冬のほたるとおしゃべりキツネのカナ(6)
カナが怒鳴り込んできたのは同じ日の午後三時過ぎだった。
雲が多くなってきたので洗濯物を取り込み畳んでいると、風呂場の窓が乱雑に開け放たれた音が私の耳まで届いた。確認するまでもなく、誰がやってきたかすぐに分かった。
「ちょっとサキ、一体どういうことなのよ!」
風呂場から響くその声を聞くだけでうんざりとした気持ちになった私は、たたみかけた水色のブラジャーを投げ飛ばしてしまう。
のんきに宙を舞う水色のブラジャー、憂鬱な私の気持ちも知らないで。
「あなたにもらった薬を飲ませたのに、誰も私の言った言葉を忘れてなんかいなかったわよ。あの薬効かないじゃないの。この責任をどう取ってくれるのよ!」
私はもう彼女の言葉に答えるだけのことが億劫だった。
私が下を向いたまま押し黙っていると、カナはまるで全人類から責められるべき罪を犯してしまった人を責め立てるみたいな剣幕で言うのだった。
「あなたのせいで友達から散々なことを言われたわ。あなたとは二度と口をきかないとか、友達にもあなたとは話をしないように言うとか、あなたは今日から仲間はずれにするとか……そんなひどいことを面と向かって言うなんて信じられる? 確かに私も調子に乗っちゃって、ちょっとした悪口とか口止めされていた噂話とか、いろんな悪いこと言っちゃったと思うわ。でもそれだけで二度と口をきかないとか、仲間はずれにするとか、いくらなんでもひどすぎるわよ。あなたにそんな気持ちが分かる? あなたに私の気持ちは分からないでしょう?」
「分かるわ」
私の言葉を聞いたカナはきょとんとして、その表情が私をさらに苛立たせた。もう歯止めがきかなかった。
「分かるって言ったのよ!」私が続けて叫ぶとカナはひどく驚いたようで、その細い目を大きく見開いた。
私にはもう、カナのことが楓ちゃんにしか見えなかった。
私を傷つけた楓ちゃん。もう、顔も覚えてさえいないのに。私は楓ちゃんに向けて続ける。
「あなたこそ、自分がどれだけ人のことを傷つけているのか分かっているの? こう言っちゃ悪いけど、あなたが皆からそういう風に言われるのも当然のことよ。誰だって人のことを悪く言ったり、人の秘密を喋ったりしたら、自分が上に立ったような気がして気持ちがいいけど、相手のことを考えてそれをぐっと堪えているのよ。それをあなた、自分のことしか考えずにぺちゃくちゃと――」
言いながら、私、思った。私もカナと同じなんだ。結局は、自分の言いたいことを言ってカナのことを傷つけてしまっている。
そう理解しながらも、同時に私の心が抑えきれない怒りに満ちているのもまた事実だった。
カナは呆然としていた。その表情は私が言った言葉に対して、どう反応すればいいか判断に困っているようにも見えた。カナには面と向かってそんな風に大声でどなられるような経験がなかったのかもしれない。
私はカナが唾をまき散らして怒鳴り始める前に、カナを残して部屋を出た。「ちょっとそこで待ってて」とだけ言い残して。
部屋を出た私はまず洗面所に行ってざぶざぶと顔を洗った。
それでも興奮した私の顔の火照りはおさまらなかった。タオルで顔を拭いて鏡を覗き込むと、見たことのないような恐ろしい表情をした私が映っていた。
次に私が向かったのは、離れの調合部屋だ。
大好きなおじいちゃんの遺した調合部屋。ここに足を踏み入れるのも、ひょっとするとこれが最後になるかもしれない。
調合部屋は相変わらず野草の匂いがこもっていて、その空気は冷たいすきま風によって冷え切っていた。
部屋に入った私は、乾燥させたありったけのワスレグサと、調合に必要ないくつかの野草、おじいちゃんの秘密ノートを取り出すと、机の上に並べていった。
そして私はカナのため――いや、これからカナに傷つけられるであろう誰かのために、もう誰も私みたいに傷つけられなくていいように、震える指先で作れるだけの薬を作り始める。何でも忘れることができる、すごく便利な薬を。
最後の一粒の薬を作り終える頃には、作業を始めてから一時間以上が経っていた。
調合部屋を出ると、急に新鮮な空気に当たったせいか、頭がくらくらした。厚い雲に覆われた薄暗い外の景色は、まるで夕方か夜明け前みたいだった。
カナはまだ私を待っているかしら。ひょっとすると、もう待つことに飽きて帰ってしまったんじゃないだろうか。そんなことを考えながら、私は長く伸びる廊下をとぼとぼと歩いた。
扉をそっと開けると、カナは一時間前と同じ場所に座って、じっと私のことを待っていた。カナは細長い目で、部屋に入った私のことをきつく睨みつけた。
「こんなに待たせておいて、どういうつもりよ」
カナの声はできたてのつららみたいに冷たかった。
今まで多くの動物たちと接してきた私は、野生動物の二面性については自分なりに注意しているつもりだった。
それでも初めて聞くカナのそんな声に、私の胸はちくちくと痛んだ。
「あなたに薬を作ってきたの。今度こそ本物の薬よ」
「今度こそっていうことは、あなたやっぱり、わざと私に偽物の薬を持たせたのね」
「あなたの言うとおりよ。それについては、本当に悪かったと思ってる」
「……当たり前よ。そんな言葉じゃ、許してなんかあげないんだから」
「分かってるわ。でも、その罪ほろぼしっていう訳じゃないけど、あなたのためにありったけの薬を作って持ってきたの」
私は小包に入れた薬をカナに前に置いた。
カナは私に疑いぶかい目を向けながらも、小さな口で小包を受け取った。
小包をくわえたままのカナに、私は続けて言う。私の声もきっと、できたてのつららみたいに鋭く尖っていることだろう。誰に対しても、そんな声を出したくなんかないのに。
「それを持って、ここを出て行って。そして二度と、この大切な私とおばあちゃんの家へはやって来ないで頂戴。申し訳ないんだけど、今の私にはあなたと付き合っている余裕がないの。そしてこれから付き合っていく自信も……。口は悪いけど、憎めない友達だと思っていたわ」
私の気のせいかもしれない。でも私の言葉を聞いたカナは、寂しそうな、切ないような表情をしたような気がした。
カナが帰ると、私は眠くもないのに布団にもぐりこんで、おじいちゃんの日記帳を開いた。
いつも夕食の準備を始めだす時間になり、なかば機械的に布団から起きだし、おぼつかない足取りで台所へと向かうまでの間、私はおじいちゃんの日記を繰り返し読み続けた。




