第二十五章『祭りのあと、交錯するリニアブルーと』
七月七日――安藤宅。
寝ぼけていた頭が一瞬で冴えたのは、自分の布団の上でくぅくぅと若い女が寝息を立てているという、およそ昨日までの生活では考えられない光景がそこに広がっていたからである。
ちなみにその女は今、持ち合わせの自分のシャツとスェットパンツを履いている。ビショビショだった彼女の服は、これから洗濯機を回して干す予定だった。
言っておくが、俺は別にこの女と寝たわけではない。
誰に断るでもなく、安藤は心の中でそう弁解する。
昨夜急に話しかけられて外に飛び出した安藤は、ライブを見た興奮を抑えきれない堀内に突如こんな風な質問を浴びせられたのだった――
※ ※ ※
「どうしてどうして? なんでストーカーさんがここにいるんですかぁっ!?」
「そ、その呼び方やめてくれないかな……」
どもりながらはっきりと拒絶を示して安藤がそう答えるも、
「あ、わかりましたぁ。新しいストーカー相手さんを探しにきたんですねぇ」
まるで聴く耳なし、だ。
安藤はため息を漏らしながら、堀内を無視してその場を離れようとした。
これ以上ここにいるわけにもいくまい。自分はまだ休学中だし、何よりも樫枝悟司からもらってしまった敗北感が半端なかった。
堀内の横を過ぎると、安藤はとぼとぼ自分の来た道を引き返していった。もちろん体育館を経由しないで、であるが。
はぁ、とわざとらしいくらいに大きなため息を漏らしながら歩いていると、突然むにゅっと右腕の方に柔らかい感触がして振りかえる。
「くんくん……。あれぇ? 今日はクサくないんですねぇ」
鼻をぴくぴく動かす堀内の顔が、安藤の肩越しにぐっと迫っていた。
「うわぁっ!」
びっくりしてその場を離れる。なんだ?
なんなのだこのビッチは!?
ばくばくと心臓の音が止まらない。
そんな風にノーガードで男の身体に躊躇なく触れるなんて、どんな青春時代を送ってきたんだコイツ。
「来る前お風呂入ってきたんですかぁ? 服もぉ前と違って、ヨレヨレじゃないですぅ」
いや、確かに久しぶりに風呂は入った。外に出るつもりだったので服も普段着ている寝間着ではなく、半年前にタンスの中に突っ込んだままだったものを着てはいた。
だからといって、それだけの理由で女が男の腕に胸を押しつけるほどのことにはなるまいに。これだけの隙だらけ女は、安藤の経験上ではまずありえないことだった。
「な、なんなんだアンタは……どうしてお、俺なんかに」
ふと、そこで安藤は先ほど胸を押しつけて話しかけてきたときの彼女の息が、とても酒臭かったことに気付いた。
「お、お前まさか……飲んでいるのか?」
「えぇ~?」
くすくす笑いながら堀内はゆっくり安藤に近付いてくる。
「そういえばぁ、さっきのBBQの時にぃ、あま~いカクテルをよなっちからたくさんもらった気がぁ~」
よなっちとは、おそらく与那城のことだろう。
「ライブ前の景気づけだって春日先輩からもらったけど、飲むと弾けなくなるかもしれないからぁってアタシにぃ……へへっ」
「い、いや。へへ、じゃなくてね……」
なんてこった。春日のバカのせいか。
安藤はくらくらしながら、絡み酒の様子の堀内を前に頭を抱えた。
その瞬間、ふらりと頭が一度大きく揺れたかと思うと、堀内は安藤の方に向かって身体をもたげてきた。
「ちょ……っ!」
慌ててその身体を抱きとめる。びしょびしょの堀内のTシャツにはうっすらとピンク色のブラが透けて見えて、安藤は慌てて目を逸らした。
「だ、大丈夫?」
「ふにゃあ……」
ダメだこりゃ。
安藤は呆れかえりながらも堀内の処遇に迷っていると、そこでなぜか食堂の方からぞろぞろと人が大勢出てくるのが見えて戦慄した。
マズい。人目につく前に離れなければ。そうは思っても、このまま堀内を地面に寝かせて逃げてしまうわけにもいくまい。
そんな感じで、結局安藤は堀内を自身の背におぶると、そのまま猛ダッシュで元来た道を引き返していったのである。
