ep141:温泉牛ヴァッシュ
ウォルクリスの実家には、ヴァッシュという茶色い牛に似た草食獣が飼われている。
大人しく落ち着いた性格のカルムと、人懐っこくて好奇心旺盛のシャルム。
彼等の生活は、日本の乳牛とは少し違っていた。
「朝だぞ、起きろ~」
夜明けと共に、ヴァッシュたちは放牧場に出される。
家畜舎の扉を開けて彼等を解放するのは、長男エリチエルの役目だった。
ヴァッシュたちが夕方までノンビリと草を食むのは、一般的な牛たちと同じだ。
違うのは、牧草地に露天風呂が用意されていること。
ヴァッシュたちは温泉好きで、見晴らしの良い草原のド真ん中で、毎日お湯に浸かっている。
(なんて羨ましい生き物なんだ……)
水面に浮かぶゴミを片手網で掬い取りながら、僕はヴァッシュたちをジーッと見つめた。
ヴァッシュたちの専用露天風呂は、人間が毎日掃除をして清潔を保たれている。
かけ流しの天然温泉は、この村では珍しくない。
村内には温泉の川が流れているし、無料の共同浴場も温泉だ。
オッサンは温泉を楽しみにこの村へ来たので、緑の草原の真ん中で悠々と露天風呂に浸かる牛っぽい生き物が、羨ましくてしょうがなかった。
「よしよし、今日も調子良さそうだな」
日が傾き始めると、ヴァッシュたちは自主的に家畜舎へ帰ってくる。
戻って来た彼らの飼い葉桶にトウモロコシ(マイス)と玄米を入れてあげるのも、エリチエルの仕事だ。
一方、ヴァッシュたちの乳しぼりをする役は、他の兄弟たちが日替わりで担当している。
「あたしはカルムをやるわ。あんたはシャルムをやって」
姉のエネフィーユがカルムを選ぶ。
僕は乳しぼり用の桶を手にシャルムに歩み寄る。
シャルムは、何故かキラキラした目でこちらを見てくる。
(……な、なにを期待してるんだ……?)
ちょっと引きつつ、僕はウォルクリスの記憶を探る。
疑問の答えはすぐに出た。
これから起きることも勿論分かったが、避けようがない。
僕は低い丸椅子をシャルムの横に置いて座り、腹の下に桶を置いて搾乳を始めた。
乳しぼりは北海道で酪農実習生をした経験があるので、ウォルクリスの記憶が無くても容易だ。
「ム~」
シャルムは小さな声で鳴くと、顔をこちらへ近づけてくる。
大きな舌が、僕の背中をベロンベロン舐め始めた。
ヴァッシュは地球の牛とは違い、子を産まなくても乳を出す。
乳を出すスイッチとなるのが、出産ではなく母性本能なのだ。
カルムとシャルムは出産を経験してはいるが、今は子育て中ではない。
乳を出しているのは、搾乳する人を我が子と誤認するからだった。
……で。
ヴァッシュと同じ明るい茶色の髪をもつウォルクリスは、特に我が子として認識されやすいらしい。
シャルムがキラキラした目で見てきた理由は、「うちの子が帰ってきた!」っていう喜びの現れだったのだ。
この喜びの感情は乳量に影響するらしく、軽く絞っただけで勢いよく乳が吹き出てくる。
あっという間に桶はいっぱいになった。
「ウォルは相変わらず溺愛されてるなぁ」
ヴァッシュたちの飲み水を入れた桶を置きながら、兄が笑う。
僕の背中は、シャルムの涎でベタベタだ。
おまけに、とうもろこしや玄米の食べかすまで付いてるし。
「ム~」
「なあに? カルムもウォルがよかったの?」
ふと隣を見れば、カルムまでキラキラした目でこちらを見ている。
(カルム、お前はそこの黒髪美少女で我慢しとけ)
僕は苦笑しながら、密かに心の中で呟いた。




