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ギャルはシャッター商店街を盛りたい  作者: 御茄子之与一


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第1話 ギャル、灰色商店街に帰る

全10話完結の現代青春ものです。灰色の商店街に、ギャルが帰ってきます。


 白灰商店街は、名前の通りに灰色だった。


 駅前からまっすぐ伸びるアーケードには、昼過ぎなのにほとんど人がいない。天井の透明板はところどころ白く曇り、ひびの入った場所にはブルーシートが張られている。シャッターの下りた店が続き、残っている看板も、赤だったものは茶色に、青だったものは薄い水色に、桃色だったものはほとんど白に近く褪せていた。


 瀬戸莉愛は、キャリーケースの持ち手を握ったまま立ち止まった。


 記憶の中のこの商店街は、こんな色ではなかった。


 小学生のころ、夏休みになると母に連れられて祖母の店へ来た。駄菓子屋の赤いのぼり、青果店の緑のテント、写真館の空色の看板、祖母の化粧品店の桃色の庇。夕方になると、惣菜屋のコロッケの匂いと、誰かの笑い声と、アーケードのスピーカーから流れる古い歌謡曲が混ざった。莉愛はその中を、祖母に買ってもらったラムネを握って走った。


 今は、音まで薄い。


 「……マジか」


 つぶやいた声が、シャッターに当たって小さく返ってきた。


 莉愛の髪は、肩のあたりで明るく巻いてある。昨日の夜、急いで染め直したミルクティー色だ。爪には桃色のラメ。制服の上に羽織ったカーディガンには、友達とおそろいで買った小さなチャームが揺れている。


 この街では、浮く。


 駅を出た時からわかっていた。コンビニ前の中学生が振り返った。薬局の前で立ち話をしていた女性たちは、莉愛の爪を見ると声を少し落とした。アーケードのガラスに映る自分は、灰色の写真にあとから貼り付けたシールみたいだった。


 でも、莉愛は髪を隠さなかった。


 隠した瞬間、自分で自分を悪いもの扱いする気がした。


 目的地は、アーケードの真ん中にある小さな店だった。


 セト・コスメ。


 祖母、瀬戸サチ子が一人でやっている化粧品店だ。古い引き戸の横には、手書きの紙が貼られている。


 しばらく休業します。


 その文字を見た瞬間、莉愛の胸がきゅっと縮んだ。


 祖母が倒れたと聞いたのは三日前の夜だった。命に別状はない。ただ、しばらく入院が必要だという。店は閉めるしかない。母は仕事を休めず、父は単身赴任中で戻れない。誰が店の様子を見るかという話になった時、莉愛は自分から「ウチが行く」と言った。


 本当は、少し逃げたかったのかもしれない。


 学校では文化祭の衣装でもめていた。莉愛が提案したクラス衣装は「派手すぎる」「白灰学園らしくない」と却下された。SNSでは、誰が撮ったのかわからない準備中の写真に「ギャルが仕切ると下品」とコメントがついた。


 笑って流した。


 けれど、笑って流したものは消えない。水に沈めたラメみたいに、底のほうでいつまでも光る。


 だから、祖母の店へ行くと言った時、莉愛はどこかでほっとした。


 ここには、小さいころの自分を「かわいいねえ」と言ってくれた祖母がいる。少なくとも、その記憶がある。


 鍵は古く、なかなか回らなかった。


 「お願い、機嫌直して」


 独り言のように言ってから、莉愛はもう一度力を込めた。


 かちり、と音がする。


 ドアベルが、からん、と鳴った。


 店内は暗い。古い棚に、口紅、化粧水、石けん、ヘアピン、ネイルカラーが並んでいる。いくつかはもう廃番だろう。カウンターの奥には丸椅子が二つ。壁には若いころの祖母らしい女性が、店先で笑っている写真が飾られていた。


 莉愛は電気をつけた。


 蛍光灯が二度瞬き、白い光が店を満たす。


 思っていたより、店は小さかった。


 「おばあちゃん、ここ一人でやってたんだ」


 声に出すと、祖母の不在が重くなる。


 カウンターにはノートが開いたままだった。鉛筆の字で予定が書かれている。


 十七時、灰原不動産。再開発同意書の件。


 そこだけ赤い丸がついていた。


 灰原不動産。


 駅前の大きなビルに看板が出ていた会社だ。白灰商店街をまとめて買い取り、複合施設に建て替える計画を進めている。母からも「おばあちゃん、同意書で揉めていたみたい」と聞いていた。


