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「享一郞がイギリスに行っちまってからオレ、長い間ずっと考えてたんだ。オレがもっと大人になったら必ず、おまえを探し出して謝ろうって。だからこの学園に入学したとき、もしかしたら戻ってきているかもしれないと思って入学者名簿を確かめたんだ」
頭一つ分、背の低い雨宮の目が訴えかけるように八神を見上げる。
「名字が違っても、オレにはわかった。絶対におまえだって。だから……」
入学式の翌日、スポーツ推薦クラスとは学習棟が違う進学クラスに現れた雨宮に驚いたのは八神の方だった。何か喋り出す前に教室の外に出て旧姓のことを口止めすると、雨宮なりの事情を推察したのか神妙な顔で頷いた。しかし、それから幼なじみを理由に頻繁に進学棟を訪れるようになったのだのだ。
小柄で明るく愛嬌があり、面倒見がよくて上級生や下級生、教師にさえ好かれている雨宮は八神にとって良い情報源だ。
雨宮にとっても八神と親しくすることで得るものがあるならば利害関係の一致と考え遠ざけることなく接してきたが……。
まさか、あの出来事に今でも負い目を感じていたとは思ってもみなかった。
これから先、雨宮に余計な詮索をされては面倒なことになりかねない。消えてもらう選択肢もあるが、後の始末を考えれば出来るだけ穏便に済ましたかった。
「つまり雨宮は、サマーキャンプの借りを返したいんだな? それならこれ以上、僕に関わらないでもらうのが一番助かるよ」
「借りを返すとかじゃなくて、友達だから力になりたいんだ」
「友達?」
「おまえ、あの夜そう言っただろう?」
「……」
サマーキャンプの事件は、八神には取るに足らない出来事でも雨宮にとって重要な事らしい。上手く遠ざける理由を探るために八神は、過去の記憶を思い起こした。
叢雲学園付属小学校で五年生を対象に毎年行われている二泊三日のサマーキャンプ。信州の高原にあるキャンプ場で八神は雨宮と同じ班だった。
日中のハイキングにミニ登山、飯ごう炊さん、高原植物観察、渓流釣り体験。日が落ちてからはキャンプファイヤー、宿泊施設のログハウスでカードゲーム。
全員が楽しい思い出とともにキャンプを終え、日常の学園生活に戻るはずだった。
しかし最終日の午前中、自由行動時間に二人の生徒が行方不明になった。
雨宮啓太と、久皇享一郞である。
当時、八神は父方の姓を名乗っていた。
九皇享一郞がイギリスに渡るまでの彼の名だ。
あの日は、前日の夜から降り出した雨が綺麗に上がり、天を突き抜けるような青空が広がるサマーキャンプ最終日に相応しい涼しく爽やかな朝だった。
自由行動を許された生徒たちは最低三名のグループを組み、行動範囲を制限したマップを手に二時間のキャンプ場周辺散策を許された。
テニスコートでテニスやバトミントン。多目的グラウンドでサッカーやドッジボール。フィールドアスレチック、昆虫観察。
蜘蛛の子を散らすように広いキャンプ場を走り回る生徒達をよそに九皇享一郞は、雨宮啓太に誘われ同級生である成瀨広樹と三人で谷側の渓流に釣りに行くことになった。
キャンプ場から渓流まで下る細い道はぬかるんで歩きにくかったが、朝露に濡れた木々の緑は鮮やかにきらめいて美しく、さらさらと耳に優しい水の流れる音が心地よい。
一時間ほど釣り糸を垂らし、川魚のキャッチアンドリリースを楽しんでいたところ飽きてきたのか雨宮が場所を変えようと言い出した。マップ上に書かれた渓流までのルート途中、登り坂になった細い分かれ道が何本かあり、その先を行けば上流の釣りスポットがあるに違いないと言い出したのだ。
雨宮に負けず劣らず勝ち気で悪戯好きな成瀨はすぐに賛成し、反対する九皇を意気地なしと笑った。一人で戻ることも考えたが、グループ行動のルールを破り教師に叱られるのは癪にさわる。嫌々ながら九皇は、少し離れて二人の後をついて行った。
