第二章『遅れて春日の2さじ目』
プロフィールNo.2
名前:春日驚輔
年齢(誕生日):20歳(8/31)
身長(体重):182.1cm(78kg)
血液型:B(RH+)
好きな飲み物:缶コーヒー(微糖系)
苦手な物:樫枝千佐都
(2012年 7/27~8/20までの連載分)
入学式は滞りなく終了し、季節は完全に春真っ盛り。
卯月である。
とはいってもさすがに北海道の片田舎。溶け残りの雪はすっかり雫へと変わったのに、桜の花はいまだ咲かず。相も変わらずジャケットが手放せないままの新学期が始まった。
始まって間もない頃こそ真剣に耳を傾けていた講義だが、数回受けてしまえば自然と慣れが生じてくるものである。いつしか念仏のような教授の言葉を、右から左へと聞き流すことが習慣となってしまった。
そんな悟司の直近の悩みは、相も変わらずあの女からやってくるのであった。
――明日、一緒に軽音部へ行くよっ。
これは昨夜の千佐都の発言である。自作曲ノートを見られて以来、千佐都は悟司の部屋に来るなり毎日のように悟司の弾き語りギターをせがんだ。自作曲はそこそこに溜まっていたので披露する分には問題なかったのだが、いかんせん千佐都は弾き語りだけでは物足りないらしく、
「――あーここでドラムがジャーンって鳴ってくれたらいいのに。ね、悟司もそう思うでしょ? ねぇねぇ」
などと、いらんお節介までかけてくる始末。悟司もいい加減にうんざりし始めた頃にそれはやってきた。
その名も「ノートパソコン」である。
つい数日前、入学前に両親から買ってもらったノートパソコンが、とうとう悟司の元へと届いたのだ。悟司はすぐに隆史さんへと電話して、一○一号室にネットを開通。
何もない街で暇をつぶすには最高のアイテム、インターネッツ様々である。
この情報を知った千佐都は当然、このインターネッツ様々に興味津々。
「ねぇねぇ。あたし、動画サイトにおすすめの動画あるんだけど。またそれが、もうめっちゃくちゃ面白くてさ、昔見たとき、これアップロードした人頭おかしいんじゃないのって――あ、これこれ! ほらほらっ! 悟司もこっち来なよ」
そんな調子で弾き語りから、どうにかうまいことそっちへと気を逸らせる作戦は、見事大成功の元に終わった。
これでようやくじっくりとギターの練習に打ち込めるようになったと思っていた矢先に、前述の軽音部発言である。
結果ノートパソコンはほぼ千佐都の独占所有物へと変わっているばかりか、余計な提案まで寄越されるという散々な状況。
あんまりパソコンを勝手にいじらないで欲しいなぁと、悟司は常々千佐都を見ながら目で訴えているのだが、今のところ全く効き目なし。
最初こそ自分の曲の感想をくれて「もしかしたら良いヤツなのかも」と思いはしたが、相変わらず悟司にとって、千佐都は煙たい存在以外の何物でもなかった。
そして今日。
悟司は講義が終わり次第、千佐都と軽音部の戸を叩く予定になっている。
「気が……重い」
机に突っ伏して、顔を横に向ける。
悟司が座っている席からちょうど右奥。千佐都は教授の声に催眠効果を見出したようで、現在の悟司と同じ体勢で机に頬をべったりつけながらぐーすか眠っていた。
悟司と千佐都の共通点に、「同じ学部」という項目まであったことを知ったのはオリエンテーションの時。
超Fラン大学の、それも文学部という就職するにはあまりにも不安定な居所まで一緒になるとはさすがの悟司も夢にも思っていなかった。
未開大には文学部と経済学部、福祉学部と酪農部の四つが存在する。
といっても、酪農部なんて肩書きだけで農業大学のように専門的な何かをやっているようにはとても見えない。それを裏付けるように今受けている国学という講義は、必修科目で全学部が合同で受ける講義である。
……国学の知識を必要とする牧場経営って一体どんなだ?
ちなみに福祉学部は介護の資格や保育士などの資格が取れ、一応この大学の中では一番実用的な学部らしい。らしいというだけで、実際のところがどうかは他学部である悟司にとって、知る気もなければ知る必要もない。資格職なのだから、まぁおそらく食いっぱぐれはないだろうといったところか。特に今のご時世、介護なんかはきっと引く手数多であろう。大変な激務らしいが。
悟司は千佐都のだらしない寝顔から、反対側の景色へと首を回した。
反対側の頬にひんやりとした机の冷たさを感じながら、窓の景色を見てぼんやりする。
資格職といえば、一応文学部にも教職資格やら図書館司書、学芸員など一通りの資格講座は備わっている。いるのだが、実質取ったところでどうということもないだろう。結局教職資格は教員採用試験を受けなければならないし、司書や学芸員だって割と似たようなものである。資格を取ったところで「はい採用」とはならないのは自明の理。
そんなことを思いながらも、悟司は一応図書館司書の資格講座を取った。理由と言ったらそれなりに本を読むし、好きだから、であろうか。なんで取ったのかと言われると実際のところ自分でもよくわからなかった。
講義が始まってから、休日を除いて早十日目。いまだ学部内の知り合いといえば千佐都だけという悟司は、ちっとも大学の空気に馴染めずにいた。
このまま永遠に講義が続いてくれればいいのに、とぼんやり窓の外を眺めていると突然足元に何か小さなものが当たった感触がした。顔をあげて机の下をのぞき込む。
足下には消しゴムが落ちていた。悟司がそれを拾い上げると、
「――ませんっ」
小さな声だが、近い。悟司は辺りを見回しながらどこからやってきた声なのか考えていると、つんつんと誰かが背中をつつく感触がした。
「すみ、すみません。それ。ウチの」
この教室は大学特有の、机一列ごとに高低差のある大教室だった。特に国学はこの大学必修の講義なので、全学部全学年の学生が受け入れられるようこの一番大きい大教室を使っている。それでも人が入りきらないために週に三回分けて行われているくらいなのだ。
悟司が振り返ると、ちょうど自分の目線の位置には机があった。真っ先に目に入ったのは消しゴムの持ち主である、その人の顔ではなくノートの方だ。
……ノート。
それは見たところ、なんの変哲もない普通の大学ノート。
レポート用紙ではないのが珍しく思えた。
広げられたそのノートには、マンガのキャラクターのような女の子の絵。それも、ものすごくうまい鉛筆画が描かれていた。
なんか、めっちゃ上手くて可愛らしい女の子が二人いて――
しかし確認できたのはそこまでで、悟司が見たその絵はおそらく消しゴムの持ち主であろう人物の手によって隠されてしまった。
「は、はわ。えっと。その消しゴム。消しゴム、ウチの――」
なんだかものすごく焦っている。別に講義中に落書きしていたことがバレたくらいで、こちらはなんとも思ったりしないのに。そう思いながら、悟司は持っていた消しゴムを渡そうと顔を上げた。
刹那、ずどんと胸を大きな杭で打たれたような痛みが悟司を襲った。
ややくせっ毛の、柔らかそうなセミロングの黒髪。赤い縁の入った小さな眼鏡。その中にはくりくりの大きな瞳が悟司を見つめていた。
「……すみ、ません?」
凝視してる悟司を不思議に思ったのか、消しゴムの持ち主である彼女が首をかしげる。
「あ、あ――」
慌てて消しゴムを相手の机にばんっと載せると、悟司はそのまま前を向き直した。
……女神。いや、あの素朴な感じはむしろ――聖女!
