20. 真耀流剣術道場スベイレン支部
中層階、北地区の一角にある第二剣術訓練場は、生徒達の間で『真耀流剣術道場スベイレン支部』と呼ばれている。
スベイレン支部というのはあくまでも俗称であり、学校施設であるため生徒ならば誰でも利用することは可能である。
荘厳で広々とした剣術訓練場は生徒達にも人気であり、また真耀流は最大の剣術流派であるため、自然と鍛錬するのは真耀流の門下生に占められてしまう。
他の流派の生徒達は肩身の狭い思いをする場所であり、締め出されるようにして他の道場に追いやられることになる。
結果として第二剣術訓練場は真耀流の門下生たちによって占拠されることになった。
いつもは激しく打ち合う模擬剣の音が鳴り響く訓練場も、今日だけは違っていた。
門下生たちは乱捕り稽古をせずに、訓練場の隅でおとなしく素振りを行っていた。
彼らの代わりに訓練場を支配しているのは、殺人鬼、ゼリエス・エトだ。
ゼリエスがスベイレンに帰還したのはつい先日。
回復を待つことなく、ゼリエスはその日のうちに病院を退院した。
週末の試合まであと数日。病院でのんびりとリハビリをやっている暇は無い。
早速、この第二剣術訓練場に顔を出したゼリエスはシシノ教官の指導の下、稽古に励んでいた。
体力の回復もままならないゼリエスに、本格的な稽古をすることはできない。
シシノ教官が見守る中、真耀流の型稽古を繰り返していた。
訓練場にいる他の生徒達はゼリエスを気にかけつつも、その姿をなるべく見ないように心がけて居た。
殺人を犯したゼリエスは既に真耀流を破門になっている。
真耀流の名誉を汚したゼリエスをどのように扱うか、他の門下生は判断を決めかねていた。
結局、生徒達はゼリエスの存在を無視することで統一した。
素振りを続けるゼリエスを避けるように、生徒達は訓練場の隅で生徒達は黙々と鍛錬に励んでいた。
桃兎騎士団寮のサイベル・ドーネンもまた、そのうちの一人である。
サイベルはこの夏、真耀流の初伝を賜り門下生の一員となっていた。
新学期になってからはこの第二剣術訓練場に足しげく通い、鍛錬に励んでいた。
今日も訓練用の剣を構え、わき目も振らず稽古に打ち込んでいた。
「よお、やってるな、サイベル!」
素振りを続けるサイベルに声をかけたのは、黄猿騎士団寮のマクサン・クショウであった。
在籍年数五年を数える古株の彼は、黄猿騎士団の主力選手である。
通称、出戻りのマクサン。
この学校を卒業しとある騎士団に所属していたのだが、すぐに辞めて復学したという変わった経歴の持ち主である。
変わり者ではあるが経験豊富な騎士であり面倒見の良い性格であるため、特に若手騎士たちに良く慕われている。
サイベルも彼には世話になっていた。騎士団寮を移籍した今でも、真耀流の先輩としてなにかと気にかけてくれる。
「調子はどうだ、新人王?」
「……ええ、まあ」
「なんだあ、気の抜けた返事をしやがって。その様子じゃ、絶好調ってわけじゃなさそうだな?」
マクサンは面倒見の良い反面、ややおせっかいなところがある。
ここしばらくの間、戦績が思わしくないのを気にかけてくれているのだろうが、こういう時は放っておいてくれた方がむしろありがたい。
「まあ、気に病むな。調子には波ってもんがある。錬光技は精神が影響するんだ。お前はまだ二年目なんだ。気長にやれよ」
「気長になんかやっていられません」
答えながらも、サイベルは素振りの手を休めることはない。
今のサイベルに話をしている余裕はない。
「俺はもっと強くなりたいんです。」
「ゼリエスやリドレックのようにか?」
「…………」
「図星か」
素振りの手が止まったのを見て、マクサンは苦笑する。
「お前はリドレックと同じ桃兎騎士団寮。そして、ゼリエスと同じ真耀流。身近にいる人間を手本にしようと言うのは当然の成り行きだ」
サイベルの胸の内を見透かすようにマクサンは言った。
「だが、あいつらの真似をするのだけはやめとけ。お前さんが逆立ちしたって、あいつらのようにはなれん。あいつらとお前の間には、才能や努力だけじゃ埋めようのない深い隔たりがある」
「なんですか、それは?」
「あいつらは人を斬ったことがある」
「…………!」
その一言に、サイベルの身が凍り付く。
「奴らの技は人殺しの技だ。道場で棒きれ振り回したぐらいで会得できるようなものでは無い。錬光技とは頭の中で思い浮かべたイメージを具現化させる技術だ。経験したことが無い事を、明確に頭の中で思い浮かべることが出来るか? 抱いたこともないのに女を語る、童貞師匠みたいなもんさ」
先日のラルクと同じようなことを言う。
解りやすい例え方だが、一々色事に例えるのはどうにかならないものだろうか?