後に小倉と月子がその道を歩くことになる、実に数分前の出来事であった――
※ ※ ※
「うみゃ」
そんなバカみたいな声を出したと思った瞬間、大きなあくびをして堀内が起き上がる。安藤は慌てて堀内の元から離れると、ゴミ山をかき分け、壁際にぴたりと背をつけながら足を抱え込むように膝を立ててその場に座った。
「よ、よぉ……」
軽く手をあげながら安藤が挨拶をする。
その姿をぼんやり眺めた堀内は、ごしごし目をこすりながら自身の身につけている服を見て、
「……やりましたぁ?」
開口一番それかよ。
「や、やって……ませんよ。風邪引くから……着替えだけ」
眠っている間に自分が着替えさせた事実を知って、てっきり物を投げつけられるんじゃないかと冷や冷やしていた安藤は少々面食らった思いで彼女の姿を見た。
「わぁ……また来てしまったぁ。ストーカーさんのお部屋だぁ……」
半目状態で、きょろきょろ辺りを見回す堀内。その能天気さは、見ててこちらが不安になるくらいだ。仮にも男の部屋だというのに、ちっとも動じる様子など見せない。
こんな女と出会ったのは、初めてだった。
ギャルゲーにでもこんな希有なキャラは存在しない。
「よ、酔っ払って気絶したから。だか、だからお前を俺んちに……」
ぶつぶつと安藤が答える。
「そっかぁ……」
それを聞いても堀内はいまいちリアクションが薄い。
自分がここにいる理由については、あまりどうでもいいらしい。
「……アタシぃ、初めて普通に男の子の家で眠ってたんだぁ」
爆弾発言である。
なんだそれ。じゃあなにか、お前は今まで男の家に行くたびにいかがわしいことばかりしていたというのか。なにそれ。どんなボーナスステージ? これまでそのわがままボディをそんな風にもったいなく使ってたわけ? 何もしなかったとは言っても、それなりにドキドキしてたんですけどね、こっちは!
「ねぇストーカーさん」
「……あ、安藤だ」
心の中のカオス状態を無理矢理打ち消して、そう言った。
「安藤さんって、優しいんですねぇ。顔だちも、キレイに髭を剃っていたらぜったいモテそうですしぃ」
表情をとろけさせながら堀内が笑う。つか、そんなんでモテれば人間、何も苦労はしないのだが。
「まだ、彼女のお手紙を待ってるんですかぁ?」
本人としては素朴な疑問のつもりなのだろうが、そんな堀内の質問に、たまらず安藤の表情が固まる。
つか別に彼女、ではないのだが。ちょっと勘違いしてないかこの子?
「わ、悪いかな?」
「悪くはないですけどぉ」
上目でちらりと見ながら答えた安藤に堀内は、んーと顎に人差し指を立てて天井を見上げる。
「でも心の繋がりばかりじゃ愛は育まれませんよぉ」
「……へ?」
なにそれどういう意味。
「だってぇ、好きな人とはぁ、やっぱり遠距離でも一ヶ月に一回くらいはぎゅーっとされたいじゃないですかぁ――あ、やっぱ一週間に一回……いや、三日に一回くらいかもぉ」
喋りながらどんどん期間が短くなっていく堀内。
なんて辛抱のないヤツだ。
我慢を知らない以前の話で、マジで本能のままに生きてやがる。
「他にも、いい子いい子ってされたいし、ちゅーもしたいですぅ。一緒に手を繋いで、ご飯をあーんってして、同じものを食べて美味しく思いたいし、同じものを見て一緒に感動したいんですよぉ。アタシは、そういう恋が理想なんですぅ」
「同じもの……恋……」
「安藤さんは、そう思ったりしないんですかぁ?」
顔の前で指を重ね合わせる堀内を見て、安藤はぽかんとしながら彼女の言う言葉を心の中で何度も反芻させる。
「一番近くにいる誰かに愛されているとぉ、自分がどれだけダメな人間でもぉ、生きててよかったーってなりませんかぁ?」
「……なる」
まるで独り言のように安藤が口を開く。
「なる……なるさ。俺は……誰かから自分を認めて欲しいんだ……。大事にされたいんだ。……じゃないと時々、自分が……いなくても良い存在なんじゃないかって。そう思えちゃって。無能で……何しても駄目だから……だから怖くて……怠惰に、ぼーっと一人で一日を過ごしていると……ずっとそればかり考えちゃって……どこまでも臆病な弱虫野郎だって……気付いちゃうんだ」