そんな大げさな表現をやめて簡潔に言えば、悟司の好みをもろドストライクで突いた女の子だった。
何もしてないはずなのに、無性に暑くなる。顔が火照ってきた。なんだこれ。
悟司は顔を両手で覆って目をつむった。落ち着け俺。落ち着け。落ち着けー。
「――なにしてんの? あんた」
その声で我に返った悟司が驚いて顔を上げる。声の主は千佐都だった。
気がつけば国学の講義は既に終了して、大教室にはまばらに出口の扉へと向かう生徒たちが数人いる程度だった。
「た、タイム、スリップ? キングクリムゾン……」
「はぁ?」
千佐都はバカを見る目で首をかしげる。
今の女の子は幻? まさか。
「何言ってんのかさっぱりわかんないけど、さっさと行くよ」
その言葉で悟司は再びはっとなった。まずい。永遠に続いて欲しい講義は既に終了して、今から向かうところはサークル棟。
おそらく目指す先は、軽音部。
「い、行きたくない。やっぱ今度にしよ?」
「はぁ? 今更」
「だ、大体。俺がど、どこのサークル行こうが、ち、千佐都には関係、ないだろ」
「関係大ありよ。だってあたし、あんたの曲をちゃんとしたバンドで聴いてみたいもん」
「俺は、バンドは、や、やらない。ま。前にもそう、言ったろ?」
「そっか。じゃあしょうがないね」
そんな言葉にほっとしたのもつかの間。
「フォークデュオって形は想像してなかったけど、あんたがそれを望むならあたしは別にそれでもいいかも。ほら、行くよっ」
「い、いやだあああああああああ」
机にしがみつく悟司を無理矢理はがして、千佐都は悟司を引っ張っていった。
※ ※ ※
結局サークル棟の直前にある喫煙スペース。そこで一旦千佐都から解放された悟司は、ふらふらになりながらベンチに腰を落ち着けた。喫煙スペースには二台の自動販売機があり、そこから千佐都が缶コーヒーを買ってくると、悟司に向かってそれを一本手渡す。
「ど、どうしてそこまで俺に構うんだ」
千佐都からコーヒーを受け取ると、悟司は重々しく口を開いた。
千佐都が隣に座って、一緒に缶コーヒーのプルタブを開ける。
「どうしてって、だからあたしは悟司にバンドを――」
「別にお、俺はバンドじゃなくたって良いんだ。一人で黙々とメロディを考えて、詞を書いて、それをギターで弾いて。それで終わり。そ、それで満足なのに」
「本当に?」
真剣な目で千佐都が悟司に詰め寄る。
「本当にそれでいいの? 聴いてくれる人もなく、ずっと家にこもって、曲を作って、ノートに書きためる。そんなんであんたは満足なの?」
少し間が空いた。
そうして俯いた悟司に対して返答がないのがわかると、千佐都は再び口を開いた。
「メン募の話は災難だったと思うよ。でも、あんたは一度そうやって動いてた。バンドをしようって動いてた。そのときの行動原理は一体なんだったの?」
「き、気の迷いです」
「うそ。きっとその高校の時の先輩みたいにライブハウスで演奏したかったんでしょ? 憧れだったんでしょ? そのガールズバンド」
図星だった。千佐都はコーヒーをぐいっと煽ってから悟司の肩をぽんと叩いた。
「大丈夫。メン募の時みたいな人間なんて、そうそう出くわしたりなんかしないって。考えてみりゃ今回はそういう根無し草みたいな連中じゃなくてちゃんと大学の軽音部ってところなんだしさ」
「……うん」
正直、気は進まない。ものすごく進まない。
でもなんとなく千佐都の期待に応えたいという気持ちが、今の悟司にはあった。うっとうしくはあるが、それでも彼女は自分の曲を真面目に評価してくれた。歌詞については散々だったが、ギタープレイとメロディに関してはべた褒めに近い。
その恩返しというわけじゃないが、多少はこいつの言うことを聞いてやってもいいんじゃないか? そんな気持ちが少しだけ、ほんのわずかにだけ芽生えてしまったのだ。
別に嫌だったらすぐにでも辞めればいい。いっそ幽霊部員でも構わない。それ以上の要求まで彼女がしてくるようだったら、そのときはきちんときっぱり言い返してやろう。やっぱり自分は一人で構わない、と。
そう考えたら悟司はだんだんと気が楽になってきた。悟司は意を決してコーヒーを一口すすると、くるりと千佐都の方へ向き直った。
「わ、わかった。行くよ。行く」
「ホント?」
ほころぶ千佐都の表情に、悟司はうっと短く声をあげてそっぽを向いた。
「た、ただきょ、今日は仮入部、というかとにかくそういうので!」
うんうんと千佐都は頷く。それから満足そうにベンチにどっかり背を預けながら千佐都は空を見上げた。
「あたしさ、悟司のこと最初はすっごい正直つまんないヤツだって思ったのさ」
「おい」
「でもね、意外な特技もあるもんだなーって。この前のギター聴いて思ったの。めっちゃ感心したんだよ? どうしようもないダメ人間にもこんな輝きがあったんだって」
「おい」
「あたしには、ないからさ」
「え?」
空に向かってすっと手をかざした千佐都。そんな千佐都を悟司はぼんやりと見る。
「そういう取り柄っていうのかな? 熱くたぎるような情熱みたいなもの。そういうの、あたしにはなんにもなくて。全てが中途半端。そんなあたしは、きっと一生ただの一般人で平凡で――考えてみりゃあたしの方が悟司よりもつまんない人間なのかもね。あはは」
千佐都は笑いながら空に向かって手を伸ばし続けていた。そんな千佐都につられて悟司も空を見上げる。
真っ青な快晴だった。雲一つない澄み切った空。ビルなどの障害物に阻まれることのない、広大な北海道の大地にはあまりにもふさわしすぎるそのデカい空に、悟司は自分というちっぽけな存在が浮き彫りにされている気がした。
「他人に誇れるものって、あたしにはないんだよねぇー。そういう努力もしてなかった」
千佐都は、空に向かってゆっくり息を吐く。
「だからなのかな? 悟司を見て『なんかすごくもったいないな』って思った。うらやましかったのかも。一つのことそれだけしか見えてないっていう夢中な何か。あたしも欲しかったなーそういうの」
「な、ならポエムでも書けばいいんじゃない?」
「バカ」
千佐都がカラになった缶で、悟司の足を優しく小突いた。
「あたしが言ってんのは、あんたみたいに特技って呼べそうな何かを今の歳まで手に入れられなかったっていうぼやき。きっとそういう突出した才能もないだろうけどね。根気ないし」
「い、今からでもきっと遅くないよ。ポエム」
「ポエム推すなぁ……。まぁ考えとく」
「う、うまくなったら採用してそれで曲作ってみよう」
「上から目線だねぇ。あたしがあんまり褒めるから自信出来ちゃった?」
「そ、そういうわけじゃないんだけど」
照れくさくなりそっぽを向く悟司に、千佐都が笑顔を向ける。
「でももし、ホントにそうなったら、期待してるからね」
「お、おう」
そうして二人でしばらく空を見上げていると、急に巻き上がったタバコの煙を浴びて同時にむせてしまった。互いに咳き込みながら煙が立ちのぼっている方へと視線を下げると、そこにはギグバッグを持ったままタバコをふかしている一人の男がいた。
見たところ、身長は百八十センチ超え。緑と白のキャップに紺色のスタジャンを着た、いかにもと言わんばかりのコア系ファッションだったが、顔はどちらかというと生真面目そうな印象があった。
「…………なに?」
悟司と千佐都が二人して凝視しているのにびっくりしたのか、男は口からタバコを離して二人を見つめ返した。
「悟司。もしかしてこの人、軽音部じゃない?」
そう耳打ちしてくる千佐都。そんなことは言われなくても見ればわかる。悟司は思いながら、彼が持っているギグバッグの方に目をやった。
大きさが明らかにギターのサイズではないので、それだけで彼がベーシストだとわかる。問題はそこではなく、ギグバッグに書かれているロゴの方だ。
「ミュージックマン……」
ギターよりもどちらかといえばベースの方が有名なブランドである。もちろんギターの方もそこそこ知名度はあるが、ミュージックマンといえばやはりスティングレイというベースだろう。ブランドの中でもかなり代表的なモデルだと思う。
彼が手にしてるのはスティングレイだろうか?
悟司はギターを弾いているが、かといってベースを全く触ったことがないわけではない。出来ることなら中身を見せてもらいたいところだが、相変わらずのコミュ障気質がそれを阻んでいた。そのまま黙してコーヒーをすすっていると、
「ねぇねぇ! もしかしてきみって軽音部?」
悟司は飲んでいたコーヒーを全力で吹き出した。
いつの間にか千佐都は悟司の傍を離れて、男の目の前に立っていた。まるきり初対面のはずなのに、全くそれにふさわしくないテンションで強引に話を持ち出そうとしている。
「これってギターでしょ? お、でもちょっと悟司のより大きいなー。大人サイズ?」
俺のは子供サイズか、と悟司は心の中でツッコミを入れる。
「お、おいちょっとお前」
動揺する長身の男。そんな男に全く気を取られることなく、千佐都はマイペースで悟司の方へと振り返った。
「ねぇねぇ悟司、この人に案内してもらおうよ。ギター持ってるってことはこの人これから軽音部に行くんだろうし」
「ギターじゃない、ベースだベース」
苦々しくそう告げると、長身の男は千佐都からギグバッグを遠ざけて言った。
「なんなんだ、君たちは。……新入生?」
「あ、はい。あたし樫枝千佐都って言います。んでこいつが悟司」
「っふぁ!?」
千佐都が急に振ってきたせいで、悟司は一気にキョどりはじめる。がたりとベンチから立ち上がると思いっきり頭を下げて、
