第29話 猫の裏切りと、止まらない布教
夕刻の学院は、昼の喧騒が嘘のように引いていた。
講義棟の窓に差し込む西日が長く伸び、石畳の温度をゆっくりと奪っていく。人の流れはまばらで、ようやく一日の終わりに向かう気配が漂っていた。
(……やっと終わった)
まさか、実技後の学院生活の説明がこんなに長いとは。
途中からよく聞いていなかった。
筆記に実技、そしてあの教師。
一日分としては十分すぎる密度だった。
思いの外、楽しめた。
頭の中に残っている術式の断片を整理する時間が欲しい。
早く帰りたい。
「終わってませんよ」
横を飛ぶエルが、いつもの調子で言う。
「何がだ」
「空気です。まだざわざわしてます。落ち着いたふりして、みんな気になってるやつです」
「お前の勘は当てにならん」
「勘じゃありません。鼻です」
猫だけにか――そう思った直後だった。
「ヴェレント君!」
脇道から、小柄な影が飛び出してくる。
ぶつかる寸前で止まり、距離を詰めたままこちらを見上げた。
白い髪に淡い茶の差し色。折れた耳と細い尾。肩掛けの鞄からは手帳と鉛筆が覗いている。
だが何より目を引くのは、その視線だった。
「学生新聞部、ファマ・タキタです。少しだけいい?」
早口だが、押し付けがましさはない。逃げ道を残したまま、しかし確実に踏み込んでくる距離感。
(……嗅ぎつけて来たか)
「よくない」
「そう言うと思った」
あっさり返しながらも、手帳はすでに開かれている。
「実技試験、見てた。アルデン先生の炎」
言葉は軽いが、視線は外さない。
「で、ホント?」
「何がだ」
「途中で止めたよね」
唐突だった。
テルムはわずかに目を細める。
「何を言っている」
ファマは少しだけ首を傾げた。言葉を探すように、ゆっくりと続ける。
「熱が来るはずなのに、その前で切れた感じがしたんだよね」
一拍。
「ぶつかる前に、なくなったというか……繋がってたものが途中で外れたみたいな」
表現は曖昧だった。
だが――
(当たっている)
術式の接続点。そこに介入した結果だ。
感覚で気づいたか。
「それがどうした」
「分からない」
即答だった。
「でも普通じゃないのは分かる。だから取材してる」
一歩だけ距離を詰める。
「答えない」
「だよね」
あっさり引いた。だが視線は切れない。
「エルです! すごかったです!」
横からエルが割り込む。
「やめろ」
「ばちーんって止まって、そのあと全部すーって消えたんです!」
「擬音しかないな」
「でも伝わりますよね!?」
ファマの視線がエルに移る。興味の向きが明確に変わった。
しゃがみ込み、目線を合わせる。
「いいね、その説明。エルちゃん、あれどうやったと思う?」
「魔力操作です!」
「なるほど」
短く頷く。
「もっと教えて」
「わたしのこともかっこよく書いてくださいね!」
「やめろ、意気投合するな」
ファマは立ち上がり、改めてテルムを見る。
「書くかどうかは、もう決めてる。詳しいか詳しくないかだけだよ」
「……だろうな」
「だから、ね」
間を置かず、次を投げてくる。
「もう一個――」
「増やすな」
「減らす?」
「一つもいらん」
エルを抱えて、踵を返した。
歩幅を広げる。だがすぐ横に足音が並ぶ。軽い。速い。
「速いね」
「追うな」
「推測で書くよりはいいでしょ」
「それに……見てたの私だけじゃないよ」
二年の講義棟から見えたんだ、話題になってるよ、とファマが告げる。
さらに後ろから足音が増えた。
「ヴェレント様!」
「一目だけ!」
「弟子にしてください!」
「しない!」
エルが楽しそうに笑う。
「人気者ですね!」
「笑えない」
横を見ると、ファマが当然のように並走していた。呼吸が乱れていない。
(……速いな)
「犬獣人だから」
「聞いてない」
中庭に出た瞬間、人だかりが視界に入った。
(……嫌な予感しかしない)
「皆さん、落ち着いてください!」
中央で声を張っているのはセリアだった。
顔を赤くし、テルムのサイン本を掲げている。
「内緒ですが、ヴェレント様は実技試験で――」
「やめろ」
思わず声が出た。
空気が止まり、次の瞬間、全員の視線がこちらに集まる。
セリアの顔がぱっと明るくなった。
「ヴェレント様!」
(最悪だ)
「ちょうどよかったです!」
「よくない」
「皆さん、ご覧ください!」
「呼ぶな!」
「「「テルム様!!!」」」
一気に増えた。
ファマが横で手帳を開く。尻尾が忙しく揺れている。
「なるほど。これは面白い」
「書くな」
「書かないよ――」
「全部は」
「やめろ」
エルがテルムの腕から抜けて、くるりと回る。
「テルムくん、もう無理ですよ」
「何がだ」
「人気者です」
「違う」
「違いません」
「違う」
「違いません」
前も横も後ろも、人で埋まる。逃げ道はない。
視線の先には、群衆と、記者と、教師。
ゆっくりと息を吐いた。
「帰れないな――今日は」




