〔3〕
違和感は、最初からあった。
遼が観るイメージは、自分でコントロールが出来ない。強い想いが焼き付いた場所や激しく動いた感情の、残像を受け止めるようなものだ。
だが、八神享一郎から受けた印象、見えた景色、それら全てには優樹が関わっていた。
ライバル校の優秀な人材。篠宮理事長の孫であり、朱羅の弟。
意識するには十分な理由だとしても、関心の強さが競争心や興味対象とは違う方向を向いていたのだ。
小さくため息を吐き遼は、山間を縫うように走る横浜校・遠征専用バスの車窓に目を移した。すると突然、雑木林が開け、彼方に青く広がる海が観えてきた。湾岸線から東京湾アクアラインを走り木更津で分岐して二十数分、浦賀水道だ。
横浜でも海を観る機会は何度もあったが、空気も青空の色も違う。
館山の母校を離れ一ヶ月。横浜校で緊張の緩まない日々が続いたせいか、懐かしさに胸の奥が締め付けられる。
一時も早く館山校の友人たちに、優樹に、会いたかった。
合宿所で八神は、優樹と接触するため遼を利用するに違いない。目的が明らかになるまで自然に振る舞えるだろうか?
バスの前方を窺い見ると、最前列に座っていた八神が耳からワイヤレスイヤフォンを外し運転手に何か話しかけている。まもなくしてバスは自動車専用道路を降り、海岸沿いの一般道に降りた。
どこまでも広がる青い海。
懐かしい館山湾だ。
景色を楽しむ間もなくバスは、休暇村近くに建つ叢雲学園・学習研修センターの敷地に到着した。
学習センターは、経営破綻から売りに出されていた七階建ての外資系ホテルを買い取り改装したもので、海を臨む広い敷地にはイギリス洋館風の美しい外観と手入れされた四季の花が咲く庭。テニスコート、レジャー・プールを備えている。
建物内は二〇〇名ほどが宿泊できる客室と収容人数に合わせた七つの学習室、大浴場、レストランがあり、運動部が合宿に利用する場合は近くにある運動公園までバスの送迎があった。
簡単なミーティングの後、レストランに用意された昼食を取り、割り振られた個室に荷物を置いた遼は数冊の参考書と筆記用具を鞄から取り出した。
時間を確認すると、午後二時を少し過ぎたところだ。
館山校の強化合宿参加者は昼過ぎに学校集合の後、夕方四時くらいに着くらしい。
二校の参加者が揃ったところで全体ミーティング、コース別ブリーフィング、夕食、夕食後は二十二時まで各科目の受講予定となっていた。
横浜校の生徒は全体ミーティングの時間まで自由に過ごすように言われているので、何人かは束の間の休息を満喫するため海や近くの休暇村のカフェまで足を伸ばすようだが、遼にとっては海も休暇村も遊び慣れた場所である。
むしろ初めて訪れた学習センターに興味を持ち、内部を探索しながら自習に適した場所を見付けるつもりで部屋を出た。
一階に降りると、リーゾート・ホテルの名残か、ロビーの一角に壁一面がガラス張りで美しい海が水平線まで望めるカフェが設けられていた。カフェのカウンターでコーヒーを頼み、片隅のテーブルで参考書を開いたとき。
「Are you(君は)……リョウ・アキモト?」
聞き慣れないイントネーションで名を呼ばれ顔を上げると、外国人と思われる体躯の良い青年が遼を見下ろしていた。赤み掛かったブロンドの髪、薄い灰色の瞳。
間違いない、横浜赤レンガ倉庫で会った青年だ。アレクセイから聞いた名は、オスカー・ナイセル。しかし、強化合宿には参加させないはずでは無かったか?