「お。おし、おし。押忍!」
などと、意味不明な言葉を吐いた。
「な、なんなんだ。お前ら」
長身の男が気味悪がって、一歩後ずさる。
「あ。悟司はちょっと人見知りなとこあるんで。それよりなにより、あなた軽音部なんでしょ? ぎた……じゃなかった。ベース持ってるってことはバンドマン?」
「ま、まぁそうだが。それより、君ね。僕は一応三年せ――」
「良かったじゃん悟司! 二人で部室乗り込むより勇気いらないしさ」
「話を聞け話を!」
「聞いてるって。三年生なんでしょ?」
「ぐう……」
千佐都のそっけない返事に、言葉を飲む長身の三年生の先輩。
「せ、先輩っ! 押忍です。俺、け、け、軽音部に入りたいっす」
「あー良かった良かった。さ、案内してもらいましょ。あ、まだ名前聞いてなかった。先輩の名前ってなんでしたっけ?」
千佐都がそこまで言ったところで、三年生の先輩はタバコを足でもみ消してギグバッグを掴むと無言でさっさと歩き出した。やっかいな人物にでも絡まれたかのようにやたらと早足で、二人を遠ざけるように歩く。まぁ、その読みは全く間違ってないのだが。
「おっ。悟司。追うよっ!」
「ついてくるな」
先輩は千佐都の言葉にぴしゃりと言い放った。
「えー。それよりあたしまだ名前聞いてないよ? 先輩」
「僕の名前はどうでもいい。今後君らとはもう関わらない予定だからな」
「感じ悪いなー」
「誰のせいだと思ってるっ!」
そこまで口にして、先輩は立ち止まって振り返るとはぁっと大きなため息をする。
「……わかった。確かにちょっと大人げなかったな。あまりにも次元の違うところの人間と遭遇してしまったせいで少々混乱気味なんだ」
「誰のこと言ってんの?」
「おめぇのことだよおめぇのっ!」
口角泡を飛ばしながら、先輩が千佐都に突っかかった。
「……まぁいい。とにかく。おい、そこの」
先輩が悟司をあごで指した。
「お、おおおおおおし、押忍」
そんなキョどる悟司に先輩は苦笑いしながら言った。
「君は入部希望なんだな?」
「おしっ!」
「で、お前は何者なんだ?」
先輩がくるりと千佐都へ振りかえる。
「あたし?」
千佐都は自分を指しながら笑った。
「あたしは悟司の付き添い」
「マネージャー希望とかじゃなくてか?」
「あ、じゃあそれでいいよ」
「……わかった。一応部室まで案内する。多分四年生の先輩たちが先にいるはずだ。彼らに聞けば入部届けの申請とかそういった細かい話とかはおそらくしてくれるだろう」
「おっけー。それで、先輩の名前は?」
千佐都がそう言うと、先輩は相変わらず不機嫌な顔をさらに不機嫌にさせながら言った。
「僕は春日。春日驚輔だ。それと、僕にはその態度で構わないが、部室にいる先輩にはきちんと敬語を使えよ。わかったな?」
「ほーい。春日せんぱい♪」
千佐都のお気楽な返事に再度ため息をつくと、「こっちだ」と言いながら春日は二人を部室まで案内した。
サークル棟の二階、一番奥の部屋にそれはあった。
『軽音部』
そう書かれたサークル扉の看板には、最近流行った女子高生たちのバンド活動を描いたマンガの絵、他にも乱雑に切り取った、洋邦入り乱れたアーティストの顔、ギブソン、フェンダーのギターのくり抜き、なぜか映画の俳優まで、そのすべてがとにかく適当にごっちゃごちゃで貼り付けられていた。
「わぁ、なんか雰囲気出てるね。あたしもちょっと緊張してきちゃった」
心にもない千佐都の発言も、悟司には全く届かない。
歯ががちがちと鳴り、震えるふとももを指でつねりながらサークル扉の前で直立不動になっていた。
「落ち着けよ……」
さすがの春日も、悟司の様子に呆れかえる。
「しっかし、扉はどう見ても『軽音部です!』って趣きなのに、肝心の音が全くしないねー」
千佐都の言葉を聞いた春日は、無言のまま扉を押し開けた。
「失礼します」
部室は悟司の家よりも狭い、八畳窓付きのこじんまりした空間だった。
最初に目に止まるのがバス、スネア、ハイハットにクラッシュ、ライド、両タムにフロアというごくごく普通のドラムセット。
その周囲に上級生らしき人物二人が転がっていた。一人はカーペットを敷いた床の上に寝っ転がりながらマンガを読み、もう一人はガラケーを執拗にかちかち押しまくっている。
「おっせーぞ、春日ぁ。十四時から麻雀やるっつってたろ?」
「すみません」
春日は適当な謝罪の言葉を述べて、端にあったロッカーにギグバッグを立てかけた。
まるで高校の掃除道具入れのような、鉄製の長細のロッカーであった。
「ったく。アキホのやつと全然連絡とれねーし。合コンセッティングしてくれるっつって、いつまで待たせんだよマジで」
「おい春日。ベースとか持って来るなよ。部室スペースせまいんだから」
「ったくお前も毎日毎日律儀なやつだな。ベース持ってきたって俺たち学祭直前までは練習なんか――」
そこで、ガラケーの方の先輩が春日の後ろにいる二人に目が入った。
「……なに、こいつら……」
悟司の隣にいた千佐都は、顔をしかめながら小さくそう呟いた。
「あ、なに? まさかの新入生?」
「え、うそ」
先輩の言葉にびっくりしたもう一人が、マンガから目を離した。
「うっわ。マジだ。しかも女?」
「ちょっとかわいくね? おい、春日。お前そういうことは先に――」
「……失礼します」
悟司はそれだけしか言えなかった。
たったそれだけ言うと、そのままくるっと部室から背を向けて歩き出す。
足並みが加速する。はっきりいって、何も考えたくなかった。
「ちょ、ちょっと悟司!」
背中から聞こえる千佐都の声も無視して、悟司はどんどんと足を加速させた。
「あれ、いきなりもう一人脱落?」
「まー別にいいんじゃん? 女の子ひとり入部ってだけでも大収穫って感じ」
「まーそっか。ねぇきみ麻雀出来る? 良かったら今日この後合コンあんだけど――」
部室の中にいる分、先輩の声は先ほどの千佐都の声よりも小さく聞こえた。それなのに、その声はやたらとはっきり悟司の耳に響いた。そしてその声は階段を下りてサークル棟を飛び出してもずっと頭の中で鳴り響き、リバーブがかかったように反響していく。ぐるぐると耳に焼き付いて離れないその声を何度も聞きながら、悟司は思った。
わかってたはずだ。
自分は何も期待していなかった。
何度もそう思い込んで大学を後にした。
※ ※ ※
「――悟司」
いつの間にか眠っていたようだった。オリエンテーションの時とは違い、ちゃんとした新しい布団の上で目を覚ますと、いつもよりひかえめなノック音が部屋の中で鳴り響いていた。
「悟司。ねぇ悟司。入っても……いいかな?」
悟司は黙っていた。
今日だけは千佐都に会いたくない。そう思って再び布団の上に横になる。
正直浮かれていたのかもしれない。千佐都の言葉にのぼせ上がって、なんとなく部室へ向かっていったら、思いのほか自分には合わない空気だと感じて去った。それだけだ。
別に悟司は彼らを責める気など毛頭ない。彼らが軽音部というスペースを借りて麻雀やろうがマンガを読もうが、そんなことはどうでもよかった。真面目にやることが絶対だなんて、堅苦しいことを押しつける気なんかさらさらないし、仮にそういうサークルだったとしてもそれはそれで息苦しく感じて同じように帰ってしまっていたかもしれない。
多くを望んでなどいやしなかった。ただ、なんとなく嫌になった。それだけのことだ。
「いや――」
そんなわけがない。失望の原因はあったじゃないか。認めたくないだけで。
帰ってしまった原因。
「あの時と、同じだ……」
それは「期待しすぎていた」ということ。
おそらく千佐都が考えている以上に強く、悟司は期待してしまっていた。
その期待は、もはや妄想という言葉に置き換えられるほど濃かった。そしてそれはあまりにも濃すぎた。そんな期待が失望に変わってしまい、そして逃げ出してしまった。
何を期待していたのかといえば、それは「音楽の仲間」として自分を受け入れてくれることに他ならない。
悟司はそういう場所が待っていると、信じ切っていたのだった。
悟司がサークルのドアを開けると、まずそこには楽器を持って演奏途中だった先輩たちがその見慣れない顔ぶれに驚きの声をあげるのだ。彼らはその見慣れない新入部員希望の悟司を見て途中で演奏を中断し、嬉しさのあまりはしゃぎ、喜んでくれる。そうして最初はぎこちない自己紹介から始まり、「まずはギターの腕が知りたいな」といった話から始まって、やがては大学の学園祭に向けて悟司を含んだバンド演奏の話にまで広がっていく。
……まるで青春を絵に描いたようなストーリー。そんな物語の第一巻に使われるような凡百な展開を、悟司は「勝手に」妄想しきってしまっていたのだった。
もちろん、現実の彼らにだって悟司を受け入れる気はあったのだろう。思い返してみれば彼らの態度には拒絶の色など存在していなかった気がする。
でも、残念ながらそれは悟司が望んでいたような「音楽をやる仲間」という形ではなくもっと別の何かであった。それは麻雀仲間であったり、合コン仲間であったり――色々だ。
別にそれ自体はちっとも構わない。構わないのだが、悟司はそういうものを、軽音サークルに望んでいたわけではなかった。もっと自分の手を引っ張ってくれる、気持ちを昂ぶらせてくれる、そんな出会いが待っているはずなのだと、そう思い込んでしまっていたのだった。
勝手に「期待」を押しつけて。その結果勝手に「失望」した。
そのことがただ、この上なく恥ずかしかった。
