プロローグ<ビリー・マーキュリー著書 ビッグテックと現代科学の呪いより>
大体、文庫本のサイズで50~60Pほどの文量になると思います。
一週間で3000~4000文字前後で毎週金曜日に随時更新する予定となります。
しばし、お付き合いいただければ幸いです。
………
そうであっても、科学技術の進歩が終焉の道を変えることなんてなかった。
西暦2034年の年明け三週後、原子力科学者会報は人類滅亡までの残りの時間を90秒から60秒へと世界終末時計を更新した。
終末時計と言えば元々は巷のロケット花火よろしく、核の火花が散りあうころ合いを示すだけのものだったのだが、近年、その性格は人類が直面している様々な未曾有の危機を警告するためにオールラウンダーへと生まれ変わりつつあった。
気候変動によって生まれた自然・生態系の破壊による阿鼻叫喚な悲鳴や、政財界のビックボーイ達の活動によって切り崩された所得格差の断崖絶壁具合や国家間の衝突、内乱の可能性を示唆するため含まれるようになった。
これらはある意味で現代のジャーナリズムの最先端であるネット上で、局地的に活躍する自称頭脳派のインフルエンサー達の玩具にされた。
ニヒルやシニカルを態度をきどっておけば、社会的にも自身の精神的にも尊厳は保たれると潜在的にせよ思ったのだと思う、残り時間が少ないことを取り上げるものの深刻には受け止めず、嘲笑うか無視するかのほぼ二択どちらかの態度を彼、彼女らは決め込んだ。
理由はただ一つでその態度こそが流行であり、自身の顔を売りやすかったからである。
いつの時代も気取る、気取らないに関わらず、それら評論家は所詮ヒーローにはなれないの訳である。これは著者自身も痛感しており、せめてもの正義感はあったにせよ、ヒーローを呼び込むだけの役割しか評論家は活動の幅で持てないのだ。
また、多く人のとっても「世界の終わりがちょびっと近づいたぜ」ぐらいに、論評が短く雑にまとめられた物が二次媒体として多く触れたため、心に刺さることはなかった。
やはりそこでも深刻さを同じく嘲笑うか、ちょっと変わったところでも戯言と決め込んで人類はまだ元気であると反証を探すかなどで重くは受け止めることはなかった。
正確には、多くは一瞬は受け止めるものの時が来れば忘れ、結果的にせよ無視をする姿勢をとるのだ。
一言で言えば皆が皆、得体の知れない空気を読み、自分一人では変わらない世界の構造に保守的な立場を守ったと言える。
さて、では世界の実態はどうなっていたかだが、気候変動や自然破壊については回帰不能点は会報が発表される10数年も前には疾うに過ぎており、今後でる人災による被害をいかに少なく、且つ以前の状態まで回復するかは孫、ひ孫世代に向けて責任を押し付けていた。
本来は後継の世代に向けて、該当世代の謝罪までが必要である状態だったのではと著者自身は考えている。こと、今日に至ってもそういう姿は見られないが…
次に企業の経済活動から噴出する所得格差の活火山とでも言えるような状況を見ていこう。
先ほどでた政財界のビックボーイ達が、独裁的経済圏を国際的な場で、その経済的且つ社会的なマッチョイズムが遺憾なく発揮され、自分の経済パワーを筋肉美の見せつけあうようにドヤ顔で披露している始末だった。
言うなればそこら辺の小さな店や貧乏な国々は、筋トレルームの外で涙目って訳である。
なお、著者自身は健康的な生活を送りたいため、日々のトレーニングを行っている立場であり、本来のボディビルダーしかり、スポーツマンに対してはむしろ好意的な立場であることを念の為付け加えておく。
後日、本書が発売されトレーニングルームで読んだ友人に
「やぁ、ビル!最近だらしねぇな。随分僕らトレーナーのことを馬鹿にしてくれたもんじゃないか」
と、言われながら首を絞められ、朦朧とする意識の中で男性特有の処女性を失うことだけは避けたいものだ。
口が滑ったがこれらも冗談として受け止めるぐらいにはLGBTもしかり、そういった環境に近しい友人達と交友を持っている立場ではある。
話を戻すが確かに終末時計なるものがとある組織の主観的な指標ではあるものの、一定の危機的な事柄を一つの枠組みとして捉えるにはわかりやすく、一定の支持を集めるに足るもので、本来は決してエンターテイメントとして消費されるものではない。
