部外者
夕食後。
明日野は一風呂浴びんと自分の分の浴衣を手にしたが、露骨に着いてこようとしていた安藤は、いつ酔ったのか、何処か怪しげな軽部に取り押さえられ、明日野は安全に風呂へと向かうことが出来た。
狭めの脱衣場から、着ている物を古風なカゴへと収め、タオル一つで明日野は風呂へと向かった。
夜の涼しさからか、湯気が辺りには霧のように舞う。
だが、三畳程の大きさの湯からの気配については、明日野は分かっていた。
先客はマルコであり、彼は明日野の姿を見て少し笑う。
掛け湯で身体の汗や埃を落とし、マルコの一メートルほど間を空けて湯に浸かる。
五分ほど二人は何も言わなかったが、明日野は咳払いを一つする。
「昼間は……すまなかった。 客が来ていたものでな……しかし、大将からは何か聞いているのか?」
そんな明日野の言葉に、マルコは頷く。
「はい、確かに承っております。 で、どうです? 深夜にそっと片付けるってのは?」
敢えて何をとは言わないマルコだが、明日野もそれを聞こうとは思わない。
汚れ仕事でなければ特に構うものでもなかった。
「………こっからは、俺の用件なんですよ。 明日野さん、咲良って子、黙って渡してくれませんか?」
薄く笑うマルコだが、その彼の横顔を見ながら、明日野は眉を寄せた。
「…………唐突だな? なんだ、藪から棒に?」
過去のマルコを考えればこそ、明日野は唐突なマルコの言葉に驚きを隠しつつ、あくまでも平静を装う。
マルコは明日野の振り向くと頬を釣り上げた。
「俺の昔……知ってる筈です」
「……ソロモンの時のか? お前は……確かに、知っているさ。 だが、今になって天使に戻れるとでも?」
マルコの端的な言葉に、明日野はかつての過去を懐かしむ様に目を閉じ、鼻から嘆息を漏らした。
「どうするかは、明日野さんが知らなくても良いんです。 でもね、先方の要件があのお嬢さんなんですよ」
マルコが目的を話しても、明日野は目を開けない。
「それで? 今になってそれを俺に言うと言うことは………これまた昔ながらのやり方をしたいと?」
「はい。 義理を欠いたとあっては、それは俺にしても格好が付かないので」
明日野が言う【昔ながらの方法】それは単なる決闘である。
上下が緩い悪魔といえども、通すべきモノは在り、それを決めるのは力の優劣のみである。
上位の者に成り代わると言うことは、下位の者にしか許されないのだが、これは本来、天使のやり方で在った。
「律儀なモノだな……ただの人攫いなら、俺も躊躇いが無いが、義理を通せというのであれば、お前のその正直さに免じて、アスモデウスとしてつき合ってやろう」
そう言う明日野に、マルコは「すいません」とだけ頭を下げた。
「難儀なモノだな………単なる恋愛ならば、お前を地獄に落とそうとはせず、お互い昔の様に楽しめたのに……」
残念そうな明日野の言葉には、マルコは答えなかった。
それと同時に、敢えてマルコは気づいてはいたが言う事はない。
壁の向こうで、聞き耳をたてていた理沙のことを。
マルコが理沙のことを気づいたのに、明日野が気付けないのは、彼の心の底に問題がある。
咲良の近くに、そして彼女に合わせんと、明日野は必死に人の世、そして人としての身姿を意識していた。
それ故に、彼の勘は他の悪魔や天使よりも鈍かったのだが、それにもまして敢えてマルコの挑戦を受けたのは、自分が佐田に地獄に戻されたとしても、咲良を護りたいからであり、他の事はあまり考慮にいれてはいない。
だが、マルコの話から、天使の関与を匂わすモノも在ってか、明日野は何としても裏を知りたくなっていた。
深夜の中、ぐっすりと眠りこけるのは咲良と理沙、ついでに日頃の疲れからなのか蠅野。
だが、生憎なのか軽部と安藤は起きており、尚且つ二人は何処から持ってきたのか、持参かどうかは別としても、酒を呷っていた。
最初、安藤は酒の席へと明日野を誘おうかとも思っていたが、部屋にかえって来るなりいつもの学生服へと着替え始めるのを見ても、何も言わなかった。
軽部にしても、明日野が居たであろう風呂場から、風の様に漂ってくる尋常でない力の膨れ上がり方に、何も言わなかった。
「すまんな、ちょっと散歩をして来る。 咲良と理沙を、宜しく」
それだけ言うと、明日野は旅館の部屋を後にした。
「何さ格好付けちゃって。 黙ってやられちゃえば良いんだよ」
そうは言うのだが、軽部の言葉には心配する様な調子すら含まれる。
