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アデライドの休息


 リュシエンヌは静かに立ち上がった。腫れた頬に冷えた手を当てる。

 湿布が外れてしまったから、手当てをしないと。そうだ、湿布は家に置いてきてしまった。一度戻ろう。


「大丈夫か、どこに行くつもりだ?」

「湿布を取りに一度家へ帰ります」

「馬車で送ろう、それで君の名前は?」


 ついに、このときが。リュシエンヌは小さく笑った。歓喜に目元をゆるませて、口角を上げる。


「わたしの名前は」

「やめなさい!」


 礼儀も優雅さも捨てて、オデットが鋭く叫んだ。リュシエンヌは笑みを隠すために、怯えた様子で下を向く。

 そうでしょうとも。いじめられて頬を晴らしているのが気狂い姫と名高いオデットだとは気づかれたくないわよね。自分達のついた嘘がバレてしまう。


「なぜ止める、リュシエンヌ?」

「……名前よりも、まずは怪我の手当てが先ではないかと」


 咎めるセレスタン様の声が甘い。それがオデットの反抗心に火をつけた。

 なぜ婚約者であるわたくしが邪険に扱われるの、意味がわからないわ!


「お見舞いに来てくださったのではないのですか? 侍女をかまってばかりでは寂しすぎます」

「はは、ごめん。そうだったね。では、君は部屋に戻って着替えておいで。着替えが終わったら部屋でゆっくり過ごそう、わたしの黄金姫(リュシエンヌ)


 上目遣いでセレスタン様はオデットの髪に口づけた。それだけでオデットはうっとりと見惚れた顔をする。

 リュシエンヌは内心でため息をついた。

 いくら昔のわたしでも、そこまで単純ではないわよ?

 オデットはリュシエンヌにセレスタン様との仲の良さを見せつけようと腕にすがって一層甘えた声を出した。


「セレスタン様、さあ部屋に行きましょう!」

「あああのリュシエンヌ様、わたくしは」


 助力を乞うようにヘレンはオデットに手を差し出した。それをオデットはあっさりと切り捨てる。


「ヘレンは自室で謹慎ね。侍女長でありながら主人に恥をかかせた罰よ」


 騒ぐヘレンを侍従に引き渡し、侍女を引き連れたオデットが上機嫌で部屋に戻る。それを途中まで見送ってセレスタン様が戻ってきた。あの状況でどうオデットを言い含めてきたのやら。

 

「ご婦人の着替えは長いからね、さあ行こうか」

「家の場所はここから歩いて通えるくらいの距離です。お手をわずらわせる気はありません、どうかこのままお嬢様の部屋にお戻りくださいませ」

「いいから、いいから」


 彼は聞く耳を持たず、さっさと先頭に立って歩き出した。

 いくら城の使用人も一緒とはいえ、このことを父が知れば激怒するだろう。いろいろやりにくくなるし、正直なところ鬱陶しい。セレスタン様がここまで面倒な人だとは思わなかったわ。

 彼が使ったものだろう、紋章のない簡素な馬車が裏門に停車している。エスコートされて馬車に乗り込み、向かい合わせに座った。

 歩いて通える距離だと言っているのに。居心地の悪そうなリュシエンヌにセレスタン様は微笑んだ。


「君は平民だと言っていたが、新しく雇われた者なのかな」


 本気で誰かわからないのか、リュシエンヌは思わず言葉を失った。生まれてすぐに婚約者となり、幼いながらも十年くらいはそばにいたというのに。黙ってしまったリュシエンヌの態度をどう解釈したのかわからないが、セレスタン様は表情の読めない顔でつぶやいた。


「君の怪我を利用させてもらったのは、悪いと思っているよ」


 そのことはどうでもいい。セレスタン様はヘレンの態度に時々眉をひそめるときがあったから、ずっと外す機会を狙っていたのだろう。双方の利害が一致したからこそ、あれだけ円滑にヘレンを排除できたのだ。


 ヘレンは侍女長のくせに本当に立っているだけで何の役にも立たないからね。


 今も身分は平民のままだし、侍女教育も最低限しか受けていない。そばにいると都合がいいのでメラニーやオデットが重用しているだけで他家からの評判も悪かった。メラニーだけでなく、彼女のぶんまで家内の差配を引き受けざるを得ないリュシエンヌにすれば、友人を侍女長として使い続けるお花畑な思考が理解できなかった。

 まあ、それはそれとして。


「視線が合ったから、ヘレンが君を突き飛ばす前に助けることもできたのに気がついているだろう」

「それでも助けていただいた身です。文句など言える立場にありません」


 結果がすべて。だから、むしろ利用したのは私のほう。リュシエンヌはポケットから診断書を取り出した。


「町医者にこの傷の診断書を作成していただきました。よろしければお使いください」

「たしかに、棒で叩かれた傷と書いてある。全治二週間。君の証言を裏付ける立派な証拠だ」


 これでヘレンは間違いなく侍女長を外されるだろう。

 セレスタン様は首をかしげた。


「君は不思議な人だね、平民でありながら貴族的な考え方をする」


 それは元の身分が貴族だからよ。

 ここまで噛み合わないことが逆に面白くなってリュシエンヌは小さく笑いをこぼす。

 そして笑うリュシエンヌの顔を見てセレスタン様は、なぜか目を見開いた。

 どうしたのだろう?