そこまで言った時だった。
突然膝を抱えていた手にふっと温もりを感じて顔を上げると、
「……みんな、臆病ですよぉ」
それが堀内の手だとわかった瞬間、彼女はさらに身を寄せて、自分のからだを優しくすっぽりと包み込む。
「なんか安藤さん……今すごく可愛いですぅ」
「あ、あの。あの……っ」
「クサくないですねぇ」
そんなにクサかったのか俺。
昨夜と同じく、ばくばくと心臓が高鳴りだす。柔らかな彼女の肉体が、肌が、匂いが自分のような汚い男の身体を受け止めている。その事実が、なんとも言えない興奮を引き起こして、自分でもはっきりとわかるほど鼻息が荒くなった。
「あ、あのっっ!」
どうにか理性を保ったまま、安藤は彼女の身体を引きはがす。
「こ。こういうこと、だ。誰でもしちゃダメだから。お、俺とか、特に。ね?」
「……なんでですかぁ?」
そう言って、やわらかそうなそのほっぺたを口元と一緒に横へ広げながら堀内が笑う。
最初からわかっていたことだった。
俺は、彼女から会話のペースを絶対に奪えない。
でも、これだけは言わないといけないと思った。今後の彼女の幸せを考えるなら、これだけは絶対に心に誓っていて欲しいと。
「そ、そうやって、甘えて、みだりに男の肌にふ、触れちゃだ、駄目っ。か、勘違いするっ。お、俺みたいなヤツはと、特に。ね?」
「? どんな勘違いですかぁ?」
「だ、だからっ! 『こ、コイツ俺のこと、す、好きなんじゃないか』とか、『か、身体もオ、オッケーなんじゃないか』とかっ」
「……それは、勘違いなんかじゃないんですよぉ」
「へ……?」
呆気にとられていると、今度は安藤の首にまきつくように両手をからめて堀内が言った。
「アタシ……既にそういうことはぁ先輩たちにキツくいわれてるんで……だから、わかってます……アタシぃ、もう誰にもこういうことはしないって……わかってるんです」
「あ……。あ?」
パニック状態で放心する安藤の耳元に、堀内が優しく語りかける。
「アタシぃ……今すごく安藤さんがいいと思ってるんです……」
「な……んで……」
「アタシもぉ……さっき言った安藤さんの気持ち……とてもよくわかるから……。誰かから…………大事にされたくって……ずっと」
「ほり……うち……さん」
「きゃはっ。みすずって……よんでくださいよぉ。安藤さん……」
震える両腕が、その柔らかくて優しい身体にそっと触れる。
安藤もまた、堀内の身体をその手で力強く受け止めた。
「俺も……拓真って呼んで欲しい……」
いつしか、自分の目元からぼろぼろと涙がこぼれ落ちている。
「あはっ。“たっくん”だぁ……変なの」
何が可笑しいのかわからないけれども、堀内は実に可笑しそうに身体を揺らして笑い続けた。
その日、しばらくそうやって二人は、互いの身体を優しく受け止め続けていた。
いつまでも、いつまでもそうして続け合っていた。
※ ※ ※
「……なぁ樫枝よ」
「なんですか、先輩」
その日の午後、にわかに騒がしくなる外の音を窓から漏れ聞きながら、春日はバケツの前でモップをぎゅっとしぼりあげた。
「なんで僕がこんなところでモップを絞らにゃならんのだ。二日目に予定されていた各サークルの出し物を一つも見れんとは」
「もうしょうがないですって。今朝から何べん同じこと言ってるんですか」
春日の背後、談話室の中の水溜まりをモップで吸い取っている成司が、モップの柄にもたれかかりながら答える。
「『俺たちがライブをやらなかったらああはならなかった』って言われれば、もうこっちは何も言えないですもん。実際、あのスプリンクラーの誤作動は原因不明だし」
「全くこの大学は上も下もバカばかりだなっ!」
吐き捨てるようにそう言って、春日が立ち上がる。
「ライブをやれと言うからやった。盛り上げろというから盛り上げた。……その結果がこれか!? 呆れて物も言えんっ」
