第29話 精霊付きと入学式典
闘技場を出た瞬間、空気が少しだけ変わった気がした。
テルムは歩き出しながら、先ほどセリアから聞いた話を思い返した。学院長室へ向かう前に、廊下の角で少しだけ立ち話をした。他の受験生は訓練場で、それぞれ得意な魔術を披露する形だったという。アルデン先生が急に変更して闘技場を使うことになった、と申し訳なさそうに言っていた。
「訓練場のほう、行ってみたかったな」
エルが隣を歩きながら耳を向けた。「訓練場、ですか?」
「今年の入学生のレベルが気になっていたんだ。どんな魔術を得意にしているか、見ておきたかった」
「……テルムくんがそういうことを言うのは珍しいですね」
「何がだ」
「他の人に興味があるって」
「研究対象として、だ」
「ふふ、そうですね」エルが尾をゆらりと動かした。「まあ、今後の授業で嫌でもわかりますよ」
「そうだな」テルムは前を向いたまま歩いた。
***
廊下を歩いていると、背後から声がした。
「精霊付き……?」
振り向くと、廊下の端に二人組が立っていた。一人は中背で骨っぽい体つきをしており、顎を突き出した立ち方をしている。ガリガリだ。もう一人はその影に半分隠れるように並んでいるが、さらに細身で頭が一つ飛び出ている。ヒョロヒョロだ。二人とも上流貴族の制服だった。
「お前、それ……精霊か?」
ガリレオが前に出て言った。「遠目に狐かと思ったが」
近づいてきて、エルの顔を覗き込む。エルが正面からきりっと見返した。
「……猫じゃないか」
「猫なら違うか」後ろのヒョロルドが横から顔を出す。「だから言ったじゃねーか、おびえんなよ」とガリレオが窘める。
「従魔だ」とテルムは答えた。
「間抜けそうな面してますけど……それ、本当に猫ですか?」
エルが言った。「失礼な」
「……猫がしゃべった」ヒョロルドが半歩ガリレオの後ろに隠れた。
ガリレオが鼻を鳴らした。「まあいい。ただ——目立つぞ、それ」
言い捨てて、二人は廊下を戻っていった。
「本当に失礼ですね、こんなにきりっとしているのに……」エルが尾をぴんと立てた。
「うるさい」
テルムは渡り廊下を歩きながら、周囲を静かに見渡した。こちらを見ている生徒が数人いた。目が合うと逸れる。声は届かなかったが、ひそひそと何かを言い合っている。
(……エルを見ているのか。やはり精霊に見えるのか)
あの二人組が「目立つ」と言い残した理由が、じわりと現実味を帯びてきた。
(精霊に対して、この学院は何かある)
胸の中に、細い引っかかりが刺さったまま、その日は帰宅した。
***
翌朝、廊下の掲示板の前で人だかりができていた。
エルが首を伸ばした。「なんでしょう」
「学生新聞だ」
近くで女子生徒が「見て見て」と囁いている。
一枚の紙が貼られていた。見出しが大きく刷られている。
『ヴェレント家のテル様、特級にご入学』
(……ああ)
発行元は「フォル様ファンクラブ」と書いてある。フォルティスの在学中から活動していたファンクラブらしかった。
『研究狂いの貴族として社交界でも有名』などと余計なことまで書かれているが、記事の中ほどに、猫の従魔を連れているとの記載もあった。筆記や実技の結果については一切触れていない。まだ広まっていないらしかった。——今のうちは、それでいい。
「私のことも書いてありますよ」エルが得意げに言った。尾が高く立っている。「愛らしい猫の従魔、だそうです。きりっとしているとも書いてほしかったですね」
「よかったな」
(……昨日のコソコソはこれだったか)
今も遠巻きに女子生徒たちからの視線を感じている。
「本当に?あの本の?」
「フォル様の弟君の?」
エルではなく、テルムを見ていた。肩の力が少し抜けた。
とはいえ、あの二人組が最後に言い残した「目立つ」という言葉が気にかかっていた。
***
午前中、全新入生が大広間に集められた。
石柱の並ぶ広い空間で、天井が高く、歩くたびに足音が響く。一般枠の百人近くが揃うと、ようやく人の気配で満ちた。特級の三十人弱は奥の区画に案内された。
司会が話を始め、式典の流れを説明している。
テルムは椅子に腰を下ろし、周囲を見渡した。この国にこんなにも同世代の貴族がいたのかと軽い驚きを感じる。エルは司会が話を始めるなり、膝の上で丸くなって目を閉じた。
