第10話 ギャル、放課後サロンを開く
終わらなかった街の、その後
夜市から三週間後、セト・コスメのシャッターは半分だけ新しくなった。
全部を塗り直したわけではない。
傷や剥げは、あえて少し残した。祖母のサチ子が「新品みたいにしたら、あたしの店じゃない」と言ったからだ。褪せた桃色の上に、莉愛とノエルが選んだ新しい桃色を重ねている。近くで見ると古い色と新しい色の境目がわかる。遠くから見ると、夕焼けみたいに柔らかく見えた。
看板には、セト・コスメの文字。
その下に、小さな札が増えた。
放課後サロン 色えらび相談、あります。
莉愛は脚立から降り、看板を見上げた。
「どう?」
隣でノエルがメモ帳を開いている。
「少し傾いています」
「雰囲気」
「落ちると危ないので、直してください」
「編集者か」
「安全管理です」
莉愛は笑いながら、もう一度脚立に上った。
夜市のあと、商店街はすぐに救われたわけではない。
灰原不動産は再開発案の一時停止を発表した。住民同意書の説明不足が問題になり、景観協定の再確認が必要になったからだ。けれど、取り壊しが完全になくなったわけではない。耐震の問題も、空き店舗の問題も、資金の問題も残っている。
夢だけでは街は続かない。
それは、怜司が何度も言った。
莉愛はそのたびに「わかってる」と答えた。
今なら、本当に少しわかる。
好きだけでは足りない。
でも、好きがない計画は、人の顔を置いていく。
だから今、商店街では新しい案を作っている。
色見本帳をもとに、各店の色や看板の一部を残すこと。危ない建物は補強するか建て替えること。空き店舗には、学校や地域の活動スペースを入れること。古いものを全部そのまま保存するのではなく、何を残したいのか見えるようにして変えること。
名付けて、白灰カラーパレット計画。
名前は莉愛が出した。
怜司は最初「軽い」と言ったが、会議資料にそのまま使った。
「莉愛さん、次の予約は十六時半です」
ノエルが言う。
「誰?」
「白灰学園の一年生。写真を撮られるのが怖い子です」
「あの子か」
「はい。今日は、証明写真を撮る練習をしたいそうです」
ノエルの声は、以前より少しだけ通るようになった。
彼女は今、白灰学園の地域記録部を立ち上げようとしている。写真館はまだ再開できない。けれど、祖母がしていたように、街の色と人の顔を記録する活動を始めた。
空色のリボンは、毎日はつけていない。
つけたい日に、つけている。
それがいいと、莉愛は思う。
店内では、祖母のサチ子が丸椅子に座っていた。
退院してきたばかりなので、まだ長くは立てない。けれど口は元気だ。
「莉愛、そこの棚、右が下がってる」
「今やる」
「あと、リップの見本は明るい順に並べな」
「はいはい」
「返事は一回」
「はい」
ノエルが小さく笑う。
サチ子はそれを見て、目を細めた。
「あんた、笑うとお祖母さんに似てるねえ」
ノエルの動きが止まる。
泣きそうな顔になる。
でも、逃げなかった。
「ありがとうございます」
サチ子は何でもないことのようにうなずいた。
その何でもなさが、救いになることもある。
午後、律が部活帰りに顔を出した。
袖には赤いミサンガが見えている。
「申請、正式に通りました」
「おめ」
「校則説明会で、僕も少し話すことになりました」
「え、すご」
「声、震えると思います」
「震えても声は声」
「はい」
律は、もうその言葉を自分のものみたいに受け取った。
美玲も来た。
白いリボンは少し緩く結ばれている。手にはノートパソコン。
「清潔感指導の見直し案です。莉愛さんの意見も聞きたいと」
「ウチ、校則の専門家じゃないけど」
「顔を見る専門家でしょう」
「それ言われると弱い」
美玲は、以前より少し笑うようになった。
まだ硬い。
けれど、硬い線にも本人の色がある。
怜司は夕方に来た。
スーツではなく、白灰学園の制服だった。手には分厚い資料。
「カラーパレット計画の修正版です」
「名前、使ってる」
「会議で通りました」
「ほら、軽い名前も使えるじゃん」
「軽いから通ったのかもしれません」
怜司は、真面目な顔でそんなことを言った。
莉愛は吹き出した。
ノエルも笑った。
怜司は少しだけ気まずそうに目を伏せる。
「父は、しばらく表には出ません。会社としても、説明不足を認めざるを得ない状況です」
「怜司は?」
「僕は、残ります。数字を見る人間も必要でしょう」
「うん。必要」