「……だから今朝からずっと言いまくってるじゃないすか」
そんな風に小声で漏らす成司と、高々に拳を振り上げながら大学の処置を嘆く春日を見て、悟司は苦笑いしながら千佐都の方へ振り返った。
「ち、千佐都はなんか珍しいね」
「なにが?」
悟司の方も見ずに、黙々と作業をこなす千佐都。
「いや、だっていつもならいの一番に文句言うでしょ」
「文句なんか言ってる暇あるならささっと終わらせて、家帰って寝たいのよ」
あーなるほど……。
そうしてへらへら顔でいる悟司に、千佐都がようやくこちらに視線を向ける。
「いーから手ぇ止めてんじゃないわよ。バカ悟司、アホかすが」
「ぐ……っ」
「……はい」
大人しく視線を落とすと、悟司はぷるぷる肩を震わせて千佐都を睨んでいる春日の横を滑らせるようにしてモップをかけていった。
正直昨夜のことは、あまりはっきりと覚えていない。言い方が少し語弊を生みそうなのでもう少し付け加えるならば、一つ一つの出来事についてはしっかりと記憶しているのだが、その瞬間、自身の心の内に思ったことや、感情の揺れ幅についてのことに関してのみ完全に忘却してしまっているのだ。
なので、悟司は今あの時最前列にいた彼らからの報復を恐れていた。
どうしよう。腕っ節はからっきしな自分がどうしてあれだけ啖呵を切ってしまったのか。
「うう……夜道とかでボコられないかなぁ……」
ちょうど体育館の入り口までがくりと頭をさげてそうぼやくと、
「――そんなことはまずありえないわね」
「うわぁっ!!」
突然体育館の入り口からぬっと出てきた薬袋の顔に、悟司はまだ濡れて乾ききっていない廊下にべちゃりと尻餅をついてしまった。
「あらごめんなさいね。ただ、彼らは米田のようなアジテーターと違って烏合の衆の一員でしかない。ましてや『ライブの勢いに呑まれて恥をかかされました』だなんて、本人からしたら屈辱もいいところよ。そしてその事を米田に打ち明けるような『女に助けを求めに行くような生粋の恥知らず』ってわけでもなさそうだし、あの件はあれで完結してるはず。間違いないわ」
どこか小倉を思い起こされるその喋り方に、悟司は尻餅の体勢のままぽかんと薬袋の表情を見つめる。その視線に気付いた薬袋は、
「本当に悪気はなかったのよ」
と、口ではそう言いつつも表情は明らかにしてやったりと言った様子。
「もう……別にいいですよ」
立ち上がりながら尻の部分を触ると当然の如く湿っていた。
これじゃまるで漏らしたみたいじゃないか。
「あら。あれだけライブ前にヒドいことを言ったわたしに対して随分と優しいのね」
「あれはいまだにムカついてますよ。でも、」
「でも?」
「それなりに庇ってくれたんですよね。昨日のスプリンクラーに関して俺たちのことを」
昨夜の件についての事情聴取には、学生会や学祭執行部だけではなく、当然悟司たち虹山ロックの面々も呼び出されることになった。しかも、本日早朝に、直々学長からである。
それはそれはひどいものであった。事後処理に追われ、家に着いたのは昨夜の二時過ぎだったにも関わらず、呼び出しをくらったのは朝の六時ちょうど。けろりと平気な顔をしながら先に来ていた薬袋の体力に驚いたのも無理はない。一方で悟司達は完全に寝ぼけ眼のボサボサ髪。ちなみに千佐都は寝坊で遅刻。
「あなたが先に来て、ある程度の説明を済ませていてくれたから、俺たちはこんな楽な処遇で済んだんだと、俺は勝手に思ってるんですけど」
「わたしがそんな優しい人に見えるのかしら?」
「いや、全く以てちっとも見えませんけど。でも、なんかあまりにもスムーズすぎてびっくりしたんですよね。ホントならもっとお咎めくってもおかしくない。与那城くんが言ったように、理不尽だけども『俺たちがライブをやらなかったらこんなことにはならなかった』論法でゴリ押し、そのまま廃部コースまっしぐらだと思ってたんで」
「廃部にしたら面白くないじゃない」
