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人食い騎士と、ふかふかなパン娘  作者: 花依はな


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前編

前後編の2部構成です。ヘタレヒーロー、好きだと嬉しいです!

三日三晩、まともに食事をとっていなかった。


近衛騎士のバルドは、ふらつく足で宿舎の裏路地を歩いていた。任務は成功した。仲間も無事だった。なのに体が鉛のように重い。視界の端がかすみ、足元が定まらない。


前を歩いていた人影に、気づいたときにはもう遅かった。


「きゃあっ!?」


バルドは前のめりに倒れ込み、柔らかい何かに顔を埋めた。


鼻先に、焼きたてのパンの甘い香りが広がる。

そして、驚くほど柔らかくて温かい感触。ふかふかと形を変えて、彼の頰や額を優しく受け止めていた。


押し倒されたミア——王宮食堂の下女は、大きな男が自分の上に覆いかぶさっていることにしばらく固まった。


重たい。熱い。そして、鼻先に焼きたてのパンの甘い香りがはっきりと漂っている。

ミアが慌てて彼を起こそうと肩を揺すったとき、バルドのお腹から「ぐぅぅぅっ……」と、情けないほど大きな音が鳴った。


三日三晩まともに食べていなかった空腹が、正直に主張している。


「……いい、匂い……」


意識がほとんどないはずのバルドが、かすれた声で呟いた。

顔をミアの胸元に埋めたまま、小さく鼻を鳴らすように息を吸っている。パンの香りを、必死に追いかけているみたいだった。


ミアは思わず苦笑した。


「もう、仕方ない人……」


ため息をつきながら、彼の大きな頭を自分の膝に乗せる。持っていた焼きたてのパンを小さくちぎって、彼の口元にそっと運んだ。


「ほら、食べて。とりあえずこれ」


バルドは無意識に口を開き、パンを噛んだ。

温かくて、柔らかくて、甘かった。三日分の空腹が、一気に押し寄せてくる。彼は目を閉じたまま、ただ黙々とパンを頰張った。


それが、二人の始まりだった。



――



それ以来、バルドは毎日食堂に通うようになった。


無表情のまま、いつもの席に座る。ミアが焼いたパンや、当日の定食を黙々と食べ、食べ終わると「美味しかった」と短く言って帰っていく。


最初はただの常連客だと思っていた。

でも、毎日同じ時間に、同じ席で、同じようにパンを頰張る姿を見ているうちに、ミアの視線は自然と彼に釘付けになっていった。


焦げた部分まで残さず食べる様子。

パンを手に持ったまま、小さく息を吐いてから口を開ける仕草。

食べ終わったあとに、ほんの一瞬だけ目を細めて「ふぅ」と息をつく顔。


無表情なのに、どこか満たされたような、穏やかな空気が漂っている。

その姿を見ていると、胸の奥がじんわりと温かくなるのが止められなかった。


「……また、食べに来てくれた」


そう思うだけで、忙しい厨房の仕事が少しだけ楽になる気がした。



――



とある日、ミアは朝から微熱があった。


無理をして厨房に立っていたが、明らかに顔色が悪く、動きも鈍い。食堂の仲間が心配して「今日は早めに上がれ」と何度も言ってくる中、ミアは「大丈夫です」と繰り返していた。


