第21話 夜明け
地上に上がるころには、西日が孤児院の壁を赤く染めていた。
地下から上がって院長に事情を説明すると、院長は顔を青くしながらも素早く警備を呼びにいった。夕刻の街に警備の足音が増え始め、ほどなく孤児院の前に数人が揃った。地下への案内を引き受け、テルムはそこから一度手を引いた。
やがて、人が運ばれ始めた。
魔術による束縛を解かれた者たちが、一人ずつ地上へ出てくる。多くが自力では歩けなかった。肩を借りて、引きずられるようにして出てくる者もいた。足取りがあやふやで、どこにいるのかもわかっていない顔をしていた。
広場の端で待っていた者たちが、声を上げた。
声ではなく、もっと音に近い何かだった。
子供が走った。男が膝をついた。女が何かを言おうとして言えなかった。肩と肩が触れた。誰かが誰かを支えた。どこかで子供の泣き声がして、それから広場は静かになっていった。
(……終わったな)
テルムはその端で、足を止めていた。
聴取を終えた警備の一人が近づいてきた。「妙なことを言う方がおりまして……夢の中で女神様にお会いした、と口々に」
「そうか」
「一人ではなく、何人も。少し驚きました」
テルムはそれだけ聞いて、礼を言った。
後で聞けば、エルは当然のように胸を張っていたらしい。「働いた甲斐がありました」と言いながら尾を高く立てて。——まあ、そうだろう。
***
空が暗くなった。
解放された者たちが戻ることで、貧民街の抗争も静まるだろう。ただ一度起きた火種は、時間をかけてゆっくり冷えていく。消えたとは言い切れない。それでも、今夜のところは、これで十分だった。
夜明けまで時間がかかった。
地下水道の掃討が終わったと報せが届いたのは、空が白みはじめた頃だった。フォルティスが入ってきたのは、その少し後だ。外套に泥が跳ね、首筋に包帯が巻き足されていた。——やはり、無理をしたのだ。
「終わったよ。ワニは全部だした」
ソファに崩れるように腰を下ろして、フォルティスは言った。
「ありがとう」とテルムは短く言った。
「礼はいい。代わりに一つ、報告がある」フォルティスが天井を見上げたまま続けた。「あの女魔術師と会った。地下水道の奥に出てきた——逃がした」
「……そうか」
「悔しいけどな、はっはっは」と笑ったが、いつもより声が低かった。「セルヴィアとか名乗っていた。戦闘は苦手なようだったが、逃げ足だけは……」
「わかった。いまは寝ろ」
「そう怒るなよ。——もう一つある」
フォルティスが起き上がって、テルムを見た。
「水道の奥の一角に、ワニが固まって寝ていた。アンデッドスライムを纏ったまま、全部冬眠していた。あれが今目を覚ましていたら、たぶん俺らじゃ対応しきれなかったぞ」
「……」
「お手柄だな、テルム。実験失敗」くっくと笑う。「はっはっは」
「うるさい」
フォルティスはまだ笑っていた。声が少し戻っていた。テルムは続きを言わなかった。
セルヴィアの言葉が、頭の端に引っかかっている。——『また会いましょう。生きていたらね』
(……あのアンデッドスライムのことを、言っていたのかもしれない)
取り逃がしたことは事実だ。だが今の時点では、それ以上でも以下でもない。
(今は休め)
目を閉じたフォルティスを見て、テルムは部屋を出た。
***
「もう、絶対に嫌です……」
テルムの部屋に戻ると、エランがベッドに大の字になっていた。人型のまま、腕で顔を覆って、天井に向かって訴えていた。
「子供たちか」
「地下が終わって、さあ出ようと思ったら、もう……もう扉のところで全員待ち構えていて……」
「それで?」
「走りました。廊下を」
「捕まったのか」
「……一回では済みませんでした」
少し間があって、エランがさらに続けた。
「毛並みを整えてもらいました。それは、まあ、よかったんですが……ていうかなんで猫の毛並みを正しく整えられるんですか、あの子供たちは。二人がかりで来るんです。容赦がない」
「お前が逃げないからだ」
「捕まってから逃げないんです!逃げると面白がってまた追いかけてくるじゃないですか!」
テルムは返事をしなかった。調合台の前に立ち、瓶を二本並べた。
「……また実験ですか」エランが片目を開けて見た。
「調合だ。保管庫の最後の仕上げだ」と言いながら、目分量で液体を注ぎ始める。冷気を安定させる薬品だ。これを保管庫の壁に施せば、屋敷にかかり続けているこの寒さから、ようやく解放される。
エランがまた目を閉じた。腕を下ろして、天井を見た。
「あの方々……大丈夫でしたか」
「長く閉じ込められていたから、本調子ではないだろう。ただ致命的なものはなかったはずだ」
「そうですね」
それ以上は言わなかった。調合の手を止めなかった。液体が混ざり、色が変わる。うまくいった。
***
翌朝、一列になったミニゴーレムたちが屋敷を横切っていた。
それぞれが小さなバケツを持ち、テルムの離れから保管庫まで、雪をリレーする形で運んでいる。足取りがちょこまかとしていて、どこか楽しそうに見える——のは、気のせいかもしれない。
冷気が安定した庫内は均一に冷えている。屋敷の廊下がようやく人の温度に戻り始めた。
母アエラが保管庫の扉を開けて、開口一番、「冷凍もいけるわ!」と言った。
テルムは何も言わなかった。
「エールを入れなさい!冷えたエールを今夜!」侍女に向かって指示が飛び始めた。今夜は宴会になるだろう。
ふと庭を見ると、隅のほうにエルがいた。
小さなテーブルの周りで、猫が二匹集まっている。——どこから拾ってきたんだ?
淡い青緑の毛をした気だるそうな猫。
金色の毛をした凛とした妙に姿勢のいい猫。
三匹で小さな茶会を開いていて、エルが一匹一匹に向き直り、丁寧な手つきで湯飲みを置いていた。
ちんまりと座って、なんだか楽しそうだ。
「エル」
テルムが呼ぶと、エルが振り向いた。尾がすっと立った。
「保管庫の最後の確認をするが、来るか」
「あ、はい」エルが立ち上がった。集まった二匹を一度振り返り、「ではまた今度」と一つ尾を振った。
二匹は、ぱたりぱたりと尾を振り返した。
どこか満足したように、そのまま日向の方へ歩いていった。
庭を横切り、テルムの隣に来て、エルは小さく「……いい朝ですね」とだけ言った。
テルムは何も言わなかった。
空が明るかった。
その向こうで、噴水の水音だけが、いつもより少し大きく聞こえた。
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