 困惑した表情の彼が口を開きかけたところで馬の嘶きが聞こえ、馬車が止まった。


「送っていただいてありがとうございました。では失礼いたします」


 リュシエンヌは自ら扉を叩いて御者に外側から開けてもらった。

 本来なら持ち主を差し置いて指示を出すのは不敬だけれどこちらは礼儀のなっていない平民で、しかも怪我人だ。無理やり馬車に乗せたわけだし、不躾な行動は体調が良くなかったせいにしよう。

 それにこの程度の不敬なら彼は怒らない。

 

「アデライド!」

「おかえりなさい、エリック様」


 家の前にはなぜかエリック様が待っていて、顔を見るなり駆け寄ってきた。青ざめた彼の指先が頬に触れる。


「何てひどいことを、誰にやられたんだ⁉︎」

「落ち着いてください。昨日、医師の診察を受けています。今は湿布薬の予備を取りに戻ったまでです」

「そういうことじゃない、結婚したばかりの妻がこんな目に合わされて落ち着いていられるか!」


 エリック様は声を震わせて、リュシエンヌの体を引き寄せる。

 お母様の腕の中みたい。

 守ろうとする仕草と腕の温もりに気が抜けて、思わずほっと息を吐いた。

 

「あなたが彼女の夫か、名前は?」

「はい、エリックと申します」

「私はオベール家次期当主の婚約者だ。たまたまオベール家で現場に行き合わせて、傷の手当てのために帰るというから馬車で連れてきたところだ」

「……セレスタン第二王子殿下ですね。では彼女は勤務先で被害に遭ったということでしょうか?」

「そうだ、侍女長が彼女の頬を打ったことを認めている。侍女長は降格か、解雇になるだろう」


 同じ平民同士だもの、貴族のように身分差が守ってくれることはない。

 けれど厳しい顔をしたエリック様が唇を噛んだ。生温いとでも思っていそうな表情だ。

 その怒りが自分のためだというのがうれしくて、リュシエンヌは微笑みながら首を振った。


「大丈夫ですよ、エリック様。ひどく見えますが、お医者様の見立てではほとんど傷は残らないそうです。二、三週間で治るそうですよ」

「君が殴られたことに対して怒っているんだ。どうしてこんなひどい傷を負わされても笑っていられる?」

「エリック様が怒ってくださるからです。ですから他のことはどうでもよくなってしまいました」


 今この場にいてリュシエンヌ様のために怒ってくれるのはこの方だけだ。

 エリック様の手を頬に当てたままリュシエンヌはふふっと笑う。

 すると彼は熱を逃すように深々と息を吐いて、セレスタン様に向かって頭を下げる。


「妻を送ってきてくださってありがとうございます。手当ていたしますので、これで失礼します」

「必要なら本人に謝罪させよう、オベール家から補償も」

「謝罪は不要です。こんなひどい傷を負わせるような人物には二度と妻に近づいてきてほしくない。補償については彼女の権利ですから当然でしょう。それから治るまでは休暇を取らせてください。それ以降、勤務を継続するかは本人に決めさせます」


 エリック様はリュシエンヌが無給で働いていることを知っていた。だから休んでも問題ないと思っている。

 それは困るわ。リュシエンヌは抱き上げられたまま、そっとエリック様の服の袖を引いた。


「仕事が滞るのです、後始末が大変なので治るまでというのは無理ですわ」

「危害を加えるような人間がいる場所で、わたしが君を働かせるとでも? 冗談じゃない、少なくとも傷が治るまでは許可できないよ」


 エリック様はリュシエンヌの体を抱き上げた。

 落ちないように、あわてて彼の首に腕を回す。


「ご安心ください、顔の傷は私がきれいに治してみせます」


 エリック様はきっぱりと言い切って、セレスタン様に背を向けた。

 あれ、どうしたのだろう。エリック様が想定以上に優しい。

 泉でも、女神でもなく戦友のはずではなかったのかしら?


