後編
ミアの恐れに揺れる瞳。
バルドは、それに気づいた。
(……ああ)
胸の奥で、何かが静かに折れた。
(やっぱり、だ。
俺は、化け物なんだ。
パンを美味しそうに食べてるだけの顔で、彼女の前に立っていられたことが、おかしかったんだ)
大きな体で避けられ、無表情で戦うだけで噂が肥大化し、いつしか自分でも「そうなんだ」と信じ込むようになっていた。戦場で作ったスープが人肉だと言われ、周りに恐れられたあの日から、決定的に傷が深くなっていた。
(こんな俺が、誰かを好きになっていいわけがない。
彼女が怖がるのは、正しい。
嫌われるのが、正しい)
ミアを自由にするためだ、と自分に言い聞かせる。
でも本当は、怖かった。
このままそばにい続けたら、いつか本気で恐れられる日が来るのが、耐えられなかった。
だから、先に自分で壊すことにした。
バルドはわざと顔を歪め、声のトーンを低く落とした。
「あぁ、あの下女か。ただの暇潰しの玩具だ。
俺が噂の『人を喰らう化け物騎士』とも知らずに、餌付けした気になっている…実に滑稽だよ」
心の中では、別の声が叫んでいた。
(ごめん。嘘だ。
お前のパンが、世界で一番美味しかった。
お前のふかふかが、俺を温めてくれた。
でも、俺は化け物なんだ。
お前は、もっと自由でいていい)
ミアが食堂を飛び出して行くのが、遠くに歪んでゆっくりと見える。
足音が遠ざかった瞬間、巨大な騎士は、その場に崩れ落ちた。
――
バルドは、食堂のいつもの席にふらふらと座り込んだ。
大きな体を丸めるようにして、両手で顔を覆う。
いつもの美味しそうにパンを頰張っていた面影はどこにもなく、ただただしょんぼりしている。大好きな飼い主に本気で怒られてしまった大型犬みたいに。
食堂の人たちが心配そうに近づいてくる。
「おいおい、どうしたんだ? いつもの元気ないぞ」
「パン残すなんて、初めて見たわね……お弁当に包むかい?」
「何か事情があるんだろ?気にするなよ」
バルドは力なく首を振り、低い声で言った。
「ありがとう……もう大丈夫だ。彼女に、これ以上迷惑はかけられない」
ちょうどその日、最前線への出撃命令が出ていた。
「志願する」と申し出た彼を、誰も止められなかった。
バルドは本当に、その日のうちに街を出てしまった。
小さな包み以外は荷物もほとんど持たず、出ていくのが早すぎるくらいの速度で、最前線へ向かう部隊に合流して消えていった。
――
ミアはとぼとぼと道を歩いた。
涙がまだ頰に残っている。バルドの聞いたことも無いような低い声が、耳に残っている。
でも、歩いているうちに、別の記憶が浮かんできた。
——三日三晩何も食べてなくて、ふらふらになって倒れてきたあの夜。
——焼きたてのパンを、焦げたところまで美味しそうに頰張る顔。
——「今日のも、すごく美味しかった」と目をキラキラさせながら丁寧にお礼を言う顔。
——熱を出しただけで、仕事を抜け出して様子を見に来てくれて、耳まで真っ赤にしながら「大丈夫か?」と聞いてくれた顔。
——通路ですれ違ったとき、胸が当たっただけで直立不動になって固まった顔。
どれも、人を喰らう化け物の顔じゃなかった。
「……嘘ばっかり」
小さく呟く。
あの大げさな悪役セリフも、急に冷たくなった目も、全部おかしかった。
バルドと入れ違いで食堂に戻ってきたミアは、人々からその話を聞いた。
「あの大きな騎士さん、今日いきなり最前線に志願して出てっちまったよ」
「朝まであんなにしょんぼりしてたのに……」
「……あの、嘘つきバカ!!!」
怒りと安堵と情けない気持ちがごちゃ混ぜになって、ミアは腕をまくりあげた。
「ろくにご飯も食べずに死にに行く気!? 絶対に許さないんだから!」
――
最前線の荒野。
