アデライドとマルグリット・バルトロ伯爵夫人2
「初めまして、私が侍女長のマルグリット・バルトロです。あなたがアデライドですね」
初めは意味がわからなかった。彼女がなぜアデライドと呼ぶのか。
アデライドの名は、エリック様と私の二人だけのもののはずなのに。
表情を読まれないように深く頭を下げて、リュシエンヌは次の言葉を待った。
「セレスタン様から直に侍女が怪我をして休んでいると聞いています。怪我をした侍女を馬車で自宅に送り届けたとも。それはあなたのことではないのですか?」
「いいえ、失礼いたしました。それはわたしのことです。セレスタン第二王子殿下のお心遣いに深く感謝いたします」
ああ、そうか。馬車から降りたときにエリック様がアデライドと呼んだからだ。それを聞いて勘違いしたままに、バルトロ伯爵夫人に伝えた。
「ご迷惑をおかけいたしました。精一杯努めますので、引き続きよろしくお願いします」
リュシエンヌが再び頭を下げるとバルトロ伯爵夫人は深々と息を吐いた。
「前任の侍女長は引き継ぎもなく突然辞めてしまいました。ですから今は使用人達にどのような割り振っていたか、業務の合間に聞き取りをしている最中なのです」
エリック様の情報ではリュシエンヌが熱を出した翌日、ヘレンは姿を消していたそうだ。
しかも部屋の荷物はきれいに片づいていて、誰も行き先を知らない。状況が状況だけに誰も探そうとはしなかったけれど、残された侍女達は不穏な空気を察したようで固く口を閉ざしている。
バルトロ伯爵夫人が着任したときにはすでにいないことになるので引き続きなどできるわけがなかった。
大変だったでしょうね、引き継ぎもなく未知の領域に挑むのは。
招かざる者、オベール家に紛れ込んだ異物としてバルトロ伯爵夫人の周囲は敵だらけだ。きっとオデットだけでなく、父や義母もあからさまな塩対応だっただろう。
それでもさすがは王妃様の側近を務めただけある。少しずつだが秩序を取り戻しつつあるそうだ。
ここまで終始冷静だったバルトロ伯爵夫人が、つと視線を鋭くした。
「あなたにも聞きたいことがあります。これまでの聞き取りで各個人の業務内容についてはおおよそ把握できました。ですが割り振りについては『あなたに聞け』と誰もが言うのです。これはなぜかしら?」
探るような眼差し。リュシエンヌは微笑みながら視線を受け止める。
「それはわたしがヘレン様の指示に従って、皆様に割り振りをしていたからでしょう」
ヘレンがする仕事はわたしがさせられていたからね。
誰に聞かれても、そう言っていたから嘘はついていない。でもリュシエンヌの答えをバルトロ伯爵夫人は別の意味でとらえたらしい。
「つまりあなたが前任の侍女長の名を借りて好き勝手してきたということですね」
「どうしてそう思われるのです?」
「直接侍女長に聞いたとき、彼女は詳細を何も知らなかったとどの侍女もそう答えるのです。割り振りや業務について、わからないことは全部あなたに聞きなさいと侍女長からそう言われていたそうよ」
しょうがないじゃない。できないし、やりたくないと押しつけてきたのはあちらだもの。
平常時の仕事の割り振りだけでなく、たとえばお茶会の準備や料理の手配、当日飾る美術品や内装の手配まで、侍女長が指示すべき仕事はわたしが一手に引き受けていたからわからないのも当然だ。
それにもし、手配漏れや手抜かりがあってもヘレンが責任を負ってくれるのだから、あれはむしろ優しさだとリュシエンヌは思っている。
「ですがこれからはわたしが差配します。好き勝手は許しません」
厳しい口調、棘のある態度。仕方ない、彼女からすればリュシエンヌは悪役だ。
おそらくヘレンの代わりにしゃしゃり出る子飼い、もしくは悪事を手伝っていた腹心とでも思われていそうだ。おそらく今回リュシエンヌが怪我をしたのも彼女の中ではヘレンと仲違いをした結果とでも思われているのだろう。
