本気の本気
理沙の見てる前とは言え、マルコは躊躇うことなく、本来の姿へとその身を変える。
青黒い焔に巻かれるやいなや、その焔は大きさを増す。
グリフォンの翼を持ち、それは大仰な狼。
その尾はまるで蛇の様にしなり、尾が地面を叩けば大量の土ぼこりが舞い、その口からは、火の吐息が漏れた。
呆気にとられる理沙が目にしたのは、精鋭三十の軍団を率いる地獄の大公爵の一人、【マルコシアス】本来の姿で在った。
だが、それを見ても明日野はポケットに手を突っ込んだまま、悠然と立つ。
目だけを理沙の方へと向け、直ぐにマルコシアスの方へと戻した。
「理沙………分かっているとは思うが、死にたくなければ其処を動くな」
明日野の言葉に反応したのか、狼は口から火炎を吐き出す。
人界に在る火炎放射器の何倍もある炎が、一瞬にして学生服姿の明日野を包み込んだのを見て、理沙は息を飲んだ。
唸りを発しつつ、大型の狼は轟炎と化した炎の周りを、悠々と歩く。
『どうした? 人のみている前では本気になれないか?』
意外にも、狼は人語を解し、その声はマルコのモノに近く、独特のエコーが掛かった様な声であった。
理沙は、慌てて炎を見るが、其処からは焦げ一つ無い明日野がテクテクと歩く。
それを見てからか、狼は理沙が耳を塞ぎたく成るほどの大きな舌打ちをした見せた。
『まだその姿で? そんなに下位に余裕を見せたいのか? まぁ、良い、それなら本来の姿を思い出させてやる………』
そう言うと、狼は理沙の方へとその口から火炎の吐息を吐いた。
迫る火炎から、理沙を取り巻く空気の温度は急上昇し、呆けた様子の理彩はと言うと、【これで死ぬのか】と、考えていた。
思わず、目をつぶる理彩だが、いつになっても今以上には空気は熱くはならない。
怖々と、目を開けた理沙が見たのは、自分の前に立ちふさがる明日野の広めの背中で在った。
理沙が焦ったとしても、明日野は振り向かず、己を見定める大仰な狼を睨み付けた。
「汚いモノだな…………そんなにしてまであの偽善者と同じに成りたいのか?」
明日野がそう言うと、狼は高らかに笑った。
『……分かっている筈だ! アンタも俺も、元は天使だろう!? 懐かしいとは思わないのか? かしづく人間、戒律無く力を震え、好き勝手にお綺麗に生きられる! それこそ、あの神様の為にだ! それを………今になって何故俺たちが不自由に成らなくてはいけない!?』
狼の言葉に、明日野の周りの空気は静かに歪み、それは黒い色を伴う。
背後に居るであろう理沙に、明日野は声を掛けていた。
『理沙、死にたくなければ………何が在ろうと俺様の後ろからは出るな』
明日野のその声は、マルコシアスと同じく、いつもの彼よりもだいぶ低く、エコーが掛かっている様にも、理彩には聞き取れた。
黒色の空気は、濃霧の様に濃くなっていき、程なく、それは、少年明日野とは別の形を成す。
それを見て、理彩は凍り付いた様に動けなかった。
霧が形をなし、その異形は姿を露わにし、マルコシアスですら身震いを覚えた。
その悪魔は竜に跨がり、頭は三つ、魔神と牛頭、そして悪逆な山羊の頭。
中央の魔神の頭上には炎の様な輝きを纏う王冠が、まるで太陽の様に煌めく。
太いが足先は鵞鳥の様でもあり、尾は蛇と言うよりは竜に近い。片手には軍団の威を示し揺らめく三角旗、片手には猛毒の様な粘液が滴る三つ叉槍。
地獄に在っては、七つの大罪のうち【色欲】を司り、七十二の軍団を率いる。
理沙が目にした魔神の本来の姿は、万の天使ですらたった一騎で屠り去る大悪魔【アスモデウス】本来の姿であった。
今までの鬱憤でも貯まっていたのか、魔神は大声で、なおかつ下品にゲラゲラと笑う。
『良いぞ!? 久しぶりだ!! 此処まで俺様の力を出せるなんて………マルコシアス…………貴様には感謝すら捧げようぞ!!』
理沙の前から、アスモデウスは動かずそう宣う。