莉愛がそう言うと、怜司は少し驚いた顔をした。
否定されると思っていたのかもしれない。
莉愛は続ける。
「数字も見る。顔も見る。両方ないと、また灰色になる」
怜司は、静かにうなずいた。
その日の午前中、莉愛は初めて商店街の再生会議に出た。
場所は、アーケード奥の集会所。蛍光灯が少しちらつき、長机にはお茶のペットボトルと分厚い資料が並んでいる。夜市の熱気とは違う、眠くなるほうの現実がそこにあった。
耐震診断。
補助金。
仮店舗。
権利関係。
空き店舗活用。
莉愛は最初の十五分で、正直かなり眠くなった。
でも、隣のノエルが真剣にメモを取っている。怜司は数字を説明し、美玲は学校との連携案をまとめ、レオンは過去資料の所在を補足している。
みんな、派手な場面のあとに残る地味な仕事をしている。
莉愛もペンを持ち直した。
宮田さんが言った。
「若い子のスペースを入れるのはいい。でも、騒がれると困る」
魚辰の奥さんが続ける。
「観光地みたいにされるのも嫌だよ。うちは魚を売る店だからね」
怜司が資料をめくる。
「商業機能を残す区域と、地域活動の区域を分ける案があります。ただ、予算が」
その言葉で空気が重くなる。
莉愛は手を上げた。
「予算の話、よくわかんないけど」
「でしょうね」
「怜司、今ちょっと刺した?」
「事実です」
「あとで覚えてろ」
何人かが笑った。
莉愛は続けた。
「でも、若い子が来る理由は作れると思う。放課後サロンとか、写真の練習とか、文具交換市とか。買い物だけじゃなくて、顔出していい場所にする」
山吹文具の管理人が眉を上げる。
「金になるのか」
「すぐにはならないかも。でも、来ない場所には絶対ならない」
自分で言いながら、莉愛は少し怖かった。
きれいごとかもしれない。
でも、夜市で見た人の流れは本物だった。黒板の前で足を止める子も、鏡の前に座る子も、撮影カードを握る子も本物だった。
怜司は少し考えてから言った。
「短期収益ではなく、利用実績として計上できます。補助金申請の根拠にもなる」
「ほら、数字の人」
莉愛が言うと、怜司は咳払いした。
「感情の人も、たまには役に立ちます」
「たまには余計」
会議はすぐにはまとまらなかった。
それでも、誰も「もう終わり」とは言わなかった。
それだけで、三週間前とは違っていた。
十六時半、予約の一年生が来た。
写真を撮られるのが怖いと言っていた子だ。名前は小野寺芹。彼女は店の入口で何度も深呼吸し、ノエルを見ると小さく頭を下げた。
「本当に、撮らなくてもいいんですか」
「今日は練習です。撮るかどうかは、小野寺さんが決めます」
ノエルの声は優しい。
莉愛は鏡の前の椅子を引いた。
「まず、どんな写真が嫌?」
「勝手に撮られるのが嫌です。あと、笑えって言われるのも」
「わかる」
「笑わないと、感じ悪いって言われるから」
ノエルが静かに言った。
「笑わなくてもいい写真はあります」
芹が顔を上げる。
ノエルは古い写真を一枚出した。
小さいころの莉愛が、浴衣姿で緊張した顔をしている写真。
莉愛は驚いた。
「それ」
「祖母の箱にありました」
写真の裏には、ノエルの祖母の字で書かれている。
『笑えなかった日も、ちゃんとその子の日』
莉愛は胸が詰まった。
芹は写真をじっと見ている。
「笑ってないのに、かわいいです」
「でしょ。ウチ、昔から素材がいいんで」
「莉愛さん」
「冗談だって」
店内に、小さな笑いが起きる。
芹はその日、写真を撮らなかった。
代わりに、ノエルと一緒に鏡の前へ座り、自分の横顔を見た。莉愛は髪を少しだけ整え、目元に透明のパウダーを乗せた。色はほとんどない。けれど、芹は鏡の中の自分を見て「これなら、少し大丈夫かも」と言った。
それで十分だった。
芹が帰ったあと、ノエルはしばらく写真を見つめていた。
小さいころの莉愛。
笑っていない顔。
でも、ちゃんとその日の中にいる顔。
「展示に、使ってもいいですか」
「ウチの昔の写真?」
「はい。地域記録部の最初の展示に」
「え、恥ず」
「嫌なら使いません」
ノエルはすぐに引いた。
その引き方があまりに丁寧で、莉愛は笑ってしまった。
「使っていいよ。でも、キャプションはウチが見る」
「もちろんです」
「『素材がいい』って書いて」
「書きません」
即答だった。
その週末、ノエル写真館跡のシャッター前で、小さな展示が開かれた。
立派な額はない。空き店舗の壁に、写真を傷めないように台紙を貼り、撮影可否カードと同じ色の小さな札をつけただけだ。