雨宮が選んだ分かれ道は登るにつれて次第に細く狭くなり、未整備の路面に積もる枯れ葉は水気を含んで足に纏わり付く。気がつけばキャンプ中に着用を義務づけられていた学校指定ジャージは、上着もスラックスもびしょ濡れになっていた。
百メートルほど登ったところで道は、大きな倒木に塞がれた。先を歩いていた雨宮も諦め、早く戻って別の遊びをしようと下り坂を走り出した時。
濡れ落ち葉に足を取られて雨宮は、谷側の斜面に道を踏み外してしまった。
咄嗟に手を伸ばし雨宮のジャージの袖を掴んだ九皇も勢いにつられ倒れ込み、二人は重なって枯葉の積もる斜面を勢いよく滑り落ちた。雨で濡れた葉は落下の速度に拍車を掛け、速度を緩める手掛かりも掴めないまま、どこまでも落ちていく。
意識が遠のいて死が脳裏に浮かんだとき、背中に鈍い衝撃を受け落下が止まった。
九皇は恐る恐る手足を動かし、大きな痛みが無いことを確かめてから身体を起こした。辺りを見回すと、少し離れて雨宮が倒れている。
二人が迷い込んだのは、小さな沢の傍らにある背の高い木々に囲まれた窪地だった。
滑り落ちてきた斜面を見上げ、九皇は瞬時に理解する。
目の前にあるのは、そそり立つ土壁だ。子供の身で登る事は、絶望的だと……。
「享一郞はオレを助けようとして一緒に落ちたのに、オレは一人じゃ無くて良かったと思ったんだ……一人だったらパニクって、みんなの所に戻ろうとして歩き回って、のたれ死んでた。おまえが冷静で、助けが来るまで動かない方が良いと言ってくれたから……夜も一緒にいてくれたから、どんだけ心強かったか」
雨宮の訴えかけで、当時の出来事が鮮明に蘇る。
沢を下ろうとした雨宮に九皇は、この場を動いてはいけないと言った。
幼少の頃より家族キャンプをする機会が多かったため「山道で家族を見失ったら、その場から一歩も動いてはいけない」と、両親にきつく言い含められていたからだ。
家族キャンプでは一人でどこまで行こうと、必ず父親が見つけてくれた。学校キャンプでも、きっと先生が探し出してくれる。
そう、信じていた。
ところが真上にあった太陽が西に傾きはじめても、彼らを探す人の声は聞こえてこない。一度だけ聞こえたヘリコプターらしき音も、すぐに遠ざかってしまった。
後から聞いた話では一人で集合時間に現れた鳴瀬は、山道を外れ見失った級友を教師に報告する事が出来なかったそうだ。いないことに気が付いた教師が他の教師やキャンプ管理者らと探したが見つからず、他の生徒が乗るバスを帰路につかせ捜索願を出すことになってようやく正直に話したらしい。
そのため初動捜索が数時間、遅くなってしまった。
どのくらいの時間がたっただろう。
怪我らしい怪我もなく、すぐ見つけてもらえるだろうと楽観視して、いつものように漫画やゲームの話をしていた二人の言葉は徐々に少なくなっていく。やがて日が落ち、木々の隙間から漏れる月明かりで、ようやく互いの顔がわかる程度の暗闇に覆われ不安と恐怖に拍車がかかった。
「そう言えば、暗くなって雨宮は……」
記憶を辿り、八神が言いかけた言葉を雨宮は慌てて遮る。
「……っつ、頼むから、それ以上言わないでくれ。オレ、日が暮れてから屋根がない場所にいた事なくてさ。地元の花火大会でさえ、行き帰り暗いのが嫌で家の二階から見てたくらいなんだ。だから本当に怖かったんだよ」
夏の季節とはいえ、高原の気温はかなり低い。暖を取るためが身を寄せていた雨宮が突然大声で泣き出した時は、どうしたら良いか解らず九皇はただ狼狽えるだけだった。
しばらく考え、迷った末に九皇が雨宮を慰めるため取った行動。
「オレを励ますために享一郞は、蛍を飛ばしてくれたよな……」
キャンプに行くたび両親に火の扱いと山火事の恐ろしさを何度も注意されていた九皇は、腰を下ろしている岩の下に積もっていた枯れ葉を選んで火を灯し、沢を流れる水の上に飛ばした。
ひとつ、ふたっつ、みっつ、よっつ、いつつ。
その光は、水辺を渡る蛍のように点々と散っては川に消えていく。
いつしか泣き止んで、不思議な面持ちで光の乱舞に魅入っていた雨宮の前に九皇は両手を差し出した。
掌に灯る小さな炎。
そっと炎を指で包み込み、九皇は息を吹きかける。
