第6話 トラブルの予兆と実験
テルムは街を歩いていた。
ヴェレント領の朝は、いつも賑やかだ。王都から馬で三日ほど北、この街には旅人と農村の人々が集まる。
石造りの建物のあいだを縫うように、人と声と煙が絶えず流れている。
エルの耳が一気にあちこちへ動く。
尻尾まで忙しそうだ。
売り子の声、鉄を叩く音、煮えている何かの匂いまで拾おうとして、どうにも落ち着きがない。
「あれはなんですか」
「干した果物だ」
「あの匂いは」
「香辛料の店が近い」
「すごい人ですね」
「市の日だからな」
少し間を置いて、また。
「テルムくん」
「なんだ」
「テルムくん」
「うるさい」
エルが一瞬しゅんとして耳を伏せた。
だがすぐに耳が立つ。
もう次の屋台に意識が向いている。
(……賑やかになったもんだ)
誘拐事件から一週間、エルのいる生活にもだいぶ慣れてきた。
この一週間で、魔法陣の素材はほとんど揃った。
あとは、足りない分を買い足せば完成する。
エルにちらりと視線を向ける。
(この女神は、好奇心の塊だ。倒れるまで本を読み、止めるまで質問する。知恵はあるのに、落ち着きだけがない。まるで知恵のある赤ん坊だ)
そう思って、少しだけ口元が緩んだ。
屋台に辿り着く。
インクに混ぜる植物と、調合用の液体。
棚を確認しながら、必要なものを手に取っていく。
(今日は品揃えがいい)
「あともう少しですね」
「ああ。これだけあれば最後までいける」
「すごく楽しみです! 何が起きるんでしょう?」
エルが大きく尻尾を振る。
「……何も起きない」
派手なのを期待しているようだが、雪の魔石を作るだけの術式だ。
これだけ潤沢に素材が揃えば問題ない。
テルムは棚を見返す。
それにしても、今日は本当に品揃えが良い。
(ついでに、他の在庫も買い足しておくか)
頭の中で、研究室の様子を思い浮かべ、棚の瓶に手を伸ばす。
——そのときだった。
「どろぼうよー!」
甲高い声が市場の奥から飛んだ。
エルの耳がぴくりと反応する。
尻尾が細かく揺れ始めた。
(……本当に来るのか)
前回、エルは言っていた。
「市場といえば、泥棒との遭遇がお決まりです」と。
そのときは何も起きず、落ち込んでいたが——
石畳を叩く足音が、まっすぐこちらへ近づいてくる。
「テルムくん、これは……」
エルの目が輝き、身体がわずかに前に傾いた。
「気にするな」
テルムは棚から目を離さない。
周囲のざわめきが広がり、人の流れが割れていく。
「もうすぐですよ」
「出番ですよ」
「うるさい」
エルの耳が忙しく動く。
尾がリズムを刻む。
(絶対、楽しんでいる)
テルムは小さく息を吐いた。
男が駆けてくる。
大柄で、荒い息。
人の波をかき分けて、まっすぐこちらへ。
テルムはもう一度息を吐き、ポケットから一粒だけ種を摘んだ。
そのまま、棚に向き直る。
エルが期待を込めて見上げる。
——さあ、テルムくん。
尾がまっすぐ立ち上がる。
——やっておしまい!
だが、テルムは動かない。
——あれ?
エルが一瞬、間の抜けた顔をした。
「あの、テルムくん——」
言い終わるか否か、男がテルムの脇を駆け抜けると同時、テルムが後ろに種を弾いた。
次の瞬間。
両足が、ぴたりと止まった。
上半身だけが勢いのまま前に飛び出し、
両手が宙に浮き、
顔面から、石畳へ叩きつけられた。
鈍い音が響く。
エルが目を丸くする。
周囲が一瞬、静止する。
すぐに数人が駆け寄り、男を取り押さえる。
「こら、大人しくしろ」
「逃げんなよ」
だが、男の足がもつれる。
「ちゃんと立て」
「あ?」
誰かが足元を覗き込む。
「……なんだこれ」
両足に蔦が巻きついている。
——さっきまで、そんなものはなかったはずだ。
ざわめきが広がる。
誰も答えを持っていない。
テルムはすでに隣の店に移っていた。
瓶を手に取り、底の刻印を確認している。
エルがじっと見上げる。
「……テルムくん、期待してたのと違います」
「目立たない方がいいだろ」
確認を続けながら、短く答える。
「わたしは無双が見たかったんです」
「そうか」
納得していないエルを無視して、次の棚に移動した。
(ん?)
