エリック・フルニエの天啓
「オベール家から参りました。本日からよろしくお願いします」
彼女は普通ではない、大事にしない者には罰が下るだろう。
振り向いた瞬間、エリックはなぜかそう思った。
目の前に、擦り切れた侍女服を身につけた天使がいたからだ。
脳内で祝福のラッパが鳴り響き、エリックは一瞬我を忘れた。
これが天啓というものではないだろうか。
そう思うほどに彼女との出会いは衝撃的だった。
ーーーー
引越しの当日。
荷物に埋もれたまま、エリックはポカンとした顔で振り向いた。
今のエリックはさぞかし間抜けな顔をしているだろう。
「天使だ……」
「は?」
「ごめんなさい、ちょっと感覚がおかしくなっていて。では、もしかしてオデット様の侍女の方?」
「いいえ、ですが今日からここで暮らせと言われました」
見た目が痩せ細って不健康ではあっても、人ならざる美貌と品格は隠せない。
侍女服を身につけている天使でなければオベール家の使いは天使なのだとエリックは賭けたけれど、なんと令嬢本人が天使だった。
オデット・オベール、籍を入れたからからオデット・フルニエになる。
元公爵令嬢でエリックの妻になる人は天使だった。
相手は公爵令嬢だからとさまざまな場面を想定して万全の体制で迎え入れようとしたところだったのに、エリックの仕事関係の荷物で満たされた部屋はなぜか一向に片付かなかった。
現状は万全とは程遠いのに、天使は部屋を見回して文句も言わずに小さな手荷物を一つだけ運び込む。
「わたしにはこれでも十分贅沢です」
やっぱり天使だ。
ほんの少しだけ、表情を柔らかくした彼女にエリックは呆然とした。
噂の公爵令嬢はわがままと聞いていたのだけれど、嘘つきで傲慢と毛嫌いされる気狂い姫の面影なんて何一つ感じさせなかった。
どう少なく見積もっても見ても、天使。
この国の人間の目は節穴かと思うほど、噂とは真逆の存在だった。
エリックの脳裏で、リオネルとの会話がよみがえる。
壮絶な気品と言っていたが、まったくそのとおりだった。
言葉にするなら人並外れた品位と風格。こういう内面から滲み出るものは、ずっとそばにいる人間ほど気づきにくいものなのかもしれない。それこそ初めて会うからこそ余計に他人とは違うと気づかされる。
もしくは比較対象がいないから気がつきにくいだけで……そこまで考えて、エリックはむしろ納得した。
この天使の隣には、たとえ一国の王女だろうと並びたくはないだろう。
エリックは天使が悪評によって人間から排除された理由の一つは間違いなくこれだと思った。
誰かが悪い噂を助長するような態度を取り続け、天使の価値を落とした。
人との接触を遮断することで天使の存在を消したのだ。そこまで徹底して、ようやくこの壮絶な気品を隠すことに成功した。
では一体、誰がここまで彼女を貶めた?
エリックは天使と会話を進めながら、背景を探っていく。そして聞けば聞くほど絶望的な気持ちになった。
結論から言えば、公爵令嬢とは思えない冷遇だった。
いくらなんでもあり得ない。
礼儀作法の勉強も中途半端で、公爵令嬢にふさわしい教育も満足に受けてこなかった様子だ。むしろ生活に困窮する男爵家の令嬢のほうがマシだ。少なくとも国費で学校には行かせてもらえる。
まさか書類仕事と家事手伝いのために貴族学校へも通わせてもらえなかったなんて、いくらなんでも横暴がすぎるだろう。
ふと気がついて、エリックは首をかしげた。
「ちなみに字の読み書きや計算は?」
「家庭教師がついていたときは、基礎的なことをその方に教えてもらいました。けれど彼女が解雇されてからは独学です。誰も教えてくれなかったので」
「解雇って、君がわがままを言って辞めさせたのではないの?」
まさかと思って尋ねてみたら、彼女はあきらめた顔で笑った。