すると指の隙間から、ふわりと蛍が現れた。
ゆらゆら揺れながら蛍は水辺に飛んでいき、すうっと消える。
幻想的で、美しい光景だった。
「山火事になると危ないから大きな火は出せないけどって笑った享一郞にオレ、急に自分が情けなくなったんだ。それまでずっと偉そうにしてたのに泣き出して、おまえに慰めてもらって恥ずかしかった。おまえの不思議な力、家族以外には秘密だって言いながらオレには見せてくれた。友達だから、元気付けてあげたいからだって……その時から享一郞は、オレの一番大事な友達になったんだ」
すっかり、忘れていた。
いや、忘れていたと言うより、子供じみた感情を封印していたのだ。
友達……それは、なんと残酷で都合の良い言葉だろう。
しかし今、雨宮を納得させ上手く口を封じるには子供じみた友情を利用するのが一番効果的に思えた。
「雨宮……キミが僕によかれと思うことが、僕にとっては迷惑でしか無いと言っただろう? 友達なら、なお放っておいて欲しいこともある。だけどキミは好奇心から友達という立場を理由に、僕の事を知りたいだけだ」
「……っ、オレ、そんなつもりはっ……」
雨宮は今にも泣きそうに顔を歪ませる。
「いいよ、教えてあげよう。確かに僕は、キミの予想通り脅迫を受けている。彼等の要求に応えなければ、家族に危害を加えるとね。彼等の目的も、いつ解放されるかも解らない現状で面倒事は避けたいんだ。キミが僕の友達だというなら、僕のためにもう、詮索したり関わったりするのを止めて欲しい」
半分は嘘だ。
だが、半分は本当の事だった。
すべてを話す必要は無い。雨宮が納得し、引き下がるだけの情報があれば良いのだ。
これで詮索を諦めない頭の悪さなら、強硬手段も辞さない覚悟があった。
半ば祈るような気持ちで八神は、雨宮の様子を窺い見る。
話を聞きながら呆け顔だった雨宮は、急に目を見開き宙を睨んだ。噛み千切らんばかりに唇を結び、みるみる顔を紅潮させる。
黙っていても解った。雨宮は怒っているのだ、八神を襲った理不尽に。
「……わかった。おまえに迷惑は掛けられないからな。オレは、オレが不甲斐ない。おまえに何もしてやれないことが。だけど、覚えていてくれよな! オレはいつだって、おまえの味方だ」
どうやら詮索も干渉もしない方向に、雨宮の気持ちが決着したようだ。安心は出来ないが、当面は様子を見ようと八神も胸をなで下ろす。
それにしても驚いた。
他人が、他人のためにこれほど怒ることが出来るのか?
「いまの僕には、雨宮の気持ちだけで十分だよ。だけど、もしも僕の不利になるようなこと……例えば旧姓を誰かに教えたりしたら、傷つく人が出るかも知れないと覚えておいてくれるかな?」
八神の言葉に何かを察し、雨宮が振り返った。
背後にある生徒会室入り口のレバーハンドルが灼熱色に輝き、ぐにゃりと歪む。
友情などという言葉よりも、雨宮の八神に対する責任感は期待できると考えたが、物理的な脅迫は念のためだ。
「こんな事しなくても大丈夫だって、信用しろよな。まぁ、急に生徒会室に来なくなると薫子が変に思うかも知れないから、部活に集中するとでも言っとくよ」
「あぁ、そうだね……っつ、圭太っ!」
次の瞬間、雨宮の取った行動に八神は言葉を失った。
雨宮は、まだ熱を持つハンドルを強く握りしめたのだ。皮膚が焼ける匂いが鼻をつく。
「オレ、馬鹿だし忘れっぽいからさ。おまえに信用して貰うためにも、痛みで覚えておくのが一番いいんだ。だから、この火傷が治るまでに解決してくれよな。頼むぜ?」
そう言って雨宮は笑顔を作り、ドアを開け出て行った。
閉じられたドアに歩み寄り八神は、焼けた手の皮が張り付いたレバーハンドルを見下ろす。
他人を欺くことも利用することも良心の呵責を感じない。雨宮に話した半分の真実……家族を、守るためだ。
「本当に馬鹿だな、キャンプの出来事は事故だ。責任なんて感じなくていいんだ。僕に近付いて下手をすれば圭太……おまえの命に関わるんだぞ?」
苦笑と共に、胸を圧迫する感情の正体が八神にはわからなかった。