辺りに広がる異様なまでの殺気に、大仰な狼ですら体を震わせた。
理沙が目にしたのは、まさしく神話の世界であった。
勇敢に立ち向かう狼は、悪魔に持つ旗竿に叩かれ、苦痛の呻きを上げる。
間合いを離し、口から火炎を吐こうとも、それは魔神の槍に簡単に振り払われ、当たりに煌びやかに散った。
天を轟かす何条もの稲妻が、マルコシアスの遠吠えに合わせて降り注いでも、アスモデウスの掲げた旗からは、不可視の障壁が広がり、音すら無く稲妻を散らす。
耳をつんざく遠吠えの後、狼が魔神に噛みついたが、アスモデウスは動かずにいる。
肉を噛むような嫌な音が響いても、アスモデウスは一歩たりともその場を動かない。
この時、理沙は動けないと同時に、疑問に感じていた。
目の前の異形の魔神は一歩たりとも動かず、理沙と狼の間に常に立つ。
それこそ、まるで理沙を護るかの様に。
呆然と座り込む理沙の目の前で、アスモデウスは、性懲りもなく噛み付くマルコシアスを、その手の槍ではじき出した。
払い除けたられた狼が、苦しげに身を震わせ横たわる中、アスモデウスは槍をサッと逆手に持ち変える。
理沙が眉を寄せるのと、アスモデウスの持つ槍が赤黒く輝くのは、同時であった。
三つ叉槍が輝きを増すのを見つめながら、理沙は気付いた。
目の前の悪魔が、何をしようとしているのかを。
槍が投げ放たれるより早く、理沙は「止めて!」と叫ぶ。
だが、アスモデウスの槍は容赦なく投げられ、横たわる狼は、轟音と共に爆煙に包まれてしまった。
思わず、口を手で覆う理沙。
それを庇う様に立っていたアスモデウスは、低くも遠くまで響く様な声で笑う。
『…………この程度、なのか? マルコシアス、お前の覚悟と力はこの程度なのか…………』
どこか残念そうなアスモデウスは、足元の小さな小さな衝撃に、アスモデウスの山羊の首が理沙を見つめる。
其処には、しゃくりあげながらも、果敢に立つ小さな少女が居た。
「…………どう…して? 止めてって……言ったのに……」
それを見てか、山羊と牛の頭は、【どうするよ?】とでも言わんばかりに魔神の首を見た。
中央に位置する魔神の首は、その大きく裂けた口から、大きなため息を吐いた。
『………案ずるな………よく見よ………』
アスモデウスの言葉に応じ、嗚咽を漏らす理沙は、マルコシアスが転がっていたであろう場所を見るが、其処には、大きく擂り鉢状に抉られた地面に突き立つ槍と、その横で苦しげに寝転がるマルコが居た。
はっと成る理沙を後目に、アスモデウスは黒い霧へと形を変え、それはそのまま小さく纏まり、いつもの明日野が其処には居た。
明日野が少年の姿を表すと共に、突き立っていた槍もまた霧の様に消えていってしまう。
「何を勘違いしてるんだ? 俺はちょっと舐めた彼奴を懲らしめ、ついでに大将からのお願い通りに動いたに過ぎんぞ?」
明日野の言葉の真意は、理沙には分からなかったが、槍が在った所からは、黒い水の様なモノが噴き出していた。
頭がこんがらがっている理沙に、明日野は笑う。
「いやなに、本来の姿をチョイと出したことで分かったんだ。 彼処には、現代においての宝が在るとな」
そんな明日野の言葉に、理沙は目をこする。
「……あれは?……」そう言う理沙に、明日野は意外だと言うような顔を見せた。
「知らんのか? アレは原油と言うものだぞ?」
明日野は、端的にそう言った。
マルコシアスにトドメを刺そうとしたアスモデウスだが、理沙の懇願に、思わず槍は横へと逸れた。
もし、マルコが力を失わず、大仰な狼であったならば、その身に今頃は槍が突き立っていたであろう。
とは言え、怪我の巧妙、または棚からぼた餅と言わんばかりに、アスモデウスの槍はお宝を掘りあてていた。
マルコが力尽きたのを境に、彼が用いた【対決の陣】も姿を消し、理沙の目には、元通りの満点の星空が見えた。