午後になって、いつもの時間が近づいたとき、入り口に大きな影が差し込んだ。


バルドだった。


鎧の一部を外しただけの軽装で、額には薄く汗が光っている。どうやら仕事の合間を縫って、わざわざ寄ってきたらしい。


彼はミアの顔を見た瞬間、足を止めた。


「……大丈夫か?」


声が少し掠れている。普段より明らかに動揺している。耳の先まで真っ赤になっていて、視線を合わせようとしてはすぐに外すのを繰り返していた。


「顔色が、悪い。無理するな」


不器用に近づいてきて、自分の水筒を差し出す。中にはまだ冷たいハーブティーが入っていた。


「これ……飲め。少しは、楽になる」


ミアが受け取ると、バルドは安堵したように小さく息を吐き、また耳を赤くした。


「……俺は、戻る。休め」


それだけ言って、逃げるように食堂を出て行った。


ミアは水筒を抱えたまま、しばらく動けなかった。


胸の奥が、熱でじゃない理由で熱い。

あの大きな背中が遠ざかっていくのを、ただただ、見送っていた。


そして、忘れられない出来事がもう一つあった。


食堂の裏手にある、人がすれ違うだけで肩が触れ合うほどの狭い通路。

ミアがトレイを持って急いでいたとき、ちょうど向こうからバルドが歩いてきた。


避けようとした瞬間、彼女の豊かな胸が、彼の腕にふわりと当たった。


「……っ」


バルドの体が、文字通り固まった。


直立不動。

目は見開かれ、顔は耳の先まで真っ赤に染まっている。口は半開きのまま、何も言えない。


「す、すまん……!」


やっと絞り出した言葉は、それだけだった。

彼はミアを見ることもできず、壁に背を押しつけるようにして道を譲り、逃げるようにその場を去っていった。


残されたミアは、トレイを抱えたままぼうっと立ち尽くした。


さっきまで自分の胸に当たっていた、彼の腕の感触が残っている。

あんなに大きな男が、ただ胸が触れただけで顔を真っ赤にして固まってしまうなんて。


「……可愛い」


小さく呟いた声は、誰にも聞こえなかった。


その反応が、たまらなく愛おしかった。

無表情な彼の、本当の姿を、自分だけが知っているような気がして、胸がきゅっと締まった。


それからというもの、二人の距離は少しずつ、でも確実に縮まっていった。


バルドが食堂に来る時間は、ミアにとって一日の中で一番自然と表情が緩む時間になった。

彼もまた、無表情な顔のままでも、ミアが自分の前にパンを置いてくれるときだけは、ほんのわずかに目を細めるようになっていた。


ある日の夕方、客がほとんどいなくなった食堂で、バルドは珍しく席を立たずに残っていた。

ミアが片付けをしながら近づくと、彼は少しだけ視線を上げた。


「……今日のも、うまかった」

「ありがとうございます」

「お前が焼くと、いつもより柔らかい」


その言葉に、ミアは思わず手を止めた。

バルドは自分でも言ってしまったことに気づいたらしく、耳を赤くして俯いた。


「……余計なことを言った。すまん」

「いえ」


ミアは小さく笑った。


「嬉しいです。

 また、食べに来てくださいね」


バルドはしばらく黙っていたが、やがて低く、短く答えた。


「……ああ」


その「ああ」が、ミアにはとても優しい返事に聞こえた。


二人の間には、まだ「好き」という言葉はなかった。

でも、もう「ただの客と下女」でもなかった。


気づけば、ミアは彼のことが気になって仕方なくなり、

バルドは彼女のパンを食べられない日が、ひどく寂しく感じるようになっていた。


甘くて危うい距離感。

それが、あと少しで壊れてしまうとも知らずに。



――



全てが崩れたのは、ある夜のことだった。


食堂はいつもより混み合っていた。任務明けの騎士たちが次々と詰めかけ、厨房は大忙しだった。ミアも汗を拭いながら、焼き立てのパンをトレイに並べていた。


そのとき、入り口付近で低い声がした。


「おい、見ろよ。あそこに座ってるのが、噂の『人食い』だ」


ミアの手が、止まった。


声の主は、バルドを快く思っていない別の騎士だった。酒が少し入っているのか、声が周囲に聞こえるくらい大きい。


「あの無表情の巨漢だよ。戦場じゃ敵を無慈悲に屠るからな」


周囲で小さく笑いが起きる。


「しかも昔、戦場でスープを作ったことがあってな。見た目が血みどろで、間違いなく人肉のスープだったらしい。あいつが黙ってそれを食ってたもんだから……周りは全員、怖がって近づかなかったそうだ。それ以来、完全に『人食い』で定着した」


ミアはゆっくりと顔を上げた。


いつもの席に、バルドが座っていた。

無表情のまま、彼女が焼いたパンを静かに頰張っている。焦げた部分まで残さず食べて、食べ終わると小さく息を吐く——いつもの、彼女が好きな姿。


なのに。


「あいつ、実は名家の次期当主でな。政略結婚の話も進んでるらしいぜ。相手の家から逃げられたとかで、だいぶご立腹らしいが」

「しかも最近、ここの下女にお熱なんだろう?次の獲物でも探してるのか?」


その言葉が、ミアの鼓膜を強く打った。


政略結婚。

逃げられた。

名家の次期当主。

人肉のスープを作った人食い騎士。


ミアの頭の中で、点が線になった。


噂の「血も涙もない、人を喰らう残虐な化け物騎士」。

自分が逃げてきた、政略結婚の相手。

毎日、この食堂でパンを美味しそうに食べている、あの人。


全部、同じ人だった。


ミアの顔が、わずかに強張った。


ほんの一瞬だった。

目が揺れ、唇がかすかに引き結ばれる。恐れ——それが、確かに彼女の表情をよぎった。


「で、...実際はどうなんだ?『人食い騎士』様!」


まるで勝ち誇ったかのような、汚い声が食堂に響く。

周囲の集まる視線の先は――――


「あぁ、あの下女か。ただの暇潰しの玩具だ。

 俺が噂の『人を喰らう化け物騎士』とも知らずに、餌付けした気になっている…実に滑稽だよ」


地の這うような低い声。

それは、見たことも無いぐらいに顔を歪めた、――バルドだった。


ミアは食堂の空気に、バルドの言葉に耐え切れず、食堂を飛び出した。

次は後編です!数日以内に上げる予定です!

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