恥ずかしくて、逃げ出したかったのだ。
アニメやマンガや小説などの部活青春ストーリーが、悟司は大好きだった。そういったものの大半は、どれも高校生以下のキャラが活躍するものばかりだということにはこの際目を瞑ってもらうとして、とにかくそういった(大学生という遅咲きの)青春ストーリーが、もしかしたら自分にも待っているような気がしていた。
だが、現実なんてのはしょせんあんなもので。そもそも自分みたいなコミュ障が主人公だったら、あんな劇的な青春なんて、当然待っていてくれるはずもなくて。
そんなこと最初から全部わかっていて、しかしそれでも――
「寝てる?」
千佐都は扉越しにそう声をかけた。いつもなら、千佐都はとっくに遠慮なく入ってきてる頃で、それを少し覚悟していた。もちろん入ってきても話す気なんかゼロだから、布団の中に潜ってやり過ごすつもりだったのだが。
「……ごめん」
千佐都のその言葉は、今までに聞いたことのないほど悲しげなトーンだった。
「あたし、良かれって思って……さ。でも、なんかすっごい空回り。きっとずっとめんどくさい女だって思ってたかもだけど。でも、あたし、そう思われてもいいと思ったんだ、ホントにさ」
悟司は布団に潜りながら、千佐都の言葉を黙って聞いていた。
「だって、あたしが無理矢理引っ張っていけば悟司はきっと良いメンバーに巡り会って、それで良い関係を築いていけると思ったから……。そう期待してたから。よけいなお節介だってわかってたけど、きっとそれは良いことなんだ、って。押しつけでしかないよね。あはは……」
ごつんっと音がした。
「バカだね……あたしさ、なんにもないから。なんにも自慢できるもの、ないから。だからなんていうか、悟司はすごいって思ってた。歌詞はひどいけど、メロディはホントにすごいの。何度でも何度でも聴きたくて、あたし、もういくつかは口ずさめるくらいなんだから……ホントだよ? 気付いたらそれくらい好きになっちゃっててさ。あんたのメロディが」
扉が少しだけびりつく。おそらく頭を扉に押しつけて、しゃべっているのだろう。
「もったいないんだ……悟司は。すっごくもったいない。あたしだけに聴かせるメロディじゃないよ。もっと多くの人に聴かせて、みんながあたしと同じ気持ちになって欲しい。前に言ったよね? 『あたしはあんたのファンになったげる』って。本心なんだ。それ」
でも、と言って千佐都は少しだけ口ごもると、
「さっきも言ったけど、結局それはただの押しつけでしかないんだって。どうしたいかなんてのは悟司の意思であって、いくら消極的だろうが人見知りだろうが、悟司が決めることなんだって。全部わかってたけど、それでも自分をごまかしてた。その結果――あたしは悟司に二回目の失望を与えちゃった。……ねぇ、与えちゃったでしょ?」
そう言ってずるずると、扉に身体を滑らせる音が聞こえた。
「ごめんね……ごめん。そんなつもりじゃなかったって言っても遅いかもだけど、それでもごめん。あたしは……大馬鹿だ」
……そうだ。その通りだ。
千佐都は大馬鹿だ。
そして、自分もこの上なく大馬鹿野郎なのだ。
悟司はそう思った。
結局どちらもくだらない期待を勝手に抱いて、そうして勝手に失望して勝手にショックを受けていただけなのだ。
揃いも揃って恥ずかしいやつらだったのだ。
揃いも揃って同じことでくよくよしていたのだ。
そう考えると途端、なにもかも全て馬鹿馬鹿しく思えてきた。せっかく一人でくよくよしていたのに、それすら出来やしない。
それに、扉越しから伝わる空気を察するに『くよくよ度』は、どうも向こうの方が重症のようである。
……めんどくさいが仕方ない。
悟司はがばっと布団から飛び起きると、そのまま扉のノブを引いた。
途端、ずるーっと床にへばりつく千佐都が現れた。
「な、泣きたいのはこっちなんだからな」
そう言って千佐都の顔をのぞきこむ。すると案の定、千佐都は、ぐしゃぐしゃの泣き顔で床の上から悟司を見上げていた。
「ごめんなさい……ぐすっ」
「ち、千佐都が泣く必要なんて、な、ないっ! 全くないんだからなっ! お、俺は最初から部活に期待なんてし、してなかったし、あ、あんなもんだって。軽音部なんてどこもぜ、全部あんなもんだ!」
嘘は得意ではなかったが、それでも悟司は精一杯強がってみせた。
「……ホントに……?」
「ホ、ントだっ。昔はロックとかふ、不良の音楽だって思われてたしさ。麻雀どころか、も、もっと過激だったんだぞ。そ、それに比べりゃか、可愛いもんだ」
「あいつら……ずずっ……悟司がいなくなって、すぐに、あたしをナンパしてきた……」
「い、命知らずめ。得意技のチョークスリーパーでこ、殺してやればよかったんだっ」
「あいつら、ずっと『自分はモテるんだぜオーラ』だしてて……ずっとだしてて……ホントにキモかったんだからぁー……っ。ぐすっ」
「さ、災難だったな。俺を無理矢理引っ張っていった、ば、罰だ」
そこまで言ってから、悟司は千佐都の元へとしゃがみ込んだ。
「でも……じょ、冗談でも嬉しかった」
「え……?」
千佐都は鼻をすすりながら、悟司の顔を見返した。
「お、俺のメロディ、そこまで気に入ってくれてさ」
一方の悟司は照れながらそっぽを向く。
「ちゃ、ちゃんと言ってなかったけど。あり、ありがとう」
「……うん」
悟司は傍にあったティッシュ箱を掴んで千佐都に渡すと、豪快なチーン音を出して千佐都は鼻をかんだ。
こんなにすぐ泣くヤツだなんて、思わなかった。
ずっと無神経で、がさつなヤツだと思ってたけど――
「あーいっぱい出た」
「……み、見せなくていいから」
――でも、やっぱり無理だ。この女。
悟司は呆れながらそう思った。
※ ※ ※
千佐都が大分落ち着いたところで、自分の部屋の電気をつけると、いつも通りギターの練習を始めた。
「ねぇ、悟司」
千佐都が、パソコンの起動画面を眺めてぼそりと呟く。
「ん?」
ヘッドホンをつけようとしたところで、悟司は手を止める。
「今思ったんだけどさ、パソコンでメンバーとか探せないのかな?」
「諦めたんじゃなかったの……?」
「そりゃあ、押しつけだったのは悪いと思ってるけど……」
千佐都はふくれながらもちかちとマウスをいじり始める。インターネットの接続画面から接続を開始して、ブラウザがパソコンのディスプレイいっぱいに広がった。
「でもさ、なんというかさ……悟司がバンドであの曲を演奏してるのとか想像すると、なんかあれこれ考えちゃうんだよね」
「もう……じゃあ好きにしたらいいよ」
「あーあー怒ってる。でも、ほら。もちろん悟司が嫌だったら別にあたしはそれで構わないのさ。あくまであたしが勝手に良さそうだなって人を見つけてそれを妄想するだけ。それだけだから、さ。あはは……」
言葉もない。
ため息をついて再びヘッドホンをかけようとした悟司を、千佐都は片手で制しながら、ホーム画面からお気に入りの動画投稿サイトへとジャンプしはじめた。
千佐都の手を見ながら、むっとしてヘッドホンを置くと、千佐都は動画サイトのページを指さしながらこちらへニコニコ笑みを向ける。
「でもさ、悟司は演奏動画とか見たことない? 探してみるとこれがかなり上手い人とかいるんだよねぇ。まぁしょせんあたしっていう素人の意見だけどさ」
その手の動画は、もちろん悟司だって見たことはある。でもそういう演奏動画を撮っている人は、そもそも腕にある程度の自信がある上に、当然それだけの実力も兼ね備えているわけで。
悟司は決して自分の演奏が、上手い部類の人間ではないと自覚しているのだ。なので見たところで、劣等感を感じずにはいられないのである。
「そういう人は多分、俺なんかとメンバー組んだりしないって」
千佐都は案の定再生数が高い順番で、ドラムやらキーボードやらベースやらの演奏動画を見始めた。やはり、流れてくる演奏プレイの音だけで明らかに自分よりも上手いとわかる。
そんな上位に再生数を稼げている人間が、どこぞのわからぬ田舎在住のへんてこギタリストとバンドを組むわけがない。
そのようなことをかいつまんで悟司は千佐都へ説明すると、
「わかったよ! じゃあ再生数が少ない人を見てみる」
何もわかっていない。そもそも前提として、住んでる場所が違えばメンバーなど組めるはずもないのだ。どうしてそんな簡単なことがわからないのか、と悟司はたまらずギターを弾くのをやめて、千佐都が眺めるパソコンの方へと向かった。
「だから、そういう問題じゃなくってさ――」
「ねぇ、悟司。これってさ」
千佐都は悟司を無視して、眉間にしわを寄せながらパソコンのモニターを食い入るように眺めていた。その異様な反応ぶりに、悟司も思わずモニターに顔を近づける。
聞こえるのは、曲の演奏に合わせて唯一音量が大きいベース音。
ということは、今千佐都がみているのはベースの演奏動画である。
「あたしさ、どっかでこの人を見た気がするんだ」
「ん、なんだろ。俺も見たことある、かも」
その動画はまさに、低クオリティという言葉がしっくりくるものであった。
それもそのはず、おそらくあまり質の高くないカメラで撮影されたその動画は、とにかく撮影者の姿がブレまくっており、その原因は、やたらと派手でオーバーなアクションをしながらロック調の曲に合わせて、一心不乱にベースをかき鳴らしているからなのである。
ぶっちゃけ下手でもないが上手くもない。
なんというか、一言で言えばどうにも「パッとしない」演奏動画であった。
