44 未来(3)
「俺は、愛梨がいい。恋をするのも、一緒にステージに立つのも」
はっきりとそう言った優樹の茶色い瞳には、私だけが映っていた。
形良い唇は柔らかな弧を描き、長いまつ毛に縁取られた目元は、やさしく細まっている。
綺麗な笑みを浮かべる彼の、熱いまなざしを正面から受け止めて、私の罪悪感や後悔は、一瞬で別の色に塗り替えられてしまった。
「あ、もちろんバンドの件は、愛梨が恋人だからってわけじゃないぞ。ちゃんと、誘いたいと思った理由もある。俺の独断でもないし、メンバーも納得……というより、むしろ俺以上に前のめりで歓迎してくれてるから、そこは安心して」
優樹は、ふっと笑い声をこぼして、指先で私の目元をなぞる。いつの間にか、私の頬を涙が伝っていたようだ。けれど、これは、嫌な涙ではない。
「……いいのかな、本当に」
「いいんだよ」
優樹はそのまま私の頬を手のひらで覆うと、やさしく頷いた。
「決められた道を歩んで手に入れた栄光なんて、ただのまやかしだ。そこに幸せなんかない。俺は、それをガキの頃から嫌ってほど見てきた」
眉をわずかに寄せて告げられた言葉に、私は、優樹の家の事情を思い出した。
家のため、会社のために愛する人と引き裂かれ、辛い思いをしてきた、優樹の両親――。
「愛梨が不安に思う気持ちも分かる。音楽業界は厳しい世界だ。――けど、やってみなきゃ、どうなるかなんて誰にも分からないだろ? この間、スタジオで、愛梨が予想以上のパフォーマンスを見せてくれたみたいに」
優樹は私の頬から手を離す。
涙は、最初に一筋だけこぼれた後、もうすっかり止まっていた。優樹がすぐに、やさしい温もりを心に灯してくれたからかもしれない。
「やってもみないで、納得いかないまま、さ。『未来が変わるかもしれないから』なんて曖昧な理由で、愛梨をキーボーディストとして迎えることを諦めたら……俺、絶対に後悔すると思うんだ。その結果、masQuerAdesに成功が待ってたとしても」
優樹は、真剣なまなざしで、まっすぐに私を見つめている。
「どうか、余計なことは考えずに、自分の気持ちに素直になってほしい。俺も、皆も、きちんとフォローするから」
「……うん」
私は頷き、優樹としっかり目を合わせた。
「優樹の気持ち、よく分かったよ。おかげで、迷いも消えたみたい」
私は、優樹の目を見ながら、はっきりと告げた。優樹の口元が、春を告げられたように綻ぶ。
その微笑みに促されたように、私の口から、自分の正直な気持ちが溢れてゆく。
「あのね……私、私――、やっぱりやってみたい。いいかな、優樹」
「本当に!?」
その言葉を待っていたように、優樹の目元が朱く色付いてゆく。
「うわ、嬉しっ……もちろん大歓迎だよ。ありがとう、愛梨」
「こちらこそ、ありがとう」
「てか、さ」
優樹は、急に自信なさげな表情を見せた。頬を指先で掻き、気遣わしげに眉尻を下げる。
「けっこう強引に誘っちゃったよな? 今更だけど、俺に合わせようとして無理してないか?」
「ううん。これはちゃんと私の意思だよ。私も、タイムリープのことがなかったら、喜んで飛びついてたと思うから。だって、推しのメンバーに加われるんだよ? そんなの、夢のまた夢じゃない?」
ずっと推してきたバンドと一緒に、ステージで演奏できるかもしれない。そのメンバーとして、活動できるかもしれない。そんなこと、恐れ多くて考えもしなかった。
自宅で一人ピアノに向かって、masQuerAdesの曲を弾き歌いしていたのが功を奏したのだろうか。
それとも、タイムリープが未来に……いや、私自身に変化を促してくれた結果だろうか。
けれど、本物の伯爵に関する懸念が消えたわけではない。私は優樹に念押しをする。
「でも……優樹、ひとつ、約束してくれる?」
「ん?」
「私が伯爵として相応しくないと思ったら、迷わずクビにしてほしいの。私はそんなことで優樹やmasQuerAdesを嫌いになったりしないし、むしろmasQuerAdesがもっと大きく成長していくことの方が大切だから」
「……ん、分かった」
優樹は嬉しそうに綻んでいた顔を引き締めて、頷いた。
「……とは言っても、もしそうなったら、俺がその判断を下すより先に、陽菜先輩がバッサリ一刀両断するだろうけどな」
「うん。そうしたら、私も後腐れなく、また一人のmasQuerAdesファンに戻るだけだよ。だから、少しの間だけ……チャンスを下さい」
「おう。こちらこそ、よろしく頼むよ」
私と優樹は、両手で握手を交わす。
私がふふっと笑うと、優樹も嬉しそうに笑いをこぼした。