「違うと説明しても無駄でした。あなたもきっと信じないでしょう」
冷静に切り返す彼女が、より一層哀れに思えた。
リオネルの懸念も的外れではないかもしれない。
まさかと思うが、オベール家は直系であるリュシエンヌ・オベールの価値を守るためにやったのではないだろうか。
そう思えてしまうほどに、目の前の天使は資質が抜き出ていた。
容姿だって、今はカサついた肌に枯れたような細い身体をしているけれど、顔立ちは整っているし、赤茶色の髪は豊かに波打っている。
きちんと手入れをすれば、それだけでも十分に華やかになるはずだ。
エリックは思わずつぶやいた。
「……もったいない」
希少価値の高い宝石にわざと傷をつけるような愚かな行為にしか思えなかった。
社交界にデビューした当時の彼女の評価は散々だったと聞いているけれど、実際本人と接してみれば悪評になる程の不躾な感じはしなかった。
きっとこのチグハグな感じが、リオネルにオベール家はおかしいと言わせたのだろう。視線が合うと天使はなんとも言えない表情を浮かべていた。
あの表情は、エリックにも覚えがある。
人に信じてもらうことを、完全にあきらめたときの顔だ。両親と対峙するときの自分も同じような顔をしているからだろう。
通じるものがあって、エリックは彼女の表情に胸の奥が痛んだ。けれど同じ痛みを知っているなら、共闘できるとも思った。だからエリックは彼女に賭けたのだ。
「大切にしない者には罰を」
そんなふうに煽って契約婚を持ちかけたのは、彼女もまた家族から自由になってほしいから。
そして白い結婚を提案したのは、真っ白なまま愛する人に嫁いでもらいたいという願いからだ。
今まで選べなかったのだから、せめて好きな人くらいは。
王子でもなく、騎士でもないエリックができるのはそのくらいだと、そう思ったからだった。
契約婚を提案して、手ごたえがありそうだと察したそのときだった。
慎ましく微笑んでいた彼女の空気が一変する。
「半年ね、契約しましょう」
色のない彼女の微笑みが、憎しみによって鮮やかに色づいた。
渾々と湧き出る清水のように清廉だった顔が燃えるような苛烈さを滲ませる。
エリックの背筋が粟立った。
笑顔に浮かぶのは侮る者を容赦なく消し去る冷徹さと、残酷さ。
これこそまさに伝説のリュドヴィック・オベールのようだ。
かの英雄は慈悲深く温厚だが、敵に対する情け容赦ない残酷な一面は歴史書にも詳しく記されている。建国の英雄が恐れることなく、冷徹に大胆に敵を蹴散らす姿を戦神が讃美し、オベールの黄金を授けたとされていた。
けれど彼女にはオベール公爵家の血が流れていない。
それなのになぜ英雄の片鱗を思わせるのだろう?
謎は深まるばかりだ。そしてそう思うと同時に、エリックの心拍数が不自然に跳ね上がった。
あれどうした、自分がおかしい。
顔を上げて彼女と視線が合った瞬間、ようやく気がついた。
彼女こそ待ち望んだ泉と女神だ。
どうやら自分は彼女に恋をしたらしい。
エリックは、おそろしい速度で生まれて初めて知る感情に落ちていく。
自分の視界限定で彼女の周りには百合や薔薇の花さえ咲いていた。顔色が悪く、やつれている姿すら、むしろ清廉で神々しく思えるほど。
まさにエリックの理想とする存在が目の前にいるというのに、なぜここまで気がつかなかったのか今は不思議でならない。
エリックはとにかく冷静になろうと深々と息を吐いた。
とにかく彼女の美しさを取り戻さなければ。
いやそうじゃない、もっと他にすることがあるだろうと後で冷静になってみるとそう思うが、あのときはなぜかそれしか思いつかなかった。
恋は人を愚かにすると言うがまったくもってそのとおりだ。
必死に取り繕って連れ出したはいいが、馬車に乗ったところで、エリックはハタと気がついた。
あれ、俺は今さっき契約婚を持ちかけてなかったか?
