アデライドと即興劇3
「アデライドか、良い子だったな」
若い騎士は待機所に向かいながら彼女の姿を思い出していた。
侍女らしく固く結い上げた髪や清潔感ある装いもよく似合っていて、清楚で仕草は淑やかで。優しく笑いながら、芯の強そうなところも素敵だと思った。
「また会えるといいが」
無防備な状態で、そうつぶやいた彼の肩をいきなり誰かが強く引いた。
誰かと思えば同じ騎士団の同僚で、たしか今日はアナイス王妃殿下の警護を担当していたはずだ。
「いきなり何をするんだ、驚くじゃないか!」
「さっきおまえが一緒にいた娘は誰だ。どこへ行った⁉︎」
顔色を悪くした同僚に襟をつかまれる。
「は、今の娘って……アデライドか?」
「アデライドと名乗ったのか、それでその娘はどこへ行った⁉︎」
「どこって、用事を済ませてもう帰った」
「くそっ、今すぐこの辺りを探せ!」
「だから何でだ、彼女を探す理由は?」
襟を掴んだ手を強引に振り解いて同期といえども許せないと睨みつける。
すると彼は逆にとまどった顔で頭を抱えた。
「俺だってこんなことは信じられないが、アナイス様はあの娘がリュシエンヌ・オベールだというのだ!」
――――
城を出たリュシエンヌは表通りで辻馬車を拾いオベール公爵家の近くで降りた。
少し歩いたところで、ちょうどオベール家へ納品に向かう途中の商人に出会い笑顔で声をかける。
「こんにちは、いつもありがとうございます」
「どうした、こんなところで?」
「ごめんなさい、別の用事ができてしまったの。納品のついでに籠をオベール家まで届けてもらえないかしら?」
申し訳ないという顔でリュシエンヌは洗濯物が入った籠を揺する。
気のいい商人は、まあそれくらいならとうなずいた。
「ああいいよ、荷物と一緒に裏口へ置いておけばいいかい?」
「ええ、それでいいわ! ありがとう、助かります」
リュシエンヌが馬車の荷台に籠を置くと再び荷馬車は動き出した。
「いつも時間ぴったりだから、本当に助かるわ。利用させてもらってごめんなさいね」
これでもうオベール家には用がない。
敷地の外から失わずに済んだ優美で豪奢な造りの館を見つめる。
「さようなら、お母様」
リュシエンヌはもう、オベール家には戻らない。
閉じた瞳を開くと今度は足早に自宅近くの商店街へと向かった。
さあ、急がなくては!
行き先は馴染みの惣菜屋、マリーおばさんの店だ。
「こんにちは、マリーおばさん。もう用意できているかしら?」
「ああ、エリックに頼まれた昼食だろう。サンドイッチと惣菜、これだけあれば足りるかい?」
「ええ、十分よ。ありがとう!」
「お代はエリックからもらっているよ。ああそうだ、もう一つこれを預かっていた!」
マリーおばさんが奥から持ってきたのは、つばの広い女性用の帽子。リボンとレースが飾られていて、すっきりとした上品な印象のものだ。
「エリックがね、『強い陽射しはわたしの女神の陶磁器のような肌を焼くから渡して』と置いていったよ。聞いているこっちが恥ずかしくなるくらいの溺愛じゃないか!」
「まあ、エリック様ったら」
最近は人目もはばからず、愛情表現が大胆というか。
それをうれしいと思うのだからリュシエンヌも大概だ。
頬を赤くして、昼食の入った紙袋と一緒にリュシエンヌは帽子を受け取った。
「ありがとう、マリーおばさん。これからもお仕事がんばってくださいね!」
手を振ると、マリーおばさんも笑顔で手を振り返してくれる。
もしマリーおばさんの店に騎士が聞き込みに来ても、預かったのは帽子だけ。不審な点は何もないからすぐに捜査の対象から外れるだろう。
いよいよ佳境だわ。
リュシエンヌは帽子と夕食の袋を抱えたまま、人目につかないよう路地裏に身を隠した。
そして服のスカートに仕込んであったサテンのリボンの両端を手に握って一気に引き出した。するとシュッという布同士が擦れる音がしてスカートの中程がふわりとすぼまる。引いたリボンを蝶々結びにすれば、くるぶしの長さまであったスカートの丈が膝下まで上がった。ブーツの丈に合わせてスカートの裾はふんわりさせ、内側に重ねてあった繊細な模様のレースを裾から見えるよう表に引き出した。