演壇に上がったのは、白い長い髭を持つ老人である。好々爺と言っていい表情をしているが、目だけが別物だった。鋭く、静かで、何かを測るような色をしている。
(……学院長か)
「——諸君を歓迎する」
穏やかな声だった。よく通る。
「この学院は、百五十年前に創設された。当時、上位精霊イフリートが人を依り代にし地上に顕現したことで多大な被害が出ていた。それを収めた先達が、同じことが起きても対処できるよう、優秀な人材を育てる場としてこの学院を立ち上げた——それが、学院の始まりとして伝えられている」
静かに聞いていた生徒たちが、各々うなずいている。知っている話なのだろう。
「上位精霊は自然現象と同義だ。制御できない。だからこそ、精霊付きは恐れられる。人の器に収まるものではないからだ」
老人の目が、ゆっくりと全体を見渡した。
——止まる。
テルムに。
(……測られている)
そう感じた直後、老人の表情がわずかに変わった。かすかに、しかし確かに——目を細めた。驚きを押し込めたような、そういう変化だった。
老人は何事もなかったかのように話を続けていく。
エルは膝の上で丸くなって目を閉じていた。
(イフリートか)
テルムは視線を前へ戻した。話を聞きながら、頭の別の部分が動いている。
精霊と従者契約を結んだことがある。土の精霊だった。あの膨大な魔力の奔流を体に通した時の感覚を、今も覚えている。契約という形式がなければ、あれは間違いなく人体を焼き切る。契約もなしに依り代にしようとすれば——暴走どころの話ではない。
(……一度、会ってみたいな)
イフリートに対して、素直にそう思った。
***
広間を出ると、太陽が一番高い位置に到達していた。
テルムは廊下を歩きながら、今日浮かんだことを頭の中で並べた。精霊付きへの視線。学院設立の歴史。百五十年前に暴走した精霊。
謎というほどでもない——ただ、気になる。特に封印されたという精霊のほうは、研究者として純粋に面白そうだと思った。
「イフリートですよね?」エルが後ろから近づいてきて言った。
「ああ」
「依り代になった人は——どうなったんでしょうね」
「死んだだろうな」
エルが小さく「……ですよね」と言って黙った。尾が静かに揺れている。
まずは今年の授業を把握して、それからゆっくり調べてみようではないか。学院、思っていたよりも楽しそうだぞ。テルムはそう思いながら、次の棟へ向かう角を曲がった。
***
学院長室へ戻ったレニス・メンダは、しばらく椅子に座れなかった。
窓の外、昼時の校庭を見下ろしながら、息を整える。
七十年、この学院にいる。新入生を迎えた回数は数えていないが、毎年、演壇から全員を眺めるのが習慣だった。才能の色を読む。経験の重さを測る。それがレニスの楽しみで、長年の習慣だった。
観察眼——魂の形と色と硬さを感じ取るスキル。才能の有無、経験の深さ、その人間が積み上げてきたものの重みが、うっすらと見える。
今年も例年通り順番に見ていった。初々しい色ばかりだった。当然だ、十五歳だ。磨けば伸びそうな原石が何人かいた。
そして——あの子どもを見た。
(何だ、あれは)
レニスの呼吸がわずかに止まった。
特級の区画に座っていた、小柄な少年。ヴェレント家の三男だと名前を読み上げたとき、それほど注視していなかった。
ところが目が合った瞬間——
安定していた。
どこまでも、静かに安定していた。才能の話ではない。経験の話だ。七十年生きたレニスより、あの子どもの魂のほうが、はるかに多くの層を持っていた。
「師匠でさえ——」
口の中だけで言って、止めた。
死に際のお師匠に、観察眼を向けたことがある。生涯をかけた研究者の魂は、それは豊かで深い色をしていた。尊敬と同時に怖ろしかったのを覚えている。
あの子どもは、それを超えていた。
「……本当に、十五歳か?」
しかもそれだけではない。昨日、イグナスとセリアから聞いた報告が頭をよぎる。筆記の前提式への指摘。闘技場で展開中の術式に介入し、接続を断った——という話。
レニスは窓の外を見たまま、小さく息を吐いた。
「確かめるか」
そう呟いてから、すぐに続けた。
「——もう、確かめる必要もないかもしれないが」
返事はなかった。学院長室は静かだった。




