アデライドの望むもの
リオネルはついてきた御者に父を連れていくよう指示するとリュシエンヌから領収書を受け取った。
「兄さんから聞きました。わたしもアデライド様と呼ばせていただいてもいいですか?」
「もちろん、エリック様の大切な弟ですもの。ですが敬称はいりません、ただアデライドと呼んでください」
「立場的に呼び捨ては難しいですね。そうだ、では義姉さんと呼んでもいいですか? 兄しかいないので姉という存在に憧れていたのですよ」
「ふふ、いいですよ」
優しい人だ、気狂い姫の噂を聞いているだろうに分け隔てなく接してくれる。
容姿は似たところの少ない二人だけれど、そんなところがエリック様によく似ていた。
「わたしのことはリオネルと呼び捨てでお願いします。義理の弟になるのですから」
「ではリオネルさんと呼びますね。こういう呼び方のほうが慣れているので、それでもいいですか?」
こういう状況は初めてで、うれしいけれど加減がわからないの。
照れたように笑うと、リュシエンヌは恥ずかしそうに頬を赤らめる。
袖を掴む天使があまりにも愛らしくてエリックの顔が幸せそうにゆるんだ。
なんだかんだで幸せそうだからいいか。
寄り添う二人の姿を見たリオネルはほんの少しだけ笑って、真面目な顔をした。
「このたびは商会長が迷惑をおかけしました、謝罪は必ず」
「謝罪など不要ですわ、真実が明らかになればそれで十分です。むしろ偽者とはいえオデット・フルニエが商会を騒がせて、ご迷惑をおかけしたことをお詫びいたします」
リュシエンヌは深く首を垂れた。
どこまでも冷静で、謙虚な態度。悪評と全然違うじゃないか。
唖然としたリオネルの顔を見てエリックはクスッと笑う。
そう、彼女をちゃんと見ていれば噂の人物とは別人ということがすぐわかる。
エリックは力なくうなだれた父の背中を見送った。
人となりを知ろうとしなかった。それが父の敗因だな。
「そうですわ、一つご忠告が。請求書については早めに対処なさったほうがよろしいかと」
リュシエンヌは笑みを深める。
領地の税金のことがあるから、ちょうどいい具合にオベール家には他人の目が集まっていた。間違いなく揉み消されることはないはずだ。
それ以上は言わなくても察したようで、リオネルは緊張した面持ちをしてうなずいた。
「どうしてそこまで教えてくださるのです?」
「エリック様が噂に惑わされることなく紳士的に振る舞ってくださったからですわ。彼はわたしを噂だけで判断しなかった。そんなエリック様の信頼に応えるためにも、彼が大切に守るものをわたしも守りたいのです」
「ありがとうございます、そこまで兄を大切に思ってくれて。それでは、助言に従って急ぎ対処しましょう」
リオネルは微笑んで扉に向かった。そしてすれ違いざまにエリックの耳元でささやく。
「兄さん、ちゃんと愛を伝えないとね。兄さんの価値を理解して尊重してくれる女神は他にいないよ?」
「そうだな」
そうだ、アデライドにちゃんと謝らないと。緊張した面持ちでエリックはうなずいた。
「そうそう。しっかり捕まえておかないと、兄さんが商会に顔を出したのは弟に恋愛相談するためだったっていう情けない話をバラすからね」
エリックは青ざめた。
さすが優秀な商人だ、用件なんて聞かずともお見通しだった。
「おじゃましました。では、ごゆっくり!」
からかうようにニヤリと笑ってリオネルはあっさり扉を閉めた。
リオネルめ、最後の一言は余計だ。
閉まった扉の先では軽やかに音を立てて馬車は立ち去っていく。
部屋に残された二人に、わずかばかり沈黙が落ちる。
手繰るように握った彼女の手は緊張のためかとても冷たい。
さて、どうしよう。エリックは言葉を探した。けれど沈黙を先に破ったのはアデライドだった。
「わたし、エリック様にあやまらなければいけないことがあるのです」
「あやまらなければならないこと?」
「はい、先ほどのわたしの態度です。エリック様の誰も幸せにならないという言葉に反発しました。それは幸せになることを約束された人の台詞で、あなたは何も知らないのにとそう思っていたのです。ですがエリック様は何も知らなくて当然だった。だってわたしは自分の身に起きたことのすべてをあなたに語ってはいないのです。それではわかるはずがない、それを隠しておきながら察しろというのはあまりにも傲慢でした」
嘘がつけないリュシエンヌにとって、沈黙だけが自分を守る手段だった。
「ですが、すべてお話しします。わたしが本当は誰なのかを含めて」
今までは思いつくまま話すことはできなかった。
だからこそ、これからはそれができると思うとかえって緊張してしまう。
どういう反応をされるだろうか。皆と同じようにリュシエンヌを頭のおかしい娘だと思うだろうか。
「わかった、君の話を聞きたい」
導かれるように手を引かれてエリック様と向かい合って座った。
真実を話すことが実はこんなに恐ろしいことだとは今まで思いもしなかったわ。
リュシエンヌは緊張のために身を震わせる。
