兄妹
むかしむかし、あるところに、ヘンゼルという名の男の子と、グレーテルという女の子の兄妹がおりました。二人の家は大層貧しく、毎日食べるパンにも事欠く有様でした。父も母も、身を粉にして働いておりましたが、暮らし向きは楽になることなく、いよいよパンのかごがからっぽになったある日の朝、頬のこけた蒼白い顔の母が兄妹を呼んで言いました。
「野苺を摘みに行こうと思うの。手伝ってくれる?」
ヘンゼルは「まかせて!」と元気に返事をします。グレーテルはじっと母の顔を見つめました。母はどこか気まずそうに顔を逸らせます。納得したようにうなずき、グレーテルは「はい」と答えました。どこかほっとしたように息を吐き、母は二人の手を取って、
「それじゃ、行きましょう」
二人の手をしっかりと握り、森へと向かいました。
朝の森は柔らかい木漏れ日に照らされ、澄んだ風が吹き渡ります。ヘンゼルは拾った木の枝を振り回しながら楽しそうに歩いていました。母は二人の手を離さず、迷わぬ足取りでどんどん奥へと進んでいきました。どこか焦るような速さで歩く母の横顔をグレーテルは見上げます。目の下に黒い隈が浮かぶ母の顔は、疲れて、どうしようもなく疲れているようでした。グレーテルは目を伏せ、筋張った母の手を少しだけ強く握りました。
「ここよ」
母がそう言って二人に見せたのは、今までに一度も来たことの無いような森の奥の奥にぽっかりと口を開けた、野苺の群生地でした。赤い野苺が朝露を受けてキラキラと輝いています。ヘンゼルは「わぁ」と声を上げ、母の手を離して走っていきました。母はグレーテルからも手を離すと、背負っていたかごをグレーテルに渡しました。
「このかごに、できるだけたくさん、野苺を摘んでちょうだい。できるわね?」
母の唇は青く震えています。グレーテルはかごを受け取り、小さくうなずきました。ぎこちなく微笑み、母は少し声を大きくして早口に言いました。
「お母さんはお仕事があるから一度家に戻るわ。日暮れ前には迎えに来るからね」
ヘンゼルは能天気に「はーい」と手を上げます。母はうなずき、二人に背を向けました。母の背にグレーテルは声を掛けます。
「お母さん」
母はビクリと肩を震わせて立ち止まり、振り返りました。
「……どうしたの?」
かすれた声を絞り出した母に、グレーテルは微笑みます。
「さよなら」
母はハッと息を飲み、真っ青な顔で唇を噛むと、再び二人に背を向け、何も言わずに駆けだしました。草を踏み分ける音がやけに大きく響きます。母の消えた背中を、グレーテルはじっと見つめていました。
「ヘンゼル」
口の周りを真っ赤にして野苺を口に詰め込んでいるヘンゼルに、グレーテルは声を掛けます。ヘンゼルは頬張った野苺を飲み下すと、グレーテルを振り返りました。
「なに?」
「食べるのは熟しすぎたものだけにして。それから、なるべく固さごとに分けてかごに入れてほしい。固いものを底に、すぐ食べられるものは上に」
「えー、めんどくさい」
眉間にシワを寄せて口を尖らせるヘンゼルに、グレーテルは自身も野苺を吟味しながら諭すように言いました。
「時間はたっぷりあるでしょう? 今いい加減なことをすると困るのは明日の自分自身よ」
「グレーテルはときどき神父様みたいだよな」
ヘンゼルは手折った小枝を鼻の下に挟み、両手を頭の後ろに回しました。
「イチゴを摘むのに夕方までは長いよなぁ。お母さんも、忙しいのは分かるけどさ」
ヘンゼルの愚痴に一瞬だけ手を止め、何事もなかったように野苺を背のかごに入れて、グレーテルは変わらぬ声音で言います。
「お母さんは、来ないわ」
「へっ?」
ヘンゼルは目を丸くしてグレーテルを見つめます。鼻の下の小枝がぽろりと地面に堕ちました。