 莉愛は店内を見回す。


 棚の下には封筒が積まれていた。


 再開発説明会。

 景観統一計画。

 白灰駅前クリーンプロジェクト。


 きれいな名前ばかりだった。


 きれいな名前の紙ほど、触ると冷たい。


 莉愛は封筒を戻し、店の外へ出た。祖母の病院へ行く前に、商店街をひと回りしておきたかった。


 アーケードを進むと、写真館の跡があった。


 ノエル写真館。


 小さいころ、一度だけ入ったことがある。祖母に連れられて、浴衣姿の写真を撮ってもらった。緊張して笑えない莉愛に、カメラを構えた女性が「笑わなくてもいいのよ。その子の今の顔が、一番あとで懐かしくなるんだから」と言った。


 その言葉だけ、妙に覚えている。


 今はシャッターが下り、看板の空色はほとんど白く抜けていた。


 莉愛が見上げていると、背後から声がした。


 「そこは、もう営業していません」


 振り向くと、白い制服の男子が立っていた。


 きれいな顔立ちだった。前髪はきっちり分けられ、シャツの襟もまっすぐ。胸元には白灰学園の校章。莉愛の髪と爪を見た目が、一瞬だけ止まった。


 その一瞬で、だいたい何を思ったかわかる。


 「見ればわかる」

 「観光なら、駅前の新しい案内所へどうぞ。このあたりは老朽化して危ないので」

 「観光じゃないし」


 男子は少しだけ眉を動かした。


 「瀬戸さんのお孫さんですか」

 「だったら?」

 「灰原怜司です。再開発推進委員会の学生代表をしています」


 灰原。


 莉愛は、反射的に写真館の看板を見た。


 怜司はその視線に気づいても、表情を変えなかった。


 「祖母の店に何か用?」

 「本日十七時、同意書の確認に伺う予定でした。ご本人が入院されたなら、代理の方と話します」

 「来たばっかで、そんな話する気ない」

 「先延ばしにしても変わりません。商店街の八割は同意済みです」

 「八割が同意したら、残り二割は黙れって?」

 「そういう意味ではありません。ですが、現実を見ていただきたい」


 現実。


 その言葉が、灰色のアーケードにやけに似合った。


 莉愛は怜司を見返した。


 「現実ってさ、誰かの好きな場所を更地にする時に便利な言葉だね」


 怜司の眉が、今度ははっきり動いた。


 その時、アーケードの奥でざわめきが起きた。


 制服姿の生徒が数人、円になっている。中心に一人の女子がいた。


 長い黒髪。白灰学園の制服。色のない顔。


 いや、顔色が悪いというより、本人が自分を薄くしているように見えた。前髪の端に小さな絆創膏。手には古い写真を握っている。


 スマホを向けている女子が言った。


 「灰原さん、また黙るんだ」

 「動画、消してくれないかな。あんたのせいで学園の評判落ちてるんだけど」

 「清潔感指導に文句あるなら、転校すれば?」


 女子は何も言わない。


 怜司が低く舌打ちした。


 「ノエル」


 その名前で、莉愛はもう一度写真館の看板を見た。


 ノエル。

 ノエル写真館。


 怜司が歩き出すより先に、莉愛は生徒たちの輪へ向かった。


 「ちょい待ち」


 スマホの女子が振り向く。


 「誰?」

 「通りすがり。てか、今の何?」

 「関係ないんで」

 「関係ない人の前で動画撮って責めてるなら、公開イベントってことでいい?」


 女子の顔が引きつった。


 ノエルと呼ばれた少女が、莉愛を見た。


 瞳は薄い茶色だった。けれど光が入っていない。手に握られた写真には、商店街の夜市が写っていた。赤い提灯、青い浴衣、笑う子どもたち。端には、小さいころの莉愛らしい女の子もいる。


