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アデライドの暗躍


 リュシエンヌがアデライドとエリック様に呼ばれるようになったからといって、書類上の名がオデット・フルニエであることに変わりはない。使用人達は必要なときだけは言いにくそうに名を呼ぶけれど、それ以外のときはアレと呼ぶし、口さがない使用人は陰で気狂い姫とも呼んでいる。


 ただ、リュシエンヌは長いこと囚われてきたこだわり――――再びリュシエンヌ・オベールに戻りたいという願いは驚くほどあっさり消えていた。


 オデット・フルニエとなってオベール家を出た瞬間にどうでもよくなってしまったのよね。


 思えばリュシエンヌは公爵令嬢として中途半端なままだ。公爵令嬢にふさわしい教養を身につけることもできなかったし、貴族学校に通って人脈作りもできなかった。

 オデットのようにリュシエンヌをなぞりながら生きていくのも御免だし、頼まれてもオベール家には戻りたくない。

 

 そんなに欲しいならあげるわ。オベール家も、セレスタン様もね。


 今のわたしは一割くらいが書類上の名であるオデットでできている。

 ほんの一握りだけれどリュシエンヌとして扱ってくれる古くからの知り合いがいるので彼らのために何割か心を割いて。残りの部分はすべてエリック様と出会い、アデライドに生まれ変わった自分への期待でできていた。

 次の日新居を出て、同じように自宅から出勤してきた侍女達の群れに混じる。


「おはよう」

「え」


 すれ違う誰も彼もが、目を見開いて言葉を失っている。

 わかるわ、たった一日でも驚くほどの変わりようだもの。

 

 エリック様に連れて行かれた美容室で磨かれた肌、艶を取り戻した髪。痩せすぎの体は相変わらず貧相だけれど、美容室の女性達からなるべく栄養価の高いものを少量ずつ食事で補えば戻ると教えてもらった。

 服もエリック様の見立てで質の良い布を使った飾りの少ないワンピースを揃えた。

 体の線を目立たせないように配慮されたデザイン、これなら痩せた貧相な体の線もふっくらと柔らかく見える。エリック様曰く、普段着のドレスは腰が細く見えるように絞られているから余計貧相に見えるのだとか。


 もう平民なのだからドレスなんて二度と着ないわ。


 たっぷり寝たから肌ツヤもいいし、気力を取り戻したことで瞳も輝いて見えるだろう。

 あまりの変わりように呆然とする侍女達の間を抜けて、自室で侍女服に着替える。

 そしていつものように廊下を雑巾で拭いていると、目の前に豪奢飾りのついたヒールの爪先が見えた。それだけで誰かわかるリュシエンヌは立ち上って深々と頭を下げる。


「おはようございます、お嬢様」

「どういうこと?」

「どういうこととは?」


 顎の下に扇子の先が当たり、力の加減で顔が上向いた。オデットの後ろには、にやけた顔をした侍女達の姿があった。彼女達がいろいろ面白おかしく話したというところか。


「あらあら、本当。醜いくせに無駄なことを。ちょっと磨いたからって顔が変わるわけじゃないの」


 クスクスと笑う声がする。別にそこまで痛手ではないのだけれど。たっぷり時間をあけて、リュシエンヌは不思議そうな顔で首をかしげた。視線は揺らぐことなく真っ直ぐにオデットへと注ぐ。


「醜いのですか、この顔は」


 ――――あなたと、同じ顔をしているのに?


 言外にたっぷりと毒を含ませて、リュシエンヌはにっこりと笑った。

 エリック様曰く、そうやって笑うと側からは無垢で邪気のない顔に見えるそうだから余計に効果的だ。

 昨日までは言い返すことをしなかったので、何を言われたのか一瞬わからなかったみたいで、扇子を当てたままオデットは怪訝そうな顔をする。

 けれど噛み砕いてようやくからかわれたと理解できたのか、カッとなった彼女は扇子を振り上げた。そしてそのまま勢いよく振り下ろす。振り下ろす動作と共に、リュシエンヌの顔の辺りでパンという殴打する音が響いた。

 リュシエンヌの頬をオデットの扇子が叩いたのだ。

 しかもよほど強く叩いたのか、頬が熱を持って一気に腫れ上がった。


「リュシエンヌ様⁉︎」


 取り巻きの侍女達も、今は顔色は真っ青だ。

 それもそうだ、慈悲深いリュシエンヌを装うオデットは今まで決して自ら手を汚さなかったから。嫌がらせも、いじめも体罰も全部侍女長であるヘレンに命じてやらせていた。

 そのヘレンは、あいにく今日は休暇で不在。

 我慢できなくて思わず自らの手を汚してしまったのね。我が身に降りかかる災難を予想した侍女達が怯えるとは思いもしないで。リュシエンヌは何の感情も浮かんでいない顔で侍女の一人に声をかけた。