「お母さんは来ない。日が暮れてもね」
「な、なんで!?」
まるでそんなこと想像もしていなかった、というように、ヘンゼルはグレーテルに顔を近づけました。グレーテルは野苺摘みの手を止め、ヘンゼルをまっすぐに見つめます。
「貧乏だから」
「そっ――か」
驚きの声を飲み込み、ヘンゼルはゆっくりとうなずきました。
「僕らがいたら、お母さんは幸せにはなれないか」
「そうね」
グレーテルは淡々と答えます。ヘンゼルはうつむき、目を閉じました。風が渡り、木々の葉を揺らせます。遠くで鳥の声が聞こえました。ヘンゼルは「うん」と言って顔を上げると、笑顔をグレーテルに向けました。
「じゃ、しかたないな」
大きく伸びをして、ヘンゼルは腕をグルグルと回します。
「何が必要?」
「食べるもの、寝るところ、着替える服」
「なら、とりあえずイチゴ取るか!」
ふんっ、と鼻を鳴らし、ヘンゼルは野苺を挑むように見据えました。グレーテルは小さく笑って、単純な兄の背に声を掛けます。
「取りすぎ禁止。これは他の生き物のごはんでもあるのよ」
「がってん!」
右手で力こぶを作り、「うおぉ!」と雄たけびを上げて、ヘンゼルは野苺に突撃していきます。どこまで理解しているのかと、グレーテルは呆れたような目で兄を見つめました。
太陽が中天に登り、ヘンゼルはグレーテルの言ったとおりに分別しながらどんどん野苺をかごに入れていきます。かごが半分ほど埋まったところで、グレーテルはヘンゼルの袖を掴みました。
「そのくらいでいいわ」
「え? まだまだいっぱいあるよ?」
食べるものはいくらあったもこまらないだろ? とヘンゼルは首を傾げます。グレーテルはかごを降ろし、ふぅ、と息を吐きました。
「これ以上は底の苺がつぶれるわ。持ち歩くのも大変になる。野苺でしのげるのはせいぜいニ、三日よ。その間に別の方法を見つけられなければ、おしまい」
ふぅん、とよく分かっていないような声を上げ、ヘンゼルはかごを背負いました。
「もっと持てるけど」
どこか不満そうなヘンゼルに、グレーテルは首を横に振りました。
「ヘンゼルの体力を苺運びにだけ費やすわけにはいかないの」
へぇ、とヘンゼルはどこか楽しそうな笑みを浮かべます。
「何か目当てがあるんだ?」
グレーテルはうなずき、振り返って森の奥を見据えます。
「……知ってる? この森の奥には、魔女が住んでいるそうよ」
「魔女!?」
思いがけぬ言葉にヘンゼルが甲高い声を上げました。グレーテルが見据える森の奥は鬱蒼として、昼の太陽の光を拒み、黒々とした闇に沈んでいます。
「魔女は子供を誘惑し、捕まえて食べてしまうと言われているわ。つまり、私たちが魔女を訪ねれば、魔女は必ず家に招く。扉を閉ざされることはない」
グレーテルはヘンゼルに向き直り、はっきりとした口調で言いました。
「魔女の家を乗っ取る。それが、私たちが生き延びるための唯一の解よ」
頼るべき大人はいない。帰るべき家もない。そんな状況で、グレーテルの瞳は澄んだ青空のように迷いも怖れもありません。ヘンゼルは感心したように息を吐き、たくましい妹に言いました。
「勝率は?」
「一割」
表情を動かさず、グレーテルは即答します。かごを背負ったまま屈伸し、ヘンゼルはニカッと笑いました。
「ちょっと、燃えてきた」
森の奥から風が吹き、二人の髪を揺らせます。風は昼に似合わぬ冷たさで、二人はわずかに顔をしかめました。森の闇の向こうを見通すことはできません。しかし、ここでただ立っていることもまた、できないのです。
「いこう」
ヘンゼルが気合を入れるようにそう言って、一歩足を踏み出します。ためらいなく歩くヘンゼルにグレーテルはうなずき、小走りにその背を追っていきました。




