押して駄目なら引いてみろ
借金返済の作戦こそ失敗したものの、明日野の気持ちは浮ついていた。
理由としては難しいモノではなく、蠅野のお情けで【温泉旅行ペアチケット】を貰えたからに他ならない。
学校にて安藤には「ねー、まだ?」という嫌みという名の返済を求められ、ついでにとばかりにお付きの軽部にも「はっはー!?なーんだぁ!?大悪魔の割には大した事無いんじゃない!」と、ゲラゲラと笑われてしまう始末である。
すっかりぐったりと意気消沈した明日野だが、少年の主観に置いては今や段々とお近付きに成りつつ在るかも知れない咲良に一言「大丈夫?明日野君」と言われれば、すっきりと気持ちが収まるのであった。
温泉旅行を企てる明日野のだが、そんな少年のウキウキ気分とは別に、隣人である高品理沙は少年を含めた隣人達との距離を計りかねていた。
いつぞやはオリンピック選手も逃げ出すほどの明日野の爆走をみてしまい、今度は大食い大会での出来事。
それらを鑑みても理沙からすれば看過できないモノであった。
ふとした時、夕飯の支度をする姉の背中に、理沙は声を掛ける。
「…………変だと思わない? 最近越してきたあの人達…………」
そんな理沙の言葉に、咲良は口ずさんでいた鼻歌を止め、うぅんと少し唸る。
「そう? 私は良い人達だと思うよ? だってさ、最近はこの辺もとっても静かだし…………それに、明日野君とか蠅野さんも良い人だと思うけど?」
そんな咲良の言葉には裏がある。
咲良の言葉通り、高品姉妹の住む安アパートの周りの治安はお世辞にも良くはなかった。
爆音立てて走り回るバイクや、所構わず徘徊する酔っ払いなど、それだけに留まらずやたらと白い背広を着込んだ柄の悪い輩まで居たほどであった。
だが、今や高品姉妹が住む地域一帯は非常に平和な地域と成っていた。
理由としては難しいモノではなく、高品咲良の安全や安眠を妨害しようものなら、どこからともなく、学生服を纏う悪魔が空から降って来ては、地獄とはどんな所なのかを懇切丁寧に教えてくれるからだ。
「ほら、今晩のおかずだって蠅野さんと明日野君から貰ったモノだし、食べよう食べよう!」と、そんなのほほんとしている姉を見て、理沙も少し笑って姉を見習う事にしてみようとも思う。
「うん、そだね…………」と、姉に答える理沙。
未だに中学生である理沙だが、今の世界には実は辟易していた。
特別な金持ちにでも産まれない限りは成功者は制限され、這い上がれる者は他社を踏みつけねばならず、姉は優しいがどこか惚けた性格であり、なかなか良いお相手が見つからない。
そんな閉塞感から、あの奇妙な隣人達が、もしかしたら、そんなつまらない何かを、変えてくれるのではないかという期待を、スレンダーな胸に抱き始めていた。
そんな高品姉妹とは別に、明日野は在る場所へと赴いていた。
それは、明日野の安アパートからそうは離れていない町内にある精神治療クリニック。
【一時間千円ポッキリ 癒やしの庭】である。
部屋の明かりは暗めだが、キチンとした部屋の中には変なテーブルと椅子が二つほど在る。
明日野はその椅子の一つに腰掛けつつ、対面に座る白衣の男に在ることを相談していた。
「先生…………俺はどうしたら良いんでしょう?」
至極真面目な明日野なのだが、彼の目の前の白衣の男よりも、不気味なテーブルの方から深い深い溜め息が漏れていた。
『アスモデウスよ、その質問…………これで何千回目かな?』
そんか言葉を漏らすのは不気味なテーブル。
それはどこかのっぺりとしたライオンの顔にも似て、何本と在るテーブルの足は変な格好の獅子の足にも似ている。
そう、このテーブル自体が溜め息を漏らした悪魔であり、かつてのソロモン七十二柱の一柱、通称地獄の治療士ブエルである。
明日野の対面に座る白衣の人はちょっとした幻影に過ぎない。
ブエルは地獄に在っては五十の軍団を率い、哲学や倫理に詳しく、また治療にも長けており特に男性の精神を癒やすのだが、生憎とブエルはアスモデウスが苦手であった。
明日野が質問した事は、遥か昔の過去にも何度となく同じ質問と答えが繰り広げられ、その時は寧ろブエルのほうがノイローゼになりかかった事すら在る。
立ち上がった明日野は、テーブルもといブエルの額をバンと両手で叩き立ち上がるが、叩かれたブエルは、僅かに『痛っ!』とつぶやく。
「先生!! 俺は真面目なんです!!……教えてください……どうしたら咲良に告白出来るんですか!?」
