ウチ、あれだけちゃかぽこ言われ続けたままで終わるなんて我慢ならんのです」


 ちゃかぽこって――もしかして、ボロクソ的な意味なんだろうか?


「きっと、春日さんもそう思ってると思うんです。もちろん……ちさ姉だって。ウチ、こう見えて結構負けず嫌いなので……だから、こう……『ガチコンいわせたろかいっ!』的な気分というか。あはは」


 はにかみながらもさらりと今、およそ彼女の口からは似つかわしくない単語が飛び出した気がする。


「だから、だからですね。もしまた悟司君と春日さんが挑戦するときは、そのときは是非、ウチにも声をかけてください。その際はウチもとびきり可愛いミクさんを描いて、パソコン画面の向こうにいる人達をちゃかぽこ言わせてやるんでっ」


 ……便利だなー、新単語『ちゃかぽこ』。

 拳を握ってふんふんと鼻息を荒くする月子に、悟司はそれまでずっと強ばっていた表情がその時ようやく緩み始めたことに気付いた。


「どうでもいいことだけどさ」


 そこで急に小倉が口を開いて、悟司と月子はびっくりして肩を震わせた。

 そ、そういえばここは、彼の家だった。


「ずっと疑問に思ってたんだけど、なぜ君はわざわざ自分ちに戻らなかったんだい? 救急箱なら君の家にもあるじゃないか。なんでわざわざ二階の僕の部屋まで」

「あ、ああ。そ、そのこと説明して、なかったね」


 悟司は小倉の方へと向き直った。


「じ、実はさ。きゅ、救急セットってち、千佐都の部屋にしか置いてないんだ」

「じゃあ千佐都くんに借りればいいじゃないか」

「そ、それがね、しょうちゃん……」


 月子がかいつまんで今までの経緯を説明する。

 千佐都はまだ家に戻っていなかった。非常口の方も、悟司の部屋から続くドアも鍵がかけられておりこちら側からは開けられない状況だったのだ。


「なるほど、そんなことがあったのかい」

「い、いずれ戻ってくるとは、お、思うんだけどさ。そしたら直接俺も――」

「そっとしておいてあげたら?」

「「え?」」


 小倉の素っ気ない言葉に悟司も月子も同時に聞き返していた。


「これはなんとなく君ら四人のことを客観的に見てた僕だから言えるんだけど」


 小倉は月子から救急箱を受け取ると、それを棚の中に入れながら言った。


「悟司君と月子、それに春日先輩の三人と違って、彼女はどうも自主的に『ガストロンジャーズ』の一員になっていたようには思えないんだよね」

「ど、どういう、こと?」

「うーん。言い方が難しいんだけど、彼女はいわゆる『創作に力を向ける人間』っていうものからいささかかけ離れている気がするんだ」

「創作に力を向ける人間?」

「つまりさ、創作ってものは頭の中で表現したい何かしらの物があってするわけでしょ? でもどうも千佐都くんはそういったものとは縁がないというか――違うな。きっと受動的なんだよ。彼女の場合は」

「受動的? しょうちゃん、もっとわかりやすく」


 月子がせがむようにそう言うと、小倉は頭をかきながら苦笑いする。


「うーんこればっかりはなんとも。あくまで僕にはそう見えただけだから。だからこれは勘なんだけど、おそらく千佐都くんは創作に意欲がないんじゃないかな。きっと表現したいことが何もないんだよ」

「も、もしかして、千佐都の詞がちゃかぽこに叩かれたのも……」


 悟司も知らず知らずの内に新単語『ちゃかぽこ』を使っていた。


「うん。そこに何も中身がなかったからだと思う。そこを視聴者に見抜かれてしまったんじゃないかな。だから説得したところでどうにかなるものでもない。本人がその気にならない限りは何度やったって同じだし、そもそも一度こんな事になってしまった分、もう一度やり始めるには結構勇気も必要だよ」

「そんな……」


 口を押さえる月子をなだめる様に小倉は付け加えるように言葉を紡いだ。


「だけど僕は千佐都くんが君たちのメンバーに不必要な存在だとは思わない。思えない」

 その言葉に月子も悟司も首をかしげると、やれやれと言った様子で小倉がため息をついた。

「本当にわからないのかい?」

「ど、どういうこと?」


 悟司が説明を求めると、


「だって彼女が君たちバラバラの個性を一つにまとめたんだろ? すごい人じゃないか」



  ※ ※ ※




 七月になった。

 結局悟司はあの後、小倉に言われた通りに千佐都へ無理に話しかけないよう努めた。

 月子はいくらか不満そうだったが、悟司がそう決めたのを見て同じようにそっとしておくことを決めたようだった。


 千佐都はずっと大学を休んでいた。

 とは言っても、今までは毎日きちんと講義に出ていたのだから一週間ほど休んだところで単位を落としてしまうようなことはなさそうなのだが。

 あれからも色々と考えてはみたが、結局千佐都に向かってかけられる慰めの言葉など、悟司には一つも見つかりやしなかった。


 むなしく時間だけが過ぎていった。かける言葉が見つからないので、時々非常口の扉が開いたとわかってもわざわざ自分も玄関を出て千佐都を呼び止めることもしなかった。

 でも放っておけばきっとまた、いつもみたいに笑顔でこちらの扉を開けてくれる。

 悟司はそう楽観視していた。

 そうだ。だからこそいつまでもこうしちゃいられない。

 そう思って、悟司はパソコンの前へと座り込む。


「今度は……。俺が作ってみせる」


 悟司は、あのときの動画を見た視聴者の反応が忘れられなかった。

 あれだけ不特定多数の人間が、なんの見返りもなく他人の曲を聴いてくれるなんて。

 あの感動はちょっと筆舌に尽くしがたい。

 まぁ反応はあの通り残念な感じではあったが。


「あれだけ先輩に啖呵切った後だしな……」


 そう独りごちながらガーゼに当てられた自らの頬をさすって、先日の立ち振る舞いを思い返す。あの時、悟司ははっきりと春日に向かって、『俺の曲はこんなもんじゃない』と言い切った。