「……では、どうすればよいのですか?」
挑みかかるようにサイベルは訊ねる。
筋道は通っているが、マクサンの助言は何の解決にもならなかった。
「人を斬らねば、人を斬るための技を会得できない。人を斬るには、人を斬るための技を会得しなければならない――これではいつまでたっても、人を斬ることが出来ないではないですか?」
「バカ、人を斬らずに済む方法を考えろって言ってるんだよ」
性急に答えを求めようとするサイベルに、マクサンは苦笑する。
「真耀流の剣理は活人剣。斬らずして勝つ。抜かずして制する。死なず、殺さず、それが活人剣だ。自他共栄の精神は剣術だけでは無い
マクサンの言葉には伝書をなぞっただけでは無い、確かな重みがあった。
彼はかつて騎士団に所属していた。その時に実戦を経験している。人を殺したこともあるだろう。
そして、マクサンは開幕戦のバトルロイヤルでリドレックと対戦し敗北している――地上で多くの敵を殺した、リドレックに、
「人を殺したからって、強さの証明にはならん。本当に強さってのは、切った張ったの世界とは別の所にあるもんさ」
戦えば勝敗がある。
強さには優劣がある。
果てしなく続く剣の道を前にして、サイベルは途方に暮れた。
「やあやあ! みんな、励んでおるようだな。結構、大いに結構!」
物思いにふけるサイベルを、現実に引き戻したのは、不躾な総督の声だった。
突如、訓練場に姿を見せた総督は、鍛錬にいそしむ生徒達の中にずかずかと入り込んできた。
「……ん~っ! 良いな」
そして、大きく深呼吸をする。
「道場に足を運んだのは久方ぶりだが、実に良いな。ベイマンの宗家道場を思い出す」
「恐縮であります。総督」
道場の雰囲気をひとしきり楽しんだ後、総督は訓練場の中をきょろきょろと見回した。
「それで、我が騎士殿の調子はどうだ?」
「こちらでございます」
「どれどれ。おお! 大分回復したようだな。見違えたぞ」
一心不乱に素振りを続けるゼリエスの元へ、総督は歩み寄る。
「改めて自己紹介しようか。私はアルムガスト・レニエ・ランドルフ。貴様が刑務所に入っている間に新しく就任したスベイレン総督だ」
「…………」
総督を無視して、ゼリエスは素振りを続ける。
「ゼリエス! 新総督の御前だぞ!」
無礼極まるゼリエスの態度に、シシノ教官が一喝する。
「お前が刑務所から出してくださったのも、総督のご尽力のお蔭なのだぞ!? ちゃんとお礼を申し上げろ!」
「かまわん、かまわん。続けさせろ――おおう、さすがは皆伝よな。ただの素振りでも気迫が違う」
幸いなことに総督は気にした様子は無かった。
素振りを続けるゼリエスの姿をみつめ、感嘆のため息を漏らす。
「しかし、実際のところどうなのだ、シシノ教諭? リドレックを相手に戦えるのか?」
「戦えます。戦えるようにします」
「しかし三月も牢に繋がれていたのだろう? その間、剣を握っておらなかったのだろう? 対してリドレックは、地上で腕を磨いておったのだ。いかな達人であろうとも、このブランクは如何ともしがたいのでは?」
「よろしい、では実際にご覧に入れましょう――全員集合!」
掛け声と共に、剣術場に居た生徒達が一斉にシシノ教官の元に集まる。
ここに居る生徒達は全員真耀流の門下生である。
「これより、ゼリエスと模擬戦を行う! 我こそはと思うものは前に出ろ!!」
横一列に並んだ生徒達に向かって、シシノ教官は言った。
しかし、前に出るものはいない。
「どうしたお前達? 免許皆伝と戦える、またとない機会なのだぞ? 誰かおらんのか!?」
「…………」
不甲斐無い様子に教官は声を荒らげるが、それでも生徒達は動かない。