「わかった、オベール家には私が伝えよう」


 その場にセレスタン様を置き去りにして、エリック様は開いた扉から家に入る。

 リュシエンヌをソファに下ろして、扉には鍵をかけて。無言のままキッチンに戻ると氷と冷やした布を持ってきた。そして腫れた傷口に当てる。


「冷たくて気持ちが良いです」

「これからもう一度診療所へ行こう。湿布だけでは足りないと思う。気がついていないみたいだけれど深い傷だ。たぶん今夜あたり熱も出てくるだろう」

「そうでしょうか?」

「君は自分の傷に無頓着過ぎる。その傷だけではなく、心の傷もだ」


 つらかっただろうに、笑って。リュシエンヌは苦しそうなエリック様の言葉にそっと瞳を伏せる。


「感情は過去に置いてきました。そうでなければ生きていけなかったので」

「それを生きているとは言わないよ。つらいとか、うれしいとか、悲しいとか。そういう感情があるから生きていると思えるのではないかな」


 そうかもしれない。リュシエンヌと呼ばれることのなくなったあの日から記憶には色がなかった。

 思い出すのは白地に黒と灰色で描かれた景色だけ。

 それ以上思い出そうとすると視界がくらりと揺れて、あきらめたように目を閉じる。支えるように抱き寄せたエリック様が額に手を当てた。


「ああほら、熱が上がってきた。無理は禁物だよ」

 

 肌に触れるエリック様の手が冷たくて気持ちがいい。

 着替えた後、ベッドに運んでもらって布団に潜り込む。緊張が解けたせいか、すぐに眠ってしまった。


 リュシエンヌは眠りに落ちるといつも色のない世界の夢を見る。

 けれど珍しく今日見た夢には色があって、優しく微笑むエリック様が触れたものは色づいて見えた。

 部屋の奥まで途切れることのないテーブルに、皿とカトラリーと、踊るように弾むキャンディやマカロン。

 そしてテーブルクロスを飾るレース、繊細な意匠の刺繍にはビーズとリボンが。

 ここにある物は彼がこよなく愛するものでリュシエンヌが失ったものばかりだ。


 エリック様といると色が戻ってくるのね。

 あまりにもきれいで、まぶしくて、泣いてしまいそう。

 夢を漂うリュシエンヌは憧れのように鮮やかな色と光のロンドを見つめる。

 キラキラ、キラキラ。キラキラと――――極彩色の夢が、暗転した。

 

 優しさとは愚かさだ、弱さは害にしかならないんだよ。


 魔女の言葉で夢は再び色を失って、リュシエンヌはううんと唸った。


 ――――


 エリックは沈むように眠りに落ちたアデライドの横顔を見下ろした。

 冷やした布を取って、そっと傷の具合を確認する。


「何と罪深いことを」


 ここまで深く人を傷をつけるなんて。しかも女性の顔を。悪意がなかったとしても許されることではない。


「まずは医者を呼ばなければ」


 この状態では動かせない。フルニエ家が懇意にしている医師に連絡をしたところ、すぐに来てくれるという。


 激しく後悔した、なぜ目を離したのだろうと。


 昨日は予定があって家に帰れず、今日だって家に寄ったのはたまたまだ。アデライドはどうしているだろうとそればかりが気になって様子を見たらまた出かけようとそう思っていたところだった。

 昼の時間帯にも関わらず、家の前に馬車が止まる。アデライドの帰りはまだのはずだ。嫌な予感がして扉を開けると、そこには傷を負った彼女がいて。


 うれしそうに自分の名を呼んで、痛々しい傷を負った顔が笑った。

 彼女が深く傷ついたのは、さまざまな悪意が彼女に向けられていると知りながら放置した自分の落ち度だ。


「たまたま現場に行き合わせて、傷の手当てのために帰るというから連れてきたところだ」


 セレスタン第二王子、リュシエンヌ・オベールの婚約者にして次期当主代行。

 本当にたまたまだったのだろうか、あの男はどうにも信用できない。去り際も、アデライドのことを名残り惜しいとばかりに見つめていた。まさか彼女を利用したというのか、だからあれほど気にかけて。


「ううん……」

「アデライド、苦しいかい?」

 

 夢にうなされたのだろうか、眉間に皺を寄せてつらそうなアデライドの声がする。エリックがそっと額に手を当てると、安心したようにふっと口元がゆるんだ。

 なんて愛らしい人なのだろう。自分だけを見て、自分だけには気を許して。

 エリックにはない誠実さを持つ人だった。


 だからこそ手を出してはいけない。


 彼女は戦友で、同志だ。半年後には必ず幸せに送り出してあげなければ。

 呼び鈴を鳴らす音がした。医師が到着したのだろう。扉を開けようと立ち上がったとき、熱に浮かされたアデライドのつぶやく声が聞こえる。

 

「違うのです、セレスタン様。お願い、わたしを愛さないで」


 ほろりと大粒の涙が一つこぼれて。

 その台詞にエリックには計り知れないほど深い、親愛の情が込められているような気がした。


 愛さないでと言わせるほどに彼女は彼のことを……愛している?


 あの笑顔を向けるのは自分だけではなかったのか。エリックの心は真っ黒な闇で閉ざされた。

 最低だ、自分こそあなたを愛さないと言ったのに。

 なぜこんなにも裏切られたと思うのだろう。



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