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アメジストの攻防

「あ、の、あたし休憩時間がもう・・・・・・」


 ようやく思考能力が回復してきたあたしは、とりあえずそれだけを答えて立ち上がろうとした。

 いつまでもお口をポカンしたままではいられない。受け付けの仕事が残ってるんだから。


「大丈夫? ゆっくり歩いて」


 そう言って心配してくれる晃さんの肩を借りて歩きながら、あたしの心は混乱していた。

 まだちゃんとした返事を晃さんに返していないのは、自分でも気付いてる。

 でも何て返事すればいいの? 夜の時間に付き合えなんて、そんないかにも意味深な言葉で誘われて。

「はい」とも「いいえ」とも答えられないじゃないの。


 晃さんも晃さんだ! なんでそんな誘い方するの!?

 普通に「食事が終わったら飲みに行こうよ」でいいじゃないの!

 それならあたしも「あ、それいいですねー」って軽く答えられるのに!

 軽い、ごく軽~い、そんな風な誘い方をしてくれ、たら・・・・・・。


 ・・・・・・軽く、誘われたなら・・・・・・

 あたしきっと、断ってたろうな・・・・・・。


 晃さんはやっぱり、あたしのそんな内面を鋭く見抜いていたんだと思う。

 だから、自分はそんなつもりじゃないからって意思表示してくれたんだ。


 足を引きずりながら受け付けに向かうと、一緒に仕事をしていた他店の女の子が驚いて近寄って来た。

 オロオロとあたしと晃さんを見比べている。


「どうしたんですか?」

「彼女、ちょっと転んで怪我しちゃって」

「え!? 大丈夫ですか?」


 心配させたくなくて、あたしは笑顔で答えた。


「大丈夫です。別に大怪我ってわけじゃないんですから」

「とりあえず彼女をイスに座らせようか」

「あ、は、はい!」


 女の子が大急ぎで運んできてくれたパイプイスに腰掛ける。


「フロントに湿布が無いかどうか聞いてくる」


 そう言って小走りにこの場から離れる晃さんの後ろ姿をじっと見ていた。

 彼の姿が視界から消えても、まだあたしの目と心に彼の残像が残っている。

 あたしはそのまま、見えない彼を目で追っていた。


「あれ? 聡美ちゃんどうかしたの?」


 背後から聞こえた声に振り向くと、相変わらずオロオロしている女の子の隣でプリンセスがキョトンとしている。


「なにかあったの?」

「なんでもないよ。ちょっと転んじゃったの」

「こちら、大怪我してしまったみたいで歩けないんですよ!」

「えぇ!? 歩けないの!? 大変じゃないの聡美ちゃん!」


 いや大怪我じゃないですって。さすがに歩けますから。歩けなかったら、ここまで辿り着けてませんから。


 でも詩織ちゃんは女の子の大袈裟な話を真に受けてしまったらしい。


「待ってて! 今あたし栄子主任呼んでくるから!」

「い、いいよそんな! 本当に大丈夫だから!」

「だめだよ! もし折れてたら大変だよ! ちょっと待っててね!」


 ドレスを持ち上げながら詩織ちゃんはワサワサと会場内に飛び込んで行ってしまった。


 あぁ、商談中のテーブルに、あの恰好でいきなり「聡美ちゃんが大怪我した!」って乱入するのか・・・・・・。

 あたし、思いっきり悪目立ち・・・・・・。


 でも詩織ちゃんの気づかいは素直に嬉しかった。

 自己アピールがかなりウザい以外は、普通にいい子なんだよなぁ、詩織ちゃんて。

 日頃の強すぎる自己主張の陰に隠れて見えにくいけど。そういう意味では彼女って損な性格かも。


 詩織ちゃんはすぐに栄子主任を引き連れて戻って来た。

 栄子主任があたしを見るなり血相変えて叫ぶ。


「聡美ちゃん大丈夫なの!? 複雑骨折したんだって!?」

「してないです!!」


 誰!? 誰が骨折!? しかもいつの間にか症状がランクアップしてない!?

 なんか、伝言ゲームみたいに情報の伝達が次々と歪められてるんですけど!?


「でも怪我したって聞いたわよ!? 大怪我だって!」

「聡美ちゃん歩けないほど大怪我なんでしょー!? だったら骨折してるよきっとー!」

「いやだから誰も骨折してないって!」

「聡美さん、湿布もらってきたよ・・・なんだかずいぶん騒がしいな」


 ちょうど騒ぎの最中に晃さんが湿布片手に戻って来てキョロキョロする。


「あ、晃さんー! 聡美ちゃんがー!」

「あら近藤君! 複雑骨折に湿布貼ったってダメよ!」

「え!? 聡美さん複雑骨折だったの!?」

「だから骨折じゃありませんってー!」


 お願い! 本人の話を聞いて! このままだと本当に複雑骨折にされてしまうー!