 スマホの女子が言う。


 「その人、炎上してるんですよ。校則違反のメイク動画を勝手に撮って拡散したって」

 「私じゃありません」


 ノエルの声は消えそうだった。


 「でもアカウント、あなたの名前だったじゃん」

 「違います」

 「証拠は?」


 莉愛は口を挟んだ。


 「逆じゃない? やったって言う側が証拠出すんでしょ」


 生徒たちが黙る。


 怜司が背後から言った。


 「莉愛さん。学園内の問題です」

 「ここ商店街だけど」

 「白灰学園の生徒指導に関わります」

 「じゃあ生徒指導なら、みんなで囲んで動画撮るのも指導なわけ?」


 怜司は答えなかった。


 その沈黙が、莉愛には答えに見えた。


 ノエルがそっと言う。


 「いいんです。慣れています」


 その言葉で、莉愛の中の何かが止まった。


 慣れていいことではない。


 自分のことを雑に扱われるのに慣れた顔を、莉愛は知っている。教室で、SNSで、親戚の集まりで、何度も見た。派手だから言われても仕方ない。おとなしいから押し付けてもいい。そういう空気は、どこにでもある。


 莉愛はノエルの手元の写真を指した。


 「それ、見てもいい?」

 「……古い夜市の写真です」

 「うん。すごい色」


 ノエルの指が震えた。


 「祖母が撮りました。この街がまだ、ちゃんと街だったころの」

 「今も街でしょ」

 「もうすぐ、違うものになります」


 ノエルは写真を胸に抱いた。


 その仕草が、莉愛には「守りたい」ではなく「もう守れない」と言っているように見えた。


 怜司が生徒たちへ言う。


 「今日は解散しろ。動画も消しておけ」

 「でも」

 「消せ」


 その声には逆らえない圧があった。生徒たちは不満そうに散っていく。


 残ったのは、莉愛、ノエル、怜司の三人だった。


 怜司はノエルを見た。


 「余計な騒ぎを起こすな」

 「……すみません」

 「謝る相手が違う。学園と会社の評判が落ちる」


 ノエルはまた、小さくなった。


 莉愛は一歩前へ出る。


 「会社の評判より、本人の話聞くのが先じゃない?」

 「あなたには関係ない」

 「さっきからそればっか」

 「関係ない人間が感情で口を挟むから、話がこじれる」

 「感情ない人間のほうが怖いけど」


 怜司の目が冷える。


 「白灰商店街は、もう維持できません。古い店を感情で残しても、誰も幸せにならない」

 「それ、決めるのあんた?」

 「数字が決めます」


 数字。

 現実。

 評判。


 怜司の言葉は、灰色の箱みたいだった。


 中に誰が入っているか見ないまま、蓋だけ閉じる。


 莉愛はノエルの写真を見た。


 提灯の赤。

 浴衣の青。

 小さな自分の笑顔。


 「じゃあさ、数字以外も見えるようにしたら?」

 「何を言っている」

 「この街、まだ色あるじゃん。見えなくなってるだけで」


 怜司は呆れたように息を吐いた。


 「ギャルの感想で再開発は止まりません」


 ギャル。


 その言い方に、莉愛は笑った。

 怒るより先に、笑えた。


 「止めるとは言ってない」

 「では何を」

 「盛る」


 怜司もノエルも、同時に黙った。


 莉愛は祖母の店を振り返る。


 褪せた桃色の看板。閉じたドア。でも中には、まだ口紅もネイルも、祖母が誰かの顔を見て選んだ色がある。


 「嘘で飾るんじゃなくて、本当のいいとこを前に出すって意味。店も、人も、街も。灰色でまとめられる前に、ウチが盛る」


 ノエルが、ほんの少しだけ顔を上げた。


 「どうして、そこまで」

 「見ちゃったから」

 「何を」

 「ノエルちゃんが、まだ写真を捨ててないとこ」


 ノエルの目が揺れる。


 写真を握る指に、力が入った。


 莉愛は笑った。


 「まず、その炎上動画。誰が作ったか調べよ。あと、商店街の色も取り戻す。おばあちゃんの店、勝手に終わったことにされたくないし」

 「無理です」

 「無理かどうかは、盛ってから考える」


 怜司が冷たく言った。


 「十七時に同意書の話をしに行きます。それまでに現実を見てください」


 彼はそのまま去っていった。


 残されたノエルが、小さく頭を下げる。


 「巻き込んで、すみません」

 「巻き込まれたっていうか、ウチが突っ込んだ」

 「でも、私と関わると迷惑が」

 「迷惑かどうか、ウチが決める」


 ノエルは黙った。


 莉愛は写真をもう一度見せてもらった。


 夜市の奥、祖母の店の前に若いころのサチ子が立っている。その隣に、ノエルの祖母らしい女性がカメラを持って笑っている。


 写真の裏には、細い字でこう書かれていた。


 色は、人に選ばせてあげること。


 莉愛は息を止めた。


 祖母の字ではない。たぶん、写真館の人の字だ。


 ノエルが呟く。


 「祖母の言葉です。私は、ずっと意味がわかりませんでした」


 莉愛は写真を返した。


 「じゃあ、一緒に意味探そ」


 遠くで、アーケードのスピーカーが鳴った。


 『白灰駅前再開発説明会のお知らせです。安全で清潔な新しい街へ――』


 機械的な声が、灰色の天井に反響する。


 莉愛はその声を聞きながら、祖母の店の鍵を握りしめた。


 十七時まで、あと三時間。


 現実を見るなら、まず全部見てやる。


 灰色に塗りつぶされたものの奥に、まだ残っている色まで。


 病院へ向かうバスの中で、莉愛は何度も写真の裏の言葉を思い出した。


 色は、人に選ばせてあげること。


 簡単な文なのに、変に胸に残る。色を選ぶなんて当たり前だと思っていた。似合う、似合わない。好き、嫌い。今日は赤、明日はベージュ。莉愛にとってそれは、朝に靴を選ぶのと同じくらい普通のことだった。


