第5話 神界のざわつきと市場無双
神々の集まる場所には、川の流れる音がする。
祈りの場でも議論の場でもない。ただ神々が自然に集まる。
重要な話も、どうでもいい話も、等しく川の音に紛れていく。
神界は思いのほか静かだった。
最近までは。
「もう!エランどこにいったのよ」
エランの管理している星の神託は、本来ならエランが行う。
だが今は、その多くがリュンのもとへ回ってきている。
理由は一つ。
エランがいない。
「エランのことなら一番知っているでしょうって、横暴よ」
(その通りなんだけどさ……)
「妹いるんだから、ユランに回しなさいよ……」
「ユランは、残念だからダメだって、本当にあの姉妹は、ああ!」
神界と人間界では時間の流れが違う。
数日など誤差のようなものだ。
それでも——エランは、業務を放り出す神ではなかった。
「……また何かやらかしたのね」
小さく呟いた。
「読書仲間たちも、エランが何かすごいものを書き残していたって騒いでるし」
「転生システムの欠陥の研究もあいまって、ざわざわしているし」
「最近なんなのよもう」
「あの子、大丈夫かしら」
その時、リュンに声がかかる。
「はい、今行きますよ、まったく」
「早く帰ってきなさいよ……エラン」
その願いが届くことはない。
——なお、その頃。
***
市場は、馬車の中から見た景色よりずっと賑やかだった。
エルの耳が一気にあちこちへ動く。
尻尾まで忙しそうだ。
路地に入った瞬間から音が変わる。
売り子の声、鉄を叩く音、煮えている何かの匂い。
いろんなものが、いっぺんに押し寄せてくる。
「あれはなんですか」
「干した果物だ」
「あの匂いは」
「香辛料の店が近い」
「すごい人ですね」
「市の日だからな」
少し間を置いて、また。
「テルムくん」
「なんだ」
「テルムくん」
「うるさい」
エルが一瞬しゅんとして耳を伏せた。
でもすぐに尻尾がぴんと立って、次の屋台に耳を向ける。
テルムは先を歩きながら、小さく息をつく。
黙れ、とまでは言っていない。自分でも気づかずにそのくらいの加減をしている。
少し歩くと、目的の屋台を見つけた。
インクに混ぜる植物、調合用の液体を一瓶。
(あとは地竜の魔石が揃えば——)
棚を確認しながら手に取っていく。
「必要なものって少ないんですね」
「ああ、意外とな。組み合わせで何とかなることが多い」
「へぇ、すごいですね」
「絶対わかってないだろ」
(その組み合わせが膨大なんだがな——)
と、考えを巡らせていると、市場の奥から声が飛んだ。
「どろぼうよー!」
甲高い女の声。
テルムがぴくっと反応する。
(本当にエルの予想が当たるのか……面倒だな)
石畳を叩く足音が聞こえた。こちらへ向かってくる。
「テルムくん、これは……」
エルがきらりと目を輝かせた。興奮で体が少し前傾みになっている。
——これは。もしやこれは。お約束というやつでは。
「こっちに来ますよ」
「ねぇ、テルムくん」
「うるさい」
テルムは構わず、棚を物色する。
「うわ」「じゃまだ、どけ」「いてー」「まてー」
周りがだんだん騒がしくなってくる。
「もうすぐですよ」
「出番ですよ」
「黙れ」
エルの耳が細かく動く。
尾がリズムを刻む。
(絶対、楽しんでいる)
男が駆けてくる。
大柄で、荒い息をしている。
人の波をかき分けて、まっすぐにこっちへ。
エルは期待を胸にテルムを見る。
——さあ、テルムくんやっておしまい!
しかし、テルムは我関せずと棚を見たままだった。
(あれ?)
男がテルムの脇を駆け抜ける。
途端。
両足が、ぴんと止まった。
上半身だけが、勢いのまま前へ飛び出して、
両手が、万歳の形で宙に浮き、
顔面から、石畳に激しく着地した。
周囲が一瞬、静止した。それからすぐに数人が駆け寄り男を取り押さえにかかる。
「こら、大人しくしろ」
「逃げんなよ」
腕を掴んで立たせようとするも、男の足がもつれる。
「ちゃんと立て」
「あ?」
誰かが男の足元をのぞき込んだ。
「……なんだこれ」
両足に蔦が巻きついている。
——さっきまで、そんなものはなかったはずだ。
「どこから来たんだこんなもの」
首をかしげる声。誰も答えを持っていない。
テルムは隣の店に進んでいた。
瓶を手に取り、底の刻印を確認している。
エルがテルムを見た。
「……テルムくん、今なにかしましたよね」
「さあ」
「気配が全然しなかったんですけど」
「そうか」
「どこから発動したんですか」
「さあ」
「伊達に長く生きてないってことですよね」
「……まあ、そういうことだ」
商品を確認するテルムの横で、エルは男の方を見ていた。
心底納得していない顔で。
***
人の波が薄くなった通りを、二人で歩く。
石畳の影が長くなっている。
「さっきどこから発動したんですか」
「しつこい」
「市場に入ったときですか」
「うるさい」
「もっと前ですか。もしかして屋敷を出るときには——」
「帰るぞ」
テルムが少し先を歩く。エルがついてくる。石畳の音だけが続く。
少し間があって、エルが言った。
「テルムくん、楽しんでますよね」
「……そんなことはない」
また間があった。
風が通った。夕方の風だ。昼よりも少し、湿り気がある。
「……まあ」
テルムが前を向いたまま、ほとんど独り言のように言った。
「今世は少しくらいは、ゆっくりやれそうだな」
——十五回目の転生で、初めて、神託の重圧がない夕暮れだった。
エルが何か言いかけた。
「うるさい」
先に言われて、エルは口を閉じた。
でも、尻尾が少し揺れた。
テルムは気づいていないふりをして、歩き続けた。
夕方の風が、二人の横を抜けていった。
——ヴェレント領の、静かな夕暮れだった。
【序章 完】
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