さらりと本音を言ってのける薬袋。どうやら、庇ったことを隠し続ける気もなかったらしい。全くこの女はどれだけ悪ノリが過ぎるのだ。
「わたしは面白い物を見せてもらったから。だから、これはその報酬と受け取ってくれて構わないのよ。どうせ最終的に責任追及されるのはわたしなのだから、その分も合わせて全部引き受けてあげただけの話」
「そのついでに、もう一つ報酬をいただけませんか?」
「欲張りね。なに?」
そこで、悟司はそっと周りの目を伺いながら「とある相談」を持ちかけた。
「それは別に構わないけど。要するに黙っていればいいのね?」
薬袋は、悟司の持ちかけにいともすんなり頷いてみせる。
「……そんな簡単に了承していいんですか」
驚く悟司に、薬袋は無表情で答える。
「誤解があるみたいだから言わせてもらうけれど、わたしこう見えても気に入ったものに対しては随分と甘い人間なのよ」
「なんだ。変人じゃなくて意外に普通なんですね」
「あなたに言われたくはないわね」
そこで、声もあげずに肩を揺らして笑う薬袋と共に悟司も笑った。
「なんだかあなた、本当に俺の知ってる人にそっくりですよ」
「へぇ。ということはわたしのようなたいそうな悪人ね?」
「まぁ……そうとも言えなくもないですけど」
でも、と悟司は鼻をかきながらモップを掴み直す。
「俺はそこまであなたを悪人だとは思いませんよ。んじゃ」
そう言って悟司は再び、モップ前にかざして廊下を走り出した。
※ ※ ※
「悟司くん」
ちょうど学生センターの前にまでさしかかったところでそう呼ばれて顔をあげると、
「月子ちゃん」
「手伝いにきました」
両手に空のバケツと乾いた雑巾を持った月子が笑顔で立っていた。
「えーっ。つっきーはいいよ」
千佐都の声が背後から飛んでくるも、月子はゆっくり首を振って、
「退屈なので」
と、言いながらそのまま壁面の水取りに取りかかる。
「本当に適当なところで切り上げていいからね、月子ちゃん」
悟司がモップを掴みながら月子にそう声を掛けると、月子はクスクス笑いながら、
「ありがとう、悟司くん」
そんな風に小さな感謝の言葉を漏らした。
「さぁみんな。少なくとも最後のキャンプファイヤーまでには絶対に終わらせるぞ」
春日の大きな声に、悟司も千佐都も月子も振りかえる。
「なんでも今年はそのうえ花火まで打ち上げるらしいからな」
「え、マジで!?」
花火、の言葉に千佐都が一瞬で食いつくと、体育館の方から薬袋の声が飛んできた。
「――本当に一瞬だけの花火だから期待しない方がいいわ。計五十発もないでしょう」
「花火は三尺玉換算で一発らしいっスよ」
阿古屋が意外な知識を披露したところで、
「てことは本気でしょぼそうね……」
そう千佐都ががっくりと首を落としながらうな垂れる。
「あ、でもでもキャンプファイヤーと合わさって、きっとキレイなハズっスよ!」
「そうだよね! あこやんもそう思うよね?」
そうして二人できゃっきゃとはしゃいでいると、
「――千佐都ー。しょーもないアンタのために手伝いに来たわよー」
月子と同じく、空バケツに乾いた雑巾を持って松前までもがやってくた。
「ありゃりゃ。樹里まで一体どーしたのさ!?」
「……どんどん増えていくな」
呆れ果てたように春日が呟くと、松前はむっとしながら、
「なんですか先輩。イヤなら私、帰りますけど」
そう言ってじろりと非難の目向ける。それを見た成司と阿古屋が、春日に向かってぎゃあぎゃあと騒ぎ立て始める。
「ちょっと春日さんっ! 松前先輩を追い返すとかマジNGっすよ!」
「そうっスよ! どーして先輩はいっつも余計な一言が多いんスか!」
「ぐぅ……っ。僕は別にそんなつもりじゃ……」
そんな風に、一年にたじたじな春日を見た全員からの失笑を買ったところで、悟司もこれまでだらだらと続けていた清掃にようやく精を入れ出し始めた。
みんなが一斉に笑う姿を、本当に久しぶりに見た気がした。
※ ※ ※
「……会長、どうして彼らに黙ってるんですか」
「なんのことかしら?」