 懸命に「ただの軽い捻挫だから」と説明して、やっと周囲に納得してもらった。

 みんなの安心した顔を見て、こっちも安心すると同時になんだかちょっぴり嬉しくもなった。


 あたしのこと、こんなに心配してくれたんだな・・・・・・。

 ごめんなさい。そして、皆さんありがとうございます。


 それでも一応病院に行く事になり、あたしは栄子主任と晃さんに付き添われて最寄りの整形外科へ。

 展示会の最中だから申し訳なくて、病院なんて大袈裟だって辞退したけど栄子主任に跳ねのけられてしまった。


「私が責任もって付き添いますから、主任はどうぞ仕事に戻ってください」

「近藤君だけに任せるわけにいかないわよ。あたしは聡美ちゃんの直属の上司なんだから」


 病院の待合室で、晃さんと栄子主任の会話を聞いてますます申し訳なく思う。

 名前を呼ばれ、レントゲンを撮り、立派な『軽い捻挫』のお墨付きを先生からいただいて、ホッとした。


「聡美ちゃん、このまま帰って休んでもいいのよ?」

「いえ大丈夫です。仕事に戻ります」


 一瞬、逆に迷惑かけるかな? とは思ったけど、このまま帰ったら明日も休まされそうな気がする。

 座ったままでも出来る内容の仕事もたくさんあったし、そっちの方で頑張らせてもらおう。


「ここで待っててね。あたし車を回してくるから」


 あたしと晃さんを病院の玄関前に残し、栄子主任がすぐそばの駐車場へと駆けていく。

 晃さんが心配そうに話しかけてきた。


「聡美さん、無理しない方がいいよ? 帰って休んだら?」

「大丈夫ですよ。本当にたいしたことないですから」

「薬、ちゃんと飲むんだよ?」

「はい。分かりました」

「俺はこの後仕事があるから戻るけど、ちゃんと大事にして」


 栄子主任の車がゆっくりとこちらへ向かって進んでくる。

 と、晃さんがあたしの耳元に口を寄せ、そっと囁いた。


「今夜電話するから・・・・・・待ってて」


 思わず振り向くのと、車が玄関に横付けされるのと同時だった。


「聡美ちゃんお待たせ。さ、乗りなさい」

「は、はい」


 何食わぬ顔の晃さんがドアを開けてくれて、あたしは助手席に座り込む。

 そしてドアを閉めてくれる晃さんの顔を無言で見上げた。


「近藤君、ありがとうね。それじゃまた」

「はい主任。聡美さん、どうぞお大事に」

「・・・・・・ありがとうございます」


 何気なく、さり気ない、素知らぬ会話。

 でもその言葉の中に、特別なものが混じっている。その特別なものがあたしの胸をざわめかせている。


 車が動き出し、見送ってくれる晃さんから離れていった。あたしは首を曲げてギリギリまでその姿を見続ける。


 晃さん、晃さん・・・・・・。


「軽い捻挫で良かったわね」

「はい」

「でも無理しちゃダメよ。あんまり歩き回らないでね」

「はい」


 彼の姿が見えなくなり、姿勢を戻して相槌を打ちながら、あたしの心は上の空だった。


 展示会場に戻り、座って仕事をしながらも心はやっぱり落ち着かなくて。

 純粋に仕事に集中できるようになるまで時間がかかってしまった。

 今日の展示会を終え、自宅に帰ってからも晃さんの事ばかりが頭に浮かぶ。


 晃さんがどんどん特別な存在になっていく。

 というかもう、なってしまっている。

 

 自分で一歩を踏み出せた誇りと、そんな風に人を思える喜びと・・・・・・付きまとう不安。

 初めての経験に、あたしの心は戸惑っている。

 すごく戸惑いながらも机の上に置いたスマホが振動するのを、今か今かと待ち焦がれている。


 やっとスマホが鳴動して、あたしの心臓も同じように鳴動した。・・・晃さんだ!


 間髪おかずにスマホに飛びついた。


「もしもし?」

『聡美さん? 俺。足の調子はどう? 無理してない?』

「はい。大丈夫です」

『良かった。無理しないで早く治して。治ったらふたりで会おう』

「・・・・・・はい」


 それから、とりとめのない会話が続く。内容は宝石の事や仕事の事、それにちょっとした世間話ばかり。

 でもあたしは自分でも変だと思うくらい、すごく楽しくて楽しくてしかたなかった。

 内容なんかどうでもよかった。ただ晃さんと話していることが、嬉しくて楽しくて堪らなかった。


『それじゃ、また。長電話しちゃってごめん』

「いえ、こちらこそすみませんでした」

『お大事にね。また電話してもいいかな?』

「はい。もちろんです。おやすみなさい」

『おやすみ、聡美さん』


 電話を切って、大きく息を吐き、そのままベッドに倒れ込む。

 枕を抱きかかえてギュッと顔をうずめ、興奮した心を鎮めようと努力した。


 戸惑いと不安は、ある。どうしてもそれは消え去ってはくれない。

 だけど喜びがそれを遥かに上回る。ドキドキがあたしを振り回すようかのように、支配している。

 生まれて初めてお姉ちゃん目当てじゃなく、あたし自身に興味を示す男性が現れた事に。


 怪我、早く治れ。一日でも、一分一秒でも早く治れ!


 湿布をまるで包帯のように貼りつけながら、あたしは仏壇に線香をあげ、懸命に両手をこすり合わせてご先祖様に祈った。

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