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武田の鬼に転生した歴史嫌いの俺は、スキルを駆使し天下を見る  作者: こまめ
第6章 決戦、上田原 (1548年 1月〜)
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第二百五話 勝ち筋と、不合理

 夜気は一段と鋭く、廊下の板目を伝う冷えが足裏から骨へ染み上がってくる。

 軍議の喧噪が遠ざかるにつれ、耳に残るのは蝋燭の芯が爆ぜる音と、自分の呼吸だけだった。


 泰山の笑い声。

 晴信の、獣じみた低い嗤い。

 板垣と甘利の、闇に沈む覚悟の横顔。


 ――上田原。

 雪が赤く染まる。あの地名が、舌の裏で苦く転がる。


 俺は襟元を掻き合わせ、躑躅ヶ崎館の石段を降りる。

 門の方へ向かうにつれ、松明の火が風に揺れて、影が伸び縮む。

 影が、まるで生き物のように俺の足に絡みつく。


 泰山の「出鱈目(でたらめ)に限る」という声が、まだ耳の内側で跳ねていた。

 あの軽薄さは、いつも通りの仮面だ。

 だが、仮面の裏の牙だけは本物だった。


 晴信の笑い。

 “毒に賭ける”と決めた、あの一言。


 ――あれは、泰山の策に乗ったのではない。

 晴信は、泰山と俺を戦場へと投げ込む前に、俺たちの「芯」を確かめたのだろう。


 その考えが形になりかけたとき、胸の奥から、もう一つの声がした。


 「……お主、先程から息が浅いぞ」


 闇の中で、姿は見えない。

 だが、いる。赤き目を持つ、隻眼の知将。

 まるで、俺の心臓の裏側に寄りかかるように。


 「…晴幸」


 声は淡々としていた。苛立ちも、嘲りも、妙に冷たい落ち着きも混じっている。

 俺は足を止め、夜気に身を晒したまま、頭の中の盤を広げた。

 地形。兵の癖。将の性分。――そして、史実の赤線。


 「泰山の策、お主はどう思う」

 俺が問うと、晴幸は鼻で笑った。


 「お主は気づかなかったか?あやつは《出鱈目》ばかり並べよる」

 「なんだと?」

 「算盤の玉をひっくり返すだと?笑わせる。

  違う。あやつは、相手の算盤が“正しいほど”破裂する場所に石を落とす。

  相手が合理で勝つと信じている、その《勝ち筋》の上に、意図して不合理を置く。

  相手の判断を止めるためにな」


 俺の脳裏に浮かぶのは、村上義清の持つ《盤面》。

 鷹の目。見通し。最適化。

 それが真なら、こちらがすべきは《見えないこと》ではなく、《見えても意味が変わること》だ。



 「板垣と甘利を、泰山(あやつ)の『馬鹿』に付き合わせすぎるな」

 「…っ」


 その名が出た瞬間、胸の奥が硬くなる。

 晴幸は、まるで昔からその二人を知っている者の口ぶりだった。

 「板垣は前へ出る。

  前へ出ることで、皆が前に出られると思わせる将だ。

  甘利は怒りで人を動かす。怒りで勝つ戦があるのも事実だ。

  ……だが、上田原は違う」


 上田原。

 風の通り道。雪の底。

 突っ込めば止まらぬ。止まれば狩られてしまう。


 「泰山は『金駒を泥に突っ込め』と申した。あれは挑発じゃ」

  晴信が笑ったのは、その挑発に板垣と甘利が『覚悟で応える』と分かっておるからだ。

  晴信は人の使い方が上手い、否、上手すぎるのだ」


 俺は無意識に拳を握った。


 「……では、如何する。出鱈目を捨てるか」

 「捨てるな。ただし、制御せよ。

  出鱈目とは『無秩序』ではない。『相手の秩序に対する反逆』じゃ」


 その言い方は当に、軍師のそれといえよう。

 俺がこの体で学んできた『戦の勘』とは別の、研ぎ澄まされた感覚。


 「具体的に言え」

 俺が促すと、晴幸は淡々と、しかし鋭く言葉を並べた。


 「第一、情報を割れ」

 「割る、だと」

 「義清が見ているなら、見えるものを増やしてやれ。焚火を倍にしろ。陣の旗を入れ替えろ。

  夜に動かせ。昼は動くな。目に見えるほど、相手は自分の盤面を信じる。

  信じた瞬間に、こちらは違う場所にいる」


 なるほど、と俺は息を呑む。

 見えないことを目指すのではなく、『見えているのに当たらない』状態を作るのだ。


 「第二、板垣と甘利を『前』から外せ

  奴等は『戦の顔』じゃ。顔は見せるが、刃は隠す。

  前に置くのは、逃げそうな雑兵ではない。逃げぬ雑兵じゃ。

  逃げぬ理由を持つ者――郷党、誓紙、家族。守るものがある者を前に置け。

  そういう者ほど、怖かろうと踏ん張る」


 俺は舌の裏が乾くのを感じた。

 前衛は数ではない。質だということか。


 「第三、退き道を先に決めよ。

  出鱈目をやる戦ほど、撤退の筋が要じゃ。

  退ける合図、退ける道、殿(しんがり)を決めよ。

  大将の撤退は恥などではない。将の死が恥なのだ」


 言葉が胸に刺さる。

 史実を知る俺に向けた刃のようで、同時に、救いの綱のようでもある。

 「……晴信に、それを言えるか?」

 俺は問う。

 言ったところで、晴信は首を縦に振るのか。

 彼は賭けを好む。勝ちを好む。だが、勝ちのためなら犠牲も厭わぬ。


 すると晴幸は、少し笑った気配を返した。


 「言い方次第だ」

 「言い方…」

 「晴信は『弱さ』に興味などない。だが、『勝ち筋』には飢えておる。

  救いたいから退く、では通らぬ。退くことで次の一手が生まれる――と示せ」


 その一言で、頭の中の霧が一枚剥がれた。

 情を捨てろ、ではない。情を勝ち筋に変換するのだと。


 「泰山の『馬鹿』を晴信に受け入れさせたのは、お主じゃ。

  ならばお主が最後まで責任を持て。泰山の口ぶりに流されるな。

  泰山は、面白がっておるふりで、常に人を試す。

  晴信は、人を使って試す。

  ……お主は、その間を取り持つ役目を背負ったのじゃ」


 夜の冷えが、今さら骨に響く。

 背負った――そうだ。

 俺がここで「史実」を言い訳にした瞬間、板垣も甘利も、ただの“数字”になる。


 「お主……先程から、随分と武田の将を案じるな」

 俺が探るように言うと、晴幸は一拍、黙った。


 「案じているのではない」

 そして、少しだけ硬い声で答えた。

 「……合理で救え。情で救おうとして、二人を前には出すな」


 それは、俺が泰山から受け取った“毒”とは別の毒だった。

 冷たい毒。だが、確かに効く薬でもある。

 俺が答えを探して息を吐いた、そのとき――


 足音が近づいた。

 甲冑が擦れる音。雪を踏む音。

 誰かが、夜の廊下を急いでいる。


 「晴幸」

 背後から、低く、重い声が俺を呼んだ。

 俺は振り返る。

 月明かりの下、板垣信方が、まっすぐこちらへ歩んでくる。


 ――晴幸の声が、胸の奥へ引いていく。

 まるで「ほら、来たぞ」と言い残すように。


 板垣は俺の前で足を止め、いつもの豪胆さを削いだ目で言った。


 「……お主に話がある」

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