体育館の入り口から中へ戻って、そのままステージの端を一人でモップがけしていた薬袋の元にポッケがやってきてそう語りかけた。
「とぼけないでくださいよ。事実上のお咎めなんて“何もなかった”ってことですよ。次回以降の夜の部の開催については検討の余地が入ってしまいましたが、それでも彼らが今回の件で得た成果は大きすぎる」
そこで、ポッケはばしっと手に持っていた紙を叩く。
それは、今年の町で行なわれる夏祭りのステージへの参加案内であった。
「彼らには八月の夏祭りへのお誘いが来てます。正直僕もドキドキでしたけど、後にあの昨夜のライブを見た二人は諸手を挙げて絶賛していたじゃないですか。他にも、大学内での米田一派と軽音側の連中の形勢は間違いなく今現在を以て逆転し始めてる。どれもこれも、昨夜のあのとんでもないライブのおかげじゃないですか! なんでそのことを彼らに伝えずに黙ってるんです?」
「祭りのお誘いについては学祭後に、彼らに伝えるつもりよ。それに、米田一派の件に関してはあなた自身の主観が混じりすぎて、不確定な憶測でしかないじゃない」
「確かに僕自身の主観が混じってることは否定しませんよ。でも、彼らのライブの成果をどうして素直にそのまま伝えようとしないんです? どうして彼らに『悪意のある伝え方』をするんですか!」
薬袋がちらりとポッケを見据える。ポッケの瞳には怒りが混じっていた。
それを見て、薬袋はあらためて樫枝悟司の起こした奇跡について嘆息を漏らした。彼は学内の世論ばかりか、どうやら学生会にまでその影響を及ぼしたらしい。
現に、今ポッケが言っているようなことは、今朝ぴおなにも全く同じことを言われている。
彼女の方が今のポッケよりもずっと感情的で、ある意味では非常にヒステリックな面を垣間見せていたこともここで付け加えておく。
「どうやら今回のケースに関するわたしの意図を、あなたも浜口さんも全く理解していないようね」
「意図?」
「ええ。この学祭を成功させるために、わたしがした『たった一つの冴えたやり方』よ」
「たった一つの? ……一体なんですかそれは」
訝しむような目で見るポッケに、薬袋はいつも通りの悪魔的微笑をを浮かべて言った。
「それはね、彼らの対立構造を『わざと熟成して煽り続けた』ことよ」
その言葉でポッケの顔が赤らむ。怒りが臨界値まで一気に上昇したのがありありとわかった。だが、それでも薬袋は構わず続ける。
「断っておくけど、わたしは自らでそれを煽ったわけじゃない。彼らは、わたしなんかいなくても勝手に対立していたでしょう? 問題はその対立に使うエネルギーを別の形で昇華させることなのよ。発散の場をちょっと切り替えるだけで――ほらね? こんなに簡単に成功してしまった」
「あんた……」
「考えてもみるべきね。止めようと思えば、いくらでもわたし達は彼らの暴走を止めることが出来た。米田と堀内が揉めあった時点で、わたしたちは彼らに対して両方を平等に処分していれば、おそらくこれ以上の広がりは見せなかったでしょう。米田達が、軽音の連中に実力行使に出た際にも、わたしはそれを行なう前から彼らの行動を全て把握しきっていたわ。それでもあなた達に、監視だけを頼んだのはそのため。ぜんぶ――」
そこまで言った瞬間、壁際に立っていた薬袋の頭の左右方にポッケの手がばんっと押しつけられた。薬袋はそんな彼の両手をゆっくりと、無表情でそれぞれ眺めてから、最後にまっすぐ彼の瞳へと視線をあわせて言った。
「……これでわたしがビビると思ったのかしら?」
そんな安い挑発を無視して、ポッケがぎろりと薬袋を睨みつける。
「あんた……あんた、頭はキレるし上に立つ人間だと……そう俺も思っちゃいるけど、ただ……ちょっと人として品性がイチイチ下劣すぎやしないか……っ」
「お褒めの言葉をどうも」
「誰も褒めちゃいねぇんだよ……っ」
歯ぎしりをしながら睨みつけるポッケに、薬袋は中断してしまった話の先を再び話し出す。
「……全部この大学のためよ」
「なんだって?」
