第二百六話 駒と、信頼
板垣は俺の前で足を止め、いつもの豪胆さをやや沈めた声音で言った。
「……お主に話がある」
館の灯りから少し離れた庭先へ、顎で示す。
俺は無言で頷き、その後を追った。
外は、昼よりもさらに冷えていた。
踏みしめた雪が、きゅ、きゅ、と乾いた音を立てる。
吐く息はすぐに白く散り、月明かりは薄雪の上に青白い膜のように張っている。
板垣は庭の松のそばで立ち止まり、しばし空を仰いだ。
それから、ゆっくりと俺を振り返る。
「泰山の策……お主は、あれをどう見る」
低い、腹に響くような声だった。
問いというより、腹の内を見定めるための一言に近い。
俺は一度息を吸い、慎重に答えた。
「村上義清が、こちらの常道や定石を読み切っているのなら……
その盤そのものを狂わせる、という意味では理に適っておる。
されど、あまりに危うい」
「危うい、か」
「左様、泰山殿の毒は、敵だけでなく味方の『心』まで壊しかねない。
義清が理屈で人を操るならば、泰山殿は狂気で人を動かさんとする。
……儂は、そのどちらにも与したくはない」
「うむ。そこは、わしも同じだ」
その返答は、少し意外だった。
もっと強く退けるかと思っていた。
板垣は鼻で笑うでもなく、ただ小さく頷いたのだ。
板垣は雪を踏み、俺のすぐ横へ並ぶ。
視線は前を向いたまま。
「武勇に優れるだけの将なら、まだ分かる。
知略に長けるだけの男でも、まだ読める。
だが義清、あやつは違う。
奴は戦を《勝つ場》として見ておらぬ。
初めから、《負けぬ形》に盤を固めておる。
兵の動きも、将の癖も、地の利も、退き道も……
こちらが《これで良し》と思う前に、その先まで読んでおる男だ」
俺はただ、静かに聞いていた。
歴戦の名将が、相手を真っ向から「厄介」と認めている。
それだけで、村上義清という男の不気味さが伝わってくる。
「正直に言えばな、晴幸。
儂は、あやつのような敵が最も嫌いだ」
「……嫌い、ですか」
「うむ」
板垣は即答した。その表情は見えない
恐らく板垣は、武人として、人の熱を数に置き換えるような敵を、本能的に危険だと察しているのだ。
「泰山の申した『出鱈目』という話も、分からぬではない。
村上のような男には、理屈の上で正しい手ばかり打っても飲み込まれる。
奴が読めぬもの、読んでも意味を失うものをぶつける……
それは確かに、一つの勝ち筋ではあろう」
そこで、板垣はふっと声を低くした。
「だがな。儂はやはり、あの男を信用できぬ。
己のことを金駒のように言っておったな。
儂も甘殿利も、泥の中に伏せておけと。
理だけを言うなら、あれで間違ってはおらぬのだろう。
だがあの言いぶり、己と他人との境目がないと言えよう。
「……境目が、ない」
板垣は腕を組み、空を見上げた。
「儂や甘利を金駒と呼ぶこと自体は構わぬ。
武田のために働く将である以上、盤上の重しであることは事実だ。
御館様のためなら、泥にも入ろう。火にも飛び込もう。
それが御役目というものだ。
だがあやつは、己までも同じように盤へ置いておる。
己を軽んじている、とは申さぬ。むしろ逆だ。
あやつは、自分さえも策の一部として扱うことに、躊躇がない」
そこまで聞いて、俺はようやく板垣の言わんとすることを掴んだ。
自分が死ぬことを覚悟している、という話ではない。
どれほど危うい役回りであっても、それを役目として平然と盤上に置ける
その冷たさ、あるいは異様さを、板垣は問題にしているのだ。
「儂はな、晴幸殿。
武田の将として前へ出る。
前へ出るのは、勝つためだ。味方を押し上げ、敵を砕くためだ。
そこに一切の迷いはない。
甘利殿も同じだ。我らはそう鍛えられ、そう在ってきたのだ」
その言葉には、雷のような確信があった。
俺はその横顔を見た。
雪明かりの中で、その輪郭は岩のように動かない。
「泰山は人の働きを見ておるようでいて、最後には《盤がどう動くか》しか見ておらぬ節がある。
あれでは人を使うことはできようが、人を預かることはできぬ。
義清には常道だけでは勝てぬことは否定せぬ。
だが、常道を崩すことと、人の芯まで崩すことは違う。
お主は泰山の言葉を理解できる。
御館様も、あの毒を面白がっておる。
それは武田にとって、必要なことなのだろう」
板垣は遂に、俺の方を振り返る。
「御館様は勝ちを取る。
甘利殿は敵を砕く。
儂は前に立つ。
泰山は盤を崩す。
ならば、お主はそれらを一つに束ねよ」
俺は息を呑む。
対して、板垣はそこで初めて、わずかに笑った。
それは豪快な笑いではない。
だが、武人らしい、真っ直ぐな笑みだった。
「難しい役回りよな、晴幸殿」
「……ああ」
「だが、お主ならばできる。故に話したのだ」
その言葉に、軽さは一つもなかった。
励ましではなく、任せる者の声だった。
「村上がどれほど恐ろしかろうと、盤の上で縮こまるつもりはない。
無論、敵の望むままにするつもりもない。
晴幸殿。お主の役目は、我らを臆病にさせることではない。勝てるように前へ出させることだ。
親方様は、それができるからこそお主を見込んだのだ」
彼はそこで、俺の肩へ大きな手を置いた。
その言葉は、あまりに板垣らしかった。
死を遠ざけるために退け、ではない。
助かるために守れ、でもない。
勝つために、正しい場所で前へ出る。
それが、板垣信方の思想なのだ。
夜風が吹き、板垣の袖を揺らした。
その姿は、雪の中に立つ一本の大樹のようだった。
板垣は肩から手を離すと、ふっと息を吐く。
「……まあ、難しい話ばかりしても仕方あるまい。
明日からは忙しくなる。
軍師が青い顔をしていては、兵が不安がるぞ」
板垣は踵を返しかけ、そこでふと足を止めた。
「晴幸」
「はっ」
「儂も甘利殿も、誰かに並べられるだけの駒ではない。
御館様の将として、己で立つ。
故にお主も、誰かの算盤に従うな。
村上にも、泰山にも。
お主の目で見て、お主の知恵で道を決めよ」
振り向かぬまま、板垣は雪の庭を歩いていく。
その背中は少しも揺らがず、ひどく大きく見えた。
あとに残された俺は、ゆっくりと空を見上げる。
理で人を呑み込み、正しさでこちらを縛り上げる敵。
その恐ろしさを知った上でなお、前へ出る者がいる。
板垣信方。
雪の中を去っていくその背は、盤上の駒などではなく、
武田そのものの重さを背負う、ひとりの将のそれだった。
今の俺の胸には、泰山の毒でも義清の理屈でもない、板垣殿から託された重い「信頼」が、消えない火となって灯っていた。