三日三晩まともに食事もとれず、心身ともに限界だったバルドは、剣を握ったまま膝をついていた。
風が乾いた土を舞い上げる。喉は渇き、胃は空っぽで、体が鉛のように重い。剣を支える腕さえ、もう自分のものじゃないみたいに震えていた。
「これで……ミアは自由だ」
掠れた声が、荒野に溶ける。
目を閉じると、ミアの顔が浮かんだ。
食堂で、焼きたてのパンを自分の前に置いてくれる手。
「今日のも、すごく美味しかった」と言ったときの、少し照れたような彼女の微笑み。
自分が無表情のままパンを頰張っているのを、厨房の奥から時々チラチラ見ていた視線。
熱を出したときに、耳まで真っ赤にしながら「大丈夫か?」と聞いてくれた自分の声が、今となっては情けなくて仕方ない。
(……俺は、本当にバカだった)
ミアのふかふかに顔を埋めたあの最初の夜。
パンの甘い香りと、柔らかくて温かい感触。あれが、どれだけ自分を救ってくれたか。
三日三晩何も食べていなかった自分が、あの「ふかふか」に助けられて、また生きようと思えたことを。
なのに、自分は彼女を突き放した。
「玩具だ」なんて、大げさな嘘をついて。
本当は、ただ怖かっただけなのに。
自分が化け物だと思い込んでいるせいで、彼女に本気で好かれること自体が、許せなかっただけなのに。
「……ごめん」
誰もいない荒野に、小さな声が落ちる。
胃が、大きく鳴った。
ぐぅぅっ、と情けない音が響く。ミアのパンが恋しい。彼女の作るご飯が、世界で一番美味しかった。あの温かい味を、もう二度と口にできないと思うと、目の奥が熱くなった。
(これでいいんだ。
ミアは自由だ。
俺みたいな化け物に、捕まらなくてよかった)
そう自分に言い聞かせて、バルドは剣を握り直した。
そう呟いた瞬間、遠くから土煙が上がった。
馬車が、尋常ではない速度で突っ込んでくる。
荷台には、湯気を立てる巨大なパンが山積みにされていた。
「見ぃぃぃぃつけたぁぁぁぁ!!!」
ミアが飛び降りてくる。髪を振り乱し、目は完全に獲物ととらえる、それだった。
「なっ……!? なぜお前がここに!? 来るな、俺は化け物だぞ!」
バルドが後ずさろうとした瞬間、ミアは容赦なく飛びかかった。
そして、まだ熱い焼きたてパンを、彼の口に無理やりねじ込んだ。
「もがっ!?」
「うるさい! 腹ペコの化け物がどこにいるんですか!!」
ミアは彼の頭を、自分の豊かな胸にガシッと抱き込んだ。
ふかふかで、温かくて、柔らかくて——逃げようとする彼の顔が、完全に埋もれてしまう。
熱が頰に伝わり、息をするたびに彼女の柔らかい感触が顔全体に押し当てられる。彼が微かに動くと、そのたびにふわふわと形を変えて、彼の鼻先や額を優しく包み込んだ。
「いいですか!!
三日三晩何も食べてなくて、ふらふらになって倒れてきたときのあなたを、覚えてます!
焼きたてのパンを、焦げたところまで美味しそうに頰張る顔も!
『今日のも、すごく美味しかった』って、目を少しキラキラさせながら丁寧にお礼を言う顔も!
私が少し熱を出しただけで、仕事を抜け出してわざわざ様子を見に来てくれて、耳まで真っ赤にしながら『大丈夫か?』って聞いてくれた顔も!
食堂の狭い通路ですれ違ったとき、私の胸が腕に当たっただけで、直立不動になって固まってた顔も!
全部、覚えてます!
人を喰らう化け物の顔じゃなかった!
不器用で、ピュアで、私を本気で心配してくれる、優しい人の顔ばっかりだった!
なのにどうして、あんな嘘をついたんですか!
『玩具』だなんて、嘘ばっかり!
私を突き放して、一人で死んで逃げようとするなんて、絶対に許しません!
私はもう逃げません!
あなたのところへ、お嫁に行きます!
一生、私が作ったパンを食べなさい!