真耀流とは言え、ここに居るのはまだ若い学生騎士ばかり。ほとんどが初伝切紙。
最高でも中伝目録程度の腕前しかない。
免許皆伝のゼリエスには遠く及ばない。
「何だ、相手がおらんのか。しかたがないな。どれ、私が相手をすることにしよう」
「……え?」
何故か浮き浮きとした様子の総督に、シシノ教官が唖然とした表情を浮かべる。
「……総督、ご自身がですか?」
「うむ。以前も話したと思うが、私も剣術の心得があるのだよ。久しぶりに手合せしようと思って、若い時分に使っていた剣を持ってきて……」
懐に手をやり、剣を取り出そうとしたその時、
「私がお相手します!」
一人の生徒が名乗りを上げた。
「おお、サイベル・ドーネンか!」
シシノは笑みを浮かべる。
「新人王が相手ならば申し分ない。復調の度合いを見るにうってつけの相手だ。……よろしいですな、総督?」
「……え? ああ、まあ。教官がそう言うならば……」
「よし、ゼリエス! サイベル! 準備を始めろ!」
不満げな顔の総督を訓練場の脇へと追いやると、シシノ教官を二人に手合せの準備を命じる。
「サイベル! 何考えているんだ、お前!」
身支度を整えるサイベルに近寄り、マクサンが詰め寄る。
「さっきも言っただろう? お前ではゼリエスにかなわん」
「マクサンさんは黙っていてください」
マクサンの忠告から耳をふさぐかのように、面頬をかぶった。
マクサンの言う不殺の精神など所詮、一線を越えた者のみが語れる感傷だ。
人を『斬れる』人間が、あえて『斬らない』からこそ意味がある。
サイベルは『斬れなかった』のだ。
娼館で《黒豚》と対峙した時、サイベルは斬ることが出来なかった。
剣術の心得の無い、ただの船乗りを前にしてサイベルは後れを取った。
足がすくんで動けなかったのだ。
活人剣だの、不殺の精神だの、それ以前の段階でサイベルは躓いている。
これから先に進むには、サイベルもまた一線を越えなければならない。
そして今、目の前にゼリエスが居る。
スベイレンが作り出した理想が、真耀流の全てを知る剣士が、そこに居る。
ゼリエスと戦えば、剣士として進むべき道がわかるはずだ。
「はじめ!」
シシノ教官の合図で試合が始まった。
「ハァッ!」
己を鼓舞するためにサイベルは気勢を上げた。
一方、ゼリエスは開始戦から動かない。正眼に構えた姿勢のまま、サイベルに向けて剣先を突きつける。
審判役であるにもかかわらず、シシノ教官はゼリエスに向けて指示を飛ばす。
「一撃で仕留めるなよ、サイベルに打たせるんだ!」
「……っ!」
直ぐに勝敗が決まっては、総督の不信をぬぐえないと言う事なのだろう。教官はゼリエスに手心を加えるように命じた。
それは、サイベルに耐えがたい屈辱を与えた。
教官だけでは無い。ここに居る誰もが皆、ゼリエスの勝利を信じて疑っていない。
激しい恥辱を抑えつつ、サイベルは試合に集中する。
剣先を揺らし牽制しつつ、すり足で近寄りじりじりと間合いを詰める。
ゼリエスの体を間合いに捕えるまであと半歩という所で、ゼリエスが動いた。
正眼に構えた剣先が揺れたと思った次の瞬間、サイベルの手の中から剣が消えていた。
「……え?」
空になった手の平にじんわりと痺れが広がる。そこでようやく、剣を叩き落とされたのだと理解する。
あわてて床に目を向けると、サイベルの握っていた剣は足元に転がっていた。
(……見えなかった)
正面を向くと、正眼の構えを取り続けるゼリエスの姿があった。
一挙動で剣を振り下ろし、そして元の姿勢に戻ったのだろう。
振り下ろされた剣閃も、残り半歩の踏み込みも、見えなかった。
それは道場に居る全員が同じだったのだろう。