「医師の診察を受けますので、このまま早退させていただきます」

「え、ええ、わ、わかったわ」


 動揺が思考に出た、リュシエンヌは内心でほくそ笑む。

 ああ愚かな人達、ここでリュシエンヌが診察を受ければ傷跡が記録に残る。扇子で叩かれた痕跡が一目瞭然だというのに止めもしないで。

 オベール家という分厚いカーテンの背後から、隠された罪が顔を出す。

 彼らがそのことに気づく前に家を出て、そのまま町医者の営む診療所へと足を運んだ。

 でもこれは保険であって、目的ではない。

 次の日、腫れ上がった頬に湿布を貼って掃除していたら今度はヘレンに絡まれた。


「たいしたことがないのに、これ見よがしに湿布なんて貼りつけて。あなたが大袈裟に騒ぐから、お優しいリュシエンヌ様は気にされて部屋にこもってしまわれたのよ。お可哀想に!」

「さようでございますか」

「他人事のような言い方、本当に可愛げのない娘だこと!」


 リュシエンヌの口調が気に入らなかったようで、ヘレンに突き飛ばされる。勢いよく体が壁にぶつかって大きな音を立てた。思わず呻き声を上げると、彼女は歪んだ笑顔を浮かべる。

 初めは悪口や嫌がらせ程度だったのだが抵抗も反抗もしないためか、最近の彼女は少しずつ少しずつ、こんなふうに直接的な行動をとるようになっていた。


「いつまでもオベール家に寄生して気持ち悪いわね。いなくなってしまえばいいのに!」


 憂さ晴らしのつもりなのかも。

 罵倒されながらリュシエンヌは冷静にそう判断する。最近は誰もが見て見ぬふりをしているし、オデットも止めないから頻繁に手を出すようになっていた。


「いいわ、反対側も同じように赤くしてあげましょう。そうすれば両方揃って目立たないもの!」


 しかも頻繁に手を出すようになってから場所を選ばなくなった。

 ヘレンは笑いながら手を振り上げる。リュシエンヌは表情を変えずに彼女の顔をじっと見つめた。

 

「何をしている!」

「えっ!」


 ……それが狙いだと知らずに。


 ハッと我に返ったヘレンの視線の先には、怒りを湛えたセレスタン様と真っ青な顔をしたオデットがいる。普段は温厚と評判のセレスタン様だけれど正義感の強い方でもあるから、見過ごせなかったのでしょうね。


「リュシエンヌが体調を崩したというから急いで様子を見にきてみれば。主人を放っておいて、侍女をいじめるような侍女長がいるとは思わなかったよ」

「そうではないのです、これはその」


 駆けつけたセレスタン様がリュシエンヌの体を抱えて起こすと、頬の湿布に気がついた。当てた布の隙間から赤く腫れ上がった肌を見て彼はますます声を荒げる。


「この頬の傷もあなたがやったのか!」

「いいえ、いいえ違います!」


 青ざめたヘレンは激しく首を振った。

 そうよ、この傷はあなたがやったものではない。でもその言葉が、新たな罪の記憶を呼び覚ます。


「ではこの傷は誰がつけたものだ?」

「そ、それは」


 その場にいなくても状況くらいは聞いているでしょう。

 さて、あなたの口から主人の名を伝えることはできるのかしら?


「そ……そう、この娘が階段から落ちて自分でつけたものですわ!」


 リュシエンヌは内心で呆れ返った。予想どおりとはいえ、あまりにも安直じゃない?

 それまでのオデットは賢明にも固く口を閉じていたけれど、ヘレンの言葉を聞いてこのまま押し通せると思ったのだろうか。彼女はようやく重い口を開いた。


「ええそうなのです、その侍女は昔からドジで間抜けなところがありますの。昨日もうっかり階段から足を滑らせて自分から落ちてしまったのですわ。それを見たショックで私は体調を崩してしまったのです」

「そうだったのか、君は昔から繊細で優しいからね」

「ヘレンは悪くありません、悪いのはその侍女が粗忽者だからです」


 オデットが弱々しく微笑むと、あっさりとセレスタン様は態度を軟化させた。

 仲睦まじい様子にヘレンは胸を胸を撫で下ろしたけれどリュシエンヌは彼女達の浅はかさを嘲笑う。

 残念ね、世の中そう簡単にはいかないものよ。

 

「その頬の傷は自分で階段から落ちた、そういうことでいい?」

 

 聞き返したのは直前でヘレンの醜態を見ているだけに今ひとつ信じきれないだけだ。ああ本当に、誰にでも分け隔てなく優しい人――――だから私は、その善意を利用する。

 リュシエンヌは勢いよくその場で平伏した。

 

