ブラッドストーンの闇と血
そして一日中ずっとそうして心の中で泣き続けていた。
栄子主任や、あまりそういった事には敏感でない詩織ちゃんにまで「具合でも悪いの?」って心配されるくらい。
なんとか頬の筋肉を動かして笑顔を作り、ふたりの心配をやり過ごす。
やっと今日の業務が終了して、詩織ちゃんが「今日はデートだから」と飛んで帰った。
あたしは控え室でひとり、ノタノタとメイクを直す。
こんな状況でも仮面を直すことを止められない。あたしはきっと病気だ。
こうやってあたしは永遠に仮面をつけ続けるんだ。
それだけが、唯一あたしに残された、あたしができることだもの。
裏口から出て、帰路につく。
薄暗い裏路地を数歩進んだ途端、その暗がりの中から・・・・・・
「聡美さん」
「わっ!?」
突然声を掛けられて、文字通り飛び上って驚いた。
そして声の主を確認して、驚きはさらに倍増する。
「あ、晃さん!?」
「聡美さん、ずっと待ってたんだ」
晃さんが、暗がりの通路のど真ん中に立っていた。
「待ってたって・・・あたしを!? ここでずっと!?」
「驚かせてごめん。自分でもこんなストーカーみたいな事、どうかと思ったけど。聡美さん電話に出てくれないから」
そう言って晃さんは、かなり気まずそうな表情をする。
あたしはしばらく口をパクパクさせて深呼吸して、とにかく気持ちを落ち着かせた。
ほ・・・本気でビックリした!
こ、怖かったあぁ! オバケと遭遇したのかと思った!
あぁ、オバケじゃなくって良かっ・・・・・・。
・・・・・・・・・・・・。
いや! 良くない! ある意味、オバケの方がよっぽど良かったかも!
あたしは思わず及び腰になる。
その様子を見た晃さんが、慌てたように話しかけてきた。
「待って! 逃げないで! 謝りに来たんだ!」
「謝る・・・?」
「昨日は、あんな事して本当にごめん! 聡美さんの気持ちも考えずに本当に申し訳なかった!」
「・・・・・・・・・・・・」
「もう二度と無理やりキスなんてしない! 約束する!」
あたしは暗がりの中、彼の表情を伺った。
真剣な目で、懸命に訴えようとしているのが伝わってくる。
晃さん・・・突然キスされそうになった事をあたしが怒ったと思ってる。
常識で考えれば、そういう結論に行き着くのが一般的だろう。
それで謝りに来てくれたんだ。こんな暗がりの中、ずっと待っててくれたんだ。
やっぱり・・・誠実な人。
そう思うあたしの心に悲しみの感情が湧き起る。
こちらこそ申し訳ないと思う気持ち。なのに、その弁解も謝罪もできない辛い気持ち。
そして、こんな素敵な人と、もうあたしは二度と・・・・・・。
「・・・別にあたし、怒ってなんかいないんです。だからもう気にしないでください」
あたしは悲しい気持ちを押し殺し、精一杯穏やかな声でそう答えた。
「本当!? 許してくれる!?」
「だから、許すも何も、晃さんは何も悪くないんですから」
微笑むあたしを、暗がりの中で晃さんは探るように見ている。やがて彼は明るい表情になった。
「ああ、良かった! 俺、許してもらえないかと思ってたよ!」
そしてニコニコしながら機嫌よく話しかけてくる。
「仲直りのしるしに、これから食事を一緒にどう?」
「・・・・・・・・・・・・」
「あ、違う違う! 今日は食事だけ! ていうか、当分のお誘いは食事だけにします。反省してますから。はい」
おどけた口調で話す彼を、あたしはやっぱり悲しい気持ちで見つめた。
言わなきゃ。ちゃんと、今ここで。
「いえ、食事には行きません」
それを聞いた晃さんの表情が硬くなった。でもすぐ気を取り直したようにまた話しかけてくる。
「・・・予定があるの? じゃあまた今度・・・」
「いえ。もう二度と、あたしを、誘わないでください」
「・・・・・・え?」
「あたし、晃さんとは、二度と、ご一緒しません」
これまで、姉目当てであたしを誘ってくる男達に向かい、何度も同じセリフを言ってきた。
あまりに言い慣れ過ぎて、まるで暗記した九九みたいにスラスラ言える言葉だった。
なのに・・・こんなにも、言い辛いなんて。
晃さんの表情がますます硬くなり、彼はあたしを見返してポツリと言った。
「やっぱりまだ怒ってるんだね?」
「いいえ。怒ってなんかいません。そうじゃないんです」
「じゃあ、なんで?」
「・・・・・・・・・・・・」
答えようとしたけど、言葉が見つからなかった。
話せるわけがない。言えるわけがない。
ただあたしは、これだけは伝えたいと思う事を真剣に、心を込めて繰り返した。
「晃さんは絶対に悪くないし、あたしは絶対に怒ってなんかいません。だけど、ダメなんです」
「・・・・・・・・・・・・」
「ただ、ダメなだけ、なんです」
「・・・・・・・・・・・・」
「今までありがとうございました。とても楽しかったです。本当です。こちらこそ、申し訳ありませ・・・」
「納得できない」
晃さんは、硬い顔と声であたしの言葉を遮った。
「ちゃんと分かるように説明して欲しい」
「無理なんです」
「無理でも説明してくれ。聞くから」
「だから、説明するのは無理なんです。どうかこのまま納得して・・・」
「だから、納得できないって言ったろ?」
低い、静かな声。聞いたことのない口調。
「好きな女にそんなセリフ言われて・・・黙って引っ込む男がどこにいる?」
あたしは両目を大きく見開き、思わず彼を凝視した。
好きな、女って、いま言っ・・・・・・?