私が、あなたの全部を満たしてあげますから!!」
口の中に広がる甘いパンの味と、顔面を覆い尽くす柔らかくて熱い感触に、バルドは完全にフリーズした。
そして次の瞬間——
パンを咥えたまま、子どものように声を上げて泣き始めた。
大きな腕が、震えるようにミアの背中に回される。
「……うまいっ……今までで一番、うまい……っ」
「当たり前です。
私が、愛をいっぱい、いぃーっぱい込めたんですよ!」
荒野に、パンの甘い香りと、男のすすり泣く声が溶けていった。
――
数日後。
王宮の食堂は、いつもと変わらない喧騒に包まれていた。
いつもの席に、バルドが座っている。
目の前には、湯気を立てる焼きたてのパンが山盛りだ。彼は無表情のまま、しかし以前より明らかに穏やかな空気を纏って、黙々とパンを頰張っていた。
厨房から、ミアが顔を出す。
「今日のも、焦げてませんか?」
バルドはパンを口に運ぶ手を止め、ほんの少しだけ目を細めた。
「……ふかふかで、うまい」
ミアは嬉しそうに微笑み、また厨房に戻っていく。
食堂の人たちは、そんな二人を見て、顔を見合わせた。
「なんか、いい感じになったな」
「ああ。あの大きな騎士さん、最近ちゃんと笑えるようになったらしい」
そして——
ある日、バルドの同僚が酒を飲みながら、ぽつりと言った。
「そういえばよ。昔の『人肉スープ』の話、実はただのビーフシチューだったらしいぜ。あいつ、料理が壊滅的に下手なだけで……見た目が血みどろすぎて、周りが勝手に勘違いしたんだと」
ミアは厨房の奥で、その話を聞いて、思わず吹き出しそうになった。
「……やっぱり」
彼女は焼きたてのパンをトレイに乗せながら、小さく呟いた。
「人を食う化け物なんて、最初からいませんでしたね」
――
その夜。
食堂が閉まったあと、二人は裏手のベンチに並んで座っていた。
夜風が少し冷たくて、ミアは自分の肩を抱くようにしていた。
バルドは黙って、自分の外套を彼女の肩にかけた。
「寒いだろ」
「……ありがとうございます」
しばらく、沈黙が流れる。
バルドは手元のパンを小さくちぎっては口に運び、ミアは彼の横顔を時々盗み見ていた。
突然、バルドが大きく息を吸った。
「……聞いてくれ」
声が、いつになく真剣だった。
ミアが顔を向けると、彼はパンを膝に置き、両手をぎゅっと握りしめている。耳の先まで真っ赤で、視線を合わせようとしては外し、また無理に戻すのを繰り返していた。
「俺は……不器用な男だ。
顔も無表情だし、体も大きすぎるし、噂もひどい。
戦場じゃ人を斬りすぎて、『化け物』って言われてきた。
自分でも、そうだと思ってた」
ミアは何も言わず、ただ彼の言葉を待った。
「でも、お前に出会ってから、違った。
パンを食べてるだけで、満たされた気がした。
お前が笑ってくれると、胸が熱くなった。
お前が体調不良なとき、生きた心地がしなかった、顔を見て生きててよかったと思った」
バルドは俯いたまま、続ける。
「お前を突き放したのは、嘘だ。
怖かったんだ。
俺みたいな男が、お前を好きになっていいのかって。
本気で恐れられたら、耐えられないって。
だから、先に自分で壊した。
……最低な男だ」
ミアが口を開きかけたとき、彼が先に言った。
「それでも、俺は……お前がいい。
政略とか、家柄とか、全部関係ない。
俺が、お前を選ぶ。
お前を、嫁にしたい」
顔を上げたバルドの目は、真っ赤に腫れていた。
それでも、真っ直ぐにミアを見ている。
「……俺と、結婚してくれ」
ミアはしばらく、ただ彼を見つめていた。
それから、ふわりと笑った。
「はい。
喜んで、お嫁に行きます」
バルドの目が見開かれる。
「……いいのか? 俺なんかで」
「いいんです。
あなたがいいんです。
不器用で、可愛くて、パンを愛おしそうに食べるあなたが」
ミアは彼の大きな手を、両手で包み込んだ。
「一生、私が作ったパンを食べてください。
私が、あなたの全部を満たしますから」
バルドは大きく息を吐き、次の瞬間、ミアの額に自分の額を寄せた。
「……ありがとう」
声が、震えていた。
夜風が二人の間を通り抜ける。
パンの甘い香りが、どこまでも穏やかに広がっていった。
バルドはしばらくして、そっとミアの肩に自分の外套をかけ直しながら、小さく呟いた。
「……今日のパンも、うまい」
「当然です。ふかふかな愛を込めてるんですから!」
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