第9話 それはまた急だな
王都から街と街とを馬車で進み、ローグはようやく見知った耕作地帯の風景に入り込む。気まぐれでここからは歩いて帰りたくなった旨を従者に告げ、背負い鞄以外の荷物を任せて馬車を降りる。畑の乾燥した空気と土の匂いに混じり、風が吹くたびに、僅かに林檎の甘い香りを含んだ風が吹き抜ける。
ずり落ちてきた背負い鞄の位置をえいっと持ち上げるついでに、顔付近に寄ってきた羽虫も息で吹き飛ばす。日の高さとお腹の減り具合からするに、まだお昼過ぎ程。このまま街道を歩いていってお腹の虫が鳴り出す頃にはシートン家の屋敷にたどり着く。
少し進んだところで、ローグの行く方向から黒髪の少年が駆けてくる。あちらもローグの存在に気付いたようで、眉だけで一瞬驚きの表情を作ると、大股で走る速度を上げ、こちらの方へ向かってくる。見た目素っ気ない表情の、兄の灰色の瞳を見るのは半年ぶりで、ローグはなんだか懐かしいようなほっとした様な気持ちになる。
「ん、おかえり」
アトリがふう、と一息ついてから言った。
「うん、ただいまアトリ兄さん」
「ちゃんと勉強してきたか?」
「うん。それはもちろん」
鞄から魔術書を取り出し、どうだとアトリに向けて掲げてやる。アトリはちらりとそれに視線を送ると、ローグの頭を上から押さえつけるようにぐしゃぐしゃと雑に撫でてくる。ローグとアトリとは頭一個以上の身長差があって、ここ数年変わっていない。ローグもここ最近身長が伸びてきたが、それでもちっとも差が縮まらないのはアトリの方も同じぐらい伸びているからか。
「それにしても、びっくりした。アトリ兄さんが息を切らして走っているところなんて、初めて見たかもしれない」
流石にそれはないだろう、とアトリの目元が僅かに緩む。でも、それは決して冗談ではなく、本当にローグはアトリが走っているところを見た覚えがない。むしろ山火事やら魔物やらに遭遇したとしても、仏頂面の兄が慌てず騒がず、のんびり涼しい顔で歩いているような絵が容易に想像できる。
「確かに我ながら珍しいことをしているかもなあ。これには事情があってだな。まあ、体力作りをすることになった」
「ふーん」
「しばらくこっちでゆっくりできるのか?」
「うん。そのつもり」
「じゃあ、ここで立ち話もなんだし、あとでおいおい話すことにしようか」
「うん。わかった」
「ん。じゃあまたあとで」
「うん」
「あっ、アトリ兄さん」
再び走り始めようとしていた兄の背中に呼び掛ける。アトリは緩慢な動きで顔だけ振り向き、切れ長の流し目の形だけで「どうした」と訊いてくる。
「あの……クレアさんは帰ってきてる?」
「ああ、帰ってきてる」
「元気そう?」
「まあ、元気だよ。もう少し進んだ先で、きっと腕組んでふんぞり返ってると思うから、直接会って確認してみると良いさ」
「えっ」
「クレアに会ったら、アトリ兄さんは怠けずにちゃんと走っていたと言っておいてくれ。まったくあいつも妙に疑り深いし、それに僕は信用がないから」
「あとさ、今日は例のあれだから」
「えっ、例のアレ?」
「ローグが帰ってきたから、いつもの懇親会。この前クレアが帰った時はヘイルズの屋敷だったから、今回はうちが会場」
「あー、そうか」
「うん。そういうことで、よろしく」
最後の方は独り言のように呟くとアトリはさっさと前を向き、ローグが声を発する前に手をひらひら振りながら走り去る。
ローグは首を傾げつつ、アトリの背中を見送った。それにしても、面倒くさがりのアトリ兄さんが体力作りとは、いったい何の風の吹き回しなのだろうとローグは一人訝しむ。
別れた後しばらく進むと、アトリの言った通りにクレアをすぐに見つける。クレアは特にふんぞり返っておらず、街道脇の少し奥の木々の木陰で淑やかに腰を下ろしているように見える。
軽く会釈をすると、クレアもこちらに気づいたのか、白い鍔広の帽子を片手でずらし、屈託の無い笑顔を見せる。襟付きワンピースのスカートの乱れをぱたぱたと直しつつ、こちらへこいと手招きする。ローグはこくりと頷いたのち、野草を踏みしめ、こっそり前髪の形を整えてから小走りで向かう。
クレアが座るピクニックシートには紅茶の入った水筒に、鴨肉の燻製とレタスを挟んだサンドイッチ、林檎が入ったバスケットを広げている。クレアに訊けば、アトリが鍛錬を放って怠けていないか、ここで昼食をとりつつ見張っているのだという。
簡単な会話をしている内に、なんとまあ間が悪いことにお腹が思わず鳴り出し、全身に冷や汗が出る感覚と共に、ローグは顔が熱くなる。くすくす笑いのクレアからサンドイッチとお茶の入ったマグカップを受け取ると、あたふたしながら、促されるままにクレアの横に腰を下ろす。
「なんで、また、アトリ兄さんは鍛錬なんか急にはじめたのですか?」
緊張と照れを誤魔化すようにして、ローグが言った。
クレアがゆるりとした所作で頬杖をつく。黙っていれば冷淡な印象の小奇麗な顔立ちを惜しげもなく崩し、人懐っこい得意げな顔でクレアがにっと笑う。サンドイッチに齧り付く勢いを利用して、ローグはクレアと合いかけた視線を自然に誤魔化すことに成功する。
「アトリがついに魔術をやる気になった」
へー、そうなんですか、と何気なくローグが言った。片手で持ったマグカップが無意識の内に僅かに震える。サンドイッチを皿に置くと、マグカップを両手で支え、暖かい紅茶を口にする。
「来春の入学試験で魔術学院に入れさせるつもり。私が基礎を叩き込んでやるの」
それはまた急だな、とローグは思った。魔術学院に入学するということは入学試験に合格しないといけないということ。ローグだって入学のための鍛錬漬けの生活を二年は過ごしたし、目の前にいる地元の神童クレアだって一年はなにかしら準備をしていたはず。来春の試験ならばあと半年もなく、魔術を基礎から始めるには明らかに時間が足りない。ん、というか、アトリ兄さんは確か今年で――。
「無謀だわ。魔術学院も随分と甘く見られたものね」
ローグとクレアが顔を上げると、雲ひとつない青空の背景に金色のロングヘアをなびかせる、長身の少女の凛々しい立姿があった。