訝しむように見上げるとオスカーは、体裁悪そうに笑った。
「あ……っと、ハジメマシテ……では無いか? 俺はオスカー・ナイセル。オスカーと呼んでくれ。リョウは、俺がユーキとtrouble(問題)起こした件、聞いてる? あれは俺が悪かった。He got really mad at me(アリョーシャには、もの凄く怒られたんだ)。だから警戒しないで。俺はアリョーシャに、リョウを連れてくるように頼まれた」
「アリョーシャに?」
講師達は準備のため、午前中に現地移動しているはずだ。遼に用があるなら直接、電話で呼び出せば良いものだが……。
「教師のstance(立場)で、一人をat all times(常時)ムズカシイから、俺とリョウのレンケイ頼むを話したいと言ってた。アリョーシャは今、人が来ない七階・展望ラウンジで待っている」
夏期講習の期間中、同じ敷地に滞在していても生徒と教師の立場では目の届く範囲に限界がある。遼には武術の心得が無いので、相手が強硬手段に出れば心許ない。
正直、オスカーのサポートは心強かった。しかし、館山校の件もあり優樹と友好的な関係を築くのは難しいだろう。現在、優樹が置かれている状況を説明し、納得させることが出来るのは遼だけだ。
「解った、行こう」
遼は参考書をファイルケースにしまい、オスカーに続いて展望ラウンジ直通エレベーターに乗った。
夏期講習前の説明会で、展望ラウンジは現在改装中のため生徒は立ち入らないように言われていたが、アリョーシャの呼び出しとなれば事情が違う。誰にも邪魔されず打ち合わせをするには、都合が良い場所だ。
七階に着いたエレベーターのドアが開くと、フロア一面にはめ込まれた窓の向こうに美しい館山湾が広がっていた。真夏の太陽は、まだ陰るには早いとばかりに海上を煌めかせている。
広いホールには数カ所、ブルーシートに覆われた資材らしきものが積まれていたが、夏期講習期間は工事を休むのだろう人の姿は無い。
オスカーはエレベーターを降りると先に立ち、資材の山を避けながら右奥に進んでいく。事前に遼が調べたフロアマップでは、左がバーラウンジで右奥にはバンケットルームがあるはずだ。
フロアの右突き当たりまで来たオスカーは、格式高い劇場にあるような観音開きの扉の前に立ち把手を引いた。重厚な造りの扉が音も無く開き、華やかな緋色のカーペットとシャンデリアに彩られた空間が目の前に広がる。このホテルでは結婚式も行っていたので、披露宴会場としての役割もあったのだろう。
話し合いの場として違和感を覚えながら遼は、薄暗い会場を見渡しアレクセイの姿を探した。
「オスカー、アリョーシャはどこに?」
背後から、嫌な気配。遼だけに解る、黒い霞のような悪意。
振り返ると、小さな金属音と共に完全に閉じられた扉向こうから、楽しそうなオスカーの声が聞こえた。
「sorry(悪いね)! 鍵が掛かる部屋、バンケットだけ。リョウは少しの間、ここにいて欲しい。He surely come(彼は、きっと来るよ)」
「彼って……あっ!」
これは罠だ。
館山校での件で、遼はアキラ先輩からメールを貰っていた。「オスカーは優樹との手合わせに執着している、気をつけろ」と。おそらく遼を囮にして、優樹と戦おうとしているのだ。
自分の所為で、優樹を危険な目に遭わせたくない……どうしたら? どうすれば……。
頑丈な扉は押しても引いても微動だにしなかった。遼が体当たりして、壊れる鍵では無いだろう。他に出口が無いか会場を歩き回ったが、壁際にバー・カウンターと料理用の小さなエレベーターがあるだけだ。閉ざされたカーテンを開くと、片隅に飾られる花が無い大きな花瓶が片付けられた嵌め殺しガラスの出窓になっており、避難ハッチらしきものは無かった。記憶では、七階の非常口はフロア両端の内階段だけだ。
取り敢えず、オスカーが何かしら企んでいることを優樹に知らせようと、遼が上着のポケットから携帯を取りだした時だった。
ドン、と、何か大きなモノが衝突したような音と衝撃が建物を揺るがせた。
「地震……?」
揺り返しを警戒する間に、けたたましい非常ベルの音が鳴り響く。地震とは様子が違う気がした遼は、外の様子を見るため出窓に身を乗り出した。
「まさか……火事?!」
窓の外、遼が目にしたのは、眼下に広がりつつある黒煙だった。