 けれどノエルは、写真を握りしめながら「もうすぐ違うものになります」と言った。


 自分で選ぶ前に、終わる。


 それは、どんな感じなのだろう。


 病室の祖母は、思ったより顔色がよかった。


 「来たかい、派手なの」

 「第一声それ?」

 「褒めてるんだよ」


 サチ子はベッドの上で上体を起こし、莉愛の爪を眺めた。


 「いい桃色だ。春の桃じゃなくて、夕方の桃だね」

 「おばあちゃん、相変わらず言い方プロ」

 「何年この仕事してると思ってる」


 その声を聞いて、莉愛は少しだけ安心した。


 けれど、再開発同意書の話をすると、祖母の目つきはすぐに店主のものへ変わった。


 「あたしはまだ書いてないよ」

 「灰原って人が、十七時に来るって」

 「来るだろうね。あの子は時間に正確だ」

 「知ってるの?」

 「怜司くんかい。小さいころは、写真館のノエルちゃんの後ろをよくついて歩いてた」


 莉愛は身を乗り出した。


 「ノエルちゃん、昔笑ってた?」

 「笑ってたよ。よく笑う子だった。写真館の奥さんが、笑顔ばかり撮りたがらない人でね。泣いた顔も、怒った顔も、ちゃんとその子の顔だって言ってた」

 「今、全然笑わない」

 「そうかい」


 祖母は窓の外を見た。


 「街は、人の顔を変えるからね。いいほうにも、悪いほうにも」


 莉愛は写真のことを話した。


 夜市。

 色見本。

 『色は、人に選ばせてあげること』という言葉。


 祖母は長い間黙っていた。


 「その写真、大事にしな」

 「色見本帳って知ってる?」

 「知ってる」

 「どこにある?」

 「知らない」

 「えー」

 「本当に知らないんだよ。ノエル写真館の奥さんが、最後まで手元に置いていた。商店街の色を全部記録していたけど、写真館が閉まる前にどこかへ分けたらしい」

 「分けた?」

 「一冊で持ってると、奪われると思ったんだろうね」


 奪われる。


 その言葉に、莉愛の背筋が冷えた。


 「おばあちゃん、何か隠してる?」

 「隠せるほど元気なら、入院なんかしてないよ」

 「それはそう」


 サチ子は莉愛を見た。


 「莉愛。店を見るなら、品物だけじゃなくて鏡を見な」

 「鏡?」

 「あそこへ来る人は、商品を見に来るんじゃない。鏡の中の自分を見に来るんだよ」


 莉愛は黙った。


 祖母は続けた。


 「似合う色っていうのは、その人を別人にする色じゃない。その人が、少し顔を上げられる色だ」

 「……盛るって、そういうこと?」

 「あんたの言葉なら、そうなんだろうね」


 帰りのバスで、莉愛はスマホを開いた。


 文化祭のグループチャットには、未読がたまっていた。衣装案は別のものに決まったらしい。莉愛の案より無難で、白灰学園らしくて、誰にも怒られなさそうなデザイン。


 『莉愛、商店街どう?』

 『大丈夫?』

 『衣装の件、気にしてないよね?』


 気にしてない、と打ちかけて消す。


 気にしている。


 でも、それだけではない。


 莉愛は代わりに、短く返した。


 『ちょっと灰色。盛りがいある』


 送信して、窓の外を見た。


 夕方の白灰商店街は、行きよりも少し暗かった。


 でも、セト・コスメの看板の桃色だけは、街灯の下でまだかすかに残っている。


 莉愛はバスを降り、店へ戻った。


 十七時まで、あと二十分。


