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私を悪役にした皆様へ――色のない夢が終わる頃、幸せを見つけました  作者: ゆうひかんな


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アデライドとマルグリット・バルトロ伯爵夫人


 オデットに叩かれた日から二週間と少し。

 この日もエリックの両手がリュシエンヌの頬を包んだ。

 彼の手は男性らしく骨張っているけれど指は細くて、しなやかだ。


「駄目だよ、動かないで」


 居心地悪そうに身じろぎするリュシエンヌを、エリックはたしなめる。

 途端に動けなくなって、リュシエンヌは固まった。

 すると頭上から小さく吹き出すような音がして、リュシエンヌは目線を上げてエリックを軽くにらんだ。


「からかいましたね、意地が悪いです」

「反応がかわいらしくて、つい。ごめんね」

 

 小さく笑いながらエリックは、優しい手つきで美容液を染み込ませる。

 傷は治っても、跡は残るかもしれない。

 医師からそれを聞いたエリックが心配して、薬効成分を含んだ美容液を用意してくれた。そして体力が落ちて、まだ動けないでいたリュシエンヌに代わって彼が朝と晩に塗ってくれていたのだ。

 その習慣は、動けるようになった今もなぜか続いている。

 リュシエンヌの頬に触れたエリックの手から成分が肌に染み込んでいく。冷えた頬に彼の手の温もりが心地よくて、リュシエンヌはそっと瞳を閉じた。

 脳裏に樹海に棲む魔女の言葉がよみがえる。

 心地よさに包まれながら、リュシエンヌの胸の奥が小さく痛んだ。

 

 たしかに弱さは害にしかならない。

 この手が触れると、愛されているように勘違いしてしまいそうだ。


 こんな愚かなことを思うのは心が弱っている証拠。

 自嘲して、リュシエンヌは目蓋を開いた。

 すると思いのほか近くに彼の真剣な眼差しがあって、一瞬呼吸を止める。

 吐息がかかって唇が触れそうなほど、すぐ近くに。


「エリック様?」


 ハッと夢から覚めたような顔で、エリックは頬を染める。


「ごめん、近すぎた」

「いいえ、大丈夫です」

 

 平静を装って答えながら、リュシエンヌはそっと胸元を押さえた。

 全然、大丈夫じゃない。

 この早鐘のような心臓の音が聞こえてしまわないだろうか。

 視線を泳がせたリュシエンヌの頬をエリックは優しい手つきで触れる。


「うん、もう跡は目立たないね。手当てが早かったのもあって黒ずみやシミが残らないで済みそうだ」

「何から何までありがとうございます」


 リュシエンヌはほっと息を吐いた。

 熱が出ると言われたら本当に熱が出て、夢と現を二日ばかり彷徨った。

 悪夢のときは、リュシエンヌだった頃の悲しい思い出ばかりを見せつけられた。きっと倒れる直前までセレスタンと一緒にいたからだろう。まったく覚えていないけれど、うわ言でも彼のことを何かつぶやいていたみたいだ。

 本当に迷惑な話だわ。

 その代わり、いい夢のときは必ずどこかにエリック様がいて握った手の温もりをずっと感じていた。

 

「お願いだ、アデライド。目を覚まして」


 彼の願う言葉をきっかけにリュシエンヌは夢から浮上した。

 以降は寝て起きてを繰り返しつつ、まずは一週間。その後、傷がふさがって治療が終わったと言われたのが、二週間後のこと。

 幸いなことにその間は規則正しい生活を送ることができた。よく眠ったおかげで気分もすっきりしたし、痩せすぎだった体は少しふっくらしている。


「今の気分はどうだい?」

「とても良いです。今なら何でもできそうだわ!」

「ふふ、それはよかった。ならば、今後の話をしても?」

「はい、もちろんです」

「ではまず、君の意識がなかったときのことだ」

 

