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迷いの森

 鬱蒼と茂る森の中で、一人の女が樹の根本に座り、上半身を背後のささくれだった幹に預けていた。

 女は類まれなる美貌の持ち主であったが、今は苦痛にその顔が歪んでいた。もたれかかる樹や周囲の草花を、彼女から流れだした血液がところどころ赤く染めている。

 いくつもの玉のような汗が、褐色の肌の上をすべり落ちていく。蠱惑的な唇から吐き出される荒い吐息と共に、とがった耳がそれに伴ってかすかに動く。


 女は人間たちからダークエルフと呼ばれる種族であった。

 ダークエルフは人間たちから忌み嫌われており、それはダークエルフから人間を見た場合でも同様であった。

 両者が平時に出会ってもまず友好的なことは起きず、戦場で出会ったなら真っ先に殺し合うほどの間柄である。


 ――さすがに、これまでか。


 さきほど、その人間の一団と殺し合いに発展した結果。

 彼女は深手を負い、森の中に逃げ込んだのだ。

 この森は近隣の住民から迷いの森と呼ばれているが、彼女が潜んでいる場所はまだ人を迷わすほどに入り組んでいるわけではない。

 殺し合った相手も半数は始末したが、生き残りが血眼ちまなこになって自分を探しているであろう。

 ポーションをはじめとした回復アイテムも使い切った。彼らに見つかったら、もはや逃れるすべはない。


 そんな時、ついにがさりと草を踏む音が鳴った。


 ――追手がやってきたか。


 覚悟を決めたダークエルフは音の方を睨むように見つめ続けた。

 彼女のかすみ始めた視界の中、木々の間から姿を現したのは。

 まだ十歳程度であろう、小さくて可愛らしい人間の男の子だった。

 きょろきょろしていた男の子は樹にもたれている人影を発見し、目を驚きに見開いた。しばし、両者の視線が交差する。

 立ち尽くしたまま彼女をまじまじと見ていたものの、やがてその正体が分かったのか男の子は弾かれたように、ダークエルフに背を向けて走り出す。きっと、大人を呼びに行ったのであろう。


