第31話 公爵令嬢
窓を開けると、春の空気が、静かに教室へ流れ込んでくる。
まだ少し冷たい風が、薄いカーテンを揺らした。
王立貴族学院に入って、もう一年が過ぎた。
二年生にはなるが、つい最近のように懐かしく感じる。
新入生がまだ学院に慣れていないこの時期は、廊下もどこか落ち着かない空気になる。
朝早くから慌ただしく歩く足音や、小さな声で交わされる会話が、遠くから断片的に聞こえてくる。
アルヴァ・クラヴィスは窓枠に軽く手を置き、外を見下ろした。
中庭では、一年生らしい生徒が数人走っていた。制服の着こなしもまだぎこちない。
鞄を抱えながら急いでいる様子は、去年の自分たちを思い出させた。
(今年も入ってきたんだな)
思わず小さく息が漏れる。
去年は色々あった。
学院に入ったばかりの頃は、ただ授業についていくだけで精一杯だったはずなのに、いつの間にか社交界にも顔を出すようになっていた。
第一王子の妃候補。
その肩書きは、思っていた以上に重かった。
クラヴィス家は古い家柄ではあるが、特別に目立つ家ではない。
武勲があるわけでも、莫大な財を持つわけでもない。
王都の社交界では、ただ「古くから続く家」の一つとして知られている程度だ。
だからこそ、アルヴァは思っていた。
(私に特別なものがあるとは思わない)
それでも。
努力だけは、誰にも負けたくないと思っていた。
期待されるからには、応えたい。
その思いだけは、ずっと胸の中にあった。
遠くで鐘が鳴る。
二年目の学院生活が、静かに始まろうとしていた。
***
教室にはすでに何人かの生徒が集まっていた。
窓から差し込む朝の光が机に落ち、教室の空気はまだどこか穏やかだ。
二年生にもなると、席はだいたい決まっている。
自然と座る場所も、隣に座る相手も固定されていく。
アルヴァは窓際の席に鞄を置き、椅子を引いた。
ノートを開き、羽ペンを取り出す。
昨日の授業のまとめを、もう一度見直す。
王妃教育と学院の課題は両立が難しい。
だが、手を抜くつもりはなかった。
すると、少し離れた場所から会話が聞こえてきた。
「聞いた?」
「今年の一年」
アルヴァは顔を上げずに、自然に耳を傾けた。
「昨日の入学試験」
「アルデン先生の魔術、止めたやつがいるらしい」
「え? 化け物か?」
「一年だって」
「嘘だろ……三年の先輩でも何もできずに燃やされてたぞ」
アルヴァの手が、そこで止まった。
イグナス・アルデン。王国内でも指折りの炎術師である。
火魔術の名家であるクラヴィスにとってもイグナスは無視できない名前だった。
上級生でもまともに受けるのを嫌がる相手だった。
「ヴェレント家のやつだって」
「フォルティス様の、弟君の?」
「研究狂いって噂のやつだろ」
「昨日の授業で古代文字も読んだらしい」
笑い混じりの声が続く。
(……古代文字)
アルヴァは視線をノートに落としたまま、少しだけ考える。
噂は誇張されることが多い。
しかし、それでも一年生が古代文字を読むという噂は珍しい。
(少しだけ、興味がある)
そう思ったが、それ以上は考えなかった。
やがて教師が入ってきた。
ざわめきが落ち着く。椅子が引かれる音が続き、教室はすぐに静かになった。
黒板に文字が書かれていく。その様子を見ながら、ふとアルヴァは先ほどの話を思い出した。
(ヴェレント、か)
フォルティスさんの家名だった。確か、地方の魔術師系の家だったはず。
(接点はなさそうだな……)
だが、その名前が。
自分の運命と交わることになるとは——このときのアルヴァは、まだ知らなかった。
***
昼休み。アルヴァは回廊を歩いていた。
石造りの回廊には、穏やかな昼の光が差し込んでいる。
中庭の噴水からは、絶え間なく水の音が聞こえていた。
静かな場所だった。少し考え事をするには、ちょうどよかった。
アルヴァはゆっくりと歩きながら、先日のことを思い出していた。
第一王子ヴァレンスに呼び止められた日のことだ。
「最近、妙な噂が増えている」
ヴァレンスはそう言った。そのときの声は、いつもより少し低かった気がする。
「噂は広がってしまえば手に負えない」