 仕事を休んで二日目のこと、オベール家から補償金だという現金が届いた。どうやらセレスタンはきっちりと仕事をしたらしい。

 そして補償金と一緒に届いた手紙には手紙が同封されていたそうだ。

 いつ出勤できるのか、金を払ったのだから働くのが筋だろうというのが内容の趣旨らしい。

 それを聞いていかにも父らしいと、リュシエンヌは思わず笑ってしまった。

 エリックは肩をすくめると、真面目な顔で答えた。


「腹が立ったから、うっかり紅茶をこぼして捨てちゃったけどね」

「読めなくなったら仕方ないですよね」


 リュシエンヌはふふっと笑った。

 ちなみに補償金を持参した使用人は何も知らされていないようで、ご当主がひどく怒っていると迷惑そうな顔をしていたそうだ。


「君の場合、今まで溜まっていた疲れもあって体力が落ちていた。それに栄養不足による免疫力の低下も重なって回復が遅れていたんだ。だから医師の診断書を渡して、意識のない君の様子を直接使用人に見てもらった。本当は他人に君の無防備な寝顔を見せたくなかったのだけど」

「わたしのためでしょう、かまいませんよ」

「でもね女神に不敬……、申し訳ないちょっと腹が立って。それで実際使用人の目でみたら想像以上だったみたいだね、青ざめていたよ。ご当主には意識がない状態だが出勤してもいいか聞いてほしいと伝えた。まあ、最後の台詞は完全に嫌味だが」

「よくそれで納得しましたね。意識が戻れば這ってでも来いと言いそうなのに」


 父は高熱があろうが、大怪我しようが、リュシエンヌにはいつもどおり仕事をさせるような人だった。するとエリックは皮肉げな表情で笑った。


「たぶん、それどころではなくなったんじゃないかな」

「どういうことですか?」

「手紙をもらった次の日、王城から新しい侍女長が派遣されてきたそうだ。彼女はわたしの知っている人物なのだが、たいそう厳しく、しかもやり手の女性でね。彼女の対応にかかりっきりでオベール家が我々に構っている余裕はないはずだ」


 思わずエリックと顔を見合わせてリュシエンヌはクスッと笑う。

 かかりっきりというのは、どうやって誤魔化すかというところだろう。


「新しい侍女長にはどなたが?」

「マルグリット・バルトロ伯爵夫人だ」

「まあ、自らのお気に入りをオベール家に派遣するなんて。王妃様もずいぶんと心配されたようですね」


 リュシエンヌの耳にもバルトロ伯爵夫人の優秀さは伝わっている。

 王妃は自慢の息子が婿入りする先に信頼のおける自身の側近を送り込んだわけだ。王妃の側近を務めるような人物に公爵家の侍女長など片手間だろう。

 領地経営を表とすれば、家政は裏だ。彼女を足掛かりに、王家はオベール公爵家の裏を調査するつもりらしい。

 少しずつ、偽者に施したオベールの黄金というメッキが剥がれている。

 薄く笑いながら、ぼんやりと遠くを見つめるリュシエンヌのそばで柔らかな髪が揺れる。救いのようなエリックの手がリュシエンヌの頬に触れた。

 

「それで、君はどうする。今の仕事を続けるの?」

「はい、続けます」


 リュシエンヌはきっぱりと言い切った。

 困った顔でエリックは深々と息を吐く。


「そう答えると思っていたけれどね。君がまた傷つくようなことがあればと思うと心配なんだ」

「ありがとうございます。でもこの先の選択のためには、必要なことなのです」


 リュシエンヌだって痛いのは嫌いだ、でも必要だから傷を負った。

 怯えることなく微笑んだリュシエンヌと視線の合って、エリックは思わず横を向いた。


「女神かな?」

「え、なんですか?」

「ごめん、何でもないよ。尊すぎて直視できなかっただけだから」


 リュシエンヌの視線の先にいるエリックの頬がほんのり赤い。

 しかも目元を手で覆って、心持ち震えている。


「看病のしすぎで、お疲れですか?」


 不安そうな顔をしたリュシエンヌは眉を下げる。

 エリックは軽く咳払いをしてごまかすと、真面目な顔をした。


「では明日から働くということで、オベール家には連絡を入れておくよ」

「ありがとうございます、よろしくお願いします」

「実はバルトロ伯爵夫人からも手紙が送られてきてね。君が復帰したら話を聞きたいと言われていたんだ。取り急ぎ、お見舞いのお礼の返信だけは済ませておいた。それでこの後どう対処するかは君が決めていいよ」