 ならば、それを証明するしかない。


 今一度、春日をこの手で認めさせるのだ。

 たとえ前よりひどい結果になろうとも――いや、絶対に負けるわけにはいかない。


 これはもはや意地なのだ。決して譲れないものが悟司にはあった。

 そうして悟司は床に置いてある作曲ノートを拾い上げる。それをぱらぱらとめくり、ひとつのページでぴたりと手を止めた。

 悟司は既にこの中からどの曲やるかを決めていた。当然作詞は全修正、必要とあらばタイトルも変える。


 この曲は現時点の自分の中で、最も自信がある曲だった。

 悟司は早速細かなパートをフリーソフトのDAWで打ち込みを始めていった。春日の家のようなキーボードがないため、一つ一つをマウスで音符打ち込みする。

 気の遠くなるような作業だったが、それでも今は完全に熱意の方が押し勝っていた。

 

 あの日以来、春日とは会っていなかった。

 同じく月子とも小倉の部屋以来会ってはいない。

 だが、あの日のやりとりで唯一確信したことがある。


 ――ウチはリベンジ、したいのです。


 悟司に面と向かってそう言ってくれた月子。

 月子との関係だけはいまだに途切れていない。

 あれだけぐちゃぐちゃになってしまった『ガストロンジャーズ』だが、そこだけは唯一途切れなかった最終防衛ラインだった。これだけはなんとしてでも守り通さねば。

 そして、千佐都もやがて落ち着いたらそのうち――


 ――おそらく千佐都くんは創作に意欲がない。表現したいことがないんだよ。


 小倉の言葉が、ふと頭をよぎる。

 本当にそうなのだろうか。

 悟司はふと千佐都のいる部屋へと続くドアを見つめた。


 ――彼女が君たちバラバラの個性を一つにまとめたんだろ?

 

 あのとき小倉はそうは言っていたが、いまだに悟司の中で、その最後の言葉だけは懐疑的な気分のままであった。


「千佐都が……まさかね。あいつって別にそこまでの人物じゃないでしょ。小倉君は千佐都のことを同じゲーマー同士だからって買いかぶりすぎ――」


 そこまで言いかけて、はっとする。

 月子を勧誘した時。あれは元を辿れば小倉の協力があってのことだった。その小倉が月子と知り合いだって知ったのも、千佐都が実は隠れゲーマー気質で、そのことから偶然であれ繋がりがあることを引き出せたのだ。

 いや、そんな曖昧なことだけじゃない。

 千佐都がした『ガストロンジャーズ』にした確かな功績はもっと他にもあるじゃないか。


 公園から逃げだそうとした月子の足を止めたのは誰のおかげだ?

 春日と知り合うきっかけを作ったのは誰のおかげだ?

 そもそも、自分にDTMをやる気にさせたのは誰のおかげだ?


 千佐都、千佐都、千佐都。


 思えば今までの出来事全部、最後に持って行ったのはいつも千佐都だった。

 作詞の件もそうだ。結果的にはネットユーザーにちゃかぽこ言われまくったが、もしあの時千佐都が作詞をすることを了承していなかったら――

 おそらく今現在だって、動画を投稿するまでに至ってなかった。


「そこまでの……人物かも。千佐都って」


 今までの経緯はすべて、千佐都がいたからこそ為し得たものでしかない。自らの判断だけで回っていたことなんて、そんなの、ほんのわずかでしかないことに今更ながら愕然とする。


 なんでこんなことに気がつかなかったのだ。


「……いや、バカ言うな。何言ってんだ俺は」


 ずっと気付いていたじゃないか。何度も何度も救われて、その度に少しずつ自分を取り巻く環境がどんどん変わっていって。


 ただ、その都度忘れていた。

 感謝の気持ちを。

 時折思い出しては、また忘れ。ずっとその繰り返しだった。

 でも別に構わなかった。

 いつでも言えると思ったから。

 なぜなら――



 なぜなら、いつも一緒にいたから。



「千佐都」


 無意識のうちに悟司は千佐都がいるはずの部屋のドアに向かってそう呼びかけていた。


「千佐都、ちょっと話があるんだ。いるのか? 千佐都!」


 悟司はそっとしておくという誓いをすっかり忘れて声を荒げた。

 聞きたい。

 どうして彼女は自分のためにそこまでしてくれたのか。

 聞かなければ。


「千佐都、開けるぞ」


 そう言いながらも、向こうへ繋がるドアの鍵はかかったままだと思っていた。

 ところがドアのノブはあっさりと回り、きぃっと静かなきしみを立てると思いの外あっさりと開いてしまった。


 ドアを開ければ、千佐都がいると思っていた。

 わずかばかりの洋服をしまう収納に、一枚の布団。それ以外はほとんど段ボールに入ったままで広げてもいなかったあのぞんざいな部屋。


 それが眼前に広がっていると、

 そう思っていた。






 だが違った。

 悟司が開けた扉の向こうは、まるで引っ越し初日の時のように空っぽの部屋があるだけだった。







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