「大学のためにならないことをわたしはしない。無駄が嫌いなの。だから、わたしは彼らの対立構造を今後もずっと放置し続けるわ。勝手にその意識が自然消滅するのならそれまでのこと。わたしはそこまで彼らに干渉するほど暇じゃないの」
「…………」
「なんでわたしが彼らに本当のことを言わないかって? 当然よ。せっかく熟成している実をどうして自らの手で腐らせることが出来る? あのライブが成功したのだって、彼らの緩慢で味気ない活動を、米田という材料で品種改良させた結果じゃない。必要以上に喜ばせて、彼らの牙を抜いてしまったら意味がないもの。だから余計なことは言わないだけ。嘘はついていない、黙っているだけ。それだけよ。無駄が嫌いだから」
「……もういいです」
ようやく壁に押しつけていた手を離すと、ポッケは薬袋の元を去りながら振り返ることなく言った。
「ラジオは続けます。あなたの仕事も任期を終えるまではしっかりと手伝います。でも、今後そういった学生会の仕事外の活動の駒には決してなりません」
「この話をした時点で、そうなるのはわかってた。今までありがとう。感謝してるわ」
「……そうじゃないでしょう」
肩越しに横顔だけ覗かせながら、ポッケが薬袋を見つめる。
「なんでこの話をわざわざ僕にしたんです? はぐらかすこともいくらでも出来た。それを僕は彼らに正直にぶちまけにいくことだって出来るんですよ? なのに、あなたはどうしてわざわざこの話を包み隠さず誠実に、正直に、僕にぶちまけたんですか?」
薬袋は口元を真一文字に結んでポッケを見つめる。
「……そんなの答えは一つでしょう? あなたは真に染まりきった悪人じゃないんです。何らかの意図があって、その目的のために行動している――だから僕はその真意を知るまで、任期を終えるまで、僕はあなたのその秘密を黙っておきます。……立場を誤らないでもらいたいですね。あなたは時として、僕に脅迫されることだってありうるんですから」
そこまで言って、ポッケは自分の持ち場へと戻っていった。
「まったく……」
薬袋は前髪をかきあげながらそうぼやいてみせる。ポッケの言ったことは、ニュアンスは違えどほとんど同じことをぴおなに言われた。やっぱりあの二人は兄妹なんじゃないかと思ってしまうほど、あまりにも似通った態度だったのでついつい吹き出しそうになってしまったではないか。
しかし――
「やっぱりとことん悪になりきることは無理ね……わかってはいたけど」
どこかでこんな自分を引き留めて欲しい。そういういらぬ予防線を張っている自分が、またひとつ自己嫌悪の材料になっていることを否定はしない。
でも、突っ走るしかないのだと薬袋は思う。彼らはせっかく実り実った、風味豊かな果実なのだから。
あとはこれを、どのようにうまくカードとして切っていけるか。それだけなのだ。
「福音」
はっと我に返ると、先ほどポッケが去って行った場所には事務員の平野香苗が立っていた。
「……何の用?」
つっけんどんにそう返す薬袋。だが、そんな態度にもひるむことなく平野は音も立てずに薬袋の方へ近付いていく。学祭の作業に没頭しているからなのか、ヒールではない普通のスニーカーで、服装も普段のスーツではなくラフな感じにまとまっている。
「心配しなくても、キャンプファイヤーまでには終わらせるわ。あなたもこんなところをわざわざ様子見に来たりせず、さっさと持ち場の方に戻ったら――」
「どうしてそこまで頑張るの?」
薬袋が口をつぐむ。
「あなたのお母さんも心配してるわ。学長も二日目の今日の人の入りは去年以上の成績だって喜んでいるし。でも……私はあなたの身体の方が心配」
「『叔母さん』に心配されなくても、別にわたしは大丈夫だよ」
「でも……」
「いいからもう行って。掃除の邪魔だから」
少しだけ後ろ髪ひかれるような表情を見せてから、平野が去って行く。
「……止まっているわけにはいかないのよ」
自分に言い聞かせるように、薬袋は一人静かにそう漏らした。