そのことを撮影者本人も自覚してるのか、たとえ静かなパートの部分でも全身を激しく左右へと揺さぶっていた。しまいには髪を上下に振り乱してのヘッドバンギング。そもそもそこまで激しい曲でもないのに、である。
とにかく、演奏よりもパフォーマンスに重きを置いて撮影しているということだけは、視聴者である悟司にも(おそらく千佐都にも)直感で理解できた。撮影者が、映画のエクソシストのように何かに取り憑かれてなければ、の話だが。
しかし、残念ながら演奏動画とは、弾いてる指の動きなどを意識して見ている人も少なくない。なので、動画に寄せられていたコメントには予想通り「無駄に動きすぎてよくわからない」などといった様な、呆れかえるコメントが数多く寄せられていた。
「変な人だけど、でもなんだろ……このすごい既視感」
「千佐都も見たことあるなら、俺たちがこっちに来てから出会った人かな?」
知らず知らずの内に、千佐都に対して緊張せずに喋っている自分がいた。だが、今はそんなことよりも演奏者の正体である。
ブレにブレまくる撮影者の動きがようやく止まった。演奏が終わった様だ。
「「あ」」
二人の声は思わず同時にあがった。
撮影者の着ている服は紺色のスタジャン。
使っているベースはミュージックマンのスティングレイであった。
※ ※ ※
翌日、サークル棟前の喫煙所。
一人の男がギグバッグを持ってやってきた。その姿を千佐都と悟司は自販機の陰に隠れながら観察する。
「きたよ、悟司」
「あ、あのさ。千佐都」
「ん?」
悟司は小声で千佐都に尋ねる。
「なんにも聞いてなかったけど、一体どうする気なの?」
「え? いまさら?」
何を言ってるんだといわんばかりに、千佐都は拳を強く握って言った。
「勧誘よ勧誘。あんなしょっぼい再生数でくすぶってる人なら、他のところから当然誰からもお声なんてかかってこないだろうし」
「うわぁ……」
完全に独断と偏見の主張である。春日だってこんなことを面と向かって言われたら、ショックと怒りで、二度と自分たちに関わろうとはしないだろう。そもそもファーストコンタクト時から、春日は二人(特に千佐都)のことを快くは思っていなかった。
余計な混乱を招く前に、悟司は千佐都を止めようとした。
「やめようよ。こんなこと」
「なんで?」
「何度も言ってるだろ? 俺はもういいんだって」
「えー。でもせっかくこんなに近いとこに演奏動画の人がみつかるなんて、奇跡だよ?」
「そもそも動画の話は抜きでさ。彼、軽音部入っててベース持ってたんだから軽音部の誰かとバンド組んでるに決まってるって」
「あんなサークルで? 全くやる気も感じられなかったあのサークルだよ?」
千佐都は声のボリュームを少し上げた。
「あたしのみたところ、どうもあの春日ってヤツだけは、真面目に音楽やってるって感じがしたのよね。でも他はダメダメ。どう見てもろくにバンドしてるって感じじゃないもん。それに、正直春日って服装はあれだけど、ちょっといいとこの坊ちゃんぽいじゃん? ああいうタイプなら、悟司みたいな人間のバンドメンバーとしても絶対に悪くない――」
「声、大きいって」
そういって千佐都をなだめた悟司は、おそるおそる春日の様子を自販機越しに伺ってみた。
……春日はばっちりこちらの様子に気付いていた。ガン見である。
嫌な予感に気付いたように、春日はそそくさとタバコをもみ消すと、そのまま部室の方へと向かう。それを見た千佐都はすかさず自販機の陰から飛び出すと、おもむろに春日の袖に飛びついた。
「ちょ、ちょっと話を聞いて。ね?」
「は、離せよ!」
あーあー。もうどうしようもない。
悟司は自販機の陰から出ると、そのまま無糖紅茶のペットボトルを買って、ベンチに腰をかけた。これ以上千佐都に付き合っていられないので、他人を装うように空を見上げた。
「悟司のバンドメンバーになってあげてー! 後生だー!」
「なんなんだお前はホントに! 大体昨日は二人して入部希望でやってきたくせに、すぐに逃げ出すし。あれから僕が先輩になんて言われたか」
「あんな場所でくすぶってたら時間もったいないよ! 今すぐあたしの言うこと聞いて悟司とバンドを――」
「大きなお世話だっ」
春日は千佐都の掴んでいた袖を振りはらって言った。
「お前はあいつのなんなんだ? 彼女か何かなのか?」
「違うよ。でもファンなの」
「ファン?」
春日はまるで、解読の出来ない未知の言語を聞いたようなそぶりで、悟司に翻訳を求める表情を見せた。だが、悟司は空を見たまま完全に無視を決め込んで無糖紅茶をすする。
「全く意味がわからない。彼は既にプロアーティストか何かなのか? 昨日の感じじゃどう見てもそんな風には見えないただのド素人だったが」
「ただのド素人ではないよ。強いて言うならアマチュアかな。バンドを一度も組んだことがないアマチュア。おまけに人見知りでおどおどしてて変なヤツ」
勝手に人のことを――
いらっとしながら、一瞬だけ悟司は顔を二人の方へ下ろしたが、無視を決め込むことを思い出して再び真っ青な空の鑑賞へと戻る。
お、ソフトクリームみたいな雲を発見。
「なのに、お前はヤツのファンなのか?」
「うん。あんたも一回悟司の曲を聞いてみなよ。それで絶対納得するはずだから!」
「ふーむ」
てっきり鼻で笑い飛ばして去って行くと思っていた春日が、予想外にもその場で考え込みだした。
嫌な予感がした。
まさかここでいきなり、曲を弾き語って見せろとでもいうつもりだろうか?
はっきり言ってそんなのはごめんである。もしそれと似たような状況になったら、たとえ千佐都がどうこう言おうと帰宅させてもらおう。
そう悟司が思っていたところで、春日はおもむろに口を開いた。
「……ひとつ聞きたいんだが、彼はDTMか何かでもやっているのか?」
「でぃーてぃーえむ?」
全く聞き慣れていない単語に、千佐都はくいっと首をかしげる。
「デスクトップミュージック。パソコン上で作る音楽のことだ」
千佐都はぶんぶんと首を横に振る。明るい色のセミロングの髪が左右に揺れた。
「そんなのしてるの見たことない。悟司はギターで曲作ってて、演奏も弾き語りだよ?」
「そうか。なら今の話は忘れてくれ。それにさっきも言ったが、バンドの件はお断りだ」
そういうなり、春日はそのまま千佐都の方から向きを変えて再びサークル棟へと歩き出す。
「ちょ、ちょっと。なんなのそれ。詳しく聞かせて――」
「邦楽洋楽のカバーバンドなら今のサークルで事足りてる。プロ志向のバンドを組もうとでもいうのなら話はまた違ってくるが、彼の性格を見るに別段そういうわけでもなさそうだ」
「ぷ、プロって……じゃあ、言わせてもらうけどね! あんたが入ってる軽音サークルってプロ志向なの?」
「逆に問うが、君たちはあれがプロ志向の連中の姿だとでも?」
答えを待たずに春日は続ける。
「あんな人たちでも僕にはあそこしかバンドをやる居場所がない。先輩たちのくだらない麻雀に付き合い、名目なき飲み会で出されるくだらない酒に付き合い、それでも僕は『仕方なく』あそこへと通っているんだ。悪循環だと思うがね。だが、それで『今は』十分なんだ。正直僕には現サークル内のお遊びバンドと、君たちの言っているバンドに違いが見出せないし、それを超える魅力があるようにも残念ながら思えない」
「なにその『仕方なく』とか『今は』とかって。……あんた一体何様よ。あたしも人のこと言えた義理じゃないけど、なんかひどく上から目線な言い方ですっごく気に入らない!」
「気に入らなくても結構。話は終わりだ。じゃあな」
そうして立ち去ろうとした春日の背に、千佐都はぼそりと呟いた。
「……なによ。演奏姿ははてしなくキモいくせに」
「なっ……!」
ああ、言っちゃった。
悟司は脳天気に空を見上げながら、心の中でそう呟いた。ちょうど見上げてる空の視界に写っていた木々の隙間に、さっと雀が二羽横切っていった。
お、あれはつがいだろうか?
「お、おま。まさかお前……。見たのか? 僕の演奏動画を……」
口をぱくぱくさせながら、春日は顔を真っ赤にさせて千佐都の方を振り返った。
「見た上でここにいるんだけど。あたしたちに見られたのがそんなにまずい?」
「ま、まずくはないが……」
「そんなことどうでもいいの。とにかくあたしはあんたに一言――」
「――帰ってくれ」
「え?」
「帰ってくれと……言っているっ!」
それきり春日は千佐都との会話を切り上げ、サークル棟へと猛ダッシュで駆け込んでいった。
「なんなの、あいつ」
悟司はようやく話が終わったと感じて、顔を千佐都の方に向けた。
「あれは正直、俺も言っちゃいけない一言だったと思うけどね……」
「な、なんでよ。悟司まで。大学の誰にも見られたくないなら上げなきゃいいじゃない。あんな動画」
「うーん。でも春日先輩の気持ちはちょっとわかる気がするけど」
苦笑いしながら、悟司は飲み干した無糖紅茶のペットボトルをゴミ箱に放り込んだ。
「とにかくもうこの話は終わりだよ。俺たちも帰ろう」
「ねぇ悟司。DTMってなんなの? それが出来るとすごいわけ?」
納得のいかない様子の千佐都は、うつむきながらも悟司に尋ねる。
「別に特段すごいってわけじゃないけど……。要は一人でも打ち込みでそこそこのバンドサウンドとかも出来るって話――」
そこまで言って、「しまった」と悟司は思った。
案の定、千佐都はそれまでのがっかりした表情から一転。目をきらきらさせながら悟司の顔を見つめていた。
まずい。これはかなりまずい予感がする!
