第1章 その日
その日はいつもより帰りが1時間遅かった。
はぁ……とため息をついてから、玄関に散らばったチラシや「佐倉 美澄」私宛のダイレクトメールを拾い集める。私の住むアパートはドアに郵便受けがついているタイプで外から手紙やチラシを入れると無造作に玄関に散らばる。何か対策をしておけばいいのだけど、面倒なのでそのままにしていた。しかし、今日に限っては何かしておけばよかったなと心底後悔した。ちょっとした出来事が、残業した日は余計にイライラさせるからだ。
「全く、もう……」
無造作にいらないチラシを捨て、確認するのも時間の無駄なんだけど!とぶつぶつ文句を言いながら郵便物とダイレクトメールを分けていると最後に手元に残ったハガキは中身を開いて確認するタイプだった。
恐らくクレジットカード会社か、銀行からのダイレクトメールだろうが、一応中身を確認しておこうと見開きのハガキを開いた。
――すると。
ボッ。
「えっ?」
突然、開いたハガキが発火して燃え始めてる?!
「うそっ!何で?!」
びっくりしてハガキを落としてしまった。
落ちたハガキは変わらずに燃えており、慌ててばたばたと踏みつけて火を消そうとしてみるが、一向に火は消えない。それどころか、火は足元から服に燃え移ってきた。
はたいて消そうとするけど、益々火は燃え広がり全身に燃え広がる。それでもバタバタと大慌てではたいていると段々と火は落ち着き、一体何だったんだと思いふと前を見ると、目の前の景色がいつもの自分の家ではないことに気が付いた。
先程まで真横にあった玄関のドアもない。
――どういうこと?幻覚でも見ているの?それとも疲れすぎて玄関で寝落ちしてしまったとか?
突然、ありえないことが立て続けに起きてさすがに混乱してきた。そしてそれはまだ終わっていないみたいだ。
目の前に頭が牛のミノタウロスが現れたのだ。
もはやこの状況、どうしていいかわからない。逃げる?っていってもどこへ?戸惑う私を気にすることなくミノタウロスは私の服の襟をむんずと掴み、米俵を担ぐみたいに私を肩に担いでどこかに向かって歩きだした。
「えっ、あの、ちょっと!」
頭が下を向いて揺られているのでだんだんと頭に血が上ってくる。これは本当に夢じゃないらしい。
意図しないことが起こると人って何も考えられなくなるんだな。今、私はどうすればいいのか何も思いつかなかった。
腰をしっかり掴まれてるから足をバタバタさせたところで逃げられないし。
そもそも、ここはどこなんだろう?薄暗い廊下のような一本道で壁には松明がついていた。
絶体絶命の大ピンチなのに、状況が意味不明すぎて抵抗する気が起きない。
——とにかく、今は静かにしていよう……。
成り行きに身を任せて静かにしていると鋭い閃光がふっと目の端をよぎった。
壁にぶつかり、光がはじける。
今度は私のすぐ近くで飛んできた閃光が壁にぶつかって弾ける。
また、なんか始まった!本当に何?!
周りから大きな獣の咆哮が聞こえる。ミノタウロスが急に走り出すので思わずミノタウロスの毛を掴むが光の閃光がどこからともなく飛んできてはあちこちにぶつかり、弾ける。一体どこからと首を上げて前を見ると一際大きな閃光が目の前に飛んできた。
やばい!ぶつかる!
思わず目をぎゅっとつぶって腕を顔の前にして顔を庇おうとした瞬間、飛んできた閃光がミノタウロスの背中に当たったのかミノタウロスが前屈みに倒れてしまった。
「痛っ!」
身体が放り投げられて受け身もとれずに投げ出されたので思いっきり身体を地面に叩きつけられた。
倒れたミノタウロスは動かない。閃光のぶつかった背中は焼けているのか煙が出ていた。
獣の咆哮が遠のいてだんだんと落ち着いてくると、複数の足音が聞こえてきた。
足音のほうを見ると、明らかに人影のような姿がこちらに向かってくるのが見える。
近くに来てみると黒いローブを着た人間?がこちらを見つめて、そろりそろりと剣を掲げながらこちらに慎重に近づいてくる。
剣を持ちながらって……明らかに私のことを警戒してるじゃん……。勘弁してよ。
こちらに敵意がないことを示すために両手をあげる。
剣を持った人の顔は薄暗いせいもあってかよく見えない。
「あの、敵とかじゃないです……」
私が話しかけると、相手は明らかに不可解そうな反応を示した。すると、後ろで同じように剣を構えていた小柄な人に何か話しかけた。
小柄な人はうんうんと頷きながらローブのフードを脱ぐと腰につけていたポーチから何かを取り出し、私に近付いてきた。話している言葉はよく聞き取れない。
見た目は小太りな禿げたおじさんだったが、よく見ると耳が尖っている。ファンタジー映画で見たエルフの耳によく似ていた。
おじさんは私の顔を見るとにっこりと笑い、手に持っていた物を私に差し出した。
なんだろう?正直、怖い気持ちのほうが強かったが笑顔のおじさんは悪い人には見えなかったし、うしろで剣を構えている人は彼の後ろで剣を下げずに私を見ていて怖いので、恐る恐る差し出された物を受け取ってみる。
渡された物は白く透き通って丸い綺麗な石だった。たぶん、水晶か何かだ。
どうしてこんなものを?何に使うの?
