動物園とレッサーパンダのアリシア(9)
「私ね、間違ったことをしようとしていたみたい」
「おやまぁ。そんなに泣いて、何か辛いことでもあったのかい?」
「私は友達の男の子が怖がっていることを、心から分かろうとしてあげられなかったんだ。私は自己満足のために、友達にひどいことをするところだったんだ」
「気にしなくても、きっと菊さんもあなたの気持ちを分かってくれるよ。ところであなた、スミを知らないかい? さっきから迷子になっちゃってるみたいなんだ」
おばあちゃんが真面目な顔をしてそんなことを言うもんだから、私は涙を流しながら、鼻水を垂らしながら、思わず笑ってしまう。
ベッドのわきに転げ落ちた犬のぬいぐるみを、私はおばあちゃんに持たせてあげる。
「おぉスミ! 生きていたかい」と、おばあちゃんは犬のぬいぐるみに頬ずりしていた。
窓の向こうでは太陽が最後の力を振り絞り、目に見えるすべてを赤く赤く染めていた。
動物園から泣きながら家に帰った私は、誰かに自分の気持ちを吐き出さずにはいられなかった。おばあちゃんがその内容を理解してくれようとくれまいと。
私がアリシアのためにやろうとしていたことは、きっと正しくはなかったんだろう。だからこんなことになるんだ。私の左手の人差し指に貼られた、ネズミのキャラクターがプリントされた絆創膏には、痛々しく血が滲んでいた。
アリシアに悪気があったわけじゃない。悪いのはアリシアの気持ち――アリシアの抱えていた不安を分かってあげられなかった、私なんだ。
そんなことを考えると、私はすごく後ろめたい気持ちに、とても深い、真っ暗な穴の中に隠れてしまいたいような、そんな気分になるのだった。
「お腹が空いたねぇ、早くお母さんが帰ってきてくれるといいんだけど……」
おばあちゃんが独り言のように呟くのを聞いて、私はそろそろ夕ご飯の支度を始めなければいけないことに気がつく。
「ちょっと待っていてね、すぐに支度をするから」
それだけ言い残してから、私は重たい足取りで台所へと向かった。
手際よくすべての料理を作り終え、あとはお皿に盛り付けるだけというところだった。不意に玄関先から聞こえてきた声は、紛れもなくアリシアのものだった。
「サキ……いないのかい?」
それはささやくような声だったけれど、しんとした薄闇の中を通り抜けて、台所の窓のすき間を抜けて、食器棚からお皿を取り出そうとしていた私の耳まではっきりと届いた。
「アリシアなの? ちょっと待っていて、すぐにそっちに行くから」
私は台所の窓を開けてから言うと、着けていたエプロンを放り投げてから玄関へと駆けた。
たった数時間しか経っていないというのに、アリシアはまるで別の――例えばとても痩せた土地に住んでいるレッサーパンダのように見えた。彼は傷つき、悲しみ、多くのものを損なっているように見えた。
私はそんな彼になんて言葉をかけていいのか分からず、「どうぞ」となるべく彼の方を見ないようにして応接室に通すことしかできなかった。
アリシアは私の後を、まるで徘徊するみたいにぼんやりとついてくるだけだった。
応接室で改めてアリシアと向かい合うと、外の薄闇の中で見るよりもずっと彼が傷ついていることが分かった。
ついさっきまで風になびいていたはずの毛並みはほつれ、あちこちに木の葉やごみのようなものが絡まっている。二つの瞳は赤く充血し、目の下には小さな切り傷まで見て取れた。
私によってアスファルトに叩きつけられた背中に目立った傷が無いことだけが、ただ私をほっとさせるのだった。
「ごめんなさい」私が言うと、アリシアはひどく驚いた様子で私の目を見つめた。彼の目はやはり、どこか力ない。
「どうして謝るんだい?」
「ああしてあげることがあなたの幸せだと思い込んでいたの。でも、もう少しよく考えるべきだった。あなたはあんなにも怖がっていたっていうのに」
「サキは悪くないよ。あれはただ、僕が臆病だっただけさ。サキは僕の幸せを願って、あそこまでしてくれたんだ。それを責めることなんかできないさ」
