〔1〕
安房白浜の高級リゾート『Hotel Belle mer (ホテル・ヴェルメール)』最上階スイートのオーシャンビューテラスから見渡せる太平洋は、穏やかに凪いでいた。
夏の太陽は既に頭上にあり、小さく見えながらも強烈な輝きで空と海の碧を白い眩しさに変えている。
リュシーにとって、生まれて初めて目にする美しい景色だった。
今朝、『ゆりあらす』で朝食を摂った後、オーナー夫人のサエコは一人娘のキョウコに片付けを頼み、自家用車でホテルに送ってくれた。
宿泊客とオーナーが早朝に船で釣りに出たから暇なのだと、車の中でサエコは笑っていた。親切で優しく、料理が上手い綺麗な人だ。娘のキョウコも、とても親切だった。
あの少年……ユーキは、朝食の席にいなかった。
キョウコから聞いた話では、学園のサマーセミナーのため早くに出掛けたという。今朝、会う事が出来なかったのは失敗だろうか?
しかし、任務は遂行できた。咎められる事は無いだろう。
海風が、開け放たれたガラス扉から広々としたリビングに吹き込み、レースのカーテンが踊る。
風が収まると、静寂を取り戻したリビング中央に一人の少年が立っていた。
「やぁ、リュシー! 戻ってたのか!」
裸の上半身にタオルを掛けたハーフパンツ姿のオスカーは、持っていたミネラルウォーターのボトルを一気に飲み干す。どうやらホテルのプールで泳いできたらしい。
「アレクセイが言った通り、この国の人間はバカで扱いやすいな。こちらの計画通り、びしょ濡れの子猫ちゃんを放っとけなかったわけだ。で、首尾はどう?」
オスカーはリビング奧のキッチンに行き、ダイニングテーブルのフルーツバスケットからペティナイフとオレンジを手に取った。
『Hotel Belle mer (ホテル・ヴェルメール)』は長期滞在型のリゾートホテルで、応接セットのあるリビングの他に立派なダイニングキッチンとバスルームが二つ。一通りの家電品を備えている。
「……彼等は私に、熱いシャワーと温かな食事、清潔な寝具を与えました。とても親切で、善良な人達」
「ふぅん……そう。ところで、色仕掛けは上手くいった? おまえの役割は真面目で堅物のユーキを懐柔する事だろ?」
「ユーキは、とてもクール。その作戦は、有効では無い」
「……なんだ、俺に意見するのか?」
一切れ櫛形にカットしたオレンジを口に放り込みながらオスカーは、ナイフを持つ手首を返した。
ペティナイフは、リビングに戻ったリュシーの頭から僅かに逸れて壁に突き刺さり、小刻みに柄を揺らす。
「狙いは外したんだぜ? 避けるなよ、つまらないな。まぁいいや……リュシー、そのナイフを取ってくれるかい?」
嘘だ。
オスカーは正確に、リュシーの眉間を狙ってナイフを投げた。狙いが正確だからこそ、避ける事が出来たのだ。今まで何度も繰り返されてきた、悪ふざけだった。
壁に深く突き刺さったナイフを引き抜き、柄を向けてリュシーが歩み寄ろうとするとオスカーは、悪戯っぽく笑いながら掌を向け押し止めた。何かまた、良からぬ事を思い付いたのだ。
「ナイフは、お前が使うんだよリュシー。その汚い肌色の顔を、ナイフで切り刻んで見せて?」
オスカー・ナイセルは北欧の血統が顕著に表れた白い肌と薄い灰色の瞳を持ち、髪は赤味がかった金髪だ。本人は、この髪の色が嫌いで気の向くまま様々な色に染めているが、どうやら褐色の肌でありながらプラチナブロンドのリュシーが気に入らないらしい。
低俗な嫉妬と羨望から、命令に逆らえない身上のリュシーに理不尽な要求を突き付ける。
リュシーは右手に持ったナイフを、ゆっくりと頬に押しつけた。