「なにそれ! すごい! それがあったら悟司だって、一人でバンドが出来ちゃうんでしょ? そしたらメンバーなんて集めなくてもいいじゃない!」
でもバンドとしてライブが出来ないのか、と言いながら腕を組んでぶつぶつと考え込む千佐都。
嗚呼、なんだか変なことを考えている。悟司は自身の危機管理アンテナが、びんびんに感知していることを悟って、静かにその場を離れようとすると、
「ねぇ、悟司もやってみようよ! DTM」
うわあ来た。時既におす――いや遅し。
「あのね、DTMってそれなりに機材がないと」
フリーソフトでもそれなりの物は作れると聞いたことはあるが、そう言い出すことでなんとか悟司は千佐都の考えを却下させようと粘る。
「機材? パソコンにギターつないで演奏するだけじゃダメなの?」
「ダメだと思う。よくは分からないけど。大体そんなものがお金も機材もなしにいきなり出来るものだったら俺だってもうとっくに始めてるよ」
詳しいことは、悟司もやったことがないのでよくわからなかった。でも適当なことを言ってごまかせば、千佐都も納得するはず。そう思っていると千佐都は意外にも素直に、
「そうなのか……」
と、それきり黙ってしまった。
「DTM、ね。確かになんか響きが取っつきにくそう」
……嵐の前の静けさじゃなきゃいいけど。
悟司はそんなことを思いながらため息をついた。
※ ※ ※
それから数日は何事もなく過ぎていった。
相変わらず千佐都は、悟司のギター演奏をBGMにインターネットを閲覧。千佐都はその後も、動画サイトでメンバー募集のために演奏動画などを見てはいたが、日が経つにつれその成果を悟司に口出すことはなくなっていった。
あれ以来二人はサークル棟の方へと向かうことなく、学校と家の往復に日々を費やしていた。買い物は当番制で、毎日講義の終わりに交互に食材を買いに行って、交互に食事を用意した。特にそういうことをしようとどちらかが提案したわけではなく、気付けば自然とそういうシステムが同居する二人の中に構築されていったのだった。
そんな中、作曲ノートはいまだに新しい曲が更新されぬままだった。考えてみれば、実家からこっちの生活に移って以来、あれだけ大量に作っていた作曲ペースが、ぴたりと止んでしまったのだ。そんな自分に少しずつ焦りを感じながらも悟司は、それでもいつか新しい曲が思いつくはずさとあまりネガティブに考えずにギターの練習へと打ち込んでいった。
四月末日に近くなったある日、悟司は学内で、千佐都が他の女子と仲よさそうに喋りながら歩いているところを偶然目撃した。その時の千佐都は、いつも家で悟司に見せている顔とはまるで違った、いかにも大学生らしいキャンパスライフを送っていますと言わんばかりの表情だった。
そんな千佐都を見て、少なからずショックを受けている自分がいることに悟司は少し驚いていた。どうしてそんな気持ちになるのかはわからなかったが、なんだかすごく胸をしめつけられるような気分になり、その日は早く帰ると一晩中ギターをかき鳴らした。
その次の日の夜、
「あたし、スキーサークルに入っちゃたんだ」
千佐都は悟司の買ってきたコンビニ弁当を食べながら、そんなことを話し始めた。
「サークルなんてあんまり興味なかったけどせっかく北海道にきたんだし、なんか始めた方がいいかなーなんて思ってさ」
悟司の箸がぴたりと止まる。
「い、意外だね。スキーできるんだ?」
「まぁそれなりにはね。でも、どっちかっていうと交友関係広げたかったってのが本音かな。いつまでも悟司に構ってちゃ悪いしさ。互いの時間ってあるでしょ?」
「うん……」
つい、箸を置いてる自分に悟司は気付く。はっとして再び口に飯を運びながら悟司は作ったように口元を緩ませた。
「よかったじゃん」
「まぁ、今はシーズンでもないから滑りに行くこともなさそうだけど。でも、一緒に入った娘が今度札幌に服を買いに行こうって言ってくれたからそれは結構収穫かなって感じ。ここじゃ自分の欲しい服とか通販でしか手に入らないし、たまにはのんびりお茶したりして年頃の女子っぽいとこ出していかないと」
千佐都の話が耳の中を滑っていく。話を聞けば聞くほど、悟司は千佐都がどんどん自分より遠い距離にいる存在に感じてしまった。
悟司はその性格上、ろくに他人と喋ることなく今の今まで過ごしてきた。ちょっと前まではそれでも千佐都がいることで、あまりそういうことに対する危機感のようなものを感じたりはしなかったのだ。
「あんたも、スキー部に入る?」
そんなことを思っていた悟司には、その言葉がまさに神の啓示のように聞こえた。
だが悟司は――
「……いいよ、俺は」
図らずも、そう口走っていた。
「そう? まぁ男連中はチャラそうなのばっかだしねぇ。実際男目的で入ってるバカ女も多いしさ。悟司には合わない空間かも」
そう言って、千佐都はそれ以上悟司を勧誘したりはしなかった。
そうしてなおも、互いの生活はばらばらになり続けた。
ある日を境に、千佐都は悟司に許可を得てパソコンを直接自分の部屋へと持ち込むようになった。ネット以外になにやら新しい楽しみでも見つけたのか、千佐都はやたらとネットの繋いでいないパソコンの機能の何かにご執心のようで、暇さえあれば悟司からパソコンをねだるようになった。
最初こそ、私物を勝手にあれこれ触られることで不愉快な気分になったりもしたが、もともと携帯ですら充分に使いこなせていなかったのである。徐々に千佐都が何をやっているかなどどうでも良くなり、大方ソリティアか何かで遊んでいるのだろうと自身の中で勝手に結論づけた後は、すっかり二つ返事で貸すことが当たり前となっていった。
すると、さすがの千佐都もずっと使用し続けているのは悪いと思ったのか、次第に返却の際には短い手紙やらお礼のお菓子などを添えるようになっていった。
※ ※ ※
そうこうしている内に、あっという間の五月。
ゴールデンウィーク中、千佐都はそのほとんどをスキー部で知り合った女の子たちの家に遊びに行ったり、買い物に出かけたりするようになり、家を空けることがより一層増えることになった。自分の部屋の中を一人で過ごす機会が増えた悟司は、精神的にも落ち着いてギターの練習をしたりするようになったが、それでもいつの間にか出来ていた心にぽっかりと空いてしまった空虚な気持ちだけは払拭出来なかった。
なぜそんな気持ちになるのか。
あれだけめんどくさいと毛嫌いしていた千佐都が急に家を空けるようになって、それまでの新生活の過ごし方が一変してしまったからだろうか。
……本当はあの生活が楽しかった?
いまだに新曲のアイデアは一つも思いつかない。
「あああああああ」
そうして過ごした日々は急流下りのごとくあっという間に流れ、気がつけば九割がた家の中に引きこもってしまった悟司のゴールデンウイーク。大型連休の最終日当日になって、ようやく無為な時間を過ごしてきた事実に愕然とした悟司は、ぼさぼさの頭をくしゃくしゃに掻きむしって奇声をあげた。
「なにやってたんだ俺は――」
千佐都は今日も家を留守にしていた。ごろごろと布団の上をしばらく転がり、やがて観念したように立ち上がると、
「……外へ行こう」
気分転換をするしかない。そう思い始めるといてもたってもいられなくなり、そのまま服を着替えて悟司は一○一号室を飛び出した。
特に予定があるわけでもないので、散歩気分でのんびりと町を歩き回る。
外はようやく春らしい桜の花が芽吹いていた。駅の方まで歩いてからきびすを返してそのまま大学の方へと足を向ける。
時間をつぶすような場所などあるはずもない。
そんな町の風景を、ただぼんやりと眺め歩き続けた。
大学はサークル棟だけ解放されており、その前にある喫煙所の自販機で無糖紅茶を買ってベンチに座った。
大学の桜を眺めながらしばらくぼーっとしていると、タバコを持った春日がこちらに向かって、サークル棟から出てくる姿が目に入った。
こんな日にもわざわざサークルに寄ってるのかと思っていると、春日は悟司の存在に気付いたようで、くるりと背を向けるとそのままサークル棟の中へ戻っていった。
「……なんで俺まで嫌われてるんだろ」
そもそも、嫌われるようなことを言ったりしたりしていたのは千佐都の方なのに。恨めしくも思いながらなんとなく居心地が悪くなって、悟司は大学を出ることにした。
大学の外の道に出ると、そのまま家に帰る方向ではなく坂を下っていくことにした。
オリエンテーションの時にも通った道である。
あの時は一人になりたくてなりたくてしょうがなかったが、今ではそんな気分もとうに霧散してしまっている。
それは言うまでもなく、望まなくても既に手にしているからであるが。
……自分は千佐都のことをどう思っていたのだろうか。
悟司は自分がわからなくなっていた。あれだけうっとうしく思っていたはずなのに、途端その影が自分の前から消え失せると、今度は無性に寂しく思っている。
望むとおりになったじゃないか。何を思うところがあるというのだ。
そんなことを考えていたら、あっという間に公園の入り口にまでたどり着いた。
あの頃大量に積もっていた雪はすっかりなくなっており、月日の経つ早さを痛感しながら悟司は公園の中へと入った。
公園といっても遊具などがある場所ではなく、だだっぴろい平原に申し訳程度に置かれたベンチとグラウンドのように舗装された道が広がっているだけだった。
悟司はふと、ベンチに誰かがいるのに気付いた。
「あれは――」
その相手が誰かわかった途端、悟司はどきりと心臓が強く波打った。
その相手は、いつぞやの消しゴムを拾った時の女の子であった。あの時と同じように赤い眼鏡をつけている。彼女はスケッチブックのようなものを手にとって、何かを見ながら懸命に左手を動かしていた。
最初教室で見たときに着ていた服と違い、彼女は身体のラインがはっきりとわかるTシャツを着ていた。そのせいで、思っていた以上に胸が大きいことがわかる。そんな上半身とは対照的に、すらりと伸びた細い足がやたらと印象的に映る。
いや、むしろ全体的にはスレンダーな方で、その中でも特別に肉感的でむっちりしているのが胸だけなのだ――というか、ずっとそんなところにばかり目が行っている自分に悟司は心底情けなくなりながら、再び胸以外の上半身の方へと視点を戻す。
左利きなのであろうか。彼女が手に持っているのは、芯が剥き出しになった鉛筆だった。
彼女がスケッチブックから顔をあげて、遠くの方を見る。その視線を追うように悟司が目を向けると、そこには無数の鳩の群れが地面に向かって何かをついばんでいた。
鳥をスケッチしているのであろうか。悟司がそんなことを考えていると、彼女はベンチに置いてあったスナック菓子の袋の中に手を突っ込み、その中身を鳩の方へと投げ入れる。一瞬、鳩たちは驚いたようにばさりと羽を揺らし、その場で踊って見せたが、すぐに餌だと気付くとまた同じようにつんつんと地面をついばみ始めた。そんな様子を見てくすくすと静かに笑い出す彼女。
その一切の光景を眺めながら、悟司は彼女の姿を見て呆然と立ちつくしていた。やがて彼女は、再度スケッチブックに目を落とそうとした。そのとき、
「え…………?」
彼女は悟司の気配に気付き、こちらを振り返った。
二人の視線が交錯する。
即座に彼女はスケッチブックを畳みながら勢いよく立ち上がると、
「え? え?」
途端、紅潮する顔。
それまでの優しくて穏やかな空気に包まれていた空間が一気に緊張し、ざわめいた。
「あ、ああああ」
真っ赤な顔をしながらスケッチブックをぎゅうっと身体に押しつける彼女。
悟司はつくづく思った。
スケッチブックが羨ましい――ってそうじゃなくて。
この街に来てから、どうも自分は相手にとって、非常に間の悪いタイミングで遭遇することが多いらしい。それもなぜか女性限定。
しかし千佐都の場合は、格好が格好だったからわかるのだが、この子はどうしてそんなに慌てているのだろう。
何はともあれ、黙って突っ立ってみていたのは事実だ。下手したら欲情的な視線、スケベ心全開の顔をしていたかもしれない。
そう思った悟司は謝罪の言葉を紡ごうとして、急いで唇を動かそうとした。
「………あ、あのあのあのあのえ、えええええええっと――」
口を開いて、すぐに察した。
アガりまくっている、と。
いつの間にか千佐都と平気に話せるようになっていたせいで、すっかり忘れていた。
そういえば自分はコミュ障だったのだ、と。
そんな自身のコミュ障っぷりは、本日もきっちりと平常運転であった。
「ご、ごごごごごめん! だ、黙ってみていたのははわわわ悪いとおも――」
「ししし失礼しまぁす!」
悟司の言葉を聞くこともなく、彼女はぶんっと頭を地面に向かって下げると、そのまま荷物を片付けて走り去っていった。
……これはひどい。
端から見たら、完全に変質者に狙われた女性である。完全に混乱していたせいで悟司も気付かなかったが、既に鳩たちもどこかへと飛び去っており、再び公園はぽかぽか陽気に包まれた一風景へと戻っていた。
ただし、そこにいるのは悟司のみ。
「ちくしょう……」
何の実りもない悟司のゴールデンウイークはこうして終わった。
※ ※ ※
連休も過ぎて、再びいつもの講義が再開されたある日のこと。
図書館司書資格の講座を受け終わって、帰宅しようと思っていた悟司に、
「樫枝くん」
とそんな風に呼びかける人物が現れた。
振り返ると、そこには二人の男女。
それも、悟司を呼びかけたのは女性の方だった。
悟司はこの二人のことをよく知っていた。それはどちらも司書資格の講座を受けている二人だから――という理由以外にもう一つある。
彼女たちはいつもこの講座を、一番前の席でしっかり受けていた。授業中の講師とのやり取りを聞くに、おそらく二人は三年生。たった今受けた図書館学概論の講義は、一年生のころから取れる講座であり、なんで三年生が今更この講義を受けているのか疑問ではあったが、それほど二人に関心もない悟司にとってはどうでもいいことであった。
図書館学概論の講師は、普段からきちんと出席簿を読み上げて出欠を取っている。だから二人の名前も悟司にはよくわかっていた。
「え、えええっと…………な、なんの、用ですか? 水谷、せんぱい」
悟司がそう呼ぶと目の前の女性、水谷は目を丸くさせた。
「まぁ。私の名前をちゃんと覚えててくれるのね」
「ははは、だから言ったろう水谷。この子は逸材だって」
横で、からからと笑う男。
こっちの男の名前は確か安藤とかいう名前だった気がする、と悟司は思った。
「安藤くん、彼と出会えたことはきっとヤハウェ様のお導きによるものなのかしら」
ヤハウ――なんだって?