相も変わらぬ明日野の同じ質問に、ブエルは答えに窮していた。
答えとしては難しいモノではない。
なにせ初めて相談された際もブエルは端的に答えたからだ。
【付き合いたい? なら彼女に告白すれば良いじゃないか】
こう答えた際に、明日野は錯乱して暴れてしまいブエルは大変ひどい目に遭っている。
だからといって、答えない訳にも行かず、彼は答えに窮していた。
無論、ブエルが何故告白しないのか訪ねた際の答えは【恥ずかしい】からであり、何故恥ずかしいのか問えば、明日野の答えは【なんとなく】である。
色欲を司る筈の大悪魔の摩訶不思議な恋路に頭を悩ませつつも、答えがなかなか出てくる事はない。
どうしたものかと悩むブエルは、深い深い長考へと入っていった。
とは言え、実は既に明日野の質問に答えが無いことはブエルとベルフェゴールとの度重なる話し合いの際に確認されている。
【どうして目の前に在る飴を舐めないのか】と問われても、それは本当に飴なのか分からないから舐めたくないと答えられるが、明日野の質問の場合は【どうすれば飴を舐める事が出来るか】であり、それは本人が解決するしかない問題だからだ。
無論、能力を用いて口説けばと進言した事も在るのだが、明日野は頑なにそういった小細工を嫌がる。
好きだと言いたくないなら言わなければ良いとブエルは思うが、それを口には出すことはない。
それを言った際にもやはり明日野は暴れまわり、鎮圧するのにブエル率いる軍団総掛かりに成りかねなかった事もある。
長い長考の末、ブエルはカッと目を開いてある事を口走る。
『アスモデウスよ、貴殿も今は彼女の側に人として居るのだろう?…………では、何らかの努力をして彼女の方から迫って貰えば良いのではないかね?』
明日野の今の姿を見て、ブエルは自分の何とか真っ当な答えをヒり出していた。
そんなブエルの言葉に感動したのか、明日野は頭抱えて歓喜の顔を見せる。
「…………なる程…………流石は先生!! ありがとうございました!!」
千円札一枚をブエルの頭に放り投げ、明日野は来たときとは別人の様に走り去る。
一人部屋に残されたブエルは悩んでいた。 今後、また同じ質問が繰り返されないかと。
さて、明日に備えてそろそろ寝ようかとしている高品姉妹だが、布団を敷いた段階で部屋のドアが申し訳なさそうにトントンとゆっくり叩かれる。
ハイハイと咲良が応対に回ると、ドアの向こうには顔を赤くしている明日野の姿が在った。
「んん? どしたの明日野君? 私もうそろそろ寝るんだけど?」
そんな咲良の言葉に、では隣に寝かせてくださいと言い出し掛けた明日野だが、やはり口から出たのは別の言葉であった。
「えと…………あの…………」
そんな風にどもりながら目をキョロキョロと泳がせつつ、明日野はポケットから温泉旅行のチケットを取り出して咲良に見せる。
「あれ…………と、温泉旅行生きませんか!?」
自分でも意外なほどハッキリとそう言えた明日野は満足そうだが、咲良はニッコリと笑う。
「あぁ…………なんだ、良いよ?」
咲良の返事は、思わず明日野が天に帰りそうなモノだったが、そんな彼とは関係無く咲良は話を続ける。
「蠅野さんから聞いたよ? 妹も誘って貰ったし、蠅野さんと明日野君も含めて何人か来るんでしょ? 楽しくなりそうだよね? ね?」
のほほんとした咲良の言葉に、「へ?」と、登り掛けた明日野の意識はトゥームストーンパイルドライバーの如く落とされる。
寝耳に水どころか、今すぐ蠅野を殴りに行こうか悩むほどであった。
『どぉいぅ事だぁ!? 蠅野! 申し開きは聞いてやるぞ!?』
ニッコリ笑って咲良と別れた後、すぐその足で隣の蠅野の部屋に明日野は駆け込み、お隣には聞こえない声で叫んだ。 だが、当の蠅野のはと言えば、洗濯物を淡々と畳むという作業を行っている。
とは言え、最後のタオルを畳み終え、蠅野は明日野に振り向いてニッコリと笑う。
「当たり前でしょ? 未成年の男女が温泉なんていかがわしい…………咲良さんに、何かあったら、妹さんが可哀想でしょ? それにほら、明日野君は、金欠病ですしね…………やっぱり保護者が居ないと………ねぇ?」
「ぬぬぬ…………グゥ」と、明日野のぐうの音が出たところで立場は変わらない。
蠅野の言葉は正しく、ろくに金を持っていない貧乏学生の明日野は、保護者たる蠅野に逆らう術など無かった。




