第20話 策謀のセルヴィア
逃げた女魔術師を追い、エルが飛び出した。
テルムもエルを追うように孤児院に踏み込み廊下を走る。
曲がった先の、奥まった部屋の前までくると、エルが止まっていた。覗き込んだ部屋には不自然な扉があった。
元からそこにあった扉ではない。継ぎ目が新しく、漆喰の色が周囲とずれていた。後から増設された壁に、後から取り付けた扉。壁の厚みに比べて框が薄い。急ごしらえの仕事だ。
テルムは把手に手をかけ、慎重に引いた。
冷えた空気が上がってきた。石と湿った土の匂いが混ざっている。地下に続く階段が、灯篭の明かりも届かない混沌まで伸びていた。
エルが鼻をひくつかせた。「人がいます。たくさん。それと——」耳が少し伏せた。「なんか、嫌な感じがします」
「わかった」
テルムは音を殺して階段を降りた。階段は木製だった。軋む音を抑えるように足の重心を端に置いて、慎重に降りていく。エルが肩の上に乗ってきた。二人分の体重が、ゆっくりと下へ下へと進んでいく。
通路が続く。前方の暗がりに橙の光が滲んでいた。灯篭の明かりだった。部屋があるらしい。近づくにつれて、声が聞こえてきた。言い争いではない。もっと激しく、乱れた音だった。怒鳴り声、物を叩く音、何かが割れる音、そして人が倒れる鈍い音——喧嘩とも言い切れない、もっと底の抜けた混乱だった。
テルムは足を速めた。
***
扉を押すとまず臭いが来た。血と汗と、何か焦げたような淀んだ空気が一息に鼻に来た。
部屋の中で、人が争っていた。
年齢がまちまちだった。壮年の男、中年の女、若い職人風の男、白髪混じりの老人。互いにものを投げ、怒鳴り合い、何人かは直接掴み合っている。棚が崩れ、書類が散乱し、調合器具の欠片が床を覆っていた。血が出ている者も何人かいる。全員が全員の敵で、どこにぶつけるべきかもわからないまま感情をぶつけていた。
(まずいな、思考を誘導されたか……)
部屋の左手奥に、頑丈な扉を開け、女が中に入ろうとしていた。
金茶色の髪が乱れている。女があたりを見回し、一瞬、お互いに目が合った。
女の表情が変わった。
「わたしは——策謀のセルヴィアよ」
落ち着いた声だった。争いの音が満ちた部屋の中で、その声だけが妙に静かだった。「また会いましょう。生きていたらね」
扉が閉まった。
テルムはすぐに駆け寄り、把手を引いた。開かない。体重をかけた。動かない。内側から術式を組んでいる音が、開かない壁越しに伝わってくる。
術式が壁の向こうで完成する音がした。
(逃がした)
追う手段はない。ならばこの部屋を片付けるだけだ——全員を縛り、眠らす。それで終わる。
テルムは手の中の種を確かめた。住民を縛る、そのつもりだった。
——エランが、人型で立っていた。
いつものエランの神気だった。それはわかった。
ただ——いつもとは、違った。
普段は静かに優しく穏やかなものが、今は揺れていた。揺れるだけでなく、ねじれ、乱れ、どこへ向かうかも定まらないまま、じわりと部屋に滲み出ていた。
住民より先に、そちらを向いた。
エランの視線だけが、部屋の中を漂っている。
「……なんで」
誰に届くでもなく、ほとんど息だった。
激しくなる乱れに、テルムは目が離せなかった。「……エラン」
声をかけた。届いていなかった。
「なんで……」
繰り返した声に怒りはなかった。
エランの目は、部屋の中の誰かを見ていなかった。もっと広いものを見ようとして、見えないでいるような目だった。
争う者たちの声が、血の匂いが、欠片の散らばった床が——エランの中で、何かに変わろうとしていた。
何かに、変われないでいた。
神気の揺れが、大きくなっていく。
「エラン、落ち着け——」
「こんなことのために……!」
一拍あった。
「こんなことのために——神託を渡したわけじゃ、ない!」
声が、部屋を塗り替えた。
人の声ではなかった。言葉の形をしていたが、その奥に重さがあった。
争っていた者たちの手が、止まった。誰もが振り向いた。振り向かずにいられなかった。
その瞬間——神気の揺れが、すっと消えた。
(……何をやっているんだ、俺は)
テルムは一度、舌打ちをした。
即座に住民に向き直り、駆けだす。
人の間を走り抜け、一人、また一人と種を植えつける。触れた場所から蔓が伸び、繭状に包み込んでいく。抵抗する間もなく動きを封じられた者たちが、次第に眠りにおちていく。
鎮静効果のある植物だった。
ほどなくして全員を包み終わると、部屋に静けさが戻ってきた。
呼吸の音だけが残った。テルムの呼吸もその中にあった。
まだ立ち尽くすエランのほうに視線を向ける。エランからは動揺の色が消えていた。
「……すみません」エランが言った。「初めて、見たもので、興奮してつい」
「そうか」
「人が、人を、あんなふうに——」
「そうだな」
テルムは短く答えた。何百年も見てきた。そこから何かを言い足せるかというと、何もない。ただそうだな、というだけだった。
エランが猫型に戻った。尾がお腹の下まで丸まっていた。耳も低い位置に伏せたままだ。しばらく、部屋が静かだった。
***
「わたし、バレちゃいましたよね……」しゅんとしながらエルが尋ねる。
「意識誘導を掛けておいたから問題ない、眠りから覚めるころには忘れているはずだ」
エルが小さく尾を揺らした。それだけで十分だった。
「女の言葉が気になる」
テルムは女の出て行った扉のほうを見ながら言った。——『生きていたらね』
「逃げただけならあんな言い方はしないはずだ。まだ何かがある」
「……まだ何か、あるんですか」
「おそらく」
セルヴィアが閉めた扉の向こうに、気流があった。微かな空気の動きが壁面を伝っている。行き止まりではない。別の通路が繋がっている。
「フォルティスとの約束は、守れそうにないな」
ぼそっと言い、他の道がないか部屋を探りはじめた。
エルが一拍おいて「そうですね」と返した。問い返さなかった。
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