アデライドと死の天使
「言わせておけば生意気なことばかり。おまえなんて公爵令嬢とは名ばかりの、とんだ貧乏くじだ!」
お義父様は真っ赤な顔をして怒りに震えている。
ずいぶんな評価だこと。
今後、会うことはないかもしれないから最後に一つだけ言っておこう。
「お義父様。先ほどからわたしを侮辱しておりますが他家のご令嬢にも同じ振る舞いをなさっているのかしら?」
「するわけないだろう、相手は貴族の令嬢だぞ⁉︎」
「ですが同じ貴族の娘でもわたしは侮辱してもかまわないと? 法律で禁じられているわけでもなし、貴族が平民に嫁いだというだけで見下してよいとする理由にはなりませんわよ」
「ふん、貴族に嫁げなかった気狂い姫が偉そうに!」
残念ながらまったく傷つかないわね。
リュシエンヌは貴族に嫁ぎたいと願った覚えは一度もない。セレスタン様は生まれたときに国が決めた婚約者であって、リュシエンヌが彼を望んだわけではなかった。
それでも誠意を持って尽くしたけれど見かけに騙されて偽者を選ぶような人は、わたしだっていらないわ。
「親しみをもって砕けた態度で接していただくのはかまいませんが、少々やり過ぎましたわね。義理の父親だろうと、わたしを侮辱する権利を与えたわけではありません」
唐突に、リュシエンヌのまとう空気が変わった。
息をするのも苦しいくらいに重く沈んだ空気がクレマンにのしかかる。
「血の繋がりがあろうがなかろうが関係なく、父親だから娘を見下してもいいなんて誰が決めたのかしら?」
実家の父もそう、義父もそうだ。しかもこの方は商人なのにね。
物を売り買いするのは人間同士。買った物の先には必ず人がいる。お義父様はわたしに会うこともなく噂を鵜呑みにして評価を下げた。会う価値もないと思っていたのだろう、そのことが一番許せない。
「人の世には絶対というものはないのですよ。信頼だってそう、身分だってそうです。もし絶対とついて裏切らないものがあるとすれば……たとえば死や加護のように、神の領域にあるものだけです」
そうよ、絶対というものはない。
偽者のオデット・フルニエが与えた損失がどの程度のものかわからないけれど、貴族という肩書きに騙されて商会長自ら墓穴を掘ったわけだ。お義父様の商会長としての地位は危うい。
「わたしを逃げ道になんてさせませんわ。潔くご自身で責任を負うべきでしょう」
「だから何が言いたい!」
リュシエンヌは微笑みを浮かべたまま、すっと目を細める。
「ねぇ、お義父様。荷が重いのなら、そろそろ引退されてはいかがかしら?」
引退、それは商人としての死だ。
無邪気な顔で甘くささやかれた毒にクレマンは凍りついた。
柔らかな微笑みは無垢で色はなく、神の意に従って死を告げる天使のよう。
不吉な言葉を口にしながら、限りなく澄んだ眼差しを注ぐ彼女が得体の知れない生き物に見えた。
なんだこのおそろしい生き物は……わたしは今まで何を見てきた?
反論したくても、恐怖のためか言葉が出てこない。
か細い吐息のような悲鳴が漏れて、クレマンの体が小刻みに震える。
この無垢な眼差しを見ていると闇の奥深いところまで引きずり込まれてしまいそうだ。
思わず視線をそらして頭を抱えたけれど逃れようのない恐怖がじわじわと体の内側を侵食する。
唐突にクレマンは理解した。
愚かでわがままなだけの小娘と侮って手を出したのが間違いだった。
「さあ、お義父様」
「俺が悪かった、もうやめてくれ!」
怯えながら身を固くした彼の背後で、唐突に扉の開く音がする。
ああ、このまま地獄に連れて行かれてしまうのか。
肩を震わせながらクレマンが叫ぶと同時に、リュシエンヌは扉へと視線を向けた。
「大丈夫か、アデライド!」
「エリック様!」
青ざめた顔のエリック様が飛び込んできた。その背後にはリオネル様もいる。
二人とも衣服がどことなく乱れていることから急いできたことだけはわかった。
「まあ、リオネル様も? どうされたのですか、そんなに急いで」
飛び込んだ勢いのままにエリックはリュシエンヌを抱きしめる。
突然の出来事にリュシエンヌは一瞬息を止めた。
「どうしたって……! 商会に立ち寄ったらリオネルがあわてた様子で飛び出してきたんだ。父が伝票を握りしめて出て行ったと。それで行き先の心当たりがあるか聞いたら、ここだと言われて……生きた心地がしなかった」
エリックはリュシエンヌを胸の奥に引き寄せて、わずかばかり腕に力を込めた。
ああ、こんなに震えて。
リュシエンヌはそっと背に腕を回す。心落ち着かせる優しい温度を感じて、そっと目を閉じる。
ようやくだ、色の失われたリュシエンヌの世界に色が戻った。
「もう帰ってこないかと……」
「ごめん、不安にさせて」
体を離したエリック様はまるで宝物を扱うように優しくリュシエンヌの頬をなでる。
そして険しい表情で視線をお義父様に向けた。
「彼女は違うと言っただろう! 何度も何度も、無駄にしかならない買い物はしないと言ったじゃないか!」
エリックは糾弾する。