同門の生徒達は勿論、シシノ教官や総督も、呆気にとられたように動かない。
「つ、続けろ! サイベル、剣を拾え!」
いち早く正気を取り戻したのはシシノ教官であった。
審判役として試合の続行を命じる。
シシノ教官いわれてサイベルは慌てて剣を拾った。
構えを取り、剣先をゼリエスに向ける。
再びゼリエスが動いた。横薙ぎにふり払われた剣がサイベルの剣を弾き飛ばす。
サイベルの手からすっぽ抜けた剣は、くるくると円を描きながら床に落ちた。
「……くっ!」
慌ててサイベルは取り落とした模擬剣を拾いに走る。
床に転がる剣を拾い、構える。
そして、その剣は三度、叩き落とされる。
サイベルの元へ素早く駆け寄ると、ゼリエスは無造作に模擬剣を振りぬいた。
乾いた音と共に転がる模擬剣を見つめ、サイベルは愕然とする。
二人の実力差は歴然としていた。
病み上がりで動きは鈍いが、免許皆伝の腕前は健在であった。
これ以上、立ち合いを続けるのは無意味だ。
「まだだ! 続けろ!」
しかし、シシノ教官は続行を命じた。
この試合の目的は総督にゼリエスの実力を認めさせることにある。
この程度では、総督は到底納得しないだろう。
「……クッ!」
教官の指示で、剣を拾う。
しかし、サイベルの構えは今までと違っていた。
半身に引いたこの中段の姿勢。
この構えならば、剣を叩き落とすことはできないはずだ。
さらに、腰だめに剣を構えそのままゼリエスに向かって突進する。
「でやぁぁぁぁぁぁっ!」
絶叫と共に突進してくるサイベルを、しかしゼリエスは難なく躱してしまう。
横に一歩、半身をそらし、さらに、すれ違いざま足元に足払いを放つ。
足をひっかけられたサイベルは、派手な動きで転倒する。
でんぐり返しで一回転して、床にあおむけになって倒れた。
「…………っ!」
背中を強かに打ち付けたサイベルは、悲鳴をあげることもできない。
無様に転がされたサイベルを笑う者は居ない。
道場に居る誰もが皆、サイベルを憐れんでいた。
そして、自分たちがその立場に居ないことに安堵していた。
痛みと羞恥に耐えながらサイベルは立ち上がる。
ふらふらと立ち上がるその姿は隙だらけであった。
疲労と痛みでもうまともに構えることもできない状態だ。
何よりサイベルの心が折れていた。
渾身の突撃をあっさりと躱された今、サイベルに打つ手はない。
正眼に構えるゼリエスの姿が揺らいだ。
面頬の中で、サイベルは泣いていた。
剣先が震える。打ち据えられた痛みで痺れているのではない。
恐怖で震えているのだ。ゼリエス・エトという男に、心の底から恐怖した。
やがて、ゼリエスが動いた。
ゼリエスの方から攻撃を仕掛けたのはこれが初めてだ。
疾風の速さで繰り出された片手平突きが、サイベルの喉元に突き刺さる。
「……ぐあっ!」
くぐもった悲鳴と共にサイベルは倒れる。
「…………っっ!」
息が出来ない。
声を上げることもできない。
光子剣では無い、模擬剣の一撃。
安全を保障されたその一撃は、しかしサイベルの心を完膚なきまでに打ち砕いた。
「もうやめてください!」
倒れ伏すサイベルの姿に、見かねたマクサンがシシノに詰め寄った。
「もう十分でしょう!? これ以上続けたら、サイベルが死んでしまいます!」
「総督、よろしいですか?」
「……うむ。よくわかった」
ひどく打ち据えられたサイベルの姿を見せつけられては納得せざるを得ないのか、総督は深く頷いた。
「それだけ動ければ十分だろう。闘技大会、楽しみにしておるぞ」
苦しみにのたうち回りながら、しかしサイベルは心の底で安堵していた。
もうこれ以上、闘わなくていい。
安らかな気持ちと共に、サイベルは意識を失った。




