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オデット・フルニエの覚醒2


 つまりリュシエンヌは泉でも女神でもなく、戦友と。


 彼の提案はこうだ、表向きリュシエンヌは妻としての役目を果たす。ただし、デザイナーとして働くエリック様の行動を制限しないこと。その代わり生活費などの金銭面はエリック様が負担する。


「君はもしかして身の回りのことが自分でできるのかな」

「はい、できます。オベール家では侍女として働いていましたから」 

「公爵令嬢が侍女ね。公爵とは血のつながりがあると聞いていたが、自分の子をわざわざ公爵家に呼び寄せておいて侍女と同じ仕事をさせるとは。それならまだ修道院に入れるほうが君にとってマシな環境だ。それとも呼び寄せておきながら貴族の嫁に出す気はなかったか……理解に苦しむな、オベール家の教育は独特だ」

「理解できないと思いますよ、わたしにも無理でしたから」


 そもそもリュシエンヌはオデットではない、無理やり押しつけられた悪役だ。

 ほんの少し眉を寄せて、エリック様は深々と息を吐いた。


「まあいい、話を戻そう。この新居はフルニエ家が買ったもので家賃はかからない。あとは食費や生活費だけれど毎月一定額を渡す。残ったお金で自分の欲しい物を買ってもいいよ。それから二、三日どころか、長ければ一週間は他所に泊まって戻らないこともある。どこにいたのか、何をしていたか。詮索しないことも契約のうちだと覚えておいて。ちなみに君は結婚後は働くのかい?」

「オベール家に侍女として通うように言われています」

「だから父はここに家を買ったのか。オベール家に近いしね、それで手当は?」

「今までも出ていませんから、これからも無給でしょう」

「だろうね、なんとなくそういう扱いではないかと思った」


 オベール家のあからさまな態度にエリック様は苦笑いを浮かべた。

 途端にリュシエンヌは恥ずかしくなって瞳を伏せる。少なくとも今まではオベール家の娘として家人の扱いだったから無給で働かせても家事の手伝いで済む。だが婚姻届が出された以上、リュシエンヌは他家の人間だ。一般的な常識では他家の人間を無給で働かせてはいけない。普通の感覚なら、給料を払えないほど困窮していると取られかねない行為だった。

 でも一生タダ働きさせるつもりのリュシエンヌが給金を欲しいといえば、きっと父達は激怒するだろう。待遇ばかり悪くなって辞めさせてくれないだろうし、辞めて他家に再就職したくても絶対に邪魔される。

 

「だったらそのまま無給で奉仕しておいで。その代わり、しっかりと無給だったという証拠を残しておくように」

「どうしてです?」

「なんとなく今後の君の役に立ちそうな気がするからだよ。それから契約期間は半年だ」

「半年ですか⁉︎」

「ああ、実は他国に移民申請を出していてね。もうすぐ認められそうなんだ。だから半年後にはフルニエ家とは縁を切って、この国を出ていく。残念なことに、この国では私のような人間は生きにくくてね」


 申請先の国は男性、女性に関係なく職業選択の自由があって、実力主義なのだという。もちろん男性のデザイナーだってたくさん働いているそうだ。エリック様は元々、そちらでデザイナーをしていて滞在資格の延長に必要な書類を取りに戻ってきたらなんと結婚していた、と。


「それは立派な詐欺では?」


 ある意味ではリュシエンヌよりも酷いかもしれない。

 

「貴族が強いこの国では当主の権限が絶対だからね、当主が本人の代わりにサインすればすぐに認められる」


 だから極力、家族にはこの企みを知られないように立ち回らなければならない。


「移民申請が通れば、私は問題なく国を出ることができる。だからそれまでは君の役に立ってもいいかと思った。この意味が聡明な君ならわかるよね」


 リュシエンヌはうなずいた。つまり、この半年でいろいろ準備をしろということだ。


「それから君には手を出さない。愛するつもりもないし、縛りつける気もない」


 リュシエンヌの目をまっすぐに見てエリック様はきっぱりと言い切った。


 恋愛小説にあるような白い結婚でいいということらしい。

 好条件だ、うまく立ち回って半年我慢すれば望むように生きられる。

 ならば心置きのないようにすべて精算しよう、リュシエンヌはそう決めた。


「他に質問はあるかい?」

「では、一つだけ。どうしてここまでしてくださるのですか」

「君の境遇がわたしに似ているからかな。家族ならば何をしても許されるというわけではないと思うんだ。むしろ家族だからこそ許してはいけないことがあると思う」


 リュシエンヌは目を丸くした。家族だから甘えてもいいのではないの?


「だって家族は選ぶことができないだろう。相手もそうだろうが、それはこちらだって同じことだ。自分は愛せないくせに、愛を返すのが当然というのはむしろ傲慢ではないのかな」


 血の繋がった他人、だからこそ線引きとルールが必要だ。


「虐げる、搾取する。家族だろうと自由と尊厳を奪う行為を許してはいけない。そんな相手なら捨ててもいい。きっとそのほうがお互いに幸せだ」


 腑に落ちたというか、リュシエンヌはようやく正気に返った気がする。


 この期に及んでまだわたしは信じていたのか、いつか父が愛を返してくれることを。

 家族だろうと、愛せない。そんなことを初めから言われていたというのに。

 自分の愚かさがおかしくなってリュシエンヌは笑った。

 歪な微笑み、でもこうして笑うのは何年振りのことだろう。笑い方なんてもう忘れてしまったと思っていたのに。


「いいわ、半年ね。契約しましょう」


 父と義母とオデットと、彼らの望みを叶えてあげる。

 すると一瞬目を見開いたエリック様の頬がじわじわと赤く染まった。

 あら、風邪でもひいたのかしら?


