第6話 賢者の研究
テルムは街を歩いていた。
ヴェレント領の朝はいつも賑やかだ。
王都から馬で半日ほど南に下ったこの街には、街道を行き交う旅人と周辺の農村の人々が集まる。石造りの建物が肩を寄せ合い、煙と声と馬の蹄の音が重なって、朝の市場はいつも騒がしかった。
テルムはこの街が嫌いではなかった。
目立ちすぎず、かといって何もないわけでもない。
今世は少しゆっくりやろうと思っていた。
珍しく、そう思っていた。
エルが前を歩いていた。小さな体で石畳を踏んで、耳をあちこちに向けながら、足取りは軽い。
「テルムくん、今日もいい天気ですね」
「そうだな」
「昨日もいい天気でしたね」
「……そうだな」
「明日もいい天気だといいですね」
「うるさい」
いつもと変わらない朝だった。それがまあ、悪くなかった。
食料の買い足しと、エルが頼んでいた素材の確認。用事はそれだけだ。本屋の前で少し足を止め、並んだ背表紙をざっと確認してから通り過ぎた。
市場の手前に差しかかったとき、テルムは一瞬だけ視線を動かした。棚の一角が妙に空いている。隣の商人も同じ区画を気にしているようだった。季節の問題かもしれない。仕入れの遅れかもしれない。どちらでも構わなかったが、何となく目に残った。
「テルムくん、止まってください」
エルの声で立ち止まる。
路地の角に、小さな石像があった。台座には花が供えてあり、参拝らしき跡がある。人の形をした、細い彫刻の施された像。表情が妙に凜としている。
エルがじっとそれを見た。見た。まだ見た。
それから振り返った。両足でぴんと立って、胸を張り、片手を腰に当てた。尻尾がすっと上がっている。
「……神々しいですよね」
「どこがだ」
「よく見てください。この凛としたお顔、気品あふれる佇まい——崇めてもいいのですよ? ふふん」
「猫が言うな」
「今は猫型なだけです。本質は同じです」
「石像の方がおとなしそうだ」
「それは言いすぎです」
「でも似てますよね」と言いながら、尻尾が少し高くなった。テルムはため息をついて先を歩いた。
似ていない、とは言い切れないのが少し腹立たしかった。
***
昼になって、なじみの宿屋に入った。
暖簾をくぐると、厨房の方から声が飛んでくる。「お、テルムか」。がっしりした体つきのおっちゃんが顔を出した。テルムが物心ついた頃からここにいる。屋敷よりよほど長い時間を過ごしてきた場所だ。
「昼飯か」
「そうだ」
「また実験か? ほどほどにな」
テルムは何も言わなかった。エルが目を輝かせた。
「え、何かあったんですか」
おっちゃんがエルを見た。三秒ほど、固まった。
「……今、喋ったか」
「喋りました」
「従魔だ」とテルムが言った。
「へえ……」おっちゃんは納得したような、していないような顔のまま、エルに向き直った。「テルムの実験か? まあ聞いてくれよ。去年の夏なんかひどかったぞ。虫が大量発生してな、虫刺されで泣きながら逃げ回っとったわ。がっはっは」
「それは知らなかった——」
「その話はいいだろ」テルムが遮った。「昔のことだ」
「まあまあ。でもエルちゃん、一緒にいるなら覚悟しとけよ」
エルがテルムを見た。にこにこしている。テルムは窓の外を向いた。
虫の件は失敗というよりは想定外の副産物であって、あれは術式の構造上やむを得なかった。説明するほどのことでもないのでしていないが。
「そういや、最近この辺も物騒でな」
食事を運びながら、おっちゃんが声を落とした。
「夜に人が消えたって話を聞いた。街道の方らしいが」
テルムは椀に目を落としたまま答えた。
「ふーん。気をつけておく」
それだけだった。いつもと変わらない忠告だと思った。
***
午後になって、自室に戻った。
テルムの部屋は、屋敷の離れにある。庭に面した静かな場所で、ここだけは自分のペースで動ける。地下室も自分で掘った。何かあるたびに少し広げてきたので、今では相応の広さになっている。実験のことを知っているのは、おっちゃんと——あとはエランくらいのものだ。
石段を降りると、冷えた空気が来る。準備は昨日のうちに終えてあった。道具の配置、素材の配分、術式の確認。迷うことがないように全部決めておく。これは癖だった。何世もかけて染み付いた、たぶん最初の頃からの癖だ。
エルの輪郭が揺らいで、エランが立った。自室に戻るとだいたいこうなる。白い衣が地下室の薄暗さの中でやけに明るかった。
テルムは道具を並べ始めた。インク、媒介石、補助ラインの粉末。棚から一つずつ取り出して、決めた場所に置く。一つ置くたびに全体の形が整っていく。段取りを踏む時間は嫌いではなかった。考えることが多すぎて頭の中がうるさい時でも、手を動かしていると静かになる。
床に魔法陣を描き始めた。複数の術式を組み合わせた、今世向けの構成だ。線一本の角度が狂えば全部やり直しだ。
「この魔法陣は、荒廃した世界で高純度の氷の魔石を生み出すために作ったものだ。本当は希少金属を用いるんだが、この世界ではまだ見つかっていないので、複数の植物と地竜の魔石で代用する。原理的には——」
「うへぇ、全然わからないですー……」
「まぁ、見てろ」
エランがいつの間にか静かになって、手の動きを見ていた。さっきまでの賑やかさが嘘のように、息を殺して見ている。
「……すごい」
「まだこれからだ」
「でもすごいです。魔術って、こんな形になるんですね」少し間があった。「綺麗です」
エランの声は本気だった。下界に来てから何もかもが初めてで、全部が素直に驚けるらしい。時々それが羨ましいと思う。テルムにはもうずいぶん前から、初めて見るものがない。
「発動してから言え」
魔法陣の線が光り始めた。端から順に、一本ずつ、静かに。エランが小さく息を詰めた。全ての線が繋がって、陣全体が白く輝く。エランの目が広がった。
テルムは集中を保ちながら、魔力を通した。理論は合っている。構造は問題ない。あとは——
「……魔石の応答が鈍い」
ボフン、と情けない音がした。
次の瞬間、魔法陣から吹雪が吹き荒れた。
地下室の中で暴風が起きた。インクが飛ぶ。粉末が散る。棚の上のものが雪崩れる。テルムは反射的に目を細めた。
「やばい」
「ええ、ええ!?」
「上だ、上に行け!」
二人で石段を駆け上がり、扉を引き下ろした。がこんがこん、と下から何かが叩き続ける。テルムとエランで全体重をかけて押さえた。次第に音が収まっていく。吹雪の勢いが落ちる。やがて静かになった。
そっと扉を開けた。
地下室が、白かった。壁も棚も道具も全部、雪に埋まっている。さっきまで整然と並べた素材が、どこにも見えない。
「……」
テルムはしばらく、それを見ていた。
「……魔石の純度が足りなかったか」
後ろで、エランが腹を抱えて笑っていた。
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