 渡された手紙を読んだリュシエンヌは目を見張った。

 まず手紙の文面がすばらしい。洗練された言葉遣いだけでなく、内容も気遣いと優しさに満ちている。けれど伝えたいことや要求はきちんと含まれていて、まさに非の打ち所がない美しい手紙だ。

 もっと勉強して、わたしもこんな手紙が書けるようになりたかった。

 そう思うとリュシエンヌの心がほんの少しだけ痛んだ。

 手紙を握りしめてリュシエンヌは顔を上げる。


「オベール家の連絡に、わたくしからバルトロ夫人への返信を同封することはできますか?」

「もちろん、同封して配達人に頼もう」


 リュシエンヌは急いで返信を書き、手紙を配達人に託して。

 明日の準備をしようと立ち上がったところで、リュシエンヌの手をエリックがつかんだ。


「アデライド、食事に行こうか。快気祝いだ」

「食事に、いいのですか!」

「この近くに新しく食堂ができたそうだ。内装も凝っているとリオネルが教えてくれた。」

「リオネル様がですか?」

 

 リオネル・フルニエ。彼はエリックの弟で、フルエニ商会の次期商会長。

 自宅に一度、リュシエンヌのお見舞いに来てくれた優しい人だ。

 髪も瞳も同じ色をしているけれど、エリックが華やかで繊細な印象であるのに対して、リオネルはおだやかで実直な印象だった。

 両親も同じ、血の繋がった兄弟でもこれだけ顔の造りや印象が違うのかと、逆にリュシエンヌは新鮮だと思ったくらいだ。

 リュシエンヌとオデットのように、片親が同じというだけで、ここまでそっくりというのは奇跡なのかもしれない。

 神のいたずらにしては、あまりにも似過ぎている。

 そのことが父やオデットの野心に火をつけたのかもしれない。

 深く考え込んでいたリュシエンヌは、エリックの視線を感じて顔を上げた。リュシエンヌは


「どうする、行く? 明日に備えて次の機会でもいいけれど」

「はい、行きたいです。でも、その」

「ああ、お金のことは心配しないで。ちゃんと君が寝ている間も稼いでいるから」

「魔法使いのお仕事ですね」


 いつのころからか、リュシエンヌはエリックの仕事をそう呼ぶようになった。

 線で書いた絵をハサミを使って布を切り、形にする。さらに糸と針を使って、美しい物をさらに美しく仕上げる。

 世界を美しく色鮮やかに塗り替える魔法のような仕事だから、リュシエンヌはそう呼んだ。

 ちなみにエリックもこの言い方が気に入ったようで、最近はリュシエンヌと笑いながらよく口にするようになった。

 エリックはパッと瞳を輝かせたリュシエンヌの手をとって引いた。

 