「ああ、俺はキミが好きなんだよ。好きだから誘ったし、好きだから電話したし、好きだからキスしたかった」
「・・・・・・・・・・・・」
「俺は、キミの事が好きだ」
好き。好き・・・?
「好きだから、とても納得できない。説明してくれ」
この人は・・・・・・
本気で言ってくれている。あたしが今まで、偽りでしか聞いたことが無かった言葉を。
ずっと望み続けてきた、好きだという、本心からの言葉を・・・。
目と鼻がジワジワと熱くなる。
瞬きを忘れて渇いた目が、ゆっくりと潤んだ。
熱くて大きな塊が体の奥底から込み上げてくる。こんな感覚は生まれて初めてだ。
まさか本当に、誰かに言ってもらえる日が来るなんて。
そうか。好きって言葉は、こんなに嬉しくて素晴らしい言葉だったんだ。
こんなにこんなに、嬉しくて・・・・・・
こんなにこんなに、たまらなく辛くて悲しい。
ますます目と鼻が熱くなってどんどん湿ってくる。
グスグス鼻を啜って、涙が零れないように上を向きながら目を閉じた。
そして心の中で彼に話しかける。
あのね、晃さん。
あなたの目は騙されているんだよ。
その想いは本物じゃないの。偽物なの。イミテーションなのよ。
だから、手を伸ばしてはいけないの。あなたが後悔してしまうから。
「俺の目は確かだし、俺は本当にキミが好きだよ」
上を向いたあたしの目が再び見開かれる。
「前にも言ったろ? キミの考えている事、なんとなく伝わってくるんだ」
晃さんはまるで怒っているように見えるほど、強い視線であたしを見ていた。
「キミも俺の事が好きなんだろ? それは絶対に間違いない」
・・・・・・・・・・・・。
うん、間違いないよ。晃さんの事、好き・・・。
あたしの目尻に涙の粒が溜まった。
もう限界かも。流れちゃいそう。
嫌だ。泣きたくない。メイク、崩れるから。
そんな顔で晃さんとお別れしたくないの。
「なのに、キミの中の何かがいつも邪魔をしてる。それはいったい何なんだ? どうしてもそれが、俺には見定められない」
あたしは力無く首を横に振る。
言えない。それが言えるくらいなら・・・・・・。
「何を恐れている? キミは怯えながら、必死に何かを自分の中に隠している」
晃さんは覗き込むような目であたしを見ている。
見透かされてしまいそうな、その目が怖い。どうか暴かないで。隠したいものを暴かないで。
あたしが惨めなイミテーションであるという事実を暴かないで。
「今まで自分が望むものを、ずっと諦め続けてきたんじゃないのか? 手に入れられるはずがないと思い込んでいるんだろ?」
思い込みじゃない。それは事実なの。
あたしが望むものは永遠に手に入らない。偽物はどうやっても本物にはなれない。
諦めるしかないの。
「でも本当のキミは望んでいるんだ。本当は、必死に足掻いて手に入れようと・・・」
「やめて!」
あたしは涙声で叫んだ。
やめてやめて! もうやめて!
「あたしの心を鑑定しないで!!」
そうよ! 本当は望んでる!
納得したふりをしてカッコつけてるだけで、本心は望んでるの!
だから・・・余計に自分が惨めでしかたがないのよ!
イミテーションは本物になれない!
絶対に不可能なのに、いつまでも未練たらしく仮面を磨き続けてる!
さも「あたしは本物です」って顔して、薄っぺらな仮面をつけて満足してる!
そんな惨めで情けない本心を・・・あなたに向かって暴露しろっていうの!?
確かにあたしは、あなたに対して酷い仕打ちをした!
でもあなただって今、あたしに対して残酷な事を要求しているの!
「何にも知らないくせに!」
「知らないよ。だって何も答えてくれないから」
興奮するあたしとは裏腹に、彼の声はあくまでも静かで硬い。
「キミも知らないだろ? 俺がキミと知り合ってからどんなにバカみたいに浮かれたり、どんなに情けなく落ち込んだりしたか」
落ち込んだ? 晃さんが?
いつも爽やかな笑顔で、仕事をしっかりとこなして、冷静で、あたしを励まして支えてくれた晃さんが?
「キミは何も知らない。知りたいと思ってはくれないのか? 本当の俺の事を」
本当の晃さんを?
それは・・・知りたい。当然知りたい。
あたしと出会ってから、晃さんが何を感じ、何を思ったのか。
「同じだよ。だから俺も知りたいんだ。・・・本当のキミを」
本当のあたしを、知られてしまう?
その震えるほどの恐ろしさを思い、目尻の涙が一粒落ちた。
・・・やっぱりだめだ、限界。これ以上は無理。
メイクが崩れてしまう。仮面が崩れて暴露されてしまう。
それだけは許して欲しい。
この恋が叶わなくてもいい。偽物のあたしがそんな無謀なことは望まない。
晃さんが本当に望む相手は、本当に彼に相応しいのは、本物だけ。
ちゃんと分かっているから、どうか救いようのない惨めな結末に終わる事だけは許して欲しい。
何もかも、全てを姉に持っていかれてしまったあたしの・・・せめてもの望みを許して・・・。