 カウンターの上に写真を置き、祖母の顧客メモを横に並べる。灰原怜司と話すためではない。自分が何を見ようとしているのか、忘れないためだ。


 店の明かりをつけると、外から見たセト・コスメは思ったより小さかった。


 ショーケースのガラスには細かな傷があり、棚の端は少し日に焼けている。ドラッグストアみたいに商品がぎっしり並んでいるわけでも、駅前のコスメショップみたいに新作ポスターが光っているわけでもない。


 それでも、鏡だけは妙にきれいだった。


 祖母が毎日拭いていたのだろう。丸い鏡の縁には、桃色の小さな花模様が残っている。古くて、今っぽくなくて、でも雑には扱われていないものの顔をしていた。


 莉愛は鏡の前に立ち、自分を見る。


 明るい髪。

 桃色の爪。

 制服ではない私服。

 学校にいれば浮く姿。商店街でも、たぶん浮く姿。


 でも、鏡の中の自分は逃げていなかった。


 「よし」


 莉愛は祖母の顧客メモをもう一度開いた。文字は短い。けれど、商品名より人の状態のほうが多く書かれていた。


 赤はまだ怖い。

 笑う日じゃない。

 娘と会う前。

 仕事に戻る朝。


 メイクの記録というより、誰かが顔を上げる直前の記録だった。


 その時、ガラス戸の向こうで人影が止まった。


 怜司ではない。


 買い物袋を提げた年配の女性が、看板を見上げている。入るか迷って、帰ろうとして、また看板を見る。莉愛は反射的に戸を開けた。


 「いらっしゃいませ」

 「あら。サチちゃんのところの子?」

 「孫です。莉愛っていいます」

 「まあ、大きくなって。昔、飴ばっかり食べてた子でしょう」

 「それはたぶんウチです」


 女性は少し笑った。


 「今日は買うものじゃなくてね。サチちゃんが入院したって聞いて」

 「ありがとうございます。まだ入院中ですけど、元気に文句言ってます」

 「それなら安心ね」


 女性は帰りかけたが、鏡の前で足を止めた。棚に残っていた薄い口紅を見ている。手に取らない。けれど、見ている。


 莉愛は顧客メモをめくった。


 上野さん。赤はまだ怖い。まずは薄桃。


 名前を見つけた瞬間、胸が鳴った。


 「上野さん、ですか」

 「覚えてたの?」

 「おばあちゃんのメモに」


 莉愛は薄桃の口紅を出した。


 「これ、まだ怖くない赤、って書いてありました」


 上野さんの目が少し潤んだ。


 「サチちゃん、そんなことまで」

 「つけます?」

 「今日は、見るだけ」

 「見るだけでもありです」


 莉愛がそう言うと、上野さんは鏡の前に座った。口紅はつけない。ただ、キャップを開けて色を見る。ほんの数分のことだった。


 「この色、まだあったのね」

 「あります」

 「じゃあ、また来るわ。つけたくなった日に」

 「はい。待ってます」


 上野さんが出ていったあと、莉愛はしばらく鏡を見ていた。


 売っていない。

 説得していない。

 ただ、色がそこにあると見せただけ。


 それでも、誰かの足は少し止まる。


 莉愛は顧客メモの端に、小さく書き足した。


 上野さん。今日は見るだけ。帰る時、少し顔が上がった。


 祖母なら何と言うだろう。


 勝手に書くな、と怒るかもしれない。

 でも、たぶん消さない。


 ドアベルが鳴る。


 今度は、きちんと覚悟して振り向いた。


 灰色の話をする前に、桃色の店の明かりをつけておく。



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