それでも信じてほしい。エリック様にだけは信じてほしかった。
「すべてが始まったあの日、わたしは当主の執務室で当主である父の代わりに書類の決裁をしていました」
一旦話し始めれば、なめらかに言葉は落ちていく。エリック様は一度も言葉を挟むことなく、静かに次の言葉を待っている。ただ、時折苦しげに歪む顔が彼の心情を物語っていた。
どのくらい時間が経っただろうか。
リュシエンヌが口を閉じたとき、いつのまにかテーブルの上にあったカップの紅茶は空になって、部屋には色鮮やかな西日が差し込んでいる。
リュシエンヌはハッと我に返った。ずいぶんとエリック様を引き留めてしまったようだ。
「ごめんなさい、エリック様の予定を確認せずにこんな長話を!」
「いいんだ、君の話を聞く以上に大切な用事はないよ」
安心させるように柔らかく微笑んで、エリック様はリュシエンヌの手を握った。それからカップを持って立ち上がると、キッチンへと運ぶ。
「これから夕飯を作るのは大変だ、マリーおばさんの店まで惣菜を買いに行ってこよう。君は何が食べたい?」
「エリック様?」
あまりにも普段と変わらない彼の様子に、逆に不安になる。背を向けていたエリック様は小さく息を吐くと、キッチンに近づいたリュシエンヌと向かい合った。彼の心情を現すように握った拳が小さく震えている。
「アデライド。俺は今、とても怒っているんだ」
「エリック様……」
見上げた彼の顔は必死に怒りを抑えているようだった。リュシエンヌは視線を下げた。
ああダメだ、やはり彼も。
「何もかもが間違っている。どうして君がそんな目に遭わなければならない? 愚かだからとか、弱さが害だとか。ふざけるな、そんなものアデライドに責任を押し付けているだけじゃないか!」
リュシエンヌは顔を跳ね上げる。彼の怒りの矛先は周囲に向けたものだった。
「誰も信じてくれなかったのに、エリック様はわたしの言葉を信じてくださるのですね」
「もちろん、だって君はわたしに嘘をつかないからね」
嘘がつけないのではなく、嘘をつかない。
エリック様は気がついていたのか、リュシエンヌがあえて嘘をつかないことに。
父が籍を抜き、リュシエンヌが家を出て。エリック様に招かれてこの部屋の扉を潜った、あの瞬間からずっと……リュシエンヌは少しずつ加護の効力が薄れていくのを感じていた。
リュシエンヌは家を継ぐ者ではないと神に判ぜられたのだ。
ただ、身を守るためについたものも嘘と判断されるくらいに厳格な枷だった。だからどこまで代償の効力を失っているか自信がなかったのもあって、結果的に嘘で誤魔化すこともできなかったけれど。
だからエリック様と初めて会った日、彼にオデット・フルニエ本人かと問われたときは肯定しなかったし、彼から名前を聞かれたときも自分はリュシエンヌだと名乗ったのだ。
でもね、一番の理由はどうしてもエリック様には嘘をつきたくはなかったからよ。
もちろん今までも含めてこれからもエリック様に嘘をつきたくない。
あのときの自分の判断は正しかったのだ。だからこそ、今こうして信じてもらえる。
エリック様は目線を合わせてアデライドの手を握った。
「アデライドの優しさも弱さも罪ではない。だってそうだろう、弱さがあるから人の苦しみに気づくことができる。痛みを知っているから、人に優しくありたいと思えるんだ。だからね、騙されてはいけないよ。自分達に都合がいいからと責任を転嫁しただけでアデライドは悪くない。君が悪いなんてことは断じてあってはならないことだ」
エリック様はリュシエンヌの心に染み込ませるように言葉を重ねた。
アデライドの見開いた目から、真珠のような涙が一粒頬を滑り落ちる。
どうしてかしら、わたしを色のない世界から救うのはいつもエリック様だ。
彼は慈しむような眼差しでリュシエンヌの頬に手を当てた。
「傷だらけで悪評を負ってでも、こうして生きていてくれた。それだけでもわたしはうれしい」
――――生きている、君の勝ちだよ。
リュシエンヌの視界が涙で滲んだ。
何のために生きているのか、わからなくなったときもあったけれど。
その言葉をずっと待っていたような気がする。
彼のことがどうしようもなく好きなのだと、このときはっきりと自覚した。
エリックはすがりつくように飛び込んできた細く小さな体を受け止める。
赤茶色をした髪が鼻先に触れると、お菓子のような甘い香りがした。
新しい発見だ、彼女はこんなにも感情豊かで泣き虫なのか。
声を上げながら泣いている姿は子供みたいだ。
たくさん耐えてきたのだろうな。
こんなふうに崩れてしまえば持ち直せないからと、ただひたすら耐え抜いて。
強く見える人ほど、内面は柔く脆いものだとエリックは知っている。
これからは、こんなふうには泣かせない。
しゃくりあげる背をなでてエリックは真剣な表情を浮かべた。
誰かに彼女を守ってもらうなんて情けない真似をするものか。
そのためにも、次は必ず。まずは誠心誠意謝罪する、許してもらえないだろうけれど。それでも言わなければ。
わたしだけの貴婦人になってほしいと。