なぜならば、それは事後や事件であり、あるいは災害や天災とほぼ同一で考えてもいいと著者は思っている。
数字自体の本質的な意味を語るには様々な視点が欠けているため、ここで多角的に詳細を書き出すにはそれだけで数冊の別に本を書く必要はある。
そのため、著者としては本書での議論の場としては避けるが、いずれせよ、それまでの残り90秒だった終末時計は60秒と更新された。
人類の残り時間が少ないことを世間一般に彼らは告げたのは事実である。そして、より危機的状況に進んだことも確かだった。
本書の主題は、近年にあたらしく追加された企業の経済活動がいかに人類の残り時間を奪うものかを考える要素として記したものだ。
そして、加えられた企業の経済活動というものがどういうものであったかを順番に紹介しようと思う。
2010年代の後半には巨大IT企業の行き過ぎた個人情報収集はいよいよ問題視されはじめていた。
これがネックとなりまさに現代では様々な物事がここから発展したのだと、著者自身は考えている。
2020年代前半、情報を駆使してどうやって顧客満足度の高い商品を生み出すか、そして自社が構築した経済圏内で、国家の税とは一味違う独自の「税金」を、持続的な搾取構造を保ちつつ、より搾り取る方法を探求していた。
これは、片手ではコンプライアンスという名のものを掲げながら「やあ、よろしく」と気さくに挨拶を交わし、それがなんであるかを相手に意図的に考えさせ、軽く身動き取れないようまずは相手を拘束した。
そして、もう一方の片手、いや一方は片腕と言った方がいいだろう、腕全体を使ってスタン・ハンセンも顔負けのウェスタンラリアットを放ち、経済のカオスというリングのマットに自己中心的な暴力で沈めていくようなものだった。
そして2020年、後半が始まってすぐだった。
行動経済学と量子情報化学とそれから認知脳科学がキメラ合体した言われる、とんでもない新たな経済的価値観をもたらす技術が生まれたのだった。
今後、彼らがこの技術を利用した独善的な手法が国際的に利用しないか監視する必要があると、著者は切に願っている。
論文はこうだ
我々、カルフォルニア大学バックレ校は名立たるビッグテック企業からの資金提供を受け、そして研究を通じて、人間が感じる価値についての新たな発見をしました。この研究の目的は、人間の経験がどのようにして価値として脳内で処理されるかを解明することにあります。そのために、感覚から情報を抽出しデータ化する技術の開発を進めてきました。私たちのチームは、感情反応や生体の感覚指標を詳細に追跡し、日常生活における幸福や満足を科学的に捉えることに成功しました。
具体的には、ポジティブな感覚やそれを引き出す外部刺激に焦点を当てて分析を行いました。感情の起伏、注意力の持続、記憶に残る体験など、脳がこれらの情報をどのように処理し意味を付けるかを研究しました。さらに、脳波、心拍数、皮膚の電気活動などの生理学的指標を用いて、感覚体験が個人によってどのように異なるかを比較しました。
これらの生体指標に基づく定量的な分析を通じて、私たちは触れたものや感じたものを具体的な数値データに変換することに成功しました。そして、そのデータを用いて、経験の質や感情の強度を金銭価値に換算する数式モデルを構築することが可能になりました。この数式モデルは、個々の経験や感覚が持つ独自の価値をデータと収集する端末装置を使い経済的な観点から個々が持つ金銭価値を評価する新たな方法論として、大きな可能性を秘めています。
最終的に、私たちの研究は人間の幸福や満足感を計量する新しい試みとして、脳の活動パターンや消費されたカロリー、脳内で生成された化学物質の分析を組み合わせることで、感覚体験を客観的な金銭価値に変換することが可能であるという結論に至りました。これは、物質的な価値だけでなく、人間の経験自体が持つ価値を測定し評価する新たな道を切り開いたのです。
この論文発表直後から研究結果やその他諸々をビックテック企業は技術も人材も含めて買いあさっている。また、そのことから現在、研究チームは解体され社会的に安全利用されるとは考えにくい状況にある。
<民面書房 ビリー・マーキュリー著書 ビッグテックと現代科学の呪いより抜粋>
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