ドレスに靴、華美な宝石に嗜好品や日用品まで、領収書の中身は贅沢に慣れた者が買うものばかり。慎ましく暮らす彼女にはふさわしくないものだからすぐにわかった。
そしていつもだとここから父と息子の言い合いになる。
けれど父は椅子に座ってうつむいたまま微動だにしなかった。
どうしたのだろう、いつもとずいぶん様子が違うような。
反応がないことを訝しく思い、眉をひそめたエリックの肩にリオネルが触れる。
「よほど衝撃的なことがあったみたいだ。けれどちょうどいい、今のうちに連れて帰ろう」
ここまでおとなしいと調子が狂う。
エリックは腕の中に保護した、彼の泉で女神で天使に視線を合わせる。
「ええと、アデライド。一体、どういう話し合いをしたのかな?」
「はい、エリック様と結婚させていただいたお礼を申し上げました」
いつものように無邪気な顔で、ふわりと微笑む。
うん、今のアデライドは天使の割合が多めだ。
ああかわいい、というかかわいいが過ぎる。エリックの視界限定で背中に真っ白な翼が見えた。
「そのついでに請求書の内容からオデット・フルニエを騙る第三者がフルニエ商会に請求したこと、同様の被害を防ぐためにフルニエ商会はオデット・フルニエ名義の請求書の後払いを今後一切受け付けないと通達すればよいこと。さらに今後同様の請求があればフルニエ商会ではなく納品先に掛かった金額を請求してもらうようにすべきと助言しましたが」
しかし天使の答えは想像していたものとまったく違って、ちっともかわいいものではなかった。
よりにもよって後払いの停止とは、普通の人間ならばここまで思い切ることができないだろう。
あまりの思い切りの良さにリオネルはとまどった。
「でもそれではこの国であなたの信用をなくすのと同じではありませんか」
「お義父様にも申し上げましたが、私はオデット・フルニエの名で商品を買ったことはありませんの。ですから問題ありませんわ。後払いを使えないようにすることで被害の拡大を防ぎ、今後、他店が被る損害を最小限にとどめることができる。そしてフルニエ商会は迅速に対応し、真摯に向き合って問題を解決したという実績になるわけです。これなら信用を守ることにも繋がるでしょう」
窮地を、むしろ好機に。
呆然としたリオネルに微笑んでから、リュシエンヌはエリックを見つめ頬を赤らめた。
「先日、エリック様に美容室というところへ連れて行っていただきました。そこでオデット・フルニエとして採寸をしております。過去の請求に遡ってドレスのサイズを調べていただければ、わたしのものでないことは証明できますわ。そうすれば残った支払いを拒否することができるのではありません?」
美容室で採寸してもらうときは、本当に細かくサイズを測るのだ。腰回りなど寸法の変わりやすい部位はともかく、身長や手足の長さなどある程度の年齢になれば固定されて変わらないものもある。
成長期に摂取した食事の質の違いか、オデットのほうがリュシエンヌよりも身長が高く、そのぶん手足も長い。それにリュシエンヌは痩せすぎと言われるほど細く、オデットはウエストは細いが胸や腰回りの肉付きがいい。
つまり比較すれば明らかに別人ということになる。
「実際に着て見せればいいのでしょうけれど、袖を通したのだから買い取れと言われても困りますしね」
「そうだな、ジャクリーヌ様には事情を話して協力してくれるように頼んでおこう。さすがに顧客の情報だし、細かい数字までは明かすことができないだろうが、事情が事情だし、他の店から照会があればアデライドとサイズが同じかどうかくらいは答えてくれるだろう。そうすれば付属する靴や小物もまとめて拒否できる。だってそもそも注文者は本人ではないのだから」
「まあ、エリック様が頼もしいです!」
リュシエンヌは瞳を輝かせる。
ああ女神降臨、エリックの耳には天上の音楽が聞こえる。
思わず頬をなでると、甘えるように彼女は手に頬を寄せた。彼女の愛らしさが炸裂するたびにエリックは罪悪感でいっぱいになる。
アデライドは愛と美を司る女神で至高の存在。なんでこの女神を傷つけてしまったのか!
「領収書の発行者は一流店ばかり。ですからお義父様も疑問に思うことなく支払ってきたのでしょうが、本人確認を怠った時点で店側の責任です。フルニエ商会に支払いの義務は発生しませんよ」
エリックの手の中で恥ずかしそうに微笑みながらも、リュシエンヌは追い詰める手を緩めない。
ついでにと、テーブルの上の伝票を掴んで先ほどお義父様にしたものと同じ説明を繰り返す。
するとリオネルは目を丸くして、エリックにささやいた。
「すごいな、兄さんの奥様は本当に救いの女神だ」
「そうだろう、そうだろう。泉で女神で天使で、しかも優秀なんだ!」
「それをちゃんと本人に伝えている? 兄さんは大事なところが抜けてて、変に意地っ張りなところがあるから」
エリックは口をつぐんだ。
この期に及んで彼女とは契約婚で、白い結婚だとはどうしても言えなかった。