自分には、抗う権利も自尊心も無い。心を殺せば、痛みを感じる事も無い。
冷たい刃が皮膚を裂き、ほのかなオレンジの香りと血の香りが混じり合った。
切れ味の悪いナイフだ。オスカーが満足するまで切り裂くには、手間取りそうだと思った。
「止めなさい! リュシエンヌ!」
鋭い叱咤の声に、リュシーの手が止まった。
「あーぁ、タイミング良すぎだろ?」
悪びれずオスカーが笑顔を向けた先、リビングに入ってきたアレクセイが眉を寄せた。アレクセイの登場を見越した、悪ふざけだったのだ。
「オスカー……君の行動は最近、私の許容範囲を超えている。君が学園で問題を起こしたから、リュシーをユーキに接触させたんだ。本来、ユーキの監視は君の役目だった」
アレクセイはスーツの内ポケットからハンカチーフを取り出しリュシーの頬に充てがうと、ナイフを取り上げテーブルに置いた。
「ハッ! 緩みきった日本のガキなんか、俺が相手をするまでも無い。この女で、十分さ。ハイスクールの運動部に参加して仲良く汗を流せって、今までの命令違反に課せられたペナルティなんだろう? 上層部が本気で日本に脅威が存在すると考えているなら、何も無い田舎のハイスクールで俺を遊ばせてはいないはずだ。それとも、アレクセイが嫌がらせで……」
苛ついた口調で抗議するオスカーを、凍てついたブルーアイが睨む。
「言葉が、過ぎるのではないかな? オスカー・ナイセル」
途端、オスカーの顔色が変わった。
リュシーから見ても明らかに、全身の筋肉が硬直している。指先が自由を失い、取り落としたオレンジが床に転がった。
瞳孔が開き、苦悶の表情で歯を食い縛る。
アレクセイの双眼に射貫かれると、脳天から背にかけて楔を打ち込まれた衝撃が走るそうだ。全ての自由と意思を奪われ、呼吸さえ出来ず、恐怖と絶望に支配されるらしい。
部下には、あらかじめ精神的な暗示が掛けられているのだろう。
リュシーに対するアレクセイの態度は紳士的で、とても優しかった。睨まれた事など、一度も無い。しかし他者から聞くアレクセイの印象は、仕事に対して完璧な成果を求める冷徹で厳しい管理者であり、その印象の隔たりがリュシーには理解できなかった。
「オレが……悪かったよ! 命令に従うから、もう許してくれっ!」
絞り出された悲鳴に、アレクセイの表情が緩んだ。
「何度目の約束かな? 君は、失敗から学ぶ事が出来ないようだ。リュシエンヌを見習いたまえ。まあいい、新しい任務だ。君には今から横浜校に行って貰う。直ぐに支度しなさい、私は車で待つ。詳細は移動中、頭に入れておくように」
頭を抱え床に座り込んでいるオスカーに目もくれず、アレクセイはメモリカードをテーブルに置いて踵を返した。
「横浜校……? あの学園は用済みだろう?」
緩慢な動作で立ち上がったオスカーは、テーブルからメモリカードを取り上げると不機嫌な顔でソファーに横たわる。
「レディ・シュラに先手を打たれた……。館山校には本来、もう一人の鍵となる人物がいるはずだった。しかしシュラは、交換留学生として我々が訪れたタイミングで彼をユーキから引き離したんだ。リョウ・アキモト……横浜校で会った彼は、聡明で思慮深かった。少し、面倒な相手かもしれない」
「ふぅん……『赤レンガ倉庫』で会った連れの方? ユーキとは正反対なんだな。そいつが何者かは知らないけど、横浜に戻れるのは嬉しいね! ちょっと気になるクラブがあってさぁ、アリョーシャも一緒に行ってみないか?」
ほんの数分前に厳しく叱責された事など忘れ、オスカーは陽気な口調でアレクセイをクラブに誘った。状況切り替えと対応の早さはオスカーの取り柄だ。