「おいで、証拠を見せてあげよう」


 エリックは仕事場にしている部屋の扉を開ける。


「ちょうど区切りがついたところなんだ」

「わぁ、すてきですね!」


 別室に広がる光と色の舞踏にリュシエンヌは思わず声を上げる。

 色鮮やかな透き通った生地に、レースと飾りリボン、宝石まで。

 トルソーには仕上げたばかりと思われるドレスが掛かっている。エリックが得意な刺繍も胸元に施されていてすばらしい。


「これは夜会に着て行くドレス。だから普段使いのものよりも豪華で贅沢な雰囲気に仕上げる」

「本当、魔法みたいだわ」

「魔法が使えたら君の傷なんてあっという間に治せるのに残念だな」

「でもそれではエリック様が頬に触れてくれなくなるでしょう、それは少しさみしいです」


 触れてほしいなんて、ずいぶんと大胆なことを言ってしまった。

 リュシエンヌは恥じたように両手を頬で包んだ。

 エリックの大きな両手に包まれているときは幸せだ、忘れかけていた人の温もりを思い出せるから。


「天使……って違うんだ、今のは完全に私が悪い」


 エリックは体を震わせて、胸元を押さえた。

 最近彼はなんだかいろいろおかしい。突然顔が赤くなったり挙動不審になる。

 リュシエンヌが首をかしげると、エリックは照れた顔で手を差し出した。


「では行こうか、アデライド」

「はい、エリック様」


 彼の声と、言葉で。貴婦人(アデライド)と呼ばれるのが好きだ。

 リュシエンヌは弾むような気持ちで温かい手を握り返した。


 ――――


 扉を開けて、エリックは彼女をエスコートする。


「さあ、ここだよ」

「すてきなお店ですね!」


 リオネルに紹介された店というのは自宅から五分ほど歩いたところにある。

 深みのある色合いの壁や扉の装飾が洒落ていて、男性だけでなく女性からも好まれそうだ。

 店に入るとちょうど開店時だということで席に座ることができた。

 けれどあっという間に満席となる。

 賑やかな音楽が流れて、吟遊詩人が人々の喝采を浴びていた。

 

「人気があるようですね!」

「この店の装飾にはリオネルの調達した商品や素材が使われているそうだ。なかなか評判がいいみたいだよ」


 時間をかけて鈍い光沢を放つようになったアンティークのテーブルと椅子。船の模型や錆びた錨の隣に宝箱があって、本物と見紛うような偽物の硬貨や宝石まで山と積み上げられている。

 異国情緒あふれる雑貨品が所狭しと並んでいて、どれもこれも彼女の知らないものばかりのようだ。

 見逃したくないとばかりに彼女の視線が大きく左右に動いている。ちょっと落ち着かない態度も普段とは違って愛らしく、逆に新鮮で。

 エリックと視線を合わせて、彼女はそっと息を吐いた。


「エリック様と一緒にいるときは世界に色が戻るのです。色のない世界が、このときだけは鮮やかに」


 キラキラ、キラキラと。


 そう言いながら彼女は一層瞳を輝かせる。

 あどけない少女のような微笑みにエリックの心が締めつけられるように痛んだ。

 どのような事情があってこんな状況になっているかわからないけれど、彼女が深く傷ついているのは間違いない。

 その傷ついた人を、エリックは契約で縛ってさらに深く傷つけたのだ。

 たとえ彼女が慈悲深い女神であっても、許されるわけがなかった。


「お待たせしました!」


 笑顔の給仕が出来立ての料理をテーブルに並べる。

 彼女は品よく料理を堪能しつつ、グラスを傾ける。

 果実酒からは芳しい花のような香りが漂った。


「ああ、おいしい。おいしいも幸せの一つですね」

「そう、なら今は幸せ?」

「ええ、幸せです」


 彼女は迷わずそう答えた。

 曇りのない眼差しにエリックはなぜか泣きそうになる。

 今はただ、この想像もしていなかった幸せな時間が終わってしまうのが惜しいと思った。


 なぜあのとき彼女を簡単に手放せると考えたのか。

 そんなことできるわけがないのに。


 夢見るような眼差しで店内を見回した彼女は、どこか遠くを懐かしむ顔でふわりと笑った。見たことのない色を浮かべた顔で笑う彼女に、エリックは瞳を伏せる。


 リュシエンヌ・オベール。

 オデット・フルニエ。

 そしてアデライド。

 今の君は誰なのだろう?


「夢みたいですね、目が覚めるのが惜しいくらい」


 そして彼女を夢の先で待つのは誰なのか。

 聞きたいけれどエリックは答えを聞くのがこわかった。自分ではない誰かの名前が返ってきたらと思うと、どうしても口に出せずにいる。

 これは結婚という契約を軽んじたエリックへの罰だ。

 出会ったときに時間が戻せるような魔法をエリックは使えない。

 彼女の無邪気な言葉が、エリックに追い討ちをかける。


「エリック様は、幸せですか?」

「もちろん、幸せだ」

 

 心から幸せだった。これが契約婚だということを忘れるくらいに。


魔法使いとか魔法という言葉が出てきますが、エリックは魔法は使えません。この世界では、魔法は魔女だけが使えるという設定にしています。

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