「そうとも水谷クン! この絶望の星で我々が出会えたことに祝福を! ビバ! ヤーハウェ!」
一体何を言ってるのだろう。
二人の会話を聞きながら悟司は顔をしかめていると、
「ところで樫枝くん、このあとちょっとお付き合い願えないかしら?」
「大学前にカフェがあるではないか。あすこで、ほんの十分ほど、僕たちの話を聞いてはもらえないか? もちろんお代は僕らが持つよ!」
やたらとハイテンションな安藤が顔を近づける。暑苦しくて、たまらずちらりと悟司が水谷の方へ目を向けると、水谷は無表情のまま悟司の両手を握りしめた。
その仕草に一瞬どきっとしたが、
「い、いや、お、俺は――」
そう言ってすぐに水谷の手を振りほどこうとした。しかし、予想外にも水谷の手は強い力で固く握りしめられており、簡単に振りほどけるレベルを優に超えていた。
なんだ、この馬鹿力! 女なのに!
その違和感に焦りを感じる間もなく、
「水谷クン。おーけー、だそうだよ?」
「安藤くん、私たちはいつもヤハウェ様に見守られてるんだわ」
この時点で既に、まずい予感はびんびんに感じていた。だが悟司は、水谷の力に引きずられるようにして、半ば強制的に教室の外へと連れ出されてしまった。
大学のすぐ外にある小さな喫茶店に着くと、安藤はきょろきょろと辺りを見回す。
「あ、いたいた。待たせたね小倉クン」
そう言いながら、安藤が向かうテーブルに座っている人物を見て悟司はぎょっとした。
全身ジャージ。小太りで分厚い眼鏡をかけた、小倉と呼ばれる人物はこちらに目もくれることなくずっとテーブルの下に目を下ろしていた。
どう見てもネットスラング的に「ピザ」と呼ばれるその男の真向かいで、安藤は腰を下ろすと悟司を見上げて微笑んだ。
「あ、樫枝クンは小倉クンの横に座って」
悟司はここに来る間、ずっとしかめっぱなしだったその顔をさらにしかめて思った。
どこをどうみても、小倉という男はオタクそのものであった。ここまでステレオタイプな人物も、そうそうお目にかかれないほどに。
それもただのオタクではない。悟司が来たと言うのに、一向に顔を上げないところからもその雰囲気は十分に察することが出来た。
――コミュ障。
まず真っ先にこの言葉が思い浮かんだ。
もしかしたら、彼は自分よりも深刻なコミュ障なのではないだろうか。
「大丈夫。小倉くんもあなたと一緒でこの春に未開大に入った一年生よ」
水谷のフォローは無意味であった。別に、そういう理由で座るのをためらっているわけじゃない、と悟司は心の中で思った。
爛々と目を輝かせる安藤と、無表情ながらも悟司を凝視している水谷に根負けして、渋々ながらも悟司は小倉の隣へと座りこんだ。
「悟司くんは何飲む?」
水谷が尋ねる。「……カルピスで」と短く伝えると、今度は小倉クンの方を向いて同じことを尋ねた。
「…………」
だが、小倉の反応はない。依然同じ体勢のまま、小倉はテーブルの下に視線を合わせて、そこから一切顔を上げようとはしなかった。
一体何をやっているのか、と悟司が横目で小倉の様子を伺うと、小倉は机の下で携帯ゲームを握りしめていた。見たところ、ゼリーのような物体を四つ合わせたら消える、有名なパズルゲームのようである。
名前は確か『ぽよぽよ』だっただろうか?
「小倉くん?」
再度、水谷が表情を変えずに首をかしげてそう尋ねると、
「コーラでいいよ」
それは予想よりもずっと甲高い声だった。小倉はそれだけ言うと、それきり無言のまま、パッドの音だけをかちかちいわせてゲームに耽っていた。
「さて、と」
安藤がウェイトレスを呼びつけて四人分のメニューを伝えると、にっこり破顔しながら悟司の方を向いた。
「どうだい二人とも? 大学には慣れたかい?」
「え?」
「勉学に、サークル活動。飲み会やバイト。大学生活には高校生のころとは違ってたくさんの取捨選択を選ばされる。青春と言う名の取捨選択をね。もちろん、そのどれもが本人の自主性にかかっていることは言うまでもない。人生最良の友と過ごすも結構。一人を選ぶも結構。僕はどちらかと言えば前者をおすすめするが」
「あ、あの。一体なんの、話ですか?」
「友達は出来たかい?」
悟司の言葉を遮るように、安藤は笑みを崩さずそう言った。
「見たところ、キミたちは共にぼっちのようだ」
何が言いたいのかさっぱりわからない上に、いきなり初対面の人間にぼっち呼ばわり。
まぁでも事実上、安藤の指摘はそれほど間違ってはいない。悟司は不愉快ながらも反論出来ずに口を結んでいると、
「やはり図星なんだね」
くすくすと笑う安藤の横で、水谷が一枚の紙を取り出した。
「ねぇ、樫枝くんはボランティアとか興味ない?」
「……え?」
そう言うやいなや、水谷は取り出した紙を悟司に向けて寄越した。
「私たちが入ってるサークルなんだけど、地域貢献って形で毎週月金に集会を開いてそこで簡単なボランティアを行ってるの。毎週やることは違うんだけど、近くのキョーカイの方からも支援してもらったりしててね」
キョーカイとは“教会”のことであろうか? クリスチャン?
「まぁ、端的に言えば僕たちはサークルの勧誘をしにきたわけさ」
水谷の言葉に、安藤が加わってそう付け足した。
悟司は水谷の寄越したプリントに目を落とした。
薄いピンク色の下地に立派な天使の絵が描かれ「非営利団体・いちじく」と書かれている。やはりさきほどのキョーカイとは教会のことなのだろう。
しかし非営利団体とは?
「なに、ボランティアと言ってもたいしたことはしない。実際はボランティアよりもそれを決める集会の方が重要でね」
「は、はぁ……」
「集会にはキョーカイの方から毎回指導していただける方がお越しになるんだけど」
「すごくいい人なのよ」
安藤の言葉に水谷が被さる。
さっきから一向に表情が変わらない水谷は、まさに不気味の一言であった。
「どうかな? 現在六名で活動してるんだが、安心して。怪しいものじゃない」
そう言い出す人間に限って、十二分に怪しいのはこの世のセオリーである。
ようやく悟司は彼らの言わんとすることに合点がいった。早い話、彼らは悟司を見て新興宗教の勧誘に引っかかりそうな人物だと思ったのだ。もちろん隣にいる小倉もそうだろう。
なんてことだ。ずっと一人でいる姿をとうとう彼らみたいな連中にまで嗅ぎつけられてしまっていたのか。
そう思うと情けなくなってくる。わけもなく劣等感に駆られてしまった悟司は、プリントされた紙を眺めながらぎゅっと唇を噛みしめた。
「す、すみませんが。俺は、い、いいです」
これ以上この人達とは付きあいたくない。
そう思って席を立ち上がろうとすると、
「待って。樫枝くん」
即座に水谷が樫枝の袖を掴んだ。まずい逃げられない。
「まずは一回見に来てはどうだい、集会をさ」
横の安藤が両手を広げて笑う。怖い。
「で、でも――」
なおも食い下がる安藤に弱った悟司は、ちらりと水谷の様子をうかがった。
そしてぎょっとする。
水谷はテーブルに置かれたおしぼりを見ながら、ぶつぶつと何かを唱えていた。
「ヤハウェさまヤハウェさま……彼ら迷える子羊たちの罪をお赦しくださいヤハウェさまヤハウェさま……アリステルグベツモアクリスミレバグスターム――」
何この子、怖すぎる!