「申し訳ありません、どうか、どうかお許しください! これ以上はもう私の体が保ちません!」


 瞳を潤ませ、真っ青な顔で大袈裟なくらいに声を張り上げてオデットとヘレンに懇願する。


「叩かれるのは、痛くてつらいのです……どうかご慈悲を。もう叩かないで。お許しください、お許しください!」


 そして震える腕で両肩を抱えて、自分の体を守るようにうずくまった。

 今まで何度叩いても、顔色一つ変えなかったのに。いつもとは違う行動をしたリュシエンヌにオデットとヘレンは何も反応ができずにいる。

 激しく動いたせいで、リュシエンヌの頬からハラリと湿布が落ちた。

 初めて見る痛々しい傷の状態に三人は思わず息を呑む。

 侍女達が思わず視線をそらすほどだというのに、これでたいしたことがないのにとよく言えたものね。


「赤く腫れたのは殴打されたからか!」


 責めるような声音、セレスタン様は声を上げる。


 殴打されたとわかるのは、赤く腫れ上がった頬の中心に棒で叩かれたような紫色の打撲痕がくっきりと残っているから。それと気がついたセレスタン様は静かに二人を振り向いた。


「これもヘレンがやったということ?」


 この状況では二人以外の選択肢はあり得ない。そしてセレスタン様はオデットを溺愛しているので直前にリュシエンヌを突き飛ばしたヘレンの可能性が高いと判断した。

 さて、ヘレンはどう答えるかしらね?

 しばらくうつむいて黙っていたけれど、毅然とした態度で顔を上げた。

 

「……はい、私がやりました。申し訳ありません」

「そうか、残念だよ」


 罪を被ったヘレンに、リュシエンヌは目を丸くした。

 殊勝なことだわ。視界に映るオデットの顔がますます青ざめる。

 ヘレンは見上げた忠誠心だけれど、これでは残念ながらオデットがかばって嘘をついたことになってしまう。

 オデットは侍女を保護する雇用主の立場でありながら侍女長の暴力を許した。公爵令嬢としてだけでなく、次期当主としても決して許されるものではない。

 ここに至って、ようやくオデットの立場を悪くしたことに気がついたヘレンはセレスタン様に懇願する。


「どうか理由を聞いてください。理由を聞けばこの娘がどれだけ厚かましい人間かが理解できるはずです!」

「いや、不要だ。理由は聞かないよ、私はまだこの家の人間ではない。君を裁き、罰する権限はないからね」


 途端にオデットとヘレンは安堵して深く息を吐いた。けれど甘いわね、王家の人間がこの程度で許すわけがない。


「ただし、この件は王に報告する」

「なんでですか、相手はたかが平民の娘ですよ!」

「けれど君の身分もまた平民ではなかったのか?」

「それは……、ですが!」

「リュシエンヌは身分の柵を越えて優秀な平民を登用するという試みのために君を侍女長に採用したと聞いている。けれど蓋を開けてみれば侍女長の立場を利用して同じ平民の娘をいじめたことになるわけだ。君をかばうため主人に嘘まで吐かせて……そんな人間は侍女長にふさわしくない。リュシエンヌの試みを父も応援していたのに残念だよ」

「で、ですが私は幼い頃からずっとリュシエンヌ様を支えて参りました。当主を支える侍女長にふさわしいのはわたくししかおりません。ですよね、リュシエンヌ様⁉︎」

「そうだろうか、母上に侍女長が務まる優秀な人物を紹介してもらうよ。いいね、リュシエンヌ」


 両方から詰め寄られたオデットはあきらかにうろたえた。セレスタン様の顔色を伺って、必死にすがりつくヘレンと視線が合って。

 迷った末に、オデットはヘレンから視線をそらした。

 

「承知しました、セレスタン様のご配慮に感謝いたします」

「リュシエンヌ様、どうして!」


 叫ぶヘレンをセレスタン様は冷めた目で見下ろした。


「別にリュシエンヌは君にオベール家の侍女を辞めろとは言っていないよ。さっきも言ったように、わたしには君を辞めさせる権限はないし、誰にでも失敗することはあるからね。侍女として働いてもう一度、信頼を取り戻していけばいいだけのこと……ただし、同じことをすれば次はないと思ってほしい」


 ヘレンの顔が絶望に染まる。


 次ね、そこまで保てばいいけれど。

 うずくまったままリュシエンヌは冷ややかに笑った。ヘレンは今までわたし以外の侍女達にも嫌がらせやいじめをしてきた。下級侍女に格下げされたら、やり返されるのが目に見えている。

 きっと耐えきれないでしょうね。

 だから侍女長でいられなくなった彼女に次はない。


 まずは、一人目。


 

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