ふと違和感を覚えた。
棚の一角が、妙に空いている。
前に来たときも同じだった。
(他の棚は在庫が戻ってきたのに……仕入れか、それとも)
理由はわからない。
だが、その場所だけ空気が違った。
***
一通り在庫を買い揃えた頃には、太陽が真上に上がっていた。
「昼を食べてから帰るか」
「わたしも入って大丈夫そうですか?」
「昔馴染みの店だ、問題ない」
市場の通りを離れ、噴水広場へと向かう。着いたのは、広場に面した宿屋だった。
暖簾をくぐると、厨房の方からがっしりした体つきのおっちゃんが顔を出し、すぐに声が飛んでくる。
「お、テルム、昼飯か?」
「そうだ」
おっちゃんはテルムの持ち物に視線を向けた。
「随分買ったな。また実験か? ほどほどにな」
テルムは何も言わなかった。エルが目を輝かせた。
「え、何かあったんですか」
おっちゃんがエルを見た。三秒ほど、固まった。
「……今、喋ったか」
「喋りました」
「従魔だ」とテルムが言った。
「へえ……」おっちゃんは納得したような、していないような顔のまま、エルに向き直った。
「まあ、まずは席についてくれ。食事はいつものだろ?」
おっちゃんは席に案内すると、厨房の方に行ってしまった。
「何があったんですか?」
「さあな」
しばらくすると、おっちゃんが料理を持って戻ってきた。
「さっきの教えてください!」
「おい——」止める間も無く話し始める。
「テルムの実験か? 色々あるんだが——去年の夏もひどかったぞ。虫が大量発生してな、虫刺されで泣きながら逃げてきたんだ。がっはっは」
「泣いてないし、逃げてない。ちゃんと処理した」
「でも、その後、セルウスから逃げたんだろ」
「その話はいいだろ」テルムが窓の外を向いた。「昔のことだ」
「まあまあ。でもエルちゃん、一緒にいるなら覚悟しとけよ」
エルはテルムを見て、尾を一振りした。
「そういや——最近この辺は物騒でな」
おっちゃんが声を落とした。
「夜に人が消えたって噂をよく聞く。貧民街の方らしいが」
テルムは椀に目を落としたまま答えた。
「ふーん。気をつけておく」
それだけで十分だった。
***
午後
自室の地下室への床板を持ち上げ、冷えた石段を降りていく。
目の前には、床に広がった描きかけの魔法陣と綺麗に並んだ、道具や素材があった。
(さあ、最終段階だ)
エルの輪郭が揺らぎ、エランが現れる。
白い衣だけが、薄暗い地下で浮いていた。場違いなほどに明るい。
テルムは購入してきた素材を並べる。
インク。媒介石。補助ラインの粉末。
一つずつ、決めた位置へ置くと、頭の中の雑音が、すっと消えていった。
手際よく材料を調合し、出来た塗料で魔法陣の続きを描く。
静かな時間が流れる。
(これで、よし)
最後の線を繋ぎ、視線を上げると、目の前に真剣な顔のエランがいた。
エランと目が合う。
「この魔法陣は、高純度の雪の魔石を生成する術式だ。本来なら、この世界に存在しない希少金属が要る」
「へぇ……」
「だが、複数の植物と地竜の魔石を組み合わせれば、同じ効果を再現できることがわかった」
「へぇ……全然わからないです」
「いい。見てろ」
少しずつ魔力を流し始める。
周囲から淡く発光し出した。
「……すごい」
「まだ、確認段階だ」
「でも、すごいです。魔術って、こんな形になるんですね」
少しの間。
全部の線が薄い光で繋がる。
「綺麗です」
本気の声だった。
初めてに満ちたその目が、少しだけ羨ましい。
「発動してから言え」
線が光を放ち始める。
端から順に、光の帯が立ち上がる。
やがて、陣全体が白い帯に包まれた。
エランが息を呑む。
その音すら聞こえる静けさ。
空気が張り詰める。
テルムは流す魔力の量を増していく。
理論は問題ない。構造も崩れていない。
あとは——
(……魔石の応答が鈍い)
途端、ボフン、と間の抜けた音。
「やばい——」
「ええ、ええ!?」
次の瞬間、視界が白に塗り潰され、吹雪が爆発した。
地下室を暴風が駆け抜け、インクが飛び、粉末が舞い、棚が崩れる。
「上だ! 上に行け!」
石段を駆け上がり、扉を引き下ろす。
直後、下から叩く衝撃。がこん、がこん、と扉が浮き上がる。
「テルムくん! これ、いつ終わるんですか!?」
「直ぐだ、直ぐ切れる」
二人で押さえつける。
全体重をかける。
やがて、音が弱まり、静寂が戻る。
「終わったな……」
「これ、どうなってるんですか?」
(……考えたくない)
「——開ければわかる」
そっと扉を開けると、真冬の寒さが上がってきた。
石段は雪で覆われている。
おそるおそる下る。
地下室は——見渡す限り白かった。
壁も棚も道具も、さっきまでそこにあった形のまま雪に呑まれ、すべてが凍りついていた。
「……」
テルムはしばらく見ていた。
「……魔石の純度が足りなかったか」
背後で、エランが吹き出す。
「ぷっ、ははは! テルムくん、雪まみれですよ!」
「黙れ」
凍てつく冷気が肌を刺す。
このままなら、庭も凍る。
(……庭が凍る前に、セルウスへの言い訳を考えないとな)
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