チビチビとコップを傾ける軽部を見て、安藤は目を伏せた。
彼女の毛が逆立つ程の力の持ち主が二人。
そして、それには軽部の反応から天使ではないと分かってはいたが、軽部はあまり他の天使と接点を持たないためか、あまり当てにはならない。
とは言え、安藤は寝ている理沙を見て、薄く笑う。
「見に行きたいんだろう? 行っておいでよ」
唐突な安藤の言葉に、理沙の被っている布団がビクッと跳ねる。
「でもね、何を見ても、それは自分の責任だからね?」
そんな安藤の言葉に、理沙はモソモソと布団から這い出る。
「………どういう……いえ、その前に気付いてたんですか?……」
「そりゃあね、でも、一つだけお願いできない? 僕は君を止めやしないけど、明日野を悲しませないで欲しいんだ」
真摯な視線を向けてける安藤に、理沙はゴクリと唾を飲んだが、目を右往左往させてから、コソコソと明日野の後を追った。
それを見て、軽部は眉を八の字に曲げる。
「良いんですか? 私は……」
困り顔の軽部を見て、安藤はにっこりと笑ってみせると、軽部の頬は僅かに赤く染まる。
「君が天使で在るように、僕は悪魔だよ? 第一、天使なら人間を助けに行くのでは?」
おちゃらける様な安藤の言葉に、軽部は不満そうに一気にコップの中身を呷る。
安藤が、ワザとそう言ったのには、理由がある。
殊更天使が人に何かをすることは、実はほとんどない。
在ったとしても、精々が千年の間に数回程だろう。
安藤もまた、明日野と同じく人に必要以上に干渉しようとはせず、寧ろその人物の自己、主体性を大事に思っていた。
例え、それが好奇心猫を殺す結果に成ったとしても。
窓の外を見て、丸くも若干赤い月を見て安藤は口を開いた。
「二人とも、キチンと帰ってくるんだよ…………」と、それだけを。
人工の灯りが一つも無ければ、空と地を照らすのは星と月である。
遮る余計なモノが無いために、それは素晴らしい光景を理沙にくれた。
そんな星空目を奪われつつも、理沙は月明かりを頼りに昼間の道をたどっていく。
遠目には二人の人影。
一方は作業服、もう一方は学生服。
誰と言うことはなく、理沙はその二人の対峙に見入る。
そんな理沙の耳に、明日野の声が届いた。
「一つ、聞いておこう、此処で止める、そうはいかんのか? 止めるのであれば、俺様も事を収め忘れようぞ…………」
明日野はそう言うのだが、マルコは首を横へ振った。
「俺が明日野さんを始末したいのは、上位になりたいって事じゃないんですよ……あんたが居ないなら、大将達が人間の小娘一人を、わざわざ気にかけると思いますか? 昔だって明日野さんが捕まった時も、誰も何もしなかったのに……」
マルコがそう言うと、明日野の顔は能面の様に成っていく。
確かに、悪魔達は必要以上には人間には干渉しない。
だからこそ、戦争が起きようが、その辺で誰かが死んだとしても、人が気にしない様に、彼等悪魔も気にはしないのだ。
マルコが地面に何かを書き始めるのを、明日野は黙ってみていた。
地面に書かれるのは、人界には存在しない高等魔術の一つだが、効果はそれほど難しいモノではない。
ある程度の結界とでも言うべきか、周りに被害を出さないようにするためのモノで、有り体に言えば大きな試合場を形成するものである。
此処で問題なのは、マルコは理沙の事をどうとも思ってはおらず、明日野は理沙の事には気付いてさえいないと言うことだろう。
古代魔術の一つ【対決の陣】が展開された。
一メートルほどの陣を中心に、円形の大きな結界が形成され、辺りの空気が変わっていく。
匂いは無くなり、音もなく、其処には在るのは地面と大気のみ。
範囲内に元々在った木々や生物すら、その陣には取り込まれてしまう。
勿論、それが理彩だとしても。
「何これ!?」
そんな理沙の悲鳴にも似た声に、マルコは笑い、明日野はしまったという顔を浮かべた。
「どうかしました? 知ってる筈でしょう? 巻き込まれたのはソイツが悪い、それが誰であろうとも…………ね?」
マルコの物言いに、明日野は眉を寄せるが、勘が鈍っていたことの言い訳にはならない。
上位の者が、下位の者に挑戦を受けたならば、受けねば成らず、偶々巻き込まれた下級の悪魔が死んだとしても、それは決闘のするの責任でないのだが、問題なのは、理彩は咲良の妹であると言うことだった。
「さぁ……俺も、ひさしぶりですよ………本気の本気でやれるなんて、どれだけぶりかな?」
そう言うマルコの目が、赤々と輝き始めていた。