「その表情は素敵だね、やはり覚悟を決めたときの女性の表情は美しい」


 リュシエンヌは苦笑いを浮かべる。

 台詞が甘いというか、軽いというか。こういうところが悪い評価を助長しているような気がするのよね。


「では契約が成立したお祝いに、とっておきの情報を君に教えてあげよう」


 エリック様はリュシエンヌの耳元に顔を寄せる。


「父はオベール家からこう指示されているそうだ。我々に子供が生まれたらオベール家へ引き渡せ。そして、何も見なかったことにしろと。いくら公爵家でも、これから婚姻を結ぼうという相手に生まれた子を寄越せなんてどう考えても普通ではないよね」

「まあ、あの人達がそんなことを」

「表向きの理由としては君に子供が育てられるわけがないからと言われたそうだが、真実はどうなんだろう。わたしの目から見た君はちょっと変わっているけれど、気狂いと評されるほどおかしな人ではない。それとも君なら彼らの狙いがわかるのかな?」

「もちろんよ、よくわかるわ」


 ああ本当、吐き気がするほど醜悪で狡猾な人達だ。

 リュシエンヌの顔に鮮やかな笑みが浮かぶ。

 その表情にエリックは口角を上げた。


「さあ、それではまず君が最優先でしなくてはならないことをしよう」

「何ですか、最優先とは」


 もったいぶった言い方にリュシエンヌはごくりと唾を飲み込んだ。

 真剣な顔をしてエリック様は口を開いた。


「美容だ」

「……はい?」

「何だ、その潤いのないカサついた肌は! それから髪も、パサついて野暮ったい。だからくすんだ赤茶色と揶揄される。いいか、髪も肌も専用の香油で油分を足して丁寧にほぐすんだ。そうすれば艶と輝きが戻るだろう」

「ええと、それ今必要ですか?」


 その瞬間、エリック様は信じられないものを見たとばかりにリュシエンヌの手を握った。

 表情とよく似た、柔らかく温かい手だ。


「いいかい、きちんと手入れをされた容姿というのはそれだけで信用を生み出す。隙のない美しさ、それは髪の色とは関係なく君だけが持つことのできる価値だ」


 黄金の髪でなくてもいい。髪の色が赤茶色でもリュシエンヌの価値は変わらないと、そういうことだろうか。

 そういう価値観を持つ人に初めて会ったかもしれない。


「さあ行くよ、君は正義を振りかざす前にまずは髪と瞳にブラウンダイヤモンドの輝きを取り戻すんだ!」

「ど、どこにですか⁉︎」

「オベール家もさすがに今日は君の自由を尊重してくれるそうだ。父から足りない物は買っていいと軍資金を預かってきているし、これを使って日用品を揃えつつ美容室で美しさを取り戻そう。磨けば光る宝石なのにもったいない。先制攻撃は勝負事の鉄則だよ」


 呆然とするリュシエンヌの手を引いて家を出たエリック様は大通りで辻馬車を停め、洗練された仕草でエスコートするとリュシエンヌを客車に乗せる。

 何年ぶりかしら、エスコートなんてずいぶんと久しぶりね。

 慣れていないリュシエンヌはぎこちなく席に腰を下ろした。


「そういえば君を何と呼ぼうか。オデットという名前はどうにも君にはふさわしくない。第一に、君自身が呼ばれてもちっともうれしそうではないもの」


 馬車が動き出すとエリック様は突然そう切り出した。リュシエンヌは思わず叫んだ。


「私はリュシエンヌよ、リュシエンヌは私なの!」

「光か。その名のほうがまだオデットよりも君にふさわしいね。けれど、君にはもっと違う名前が似合うと思うよ」


 そうだろうか、ようやくリュシエンヌの名を取り戻せそうなのに。

 だが思い起こせば名を奪われて、ずいぶんと時が経ってしまった。リュシエンヌの名はオデットに汚されて死んだのだ。そう思えばリュシエンヌでもオデットでもない、まったく違う新しい名前で呼ばれるのもいいかもしれない。


 自分に新たな風を吹き込んだ彼には新しい名で呼ばれたいと思った。


「たとえばエリック様なら何と呼びますか?」

アデライド(貴婦人)。光のように曖昧なものは今の君に似合わない。自らの足で立ち、したたかに立ち回る。優美で聡明な貴婦人と呼ばれるべき人だ」


 アデライド、アデリーか。今までの名前と違うし、響きが美しい。


「その名前がいいわ」

「では二人のときはそう呼ぼう」


 目的の店の前で馬車が停まる。エスコートするために手を伸ばした彼は、そっと耳元に顔を寄せた。


「アデライド。今日から君は戦友で同志だ、よろしく」


 半年後、我々の自由を勝ち取るために!


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