私はアリシアの言葉を聞いて、安心するような、ひどく切ないような気持ちになった。例えるなら、お母さんに叱られたその夜に、お母さんのベッドに入り込むときみたいな、そんな感じだろうか。
「背中は大丈夫だった? 地面にひどく打ちつけたみたいだったけれど」
「もう痛くないし、大したことはないよ。それよりも、君の指を思い切り噛んでしまった。本当にごめんよ」アリシアは私から視線を逸らして、付け加えるように呟いた。「僕はどうかしていたんだ」
「今日、またここに来たのには理由があるんでしょう?」
私にはその答えがなんとなく分かっていた。だからこそ、私はそんな質問をした。
私は彼の口からその答えを聞きたくないと願い、同時に聞いてしまいたいと願っていた。結局のところ、私は聞かずにはいられなかったんだ。
「ひとつは、君に謝ろうと思った。そしてもうひとつは……」
アリシアは再び語り始めた。彼はまるで魂だけふわふわと宙に浮いているような、気の抜けた話し方をした。
私の方を向いているにもかかわらず、彼はどうも私を見てはいないようだった。
「……僕は恋をしていたんだ。まるで雷に打たれたみたいに、僕は一瞬で恋に落ちた。
でもさ、彼女は柵の向こう側にいて、僕は柵のこちら側にいるんだ。声をかけてあげることさえ、僕にはできないんだよ。
だから、すべてを捨ててでもリリィの下へ行こうと、一度は決意した。
なのに僕は……、直前になって怖くなったんだよ。全てを捨てるということがどういうことなのか、意識し始めると思わず体に力が入って、気づいたら君の指に思い切り噛み付いてしまっていたんだ!
今でもリリィのことは大好きさ。台風だって、地震だって、大津波だって、僕からこの気持ちを消し去ることはできない。
それでも、やっぱり僕は思うんだ。
彼女のことを忘れてしまうことができたならって。この恋心を忘れてしまうことができたなら、どれほどいいだろうって。
僕だって、本当は忘れたくなんかないさ。でも分かってる、忘れるべきなんだ。僕はどうしても、彼女のことを忘れないといけないんだ!」
アリシアは泣いていた。草花から雫が落ちるような、そんな儚さをはらんだ涙だった。
そして私も同様に泣いていた。どこの蛇口をひねって溢れ出したのか分からない、それはとどめようのない涙だった。
「あなたのために薬を作るわ」
私は立ち上がり、叫びだしたいような気持ちを必死に抑えながら調合部屋へと向かった。
必要ないくつかの薬を混ぜ合わせながら、私は考えた。
どうして世の中のできごとの多くは、心で思った通りに動かないのだろうと。
どうして世の中のできごとの多くは、あるべき場所に向かって進んでいかないのだろうと。
どうして世界はアリシアとリリィが結ばれるような形にできていないのだろうと。
今までこんな気持ちを抱えて薬の調合をしたことはなかった。涙を流しながら、混乱した頭でワスレグサをすり潰していったことはなかった。
私は必要以上に、薬をこぼしたり、配分を間違えたりしてしまわないように注意しなければならなかった。
いつもより時間をかけて調合を終わらせると、私は出来上がった薬を持ってアリシアの待つ応接室へと向かう。
外はすっかり夜になって、たくさんの鈴虫の鳴き声が響いては消えていた。
「この薬を飲めばリリィのことも、あなたのリリィに対する気持ちも全て消えてしまう。その記憶はきっと二度と取り戻せない。それでもよかったら、帰ってすぐに薬を飲んで。同時に私のことも忘れてしまうでしょうけど、それは仕方がないことだから」
聞いているのかいないのか、俯いたまま動かないアリシアにそんな言葉をかける私の胸は、やはりちくりと痛んだ。
やがて頷くと、アリシアはささやくようにありがとうとだけ言った。
家を出て、真っ暗な森の中に戻っていくアリシアのためにできることは、もう私には何一つとして残されてはいなかった。