ーーーー
契約婚を持ちかけた相手が、実は理想の女性だった。
「アハハハ、本当バカな男だね!」
「言わないでください、過去の所業も含めていろいろ後悔しているところですから」
「似合わないくせに格好つけるからよ。ざまあみなさい!」
社交界には何度か顔を出していたけれど、この国にはエリックの泉も女神もいないと早々に見切りをつけていたから完全に盲点だった。
まさか社交界から弾かれたような女性の中に理想の人がいたなんて思いもしなかったから。
「まあたしかに、あなたにはもったいないくらいの素敵なお嬢様じゃない。清楚で慎ましく、礼儀正しい。ああいう女性はきっと一途よ」
「結婚なんてするつもりなかったから、評判なんてどうでもいいと思っていた自分を恨みます」
「わたし達の仕事には贔屓にしてくれる顧客も必要だもの、人付き合いを制限されると困るときもあるわ。特にあなたの場合は女性物が得意で、専門分野なのだから女性に会うなというのがそもそも無理よ」
「そうだ、それだけなんだ!」
「しかもエリックは商家出身だからそれなりに人当たりもいいし、相手の望みを察することにも長けている。容姿も整っているし、女性にしたら付き合いやすい相手だもの。装飾品みたいに連れて歩きたくなる気持ちもわかるわ。ただ誤解を招くような態度が悪い噂を助長したのもあるから無罪とは言えないわね!」
そう言って腹を抱えながら笑う女性、マダム・ジャクリーヌはこの国で人気の高いデザイナーの一人である。
貴族にも顧客がいて、エリックはフルニエ商会経由で知り合った。
才能があると、エリックを今所属する他国の商会に紹介してデザイナーの道を繋いでくれたのも彼女である。
尊敬する先輩で、恩人。
協力者が必要と思っていたので、家族には話せないけれど彼女にだけは契約婚のことを打ち明けて協力してもらおうと思っていた。
「そもそも誤解されるような態度を取り続けてきたのは実家への当てつけでしょう。いわゆる遅い反抗期だわね。それと婚約や結婚を回避するための汚名でもある。ところが汚名のはずがどういうわけか相手のお気に召してしまった。思いどおりにいかなくて残念だったわね!」
返す言葉がない、完全に彼女自身の子供と扱いが同列だった。
ちなみに彼女は最愛の旦那様がいる二児の母、母は強し。ちょっと世間の荒波に揉まれた程度の自分ごときが太刀打ちできるわけがなかった。
ジャクリーヌは口元に指を当てて、からかうように口角を上げる。
「それにね、あなたはもともと好きなものに注ぐ熱量が多い性格でしょう。今までは分散させていたからそうでもなかったけれど、本命が見つかったらそうはいかないわ。分散されていた熱を一ヶ所に注ぎ込むから恋人に愛が重いとか言われるタイプね。加減は大事よ、執着しすぎて嫌われないように気をつけなさい」
「良いところがまるでないですね」
しょんぼりとしたエリックの顔を笑ってジャクリーヌは真面目な顔をする。
「それで、白い結婚の約束を交わした奥様のお名前は? 悪いけど一瞬背筋がゾッとしたわ、本当にどこのお嬢様かしら?」
「やはりジャクリーヌ様でもわかりますか」
「もちろんよ、あのとんでもない気品は普通ではないわ」
視線の先では彼女が若い女性達と一緒にふわふわと笑っている。
百戦錬磨のデザイナーすら怯ませる気品は、エリックの贔屓目ということではないらしい。
いつの間にかゾッとするような気品は薄れて、今は淑やかでかわいらしいだけの普通のお嬢様だ。
エリックが差し入れたマカロンに、キャンディー。
さらにテーブルの上に所狭しと並べられたデザイン帳の隙間からレースと飾りリボンが見える。
エリックの愛する物しかない、美しい景色だ。
その中心で埋もれるように咲く彼女は、この世にあって、この世にはいない者のように光り輝いている。
「天使だ、背中に真っ白な羽根が見える」
「はいはい、泉に女神に今度は天使ね。わかったからお名前は?」
「オデット・フルニエ。結婚前の姓はオベールだ」
「オ……、オデット・オベールですって⁉︎」
一瞬大きな声を出しかけたけれど、あわててジャクリーヌは音量を下げた。
エリックは苦笑いを浮かべる。わかる、自分も似たような反応をしたわけだから。
「ちなみに私は彼女をアデライドと呼んでいます。どうにもオデットの名に抵抗があるようだったので」
「あれが気狂い姫だというの、それこそ嘘でしょう!」
「まあオデット・オベールの替え玉でもいたら嘘ということもあるのでしょうね」
悪評しかないオデット・オベール嬢の替え玉を用意して、同じく悪評のあるエリックに嫁がせるメリットはあるのだろうか。
それこそチグハグだ、それならまだ本人というほうが納得がいく。
「父が言うには、婚姻届はオベール家の当主自ら署名されたそうです。だから間違いなく本人でしょうね」
「……あなた、もしかするととんでもない陰謀に巻き込まれているのではなくて?」
「かもしれません。ですからジャクリーヌ様にもご忠告申し上げたいと参上したわけです。尊敬する先輩で、恩人ですから」
おそらく家だけでなく、オベール公爵家や国も巻き込む騒動になるだろう。