 今すぐ逃げるべきだが、もう体が動かない。

 ダークエルフの女は、すべてを諦めるかのように目を閉じた。




 しばらくして。

 何かの気配にダークエルフの女は目を覚ます。

 誰かが自分の周りを忙しなく動いているようだった。


 怪訝に思い、ゆっくりとまぶたを開けたダークエルフの視界に映ったのは。

 先ほどの小さな男の子だった。

 その周囲には薬草と思しき草や、それをすりおろすための道具が散在していた。

 しかもいつの間にやら、自分の怪我していたところに包帯が巻かれている。


「……あ」


 覚醒したダークエルフに気づいたのか、男の子は小さな声を漏らした。

 女は一言もしゃべらない。治療されていることはもちろん分かっているのだが、なぜこの子がそんなことをするのか理解できないのだ。

 ダークエルフが無言であることを受けて、男の子もそれ以上何も言わず、自分の作業に専念する。

 治療の手際は子供にしては見事であり、薬草の知識もふんだんにあることをうかがわせた。


「……どういうつもりだ?」


 ようやく、ダークエルフが言葉を発した。呆れ一割、警戒九割といった声音である。


「その……怪我をしていたから……」


 男の子は恐る恐るといった風情で小さく答え、ちらりと視線を合わせたあと、ふたたび作業に戻った。

 その動きをしばらく目で追ったあと、女はまるで糾弾するかのように冷たい言葉を投げかける。


「親から聞いたことはないのか? 私はダークエルフだぞ?」


 その言葉と声音を聞いた男の子は、今度は手を止めて、いわくある褐色の肌の持ち主をまっすぐに見据えて答えた。


「……聞いたことはあります。でも、目の前で苦しんでいる人を放っておくわけにはいきません」


 多少怯えてはいるが、その瞳は逆に強さすら帯びて女を見つめている。やましいことは何もないと言いたげだった。


 周囲にはこの子以外、誰の気配も感じない。

 どうやら、あの時駆け出したのは誰かを呼びに行ったのではなく、治療の道具を取り行っただけらしい。

 久しぶりにダークエルフの心の中に、温かなものが広がった。


「そうか……ありがとう」


 男の子はうなずくと、それからは黙々と手当を続けた。




 長い無言の時間が経過したあと、男の子がようやくダークエルフから身を離す。


「……終わりました。応急手当ですから完全な治療にはほど遠いですけど……僕はまだ見習いですし」

「なに、これだけしてもらえれば十分だ」


 その言葉を証明するように、ダークエルフはふらつきながらも立ち上がった。

 追手が迫っている可能性は捨てきれない。なるべく早く、この場を離れて森の奥に向かわなければ。


 男の子も、彼女に向かって事情を聞くようなことはしない。

 きっと二度と起こるようなことのない、気まぐれのような出会いだと。そのことを子供心に分かっていたからだ。


「……何と言えばいいか分かりませんが、その、お気をつけて」

「……ああ」


 ダークエルフは短い返事と共に、他の誰の前でも浮かべたことがない、精いっぱいの気持ちがこもった笑顔を男の子に見せた。


   ◇◆◇◆◇


 あの出会いから数年が経ったある日のこと。

 一人の少年が森の中を歩いていた。

 今では薬草売りを自分の所帯とした、あの時の男の子である。


 今日も薬草探しにやってきた少年は、しばらく採取作業を続けた後、今いる周囲の景色を見てふと思い出した。

 あの日の出会いを。ダークエルフの女を治療した出来事を。

 もちろんあの時の樹は変わらず目の前に立っている。

 少年は彼女がもたれていたその樹に近づき、そっと幹をなでた。


 あの時のことを村の中でしゃべったら、もちろんただでは済まない。彼一人しか知らない秘め事であった。

 それでも、あの時の行動は間違ってなかったと、誇りに思う。

 少年は過去を懐かしみながら、そろそろ薬草探しに戻ろうときびすを返しかける。


 そんな時、がさりと草を踏む音がした。

 まさか危険な獣かと、慌てて音の方に向き直った少年は驚きに目を見開く。

 かつて、この場所で自分が助けたダークエルフの女がそこに立っていたからである。

 数年経って自分の体躯は大きくなったものの、目の前のダークエルフの女はまったく変わっていない、美しい姿かたちをしている。もちろん、怪我していたあの時に比べれば生命力にあふれているが。


「あなたはあの時の! ご無事だったんですね。なによりです」


 まだ自分よりも少し背丈の高いダークエルフの女を見つめ、少年は笑顔で挨拶をした。それを見たダークエルフの女の口元に困ったような笑みが浮かぶ。


「……やれやれ、あの時も言ったと思うが、私はダークエルフだぞ? お前たち人間にとって不倶戴天ふぐたいてんの敵だろうに」

「それはそうかもしれませんが、僕はダークエルフのかたから酷いことをされたことはないので、理由もなしに憎むのはちょっと違うかなと思って」

「そうか……それを聞いて安心した」


 ほっとしたように息を吐いたダークエルフは一歩、少年の方に足を踏み出す。


「私はあの日以来、お前のことが頭を離れなかった。何度も諦めようと思ったが駄目だった。だから決めたんだ」


 さらに一歩。少年との間の距離が詰まる。


「お前を、森の奥へと連れて行く。人間が自力では決してたどり着けない、我々ダークエルフの隠れ里にな」


 少年は、ダークエルフの言葉を反芻はんすうし、ようやく彼女が何を言ったのかを理解した。

 自分を見つめる瞳が、まるで獣を追い詰める狩人のように感じられる。


 少年は後ずさ……ろうとして果たせなかった。

 ダークエルフの魔法か、草花のツタがいつの間にか少年の両足に絡みついていたのである。

 ダークエルフは熱に浮かされたような顔をして少年の目の前に立ち。


「逃がしはしない。絶対に」


 ついに少年の体を、抱きしめて捕まえた。




 もう二度とこの森から出ることは叶わない。

 少年はダークエルフと出会った時からすでに、真の迷いの森に入りこんでいたのだ。

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