呆れ顔でリビングに戻ったアレクセイは、水の入った電気ポットのスイッチを入れた。
「うん、君には敵わないなオスカー。支度が出来るまで、お茶を飲んで待つ事にしよう。リュシーも飲むかい?」
頬の傷を消毒し、大きな絆創膏で塞ぎながらリュシーは小さく頷いた。
アレクセイはティーポットに彼お気に入りの茶葉を入れ、程よい時間をおいてからカップに注ぐと、リュシーにはミルクと砂糖を添えてくれた。
英国ブランドのアールグレイ。ベルガモットの香りが心を落ち着かせてくれる。
リュシーに冷徹な一面を見せたアレクセイの気配りだった。
二杯目の紅茶を注いでもらう頃、オスカーが小型の旅行鞄を手にリビングに戻ってきた。
「移動準備完了! ところでリュシーは、このままクソ田舎で待機なのか?」
横浜に戻れるとあって、オスカーの機嫌は上々だ。
「リュシーには、ユーキの叔父が経営しているペンションでアルバイト体験できるように手配してある。調整が済み次第、詳細をタブレットに送るから心配はいらない。予定では来週の月曜日からになるが、当日の朝に私が迎えに来て送っていくよ。もう一度、ユーキにも会いたいしね」
「アリョーシャは、リュシーにばかり甘いなぁ」
優しい口調に再びオスカーが不満顔になると、アレクセイは穏やかに微笑んだ。
「リュシエンヌは私が育てた大事な宝だ、傷つける者は誰であろうと許さない。ああ、しかし頬の傷は新しい人間関係で同情を引くのに役立つだろうから、これ以上咎めはしない。君は、この国の人間をバカで扱いやすいと言ったが改めたまえ。正直で利用しやすい……とね?」
オスカーは表情を強ばらせたが、リュシーには解っていた事だ。目的のためならアレクセイは、躊躇いなく自分を切り捨てるだろう。
「……っ、いい加減、任務の目的を教えてくれよアレクセイ! 奴等は、ただの学生じゃないか! 危険な因子なんて、欠片も持っていないと思うぜ?」
苛立ちから声を荒げたオスカーは、我に返り焦ってアレクセイの様子を伺った。明らかに、懲罰の双眼を怖れているのだ。
アレクセイは小さく溜息を吐くと、目線をオスカーから窓の外に広がる大海に移し紅茶を一口飲んだ。
「うーん……もしも現実世界に、地を割り海を裂き大気を操り、雷雨や雹や竜巻を呼ぶ事が出来る者が存在したら……どう思う?」
「ハッ! まさか、アイツらがマーベルコミックのキャラクター並に危険だって言うのか? 漫画や映画の中に出てくる化け物が、現実にいるはず無いだろう? 出所は知らないけど、そんな荒唐無稽な情報、本気にしてんの?」
「私も、非現実的だと思っているよ。ただ……」
言いかけた言葉を続けずにアレクセイは、ティーカップをテーブルに置いた。
「リュシエンヌ、申し訳ないがティーセットを片付けておいてくれるかい? そろそろ、横浜に向かわないといけないのでね。学生寮に入る手続きがあるんだ」
「えっ、ちょ、待てよ! オレ、学生寮で生活しなきゃならないの? 頼むから、アリョーシャの借りてるマンションにしてくれよ……男子寮なんて、真っ平だ!」
「これ以上、君の身勝手は許さないと言ったはずだよ、オスカー?」
厳しい口調ながら、叱責と言うよりは諭すようにオスカーを促してアレクセイは、先に部屋を出て行った。オスカーも不満顔で後に続く。
一人残されたリュシーはティーセットをキッチンに運んだ後にテラスに出て、ホテル正面の車寄せから幹線道路に乗り遠離っていくアレクセイの車を見送った。
海風が優しく銀の髪を揺らし、頬を撫でる。
手の中には、傷を押さえるために渡されたハンカチーフ。
そっと唇を寄せると、ほのかにアレクセイ愛用フレグランスの香りがした。