呪いでもかけているのか、水谷は瞬きもせずにかっと目を見開いて、ぶつぶつとおかしな言葉をずっと繰り返していた。
これ以上関わると危険な気がした悟司は、無理やり水谷の腕を振りほどこうとした。だが、かなり強い力で握られているのか、悟司の袖を掴む水谷の手は一向に離される様子がない。
そしてそんなやり取りの中、安藤は終始笑みを絶やすことがなくニコニコしている。そんな両者のギャップが、なお一層の恐怖を引き立てており、夢にまで出てきそうな強烈なインパクトを悟司に与えていた。
「は、離してく、ださい……!」
「なぁ、いいじゃないか樫枝クン。一度見に来て、それでじっくりと考えてくれれば」
「そ、それは――」
「大丈夫。みんな気の良い連中さ」
そんなわけあるか! 気の良い連中は力で訴えない!
そう思わず叫びそうになったそのとき、
「……あれ? 安藤と水谷じゃないか」
といった思わぬ第三者の呼びかけに、水谷の手がふっと緩んだ。その隙を見て悟司は水谷の手を振りほどくと、そのまま出口の方へ向かおうと身体の向きを変えた。だがそこには、たった今安藤に声をかけた人物が行く手を阻んでいた。
「あれ、お前は――」
聞き覚えのあるその声。自分よりも一回り大きいその長身。
驚いて悟司が顔を上げると、そこにはあの軽音部の春日の姿があった。
「なんだ、春日か」
それまで一切、にこやかな表情を崩さなかった安藤の顔が一瞬で険しくなる。
「なんだ、じゃない。何してたんだ?」
「なにって――ご覧の通り僕たちのサークルの勧誘さ」
「勧誘ねぇ……」
短く息をついて、春日は悟司をじろりと見る。凍り付くようなその表情に、悟司は気まずくなって目を伏せた。
一体、春日と安藤はどういう知り合いなのだ。すぐにそんな疑問がわく。
……まさかお仲間だったりして。
思わずそんな想像をして、ぞっとした。
せっかく逃げだそうとしたこの千載一遇のチャンスを、よりによって春日に遮られてしまった。おそらくもう今から春日の横を通ろうとしても、再び水谷の手が悟司の袖を掴むに違いない。お仲間だったら、それこそ目も当てられない。
依然、状況は少しも好転していない。それどころかむしろ悪化しているかもしれなかった。
「お前こそ、何の用だよ」
安藤が、春日に食ってかかる。知り合いではあるらしいが、どうも口ぶりからするにあまり仲が良いわけではなさそうだった。
……仲間ではないっぽいな。
先ほどの疑惑は杞憂だったようだ。そう思って悟司はほっと胸をなで下ろす。
春日は悟司と安藤を交互に見て、少しだけ迷った表情をしてから口を開いた。
「……悪いが、こいつは既に末法開眼のメンバーだ。他を当たった方がいい」
その言葉に悟司は思わず目を剥いた。
末法開眼ッテ……イッタイナンデゴザイマショウカ?
そんな悟司の疑問に答えるように、安藤が驚愕の表情で頭を抱える。
「末法開眼と言えば、確か終末思想に傾倒したあのカルト団体か?」
「そうとも。まさかそんなことも知らないでこいつを勧誘したのか?」
「そ、そんな……」
よほどショックだったのか、安藤はぐらりと身体を傾けると、そのまま机に突っ伏してがたがたと身体を揺すり始める。
「おお、ヤハウェ様よ。この迷える子羊を僕はどう救えばいいのでしょうか……?」
「シッポロデケデンニコチンタールオッペケペーリストララーメンマニア――」
一方の水谷も、その呪文のようなつぶやきがさらに早口になる。
「……おい。今のうちにここを出てくぞ」
春日が悟司の肩に、ぽんと手を置いてそう言った。意味がわからず一瞬気後れしたが、すぐにその言葉を理解すると、悟司はそっとテーブル席を離れて店を飛び出した。
ちらりとだけ小倉の方を伺う。
こんな状況の中でも、彼はまだゲームをやり続けていた。
※ ※ ※
外に出ると、春日は悟司に向かって付いてこいと言いながら大学の構内へ入っていった。言われるまま悟司は喫煙所までたどり着くと、すぐに春日に向かって頭を下げる。
「あ、ありがとうござい、ます」
「別に大したことじゃない。これを機にああいう奴らからの誘いは断ることだ」
春日はタバコをくわえながら、そのまま自動販売機の前まで行くと小銭を取り出してジュースを二本買った。
「受け取れ。これはおごりだ」
春日がぽいっと悟司に向かって、ジュースを投げつけた。慌てて悟司がそれを受け取ると、春日は自分の分をベンチに置いてタバコに火をつけた。
「あ、ありがとうございます……でも。な、なんで?」
「考え直したんだ」
「……へ?」
「君に頼み事がある」
煙を吐きながら、春日はジュースのふたを開ける。
「ま、ままさか、宗教のかか勧ゆ――」
「違うわっ!」
全力で否定した春日の言葉にようやくほっとする。悟司は春日に軽く礼を言ってから、ジュースのふたを開いた。
「か、彼らって、あの、俗に言うか、カルトってやつですか?」
悟司の言葉に春日は間を置かずに頷いた。
「キョーカイって言ってただろ? あれはキリスト教の教会ではなく、団体としての協会のことだ。それっぽい単語をいろいろ並べてはいるが、正直何をしてるかわからん上にどの宗教を母体としてるかさっぱりわからん。君もよりにもよって、あんなのに目をつけられるとはな……」
「あ、あのそういや、俺、末法なんたらって宗教には、は、入ってない、です……」
「当然だ。あんなのに入っていたら、僕は君と金輪際関わるつもりはない」
「え、と。じゃあ一体な、なんの話……ですか?」
煙をくゆらせながら、春日はじっと悟司のことを見つめた。
「結論から言おう。僕と一緒にDTMで曲を作ってみないか?」
DTM。
以前、春日が悟司に尋ねたものである。
「あのうるさい女の話によると、君は作曲が出来るそうだな?」
悟司は無言でうなずく。
「音楽理論の方はどの程度知ってる?」
「……そ、そんなに知らない、です。コードと少しのスケールくらいしか――」
「ふん。まぁ、大方そんなところだろうと思っていた。だがそれでも構わないさ」
春日は一度ジュースを口に含むと、ベンチにゆっくりと腰を下ろした。悟司もそれに倣って対面側のベンチに腰をかける。
「サークル内で僕のやっているバンドは、これまでずっとアーティストのカバーばかりでね。それも僕自身大して好きでもないアーティストのだ。オリジナル曲など一切披露したこともなければそもそもそういった活動もしているわけでもない。遊びの延長線上でやっているようなものなのだが、まぁそれは別に不満ってわけでもない。もともとプロになれるようなバンドが出来ると思ってサークルに入ったわけじゃないしな。だが――正直二年間もずっとその繰り返しじゃ、いい加減嫌気もさしてくる」
「はぁ……」
「それで、去年の暮れ頃から僕は作曲に手を出してみることにしたんだ。でも浮かぶのはいつだってワンフレーズのみ。完成しないんだよ。悔しいことにね」
春日の言葉には、いささか諦めのニュアンスが含められていることに悟司は気付いた。そしてそのような春日の気持ちは、なんとなく悟司にも理解ができた。自分自身、いつまで経っても完成しないフレーズだけを残してボツになってしまった作品など、これまでにも履いて腐るほどあったからだ。
「ワンフレーズとそれにつけたコード進行は存在するが、その次を繋げることが出来ない。そこで、だ。君にお願いしたいことというのは――」
春日はタバコをもみ消すと、ゆっくり言葉を選ぶようにして口を開いた。
「――僕の曲の、完成の手助けをしてもらえないだろうか?」
「……え?」
「厳密に言えば、君のその作曲テクニックを教えてもらいたい。普段、君はどうやって曲を作っている? とにかくいろいろそういったアドバイスが欲しいんだ。そして出来ることならそのまま僕の曲の手助けをしてほしい。具体的にはワンフレーズから展開できそうなコード進行の作成だな。そこから少しずつ完成させていき、最終的にDTMでしっかりとした伴奏をつける。DTMの知識に関してはそれなりに勉強したから任せてくれ」
「え、えええええええ」
「もちろん無理にとは言わない。わがままなことだとわかってはいる。だが、僕には君しかいない。ギターを弾いて作曲が出来るなんて逸材を、この大学で他に聞いたことがないからね」
「で、でもそれは、別に探せばほ、他にもいそうな気が――」
「我が軽音サークルにはそんな人間はいない。もちろん大学中を探し回ればそういった人間も他にいくらでもいるかもしれない。だが、今のところ僕が知ってるのは君だけだ」
そこで、春日はふぅと短く息を吐いた。
「で、ででででもDTMをやるって、そ、その。機材が――」
「僕が持っている」
「……え?」
なぜ、という疑問をぶつける前に春日はくるりとこちらを見て言った。
「君は――初音ミクって知ってるか?」