「私の言葉、わかりますか?」
目の前のおじさんの言葉が急にはっきりと聞こえた。
おじさんのほうを見るとさっきと変わらない笑顔で私を見ている。
「えっ?……あの……はい……」
「ああ、よかった。剣を下げて大丈夫ですよ。マットさん」
「まだ、何者かわからないだろう。この前もそんなこと言って襲われたじゃないか」
後ろで剣を構えていた人の言葉も明瞭に聞き取れる。もしかして、この石のせい?
私が手の中の石を見ていると、気付いたおじさんが説明してくれた。
「その石、異世界から来た人と会話するための翻訳アイテムなんですよ。まあ、会話できる相手にしか使えないのですけど」
「おい、無駄話はいいからさっさとどこから来たのかだけ断定させろ。場所によっては時間の制約もあるだろう」
マットさんと呼ばれた人は不機嫌そうにいいながら、剣を鞘に納めた。
「ああ、そうでした。そうでした。ええっと、それじゃあ次にこれを持っていただけますか。あっ、翻訳用の石はそのまま持っていてください」
そう言って、腰のポーチから新しい石を取り出した。今度は四角くて透明な石だった。
「少し握って待ってください。あなたがどの世界からきたのか判断してくれますので」
「は……はい」
私が石を握っている間、なんとも言えない沈黙が流れる。流石に気まずくて気になることを聞いてみることにした。
「あの、すみません。少し聞いてもいいですか?」
「ええ。あっ、僕で大丈夫でしょうか?」
にこやかにおじさんが答えてくれる。
「あの、ここってどこなんでしょうか?あのミノタウロスのような生き物や、私はどうしてここに来てしまったのでしょう?正直、その……今も夢みたいで……」
「ああ、すみません!そうですよね。説明しないと何がなんだかわからないですよね!ごめんなさい。そうだった、そうだった……」
「別に構わないんじゃないか?どうせ忘れなきゃいけなくなる」
「そうはいきませんよ。状況説明はちゃんとしないと!」
マットさんと呼ばれた男の人は面倒くさそうに頭を掻いた。
「まずはここですね。ここはあなたの世界から離れた別の世界になります。なんでそうかと言われますと、そもそもここに来る人というのが異世界から飛ばされてきた人が集まるように設計されてましてですね……えーっと、ここに来る前のこと覚えてます?」
「はい……確か、玄関で郵便物の確認をしてたんです。そうしたら、確認した1つに火がついて、突然燃え始めて……」
「ああ、やっぱり!それ、最近の悪質な召喚手口なんですよね!」
「悪質な召喚手口?」
「そうなんですよ!人間とか生き物とかを捕まえて売る悪い奴らがいるんですけど、そういう奴らが最近開発した召喚魔法というのがありまして、対象の相手の住む家の郵便物とかに魔法をかけた手紙を仕掛けておいて、破れると魔法が発動して対象を攫ってしまうという悪質な手口でして!」
「な……なるほど?」
「可哀そうに。何もわからない女性を攫うなんて……でも、大丈夫ですからね!すぐ元の世界に戻して差し上げますから」
ぐすっとおじさんは涙ぐむとハンカチを取り出して涙を拭い、ぶーんっとおおげさに鼻をかんだ。
「すみません。僕、あなたと同じぐらいの歳の娘がおりまして、娘も同じ目に遭ったらと思ったら泣けてしまって…………」
「ああ、いえ……」
「おい、そろそろいいんじゃないか?」
後ろで待っていたマットさんが不機嫌そうに声をかける。
「そうでした、そうでした!先程、渡した石見せていただけますか?」
手をひらいて、透明な石を確認してみる。さっき、透明だった石は赤くなっていた。
「あかぁっ!いや、よく見れば橙と言えなくもない……?いえ、これはいけません!すぐに元の世界に帰る準備をしなくては!ついてきてください!」
おじさんが慌てて元きた道を小走りに進み始めたので、私もそれを追いかける。マットさんは私の後ろから早歩きでついてきていた。
「いやはや、これはすごく大変なことになりましたよ!もしかすると、もしかすることもあるので、一応話しておきますね!」
「なんでしょう!一体何が大変なんでしょうか?」
「実はですね!異世界に連れ去られた人の中でも元の世界に戻せる人と戻せない人がいまして、あの色の変わる石の色の中で青、緑、黄色、橙色までだったら帰れるんですけど!」
待って。私は赤色だった。嫌な予感がする。
「赤色は帰れない場合があるんです!」
やっぱり!
