猫街とペルシャ猫のアーナ(11)
どのくらいそうしていたんだろう。
私は頭上から投げかけられた声で、ようやくぐしゃぐしゃになった顔をあげた。きっと一時間以上はそうして泣いていただろう。
私にかけられた声が私の望んでいるものじゃないことは分かりきっていたけれど、その言葉がろくでもない種類のものだと分かっていたけど、とにかく私は顔を上げた。きっと酷い顔だったろう。
男は四十代半ばくらいの太った男で、暑くもないのに後退した額に大量の汗を浮かべていた。ふうふうと苦しそうに息を吐いている。
私は潤んだままの瞳で、何も言わずに男の顔を見つめ続けた。
「お嬢ちゃん、いくらかな?」男はもう一度、今度ははっきりと言った。
嫌悪感で胸がいっぱいになりそうだった。実際に吐き気すらこみ上げてきた。私は冷たい、感情のこもらない声で言った。
「うるさいハゲ、お前なんか死んじゃえ」
言ってから、自分自身で驚愕した。そんな汚い言葉が私の口から出たことが信じられなかった。でもそれは紛れもなく私の口から出た言葉だった。男は一瞬驚いた表情を浮かべると、ぶつくさと小声で文句を言いながら私の元を離れていった。
私はまた一人ぼっちになった。不快感と寂しさが混ざり合った涙が自然と目のふちに溜まっていった。
そろそろ帰って、少しだけ眠って、朝ごはんの準備をしておばあちゃんを起こさないといけない。心ではそう思っていても、なかなか立ち上がることができなかった。私の精神は磨耗していた。私は立ち上がりたくなかった。
泣き疲れ、そのままうとうとと眠ってしまいそうになったときだった。その声は唐突に私の耳元でささやかれた。
「こんなところまで来るなんて、ほんとにどうしようもない子ね」
「お、お母さん?」私は驚き、慌てて顔を上げた。
そこにいたのはお母さんじゃなかった。そこにいたのはお母さんが呆れたときに見せるような表情をした、一匹のペルシャ猫だった。
「誰がお母さんだって?」アーナはいたずらっぽく笑ってみせた。
「アーナ! どうしちゃったのよ、その姿は!」
アーナは前に家に来たときとまったく違う姿をしていた。
滑らかだった毛並みはあちこちでひどく短くなっていて、まるでへたくそな庭師が草刈りをした後みたいだった。ひどいところは薄い灰色の地肌が見え、そこには爪で引っ掻いたような痕もあった。優しい飼い主が毛の手入れをしたわけじゃないことは明白だった。そもそもアーナは飼い猫じゃない。
大きな体は相変わらずだったけど、ほんの少し前に見たときより痩せているように見えた。やつれているといってもいいかもしれない。
「シャロンから聞いたんでしょう? 私は罰を受けたのよ。そのせいで旦那にもここで働いていることがバレちゃうし。まったく、悪いことは続くっていうのは本当みたいね」
悲しみをおおい隠すように自嘲気味に語るアーナを見ていると、私の胸はずきんと痛んだ。これ以上、そんなアーナを見てはいられなかった。見ていたくなかった。
私はアーナが初めて家に来たときに、その場で薬を飲ませてしまわなかったことを後悔した。後悔するたびにこみ上げてくる涙を、私はまたぐっと我慢しなくちゃならなかった。
「どうしたの、そんな面白い顔をして。ひょっとして私を笑わせようとしているのかしら?」
「アーナ、お願いがあるの」
「どうしたのよ、急にまじめな顔になって」
私は、私の想いを正直に口に出してアーナに伝えることにする。
こんなことは大したことじゃない、とでも言うように何食わぬそぶりを見せるアーナを見ていると、私はどうしてもそうせずにはいられなかったんだ。アーナの心を無視した、独りよがりの提案かもしれない。だけど私は、やっぱりそれ以上アーナが傷つく姿を見たくはなかったんだ。
「もう今の仕事はやめて。そして私があげた薬を飲んで。お願いだから。今の仕事は報酬も大きいし、誰かのためになる仕事かもしれない。人々……じゃなくて猫々に注目されて、気持ちのいい仕事なのかもしれない。だけど同時にあなたはひどく傷つけられ、今まで続いていた当たり前の生活を失おうとしているわ。あなたはこんな街のこと自体忘れて、今までどおりささやかな生活を続けるべきだと、私は思うの」
「……確かにその通りかも」アーナは神妙な顔をして、やがて小さく何度か頷いた。
「こんなことを言うと怒られるかもしれないけど、私は、私の大切な人にそんな仕事をしてほしくない。それで傷ついたり悲しんだりするのを見たくはない。だから、お願いだから」
お母さん。私は最後にそうつぶやいて、そのままわっと泣き出してしまった。涙は次から次に溢れて汚いアスファルトを濡らしていった。猫街のネオンやアーナの姿がぼやけていく。
そんな視界の中で、アーナが心配そうな表情で私に近づいてくるのが分かった。
アーナの頭が私の足にすり寄せられた。私を慰めようとしているのだろうか。短い毛がくすぐったくて、同時に温かくて、私は笑ってお礼を言おうとするんだけど、喉から嗚咽が漏れるだけでどうしても声にならなかった。
あぁもう、なんて泣き虫な私なんだろうか。