短い言葉だった。
だが、その意味をアルヴァは深く考えなかった。
学院では噂など珍しくない。
誰かが目立てば、すぐに話題になる。それだけのことだと思っていた。
(……噂、か)
今思い返しても、何のことだったのかよく分からない。
アルヴァは小さく息を吐いた。
回廊の角を曲がる。向こうから数人の生徒が歩いてきた。
一年生だった。
その中心に、小柄な少女がいる。
明るい茶色の髪を後ろで結び、歩きながら楽しそうに話していた。
周囲の生徒たちも、自然と彼女の近くに集まっている。
ミラ・カンディス。最近、よく名前を聞く一年生だ。
彼女の周囲には、いつも人がいる。
特別に活発なことをしているわけではない。
だが、気づけば輪の中心にいる。
そんな印象の少女だった。
アルヴァが近づくと、周囲の生徒が気づいた。
「あ、アルヴァ先輩」
声が少しだけ緊張する。他の生徒たちも、慌てたように頭を下げた。
ミラも足を止めた。そして一瞬だけ、明らかに戸惑った顔をした。
「あっ……あの、こんにちは……です」
言ったあと、自分で少し困った顔になる。
敬語の形が微妙に崩れていた。
アルヴァはそれを気にした様子もなく、静かにうなずいた。
「こんにちは」
ミラは慌てて続けた。
「えっと、あの……ご機嫌、よろしゅうございます……?」
途中で自分でも変だと思ったらしく、言葉が弱くなる。
周囲の生徒がくすっと笑った。
ミラは顔を少し赤くした。
「ち、違います、あの、普通に……こんにちはで……」
言葉がどんどん小さくなる。
アルヴァは静かに言った。
「気にしなくていいわよ」
それだけだった。
アルヴァはそのまま横を通り過ぎる。
背後で、また会話が始まった。
笑い声が混ざる。
アルヴァは振り返らなかった。
(……人気者だな)
ああいう風に自然に人が集まる人間を、少しだけ羨ましいと思った。
少し歩くと、回廊の柱のそばに一人の姿があった。
ヴァレンスだった。
腕を組み、回廊の向こうを見ている。
「殿下」
ヴァレンスはわずかに視線を動かした。
「アルヴァか」
短い言葉だった。
ヴァレンスの視線が、アルヴァの後ろへ向く。
さきほどの一年生たちの方だった。
その中心にいるミラを、一瞬だけ見た。
しかし何も言わない。
やがて視線を戻した。
「……今年は賑やかだな」
アルヴァは少し考えてから答えた。
「新入生が入ってきましたから」
ヴァレンスは小さくうなずいた。
しばらくして、回廊を歩き出す。
アルヴァの横を通り過ぎた。
「……殿下?」
アルヴァが振り向く。
ヴァレンスは足を止めなかった。
ただ、背を向けたまま短く言った。
「人は噂が好きだ。——一度傾けば止まらない」
それだけだった。
ヴァレンスはそのまま回廊の向こうへ消えていった。
アルヴァはしばらくその場に立っていた。
ヴァレンスが去った方向を、しばらく見ていた。
石の柱が、午後の光の中で静かに影を落としている。
(……殿下は、何を見ているのだろう)
学院では噂など日常だ。
気にしていてはきりがない。
アルヴァは歩き出した。
***
夕方。学院の塔の上階で、数人の影が机を囲んでいた。
窓の外に、夕焼けの王都が広がっていた。
机の上に書類がある。その一枚に、名前が書かれていた。
アルヴァ・クラヴィス。
紙をめくる音がした。
別の書類が重ねられた。そこにも名前があった。
ミラ・カンディス。
誰も何も言わなかった。
書類がまとめられ、封筒に入れられた。
封蝋が押された。
その音だけが、静かな部屋に落ちた。
窓の外では、王都の灯りが一つずつ点き始めていた。
***
その頃。
学院の寮では、アルヴァが机に向かっていた。
ノートを広げ、今日の授業を整理している。
羽ペンの音だけが、静かな部屋に響いていた。
窓の外から、夜の風が入ってくる。
(今年も忙しくなりそうだな)
アルヴァはそう思った。
それがどんな忙しさになるのか、このときのアルヴァはまだ知らない。
机の上の灯りが、静かに揺れていた。
そして王都のどこかで、一つの判断が、静かに動き始めていた。
——小さな火種は、別々の場所で静かに置かれていた。