「すごいわ、エリック様! 本当に別の服みたい!」
裾の長さを変えてレースを添えるだけで、こんなにも服の印象が変わるなんて思わなかった。
うれしくなったリュシエンヌは弾むような気持ちで、今度は帽子を手に取った。
帽子のリボンに重ねて巻かれていたレースを外してそのまま襟元に飾る。これは、裾に重ねたレースと同じ模様で襟飾りの代わりだ。
それから帽子のリボンに挟んであったレースの手袋を取り出すと内側に隠してあったイヤリングを取り出す。
イヤリングを飾り、手袋をはめて。自分のポケットに入れておいた華やかな色の口紅を取り出して塗る。そして仕上げに結い上げていた髪を解いた。ゆるく波打った赤茶色の髪が、ふわりと背中に広がる。
最後に鏡をのぞいて、にっこりと笑った。
先ほどまでとは別人だわ、これなら大丈夫。
「きちんと手入れをされた容姿というのはそれだけで信用を生み出す。隙のない美しさ、それは髪の色とは関係なく私だけが持つことのできる価値」
リュシエンヌは自分に自信を持たせるため、エリック様の魔法のような言葉を繰り返す。
よし準備はできた、行こう。
帽子をかぶったリュシエンヌは再び紙袋を抱え路地裏から足を踏み出した。
すれ違う人々がリュシエンヌを振り返る。
時折、顔を赤らめた男性と視線が合うけれど、隙がないせいか誰も声をかけてくることはなかった。
大成功だわ、帽子の内側でリュシエンヌはふふっと笑う。
ゆっくりと歩きながら乗合馬車の乗り場に向かうと、そこには数人の騎士が立っていた。
「侍女は城から出てすぐに辻馬車を拾ったそうだ。探せ、まだこの辺りにいるかもしれない」
「容姿の特徴は赤茶色の髪を結い上げて侍女服を着ているそうだ」
もう捜索の手がここまで。さすが王妃様、仕事が早いわ。
乗り場に近づくと一人の騎士と視線が合った。意図せずリュシエンヌの心拍数が上がる。
顔を下げるな、笑え!
「こんにちは、騎士様」
「失礼、レディ。どちらへ?」
「はい、主人と待ち合わせしていますの」
余計なことは言わずに微笑みながら紙袋を掲げて見せると、彼は袋の中身をのぞき込んだ。
袋の中はサンドイッチと出来立ての惣菜。
いい匂いにつられて、ふと騎士の厳しい視線が緩んだ。
「これはおいしそうだ、温かいうちに届けて差し上げてくだい」
「ええ、そうさせてもらいます」
「足を止めさせてしまい申し訳ありません。お気をつけて」
「かまいませんわ。騎士様も、お仕事おつかれさまです」
「お手伝いいたしましょう、どちらの馬車に?」
お詫びにと、騎士は手を引いてリュシエンヌが馬車に乗るのを手助けしてくれた。
お礼を言ったリュシエンヌが御者に料金を支払い、席に座ると彼が仲間の騎士と交わす会話が聞こえる。
「今の女性は?」
「赤茶色の髪をしているが、侍女服ではない。品もあるし、どこぞの貴族の奥方じゃないか?」
「まあそうだな、平民の女性にしては洗練されている。清楚で可憐というよりは、妖艶で華麗だ」
「正直なところ、赤茶色の髪の女性を全員疑っていたらキリがない。珍しくもない髪色だからなぁ」
困り顔の騎士達の視線が馬車から逸れて、扉が閉まった。
音を立てて馬車は動き出し、彼らの姿がどんどん遠ざかる。
帽子を外したリュシエンヌは豊かに波打つ赤茶色の髪を揺らして皮肉げに口元を歪めた。
すべてを奪った象徴のようなこの赤茶色の髪。でも今は、この髪がリュシエンヌを守る盾だ。
オベールの黄金だったら、こうは簡単にいかなかったでしょうね。
窓の外を見れば車窓から王城が見える。おそらく、これから大騒ぎになるだろう。
結末を見届けられないのは残念だけれど、もうわたしには関係のない話だから。
リュシエンヌは口紅で彩られた唇の口角をくっきりと上げて、遠ざかっていく王城に小さく手を振った。
「わたしは最後まで嘘をつかなかったわ。どう、お気に召したかしら?」
舞台はグランドヴァローム王国、オベールの黄金を巡る即興劇。
主役はリュシエンヌ・オベール、脇役はオデット・フルニエ。そして悪役、アデライド。
さあ、カーテンコールを!
素晴らしい!