「場合?!どういった場合でしょうか?」
「それはですね!あっ、いた!リントくん!大変、大変!ゲート開けて!赤色の人がいた!」
おじさんについて行った先には広いホールが広がっていて、そこには同じような黒いローブを被った人達が、私と同じような人達に石を持たされて色を確認していたようだった。
リントくんと呼ばれた人は門のようなアーチ状の建造物の側にいて、おじさんに声をかけられてこちらを一瞥すると、アーチの開いている部分にさっと手をかざした。
すると、アーチの中が光り、もやのようなものがかかって見える。
「この中に立って、先ほどの石の色を確認してもらっていいですか?」
おじさんに促されて、アーチの中に立って手を広げてみる。
やっぱり、赤い……。
「どうでした?」
おじさんが恐る恐る、私の手の中を覗いてくる。
「やっぱり、赤いと思うんですけど……」
あちゃーというように、おじさんは額をたたく。
おじさんの反応を見るに、私はたぶん……元の世界に帰れない……のだろう。
「帰れないんですか?」
「帰れないわけではないんですけど……その……うーん……」
おじさんは言葉を選んでいるようだった。
「ちゃんと説明してやれよ。それから考えたって遅くない」
マットさんが腕組みをしてこちらを見ている。
「いやあ、まあそうなんですけど…………そのですね、帰れないわけではないんです。ただ、1つ問題がありまして」
「どんな問題ですか?」
「あなたが生きて戻れるか微妙ってことです」
どういうこと?すごく何か苦しい思いでもするってこと?
「この石の変化する色はですね。この場所から元の世界に戻るまでの距離を示しているんです。青ならすぐ近く。緑は青よりも遠いけど時間にしてはおおよそ1週間ぐらいかな。黄色はさらに遠くて帰るまで年単位を要するときもあります。橙色はそれ以上、つまり10年以上元の世界に帰るのには時間がかかってしまいます」
「それなら、赤色はさらに時間がかかるってことですか?」
「そうなります。そうなると、つまりはその……帰ることができても、恐らく元の世界につく頃には、あなたの命がつきてしまうんです」
「ええっ?!」
「そうですよね……その反応になりますよね」
おじさんの眉間に深い皺が寄る。
「どうしてそんなに時間がかかってしまうんですか?ここにくるまでは一瞬だったのに」
「恐らく、あなたが元いた世界はこの世界よりもっと時間が進んだ未来……文明世界に入るんです」
なんかよくわからない単語が出てきた。
「すみません。ぶんめい世界とは?ちょっとよく意味がわからないんですけど……」
「ああ!そうですよね!いけない、いけない!ええっとですね、たぶんあなたがいた元の世界では恐らくですけど、人間以外の種族、ちゃんと分かれてましたよね?神様とか、精霊とか、あるいは動物とか……」
「そうですね……?神様とか精霊は会ったことないんでわからないんですけど、一応信仰の対象とかにはなっていたかと……」
「それです!それです!今いる私たちの世界は、まだそうした存在や種族がきちんと分かれていない世界なんです。神や精霊、人間や動物といった異なる存在が、それぞれ別のものとして分かれて生きている世界を、私たちは今よりも発達した世界の呼称として文明世界と呼んでいるんです」
「なるほど?……つまり、私は未来に帰らないといけない……ということでしょうか?」
「そうなります。で、ここからが問題でして。過去に戻るには時間の進んでいない世界に戻るわけですから、時間が動くことはないんです。過去ですからね。でも、未来の場合は進んでいる時間に行くわけですから、そうすると進んだ分だけ歳を取ってしまうわけです」
「なんとなく、わかるような……わからないような?未来に進むには歳を取ってしまうけど、過去なら歳を取らないって認識で大丈夫ですか?」
「それで大丈夫です。そして、あなたのいる世界はここからずっと遠い未来なので、歳を重ねてしまうわけですね」
「ざっと見てどのぐらいなのでしょうか?百年とかですか?」
「う~ん……私の見立てだと恐らくそれ以上かと……」
それ以上?
「どうします?ダメ元で帰ってみます?たぶん、生まれ変わる形になると思いますけど……」
「う、生まれ変わりですか?」
「ええ、たぶん向こうのそういったお仕事されてる方達がそうされるかと」
天使とか悪魔のこと言ってるのかな?そんな気さくに日常会話に違和感なく登場するもの?
というか、今提案されてる選択肢って……。
「あの、もしかして今って生きるか、死ぬか、みたいな選択を迫られてます?」
「そうなっちゃいますかね…………あっ、もしもこちらの世界に残られるのであれば、生活のためのサポートは一応させていただきますので!」
こっちの世界で生活する?というか、死ぬか生きるかしか本当に選択肢が無いのだとしたら……悩むこともなかった。
「それなら、この世界で生きていきます。ちゃんと生きていけるかわからないですけど」
ついさっきまで、アパートの玄関で悪態をついていたはずだったのに……。
「早いご決断ですね!いやあ、しっかりしてらっしゃる!まあ、今は帰れなくても転移の魔法は毎日進歩してますからね!ある日、昨日まで帰れなかった世界に帰れるようになることもありますから!前向きに頑張りましょう!」
そんなこんなで、ある日突然、私の異世界生活が始まった。