理由はわからないけれど、そう思わせる何かが彼女にはあった。
ジャクリーヌは恨めしそうな顔でエリックを軽く睨んだ
「わたしのためだとか言っているけれど絶対巻き込もうと思ったでしょう!」
「すみません、思いました」
「意外に策士なのよね、あなたは」
ジャクリーヌは腹立たしいという顔をしたけれど、すぐに表情を変える。
彼女を視界に収めて、冷静に見極めるような視線を向けた。
「もし彼女が本物のオデットだとすれば、私の知っているオデット・オベールとは別人だわ。間違いない」
ジャクリーヌは自身の書いたデザイン帳を指した。
オデット・オベールの悪評には贅沢好きというものがあって、一度着た服は二度と着ないとまで言われていた。
その悪評のとおりに、ジャクリーヌはこれでもかと贅を凝らしたドレスを彼女のために何度も仕立てている。
「だから余計にわかるわ。雰囲気だけじゃない、背の高さや骨格が全然違うもの。別人よ、間違いないわ」
「マダムがそう証言されるのなら、別人で間違いないですね」
二人いるリュシエンヌ、そしてオデットもまた二人いた。
では今までジャクリーヌがドレスのデザインを請け負ったオデット・オベールとは一体誰なのだろう。
「それを調べればジャクリーヌ様も真実にたどり着くはずです」
「わかったわ。それで情報の対価は?」
「情報には、情報を。オデット・オベールもしくはオデット・フルニエに関する社交界での噂を教えてください。私はこちらの社交界には疎いので」
「フルニエ商会に頼めばいいじゃないの」
「家族には極力知られたくないのです」
「ああ、そうね。家を捨てるなんて知ったら商会長が怒り狂いそうだもの」
出来が悪くても我慢して育ててやったのに何が不満なんだ、そう言われた日のことをエリックは忘れない。あの日、エリックは家を捨てようと心に決めた。
「半年だけですが父の思惑に従って踊ってみましょう。その間に、自分と彼女はいろいろ準備をしておこうと思っています」
「いいんじゃないかしら、応援するわ。あなたにこの国は合わないもの」
「それまでは彼女もそうですが、自分も普段どおりに過ごすつもりです。そのほうがオベール家にも、フルニエ商会にも疑われにくい」
「ということは、浮気者で女性がいなくては生きていけないエリックを演じるということ?」
「そうです、そのことは彼女にも伝えてあります」
「それが最善でしょうけれど、罪深いわねー」
ジャクリーヌは深々と息を吐いた。
エリックという男は悪評のせいで浮ついて見えるけれど実は不器用で、好きなものにはとことん尽くす一途な男だ。しかも優しい。
エリックの天使は苦しむのではないだろうか、愛と義務の狭間で。
そう思うとジャクリーヌには最善ではない気がするけれど。
「そうだ、一つだけ忠告よ。って、ちょっと聞いている⁉︎」
このときジャクリーヌの生温い視線に気づかず、エリックの視線はずっと天使を追っていた。
採寸が終わり、既製品のワンピースが並ぶ部屋へと天使が羽ばたいていく。
華奢な背中を見送ったエリックの口元が、弾むような足取りの愛らしさにゆるんだ。深々と息を吐いて、見咎めるようにジャクリーヌは視線を鋭くする。
「今のオデット嬢にとってエリックは救世主なの。あなたは優しいから全力で彼女を救おうとするでしょう。そんなあなたを彼女はきっと好きになる。白い結婚とわかっていてもね」
けれどエリックの周りには必ず女性の影が付きまとう。
浮気者で、女性がいないと生きていけない。最低な男という評価そのままに。
エリックの浮かれた気持ちが一気に地へと叩き落とされる。
「あのね、あなたが彼女に惹かれているのもわかっているわ。本気の恋には不器用なあなたに、ちゃんと一線を引いて彼女と接することはできるのかと聞きたいの」
「それは、でもどうしたら」
「いいこと、今からでも遅くないから土下座して謝り倒しなさい。突然の結婚を言い渡されて頭に血が上った結果、愛さないなんて寝言を言ったけれど実は君が泉で女神で天使なのだと誠心誠意謝罪して、口説き落とすの。それから女性の影をすっぱり切って、彼女が不安に思う隙もないくらいに一途に愛するのよ。今まで持っていた悪しきものを根こそぎ捨て去る、それが彼女への誠意よ。でもそれができないというのなら」
ジャクリーヌは一層、視線を鋭くした。
「あなたの好意は絶対に悟らせてはダメ。別れの時がきたら彼女を冷たく突き放しなさい。後腐れなく彼女を幸せに送り出す、それが本当の優しさというものよ」
「彼女に蔑みの眼差しを向けられて生きていけるだろうか」
「できるかではなく、やるのよ。中途半端に連れ回しては彼女が幸せになれないし、彼女が苦しむことでエリックも苦しむ。彼女に幸せになってもらいたいのならなおさら間違えてはいけないわ。もちろん幸せになるのはエリックもよ。あなたを不幸にしたくて他国の仕事を紹介したわけではないの」
厳しい顔をしたまま、ジャクリーヌは試着室の様子を見に行くため立ち上がった。
「あなたの泉で女神で天使を泣かせたくはないでしょう。肝に銘じておきなさい」