風に乗って、どこからか喝采が聞こえた気がする。
これにて終幕、リュシエンヌの即興劇は静かに幕を閉じた。
――――
「ここで降ろしてちょうだい」
帽子を被り、御者にチップを渡して。リュシエンヌは次の降車場ではなく船着場の手前で途中下車した。
遠ざかる馬車を見送って視線を船着場に向ける。
午後の柔らかな陽射しに照らされて、リュシエンヌの愛おしい人が荷物と一緒に待っていた。
「エリック様!」
「アデライド、ああよかった!」
強い海風に飛ばされないよう帽子を押さえながら走って、そのまま彼の胸元に飛び込んだ。
抱きしめる腕の温度が心地よい。
緊張が解けたリュシエンヌは、ほうと息を吐いた。
「途中で君が事故に巻き込まれていたらどうしようかと。姿を見るまで生きた心地がしなかったよ」
「心配かけてごめんなさい。でもエリック様のデザインしたこの服があるから心強かったわ」
今日着ている服はエリック様に頼んで作ってもらった特注品だ。
雰囲気は侍女服に似せながら、丈を変えたいというリュシエンヌのわがままを叶えてもらった。
どうしても今日の舞台に必要だから。
エリック様は服の乱れた裾を直して、満足そうな顔で笑った。
「うん、その丈もよく似合っている。さすが貴婦人、わたしのアデライドだ」
「ありがとうございます、服に合わせた帽子もイヤリングもすてきです」
「専門家だからね、そこはいつでも頼ってもらってかまわないよ」
誇らしげな顔で胸を張るところが子供みたい。
リュシエンヌが軽やかな笑い声を上げるとエリック様は照れたように笑った。
「お世話になった人にちゃんと別れの挨拶はできた?」
「はい、心残りはありません」
「では行こうか」
手を繋ぎ、船のタラップへと向かう。チケットは待ち時間にエリック様が手配してくれた。
時計を見ればもうすぐ船が出航する時間になるところだった。
間に合ってよかったわ、限られた時間の中で危機はいくつもあったから。
どれか一つでもつまずけば、ここにたどり着くことはできなかっただろう。
リュシエンヌは小さな声でつぶやいた。
「エリック様、もしわたしが間に合わなければどうするつもりでしたか?」
「待つよ、君が来るまでずっとここで待っている」
迷いのない答えに、リュシエンヌは目を丸くする。
「もしかすると一生来ないかもしれないのに?」
「それでもだ。すれ違ってはいけないし、君を待たせるわけにはいかないだろう?」
柔らかく目を細めて、甘い視線が愛おしいと物語る。
「わたしの泉で女神で天使は君しかいない。だから待つよ、君がこの腕に戻ってくるのをずっと待っている」
「エリック様」
「もちろん、助けに来いと言われたら全力で救出に向かうつもりだ」
物騒なことを真面目な顔で言うから、リュシエンヌは思わず笑ってしまった。
「エリック様にそういう役柄は向きませんわ!」
「ひどいな、これでも結構腕っぷしは強いのに」
家族と折り合いが悪くて昔はずいぶんと荒れていた時期があったそうだ。
リオネル様から、それとなく聞かされていたけれど。
たとえそうだとしても権力を振りかざして、武力で蹴散らすような役はリュシエンヌが求めるものではない。
リュシエンヌは繋いだエリックの手を握り返した。
「エリック様の手は繊細で美しい物を生み出すためにあります。人を幸せにするものであって、人を傷つけるものであってはなりません」
建国の英雄の血を継ぐリュシエンヌだからこそ、そう思う。
「剣を取り、血を流すだけが戦いではありません。我々の戦場はもっと身近にある。戦場が一つとは限らないのですから、状況に応じた戦い方があるというのは道理というもの」
彼には彼の戦い方があるように、リュシエンヌにも譲れない矜持がある。
微笑んで、リュシエンヌはエリック様の瞳を見つめ返した。
「加護は失いましたが戦い方を学ばせていただきました。これからはもっとエリック様の役に立てると思います」
するとエリック様は手を引きながら顔を赤くする。
「尊いというか、かっこいいというか。君は悪魔を蹴散らす戦いの天使だね!」
「もう、そういう恥ずかしいことばかり言うのだから。マリーおばさんにもからかわれたのよ!」
軽く睨んで、リュシエンヌは二人分のチケットを船員に渡した。
確認した船員が使用済みの判を押す。
「新婚旅行ですか?」
「ええそう、少し遅くなってしまったけれど」
リュシエンヌはエリック様と顔を見合わせて照れたように微笑む。
二人の幸せそうな顔を見て船員は軽やかな笑い声を立てた。
「幸せになるのに遅いということはありません。では良い旅を!」
「ありがとう」
二人が最後の乗客のようで、タラップが上がり、出航の汽笛が鳴った。
「マリーおばさんと言えば、昼飯がまだだったね。緊張が解けたら急にお腹がすいてきたよ」
「わたしもです。ほら、ちゃんと注文した物を受け取ってきましたよ。一緒に食べましょうね」
リュシエンヌは紙袋を揺らした。
二人並んで船内を移動する間も、船はゆっくりと船着場から離れていく。
揺られながら一度だけリュシエンヌは振り向いた。
さようなら、グランドヴァローム王国。
しばらくはわたしに戦いを挑んだあなた達が歴史の波間に沈んでいくのを眺めることにするわ。