悪役ねぇ、その設定も悪くない。リュシエンヌはそう思った。
どちらにしろ半年後にはいなくなるのだ。しっかりと侍女長の仕事をこなしてくれるのなら悪役として恨まれたままでもいい。それに彼女が仕事を引き受けてくれたら、リュシエンヌの仕事は減ってずいぶんと楽になる。
「もちろんです、よろしくお願いします」
腹の読めない顔でリュシエンヌは深々と頭を下げる。
あっさりと受け入れたリュシエンヌを訝しげな顔で見つめてバルトロ伯爵夫人はため息をついた。
「だいたい、わたくしが出したお見舞いの手紙に本人が返事も寄越さないなんて、いくら下級侍女であっても礼儀というものがなっていませんよ。本日急にあなたが来ることになったと知って驚いたくらいです」
「恐れながら、返事は差し上げております」
間髪入れずにそう返したのはエリック様の名誉にも関わるから。リュシエンヌは侍女服のポケットから取り出した郵便配達人の受付票を広げて見せた。宛先にはオベール公爵家の住所と家名、そして宛名には侍女長、マルグリット・バルトロ様としっかり書いてある。
あらかじめ準備しておいたのはオベール家のやることが想定どおりだからよ。
「郵便が届いていないのならば、この配達人に確認してみましょう。料金を受け取っておきながら配達されていないとすれば契約不履行になります。公爵家宛の郵便物が届いていないのであれば、今後大きな問題に」
「いいえ、それはいいわ。なんとなく行方がわかったような気がするから」
呆れたような顔でバルトロ伯爵夫人は視線を廊下の奥へと向ける。今もきっと侍女の誰かが聞き耳を立てて、状況によってはオデットかメラニーの部屋に駆け込む気なのだろう。
公爵家で手紙が行方不明になるなんてね、前代未聞だわ。
手紙を奪ったのは自分達にとって不都合なことを夫人に言いつけるとでも思ったのだろうか。
リュシエンヌはひっそりと彼らの浅はかさを嘲笑った。
きっと彼女もリュシエンヌと同じように嫌がらせと呼ぶには度が過ぎている洗礼をすでに受けているのだろう。だからすぐに誰かの仕業と理解した。
「いいでしょう、手紙の件は不問にします。その代わり、あなたに割り振られた仕事の内容と一日の時間割を提出しなさい。この家の侍女は仕事が偏り過ぎています」
仕事が偏っていたのはヘレンの好き嫌いに合わせて割り振っていたから。
本来は資質や立場に合わせて仕事を割り振るものなのだから、むしろ助かる。
「承知しました」
「話は終わりです、行きなさい」
無言のまま礼の姿勢をとると彼女はわずかに眉をひそめた。
「あなたは」
「失礼します」
きっと中途半端な礼儀作法が気に障ったに違いない。彼女は完璧主義な人のようだから。
言葉には気づかなかったふりをして踵を返し、失礼にならない程度の速さで場を後にする。
角を曲がるまで、リュシエンヌは背中に突き刺さるようなバルトロ伯爵夫人の視線を感じていた。
「セレスタン様とオデットの結婚まであと二ヶ月を切った。当分わたしに構う暇はないわね」
残るは当主である父の書類の決裁と、公爵夫人であるメラニーの仕事の補佐だ。
この二つがある限り、オベール公爵家はリュシエンヌを手放さないだろう。
バルトロ伯爵夫人は侍女長の初仕事として二人の結婚式を無事に終わらせて、次期公爵となるセレスタン様をつつがなく迎え入れる準備を進めなければならない。だから余計に動きの読めないリュシエンヌの存在が気に障るのだ。
リュシエンヌはクスッと笑った。
オデットならともかく、アデライドには邪魔する理由など欠片もないのにね。
誰もが悪役を望むなら、それらしく振る舞ってあげましょう。
長かったのでキリのいいところで切りましたお楽しみいただけると嬉しいです