笑っている写真。
笑っていない写真。
後ろ姿。
手元。
店の道具。
シャッターの端の色。
ノエルは、写真の下に短い言葉を書いた。
『この人がここにいた』
それ以上は説明しない。
見に来た人が、自分で思い出せる余白を残すためだという。
魚辰の奥さんは、自分の手元の写真を見て笑った。
「顔よりいいねえ」
宮田さんは、顔NGカードを持ったまま写真に写っている自分の後ろ姿を見て、
「背中ならまだいけるな」
と言った。
律は姉と一緒に来た。姉は赤いミサンガの写真の前で立ち止まり、弟の頭を軽く叩いた。
「泣くからやめて」
「そっちが泣いてるじゃん」
美玲は展示の端で、撮影許可のルールを説明していた。以前の彼女なら、正しい手順を守らせるために立っていただろう。今は、誰かが安心して見るために立っている。
レオンは、地域資料として展示リストを作っていた。
「後世に残す」
「言い方が重い」
「記録は重い」
「はいはい」
怜司も来た。
制服姿で、少し離れたところから写真を見ている。ノエルの小さいころの写真の前で、彼は長く立ち止まった。
ノエルが隣へ行く。
「お兄様」
「……笑っていたな」
「はい」
「覚えていると言うのが、遅くなった」
ノエルは写真を見たまま言った。
「遅くても、言わないよりはいいです」
怜司は小さく頭を下げた。
莉愛はその場に割って入らなかった。
兄妹の間にあるものは、莉愛が盛って簡単に直せるものではない。時間がいる。失敗もする。たぶん、また傷つく。
でも、言葉が一つ置かれた。
それは消えない。
展示の最後に、サチ子が椅子に座ったまま写真を眺めた。
「下手だねえ」
ノエルが固まる。
莉愛も固まった。
サチ子は続けた。
「でも、いい写真だ。上手すぎると、見るほうが緊張するからね」
ノエルの肩から力が抜けた。
「ありがとうございます」
「褒めてるんだよ」
「はい。わかりました」
莉愛は小声で言った。
「おばあちゃん、褒め方クセ強い」
「誰に似たんだろうね」
「ウチじゃないし」
ノエルが笑った。
今度は、前より少し大きく。
その笑い声を聞いて、莉愛は思った。
街が変わるとは、こういう音が増えることなのかもしれない。
夕方、店を閉めたあと、莉愛は商店街を歩いた。
魚辰の藍色は、シャッターの端に残っている。
宮田青果の若草色は、値札に戻った。
山吹文具は、空き店舗だったが、週末だけ文具交換市を始めるらしい。
ノエル写真館の跡には、地域記録部の展示スペースを作る案が出ている。
全部が元通りではない。
戻らないものもある。
でも、終わったことにされなかった。
アーケードの端で、莉愛は立ち止まった。
スマホには、学校の友達からメッセージが来ている。
『文化祭、衣装案また出して』
『今度はちゃんと話聞く』
『てか商店街のやつ見た。莉愛すごくない?』
莉愛は笑った。
逃げたつもりで来た街で、結局また面倒なことを始めている。
でも、今度は少し違う。
自分の派手さを、言い訳にしなくていい。
好きなものを、誰かを助ける道具にしていい。
文化祭の衣装案は、結局もう一度莉愛が出すことになった。
前と違うのは、莉愛が一人で派手な案を持ち込むのではなく、クラスの子たちが「これは着たい」「これは無理」「ここだけ色を入れたい」と言うようになったことだ。
グループチャットには、夜遅くまで画像が飛び交った。
『全員ピンクはきつい』
『でも袖の裏だけ桃色かわいい』
『写真撮る時、顔NGの子どうする?』
『撮影カード作ろ。莉愛、商店街のやつ教えて』
莉愛は画面を見ながら笑った。
前なら、全員を盛れば絶対かわいいのにと思っていたかもしれない。
今は少し違う。
全員を同じように盛るのではなく、それぞれが自分で選んだ部分に色を入れる。
そのほうが、たぶんずっと強い。
学校で美玲とすれ違った時、彼女は文化祭実行委員の資料を抱えていた。
「撮影カードの運用、学園でも試験導入することになりました」
「マジ?」
「あなたが考えたわけではありませんが」
「芹ちゃん天才」
「はい」
美玲は素直にうなずいた。
その顔を見て、莉愛は少しにやけた。
「美玲ちゃん、最近いい顔する」
「観察しないでください」
「顔見る係なので」
「その係、いつまで続くんですか」
「たぶん一生」
美玲は呆れたようにため息をついたが、白いリボンの端には小さな黄色い糸が結ばれていた。
ノエルは地域記録部の申請書を出した。
顧問探し、活動場所、撮影同意のルール。面倒なことは山ほどある。けれど、申請書の最後に書かれた活動目的は、ノエル自身の字でまっすぐだった。
『人と場所が、勝手に別の意味へ切り取られないために記録する』
莉愛はそれを読んで、何も茶化さなかった。
代わりに、ノエルの肩を軽く叩いた。
「めっちゃノエルちゃん」
「褒めていますか」
「超褒めてる」
ノエルは少しだけ照れたように笑った。
予約ノートの最初のページには、もう何人もの名前が並んでいた。
芹。
律の姉。
黄色い髪留めの女子。
文化祭の衣装で相談したいクラスメイト。
商店街の奥さん。
それから、名前の代わりに「見るだけ」と書かれた予約。
莉愛はその「見るだけ」が好きだった。
買わなくてもいい。
変わらなくてもいい。
笑わなくてもいい。
まだ決めなくてもいい。
見るだけの日があって、その次に触るだけの日があって、いつか自分で選ぶ日が来るかもしれない。
サロンという名前は少し大げさかもしれない。
でも、祖母は反対しなかった。
「店ってのは、売る場所である前に、入ってこられる場所だからね」
そう言って、古い丸椅子の脚にフェルトを貼っていた。
莉愛はその背中を見て、胸が少し熱くなった。
いつか、自分もこんなふうに誰かを迎えられるだろうか。
まだわからない。
でも、わからないまま始めることには、少し慣れた。
その日の最初の客は、上野さんだった。
以前は「見るだけ」と言って帰った、薄桃の口紅の人。
上野さんは鏡の前に座り、少し恥ずかしそうに笑った。
「今日は、つけてみようかと思って」
莉愛は口紅を出した。
「その色で行きます?」
「まだ、派手じゃないかしら」
「派手かどうかより、今日の上野さんがどうしたいか」
言ってから、莉愛は少し照れた。
祖母の言葉を、そのまま自分の言葉みたいに使っている。でも、上野さんは笑わなかった。
「じゃあ、少しだけ」
莉愛はブラシに薄桃を取り、上野さんの唇へそっと乗せた。
ほんの少しの色。
でも、鏡の中の上野さんは、つける前より少しだけ顔を上げていた。
「変じゃない?」
「全然。めっちゃいい」
「めっちゃ、ねえ」
上野さんは照れたように笑い、一本買って帰った。
売上としては、小さな一本。
でも莉愛には、放課後サロンの最初の大きな成功に思えた。
祖母はレジ横で黙って見ていた。
「どう?」
「まあまあ」
「厳し」
「でも、顔は見てたね」
それだけで、莉愛は十分だった。
ノエルはその様子を、許可を取ってから一枚だけ撮った。
上野さんの顔ではなく、鏡の前に置かれた薄桃の口紅と、少しだけ背筋の伸びた後ろ姿。
「展示に使う?」
「本人がよければ」
「聞いてくる?」
「はい」
ノエルは店の外へ出て、上野さんに追いついた。二人が少し話し、上野さんが照れながらうなずく。
戻ってきたノエルは、写真のファイル名を丁寧につけた。
seto_cosme_usumomo_firstday。
「英語?」
「整理しやすいので」
「ノエルちゃんっぽ」
莉愛は笑った。
記録が増えていく。
売上伝票だけではない。
写真だけでもない。
誰かが自分で選んだ日の記録。
この店は、そういうものを少しずつ貯めていく場所になるのだと思った。
そして、たまに失敗も貯まるだろう。
似合わない色を選ぶ日もある。
言いすぎて謝る日もある。
誰かの怖さを、うまく聞けない日もある。
それでも、また椅子を整えて、鏡を拭く。
続けるとは、たぶんそういうことだ。
派手ではない。
でも、悪くない。
その静けさも、今の莉愛には好きだった。
セト・コスメへ戻ると、ノエルが看板の下で待っていた。
「莉愛さん」
「何?」
「明日の予約、増えました」
「何人?」
「七人です」
「多っ」
「盛り相談室、人気です」
「ノエルちゃん、そういうこと言うようになったね」
「莉愛さんの影響です」
二人は顔を見合わせて笑った。
その笑い声は、シャッターに当たって、商店街の奥へ転がっていく。
灰色だった街に、夕焼けの桃色が差し込んでいた。
莉愛は店の扉を開ける。
明日も誰かが来る。
自分の色を選びに。
嘘で飾るためではなく、顔を上げるために。
莉愛は鏡の前の椅子を整え、カウンターに予約ノートを置いた。
そして、笑って言った。
「はい次の子、今日はどんな自分で行く?」
ここまで読んでくださりありがとうございました。
莉愛とノエルたちの物語、楽